海辺から王宮に戻った、翌朝のこと。
離宮の書庫には穏やかな光が差し込んでいた。うず高く積まれた古文書の上にルナは女王のように鎮座して、マリアンヌとヘンリーを見下ろしている。「さて、授業を始めるわよ」
いかにも教師然とした口調だった。
「あんたの国、ダナハイム王国じゃ、ただ生命力をすり減らして祈るのが聖女の役目だと思ってたんでしょ。大間違いよ。あれは、ただ蛇口を無理やりこじ開けて、自分の血を流してるようなもの。だからあんたは枯渇しかけてたの」
ルナは、マリアンヌが長年抱えてきた苦しみの正体を、暴いてみせた。
「本当の聖女の力は、世界に満ちる精霊たちと『契約』して、力を借りること。一方的に奪うんじゃない。心を交わし、彼らの傷を癒し、その礼として力を貸してもらう。これは『奉仕』と『信頼』の関係なのよ」
ヘンリーが王室書庫から運び出した古文書を広げた。彼の祖先である古代の精霊使いたちが遺したもので、そこには精霊との対話や契約に関する、失われた知識が記されていた。
二人は並んで、古びた羊皮紙の解読を進める。
これまで義務としての祈りしか知らなかったマリアンヌは、初めて純粋な好奇心を持って、その知識を貪欲に吸収していった。難解な古代文字につまずけば、ヘンリーが隣で優しくその意味を教えてくれる。時折、巻物を広げる指先が触れ合い、そのたびにマリアンヌの心臓が小さく跳ねた。これまでの人生で経験したことのない、温かく楽しい時間だった。理論を学んだ後、彼らは実践のために離宮近くの森へと向かった。
木漏れ日が降り注ぐ静かな木立の中で、ルナが言う。「精霊と心を通わせる最初の方法は、儀式じゃないわ。『歌』よ。言葉じゃなくていい。あんたの心を、彼らを癒したいっていう気持ちを、歌に乗せるの」
マリアンヌは戸惑った。ダナハイム王国での聖歌は、厳格な旋律と古の言葉で定められた、心を込める余地のないものだったからだ。
ちらりとヘンリーを見る。「大丈夫だよ。マリアンヌの心のままにやってごらん。僕は隣にいるから」
「……ええ」
海辺から王宮に戻った、翌朝のこと。 離宮の書庫には穏やかな光が差し込んでいた。うず高く積まれた古文書の上にルナは女王のように鎮座して、マリアンヌとヘンリーを見下ろしている。「さて、授業を始めるわよ」 いかにも教師然とした口調だった。「あんたの国、ダナハイム王国じゃ、ただ生命力をすり減らして祈るのが聖女の役目だと思ってたんでしょ。大間違いよ。あれは、ただ蛇口を無理やりこじ開けて、自分の血を流してるようなもの。だからあんたは枯渇しかけてたの」 ルナは、マリアンヌが長年抱えてきた苦しみの正体を、暴いてみせた。「本当の聖女の力は、世界に満ちる精霊たちと『契約』して、力を借りること。一方的に奪うんじゃない。心を交わし、彼らの傷を癒し、その礼として力を貸してもらう。これは『奉仕』と『信頼』の関係なのよ」 ヘンリーが王室書庫から運び出した古文書を広げた。彼の祖先である古代の精霊使いたちが遺したもので、そこには精霊との対話や契約に関する、失われた知識が記されていた。 二人は並んで、古びた羊皮紙の解読を進める。 これまで義務としての祈りしか知らなかったマリアンヌは、初めて純粋な好奇心を持って、その知識を貪欲に吸収していった。難解な古代文字につまずけば、ヘンリーが隣で優しくその意味を教えてくれる。時折、巻物を広げる指先が触れ合い、そのたびにマリアンヌの心臓が小さく跳ねた。これまでの人生で経験したことのない、温かく楽しい時間だった。 理論を学んだ後、彼らは実践のために離宮近くの森へと向かった。 木漏れ日が降り注ぐ静かな木立の中で、ルナが言う。「精霊と心を通わせる最初の方法は、儀式じゃないわ。『歌』よ。言葉じゃなくていい。あんたの心を、彼らを癒したいっていう気持ちを、歌に乗せるの」 マリアンヌは戸惑った。ダナハイム王国での聖歌は、厳格な旋律と古の言葉で定められた、心を込める余地のないものだったからだ。 ちらりとヘンリーを見る。「大丈夫だよ。マリアンヌの心のままにやってごらん。僕は隣にいるから」「……ええ」
リーンハルト王国の海岸線に建つ白亜の離宮は、風と光、そして潮騒に満ちていた。 初めて見る、どこまでも広がる紺碧の海と白い砂浜に、マリアンヌは言葉を失う。絶え間なく寄せては返す波の音、潮の香り、肌を撫でる海風。神殿と王都という閉ざされた世界しか知らなかった彼女にとって、世界の広大さを目の当たりにする圧倒的な光景だった。 ルナも海に興味津々だ。浜辺に降りると、恐る恐る波に前足をつけて、慌てて後ずさりしている。普段とは違う無邪気な姿に、マリアンヌは思わず笑みをこぼした。 マリアンヌは靴を脱ぎ、生まれて初めて裸足で砂浜を歩く。柔らかな砂の感触、足首を洗う冷たい波の心地よさに、心が解き放たれていくようだった。 広大な海を前にしていると、ダナハイム王国で受けた苦しみや屈辱が、まるでちっぽけなことのように感じられる。(私は、この美しい檻の中でただ愛されるだけの鳥でいたくはない) ヘンリーが与えてくれる安らぎと、その裏にある息苦しいほどの独占欲。そのすべてを受け入れた上で、自分はどうありたいのか。その答えが、波の音とともに、確かな意志となって心に満ちてきた。 空と海が茜色に染まる夕暮れ時。 砂浜に座るマリアンヌの隣に、ヘンリーが静かに腰を下ろした。彼女の穏やかな横顔は、ヘンリーの心を揺さぶっていく。 少し迷った後、そっと彼女の手を取った。「海がどれほど広くとも、君への僕の想いはそれよりも深い。何があっても、誰が敵になろうとも、僕が必ず君を守り抜く。この命に懸けて」 熱のこもった瞳で、力強く誓う。情熱的な言葉を聞き終えたルナが、近くの岩の上でわざとらしく大きなあくびを一つした。 真摯な言葉、握った手の体温。ヘンリーの愛情が伝わってくる。 リーンハルト王国にやって来てから、マリアンヌは少しずつ力を取り戻していた。聖女の力という意味だけではない。今まですり減らしていた心と、生きるための意思である。 マリアンヌはヘンリーをまっすぐに見つめた。「ヘンリー様……そのお言葉、心から嬉しく思います。ですが私は、ただ守られるだけの存在ではいたくありませ
離宮で迎えた、何度目かの朝。 侍女たちはマリアンヌのために、聖女の装束ではない、柔らかな若草色のドレスを用意してくれた。歩きやすくそれでいて優雅さを失わない、彼女が初めて身に着ける種類のものだった。 鏡に映るマリアンヌはまだどこか頼りなく、見慣れない。胸には未知の世界への期待と、小さな不安が入り混じっていた。「たまには外の空気を吸うのも悪くないわね。退屈しのぎに付き合ってあげるわ」 準備を終えたマリアンヌの肩に、ルナが軽やかに飛び乗る。ルナの体重は軽くて、負担にならない。かえって少しの重みが、不思議と心を落ち着かせてくれた。 ヘンリーが迎えに来た時、彼はマリアンヌの姿を見て、心から嬉しそうに目を細めた。 肩の上のルナを認めて一瞬だけ眉を寄せるが、すぐに笑顔に戻る。「とても、きれいだ」 まっすぐな称賛に、マリアンヌは頬を染める。彼が優雅に差し出した腕を、おそるおそる取った。 リーンハルト王国の城下町は、活気と色彩にあふれていた。 商人たちの威勢のいい声、子供たちの屈託のない笑い声、焼きたてのパンの香ばしい匂い、露店に並ぶ色とりどりの果物や布地。五感に飛び込んでくる情報の全てが、神殿の静寂しか知らなかったマリアンヌにとって新鮮で、胸が高鳴るほど刺激に満ちていた。「大丈夫、僕がそばにいる」 人の多さに少しおびえるマリアンヌの手を、ヘンリーは優しく引いて庇ってくれる。 彼は屋台で一つ、蜜で煮詰めた林檎の菓子を買い、マリアンヌに手渡した。恐る恐る口にして、甘さに驚いて目を丸くするのを見て、ヘンリーは本当に幸せそうに微笑んだ。 マリアンヌは思う。ただ菓子を食べるというだけの行為が、これほどまでに心を温かくするなんて、知らなかった。 市場を抜け、少し開けた噴水のある広場を歩いている時だった。 一人の身なりの良い青年貴族が、マリアンヌの類い稀な美しさに息を呑み、思わずといった様子で彼女の前に進み出た。「失礼、ご婦人。あまりの美しさに、思わずお声を……。まるで月の光を集めたようなお方だ」 その言葉に悪意は感じられなかった。純粋な称賛と憧れと、少しばかりの恋心が見える。 だが、その瞬間。 ヘンリーの柔和な雰囲気が完全に消え失せた。笑みは凍りつき、普段は理知的な輝きを宿す緑の瞳が、底冷えのする冷たい光を放つ。 彼は何気なさを装って、マリアンヌ
リーンハルト王国の離宮で迎える朝は、いつも柔らかな陽光と小鳥のさえずりで始まった。 生まれ育ったダナハイム王国の、あの冷たく荘厳な神殿で迎えていた夜明けとは何もかもが違う。硬い石の床ではなくふかふかの寝台、祈りの義務ではなく侍女が運んでくる温かい朝食。マリアンヌは、自分が「聖女」という役割ではなく、一人の人間として扱われていることに、まだ慣れない心地よさを感じていた。 昼下がり、公務を終えたヘンリーが離宮を訪れるのが、日課となりつつあった。 その日、彼が手にしていたのは美しい装飾の施された小箱だった。開くと、可憐な旋律が部屋に流れ出す。オルゴールだ。「君の国の音楽とは少し違うかもしれないが、気に入ってくれると嬉しい」「何から何まで、ありがとうございます」 ヘンリーが微笑む。 マリアンヌが頭を下げると、いつの間にか足元で丸くなっていた白猫――ルナが、音楽に気づいたようにぴくりと耳を動かした。 猫を見つけて、ヘンリーの表情が微かに曇る。「マリアンヌ。その猫はどこの野良猫だ。侍女に言って、外へつまみ出しなさい」 彼の声は穏やかだったが、猫に向ける眼差しは冷たい。侍女が困ったように一歩前に出たのを見て、マリアンヌは慌ててルナを抱き上げた。「お待ちください、ヘンリー様。この子は……その、私にとって、心の慰めなのです。どうか、このままここにいさせてはいただけませんか?」 必死に訴えるマリアンヌに、ヘンリーは抗えない。深くため息をつくと、不承不承といった体で頷いた。「……君がそう言うのなら」 マリアンヌはほっとして、腕の中のルナの毛並みを優しく撫でる。ルナの毛は柔らかく艷やかで、触っていると気持ちが良い。 その様子を、ヘンリーがどこか羨望の入り混じった、複雑な表情で見つめていた。ルナはちょっと目を開けると、いかにも呆れた様子であくびをした。 ヘンリーの優しさは、マリアンヌの心を確かに癒していた。けれど夜になり一人に
「ようやく会えたわね、アリアの末裔。あたしはルナ。初代聖女アリアの、ただ一人の友人よ」 時が、止まった。 マリアンヌは白猫を見つめたまま、凍りついたように動けない。愛らしい猫から発せられた言葉が、脳に届くことを拒絶している。 庭園は陽光に満ち、噴水は穏やかな水音を立て続けている。何も変わらない、平和な昼下がり。その中で目の前の出来事だけが、夢の中のようにふわふわとして非現実的だった。(猫が、喋った?) 疲労が見せた幻聴だ、とマリアンヌは思った。きっとそうだ。あれほどの絶望と緊張から解放されたのだから、心が悲鳴を上げていてもおかしくはない。あるいは、誰かが近くに隠れて、悪趣味ないたずらをしているのか。腹話術とか? マリアンヌは必死に考えて、警戒しながらゆっくりと周囲を見回した。しかし手入れの行き届いた庭園に身を隠せる場所はなく、そこにいるのは自分と、噴水の縁の上で何事もなかったかのように香箱座りをしている白猫だけだった。 マリアンヌの疑いを見透かしたように、ルナと名乗った猫はふわりと尻尾を振った。呆れたような口調で言う。「幻聴なんかじゃないわよ。まったく、呑気なんだから。あんた、自分の力の源がどこにあるか、本当に分かってる?」 その問いかけに、マリアンヌは息を呑んだ。「……どういう、意味ですか?」「言葉の通りよ」 信じられずにいるマリアンヌに、ルナは決定的な事実を突きつける。「あんたのその聖女の力は、ガルニエ侯爵家のものじゃない。あんたのお母様が受け継いだ、あの傍系の伯爵家こそが、初代聖女アリアの血を引く本当の家系。……そうでしょ?」 その言葉は、マリアンヌの心を貫いた。 それは侯爵家の中でもごく一部の人間しか知らない、固く封じられた真実だった。だからこそ父は傍流の伯爵家から母を娶り、だからこそアニエスは自分を「傍流の血」と蔑んでいたのだ。聖女の力という「資産」を侯爵家に取り込みながら、その出自を見下す。その歪んだ構図のすべてを、この小さな猫は理解している。 幻でもいたずらで
ヘンリーに導かれ足を踏み入れた離宮は、陽光に満ち、花の香りが風に乗って運ばれてくる、夢のように穏やかな場所だった。故国の、天に聳える威圧的な神殿とはまるで違う。豪奢だが、住まう者のための温かみが感じられる調度品。そして何より、侍女たちの眼差しが違っていた。「マリアンヌ様、長旅でお疲れでございましょう。お部屋へご案内いたします」 侍女たちは「聖女様」とは呼ばなかった。畏怖でもなく、憐憫でもない。ただ心からの敬意と優しさで、一人の貴婦人として接してくれた。 通された部屋は、陽光がレースのカーテンを透かして柔らかく降り注ぐ、居心地の良い空間だった。隣の浴室に用意された湯船には花びらが浮かべられている。身に着けるよう渡されたドレスは、儀式用の重たいものではなく、ふわりと肌を撫でる絹でできている。 マリアンヌは生まれて初めて、誰かに「大切にされている」という感覚を味わっていた。(ここは、牢獄じゃない……) 窓辺に立ち、色とりどりの花が咲き乱れる庭園を眺める。常に全身を縛り付けていた鉛のような重圧が、少しずつ溶けていくのを感じる。張り詰めていた心の糸がぷつりと切れて、大きく深呼吸をした。花と緑の良い香りが胸を満たした。 その日から、穏やかな時間が流れ始めた。 ヘンリーは多忙な公務の合間を縫って、毎日必ずこの離宮を訪れた。その手にはいつも、彼女を喜ばせるための贈り物が抱えられている。美しい髪飾りやアクセサリー、異国の甘い菓子、退屈しないようにと選ばれた物語の本。「君の笑顔を見ることが、僕の一番の喜びだからね」 そう言って微笑む彼は、侍女任せにせず、自らマリアンヌの世話を焼こうとした。 その日の午後も、ヘンリーはマリアンヌの部屋を訪れていた。彼は手にした柘植(つげ)の木の櫛で、慈しむようにゆっくりと梳かしている。 マリアンヌの銀の髪は、ここしばらくの生活で輝きを取り戻しつつあった。月光を集めたかのような波打つ銀の髪は、高価な櫛でするすると梳かされていく。ヘンリーの指使いはどこまでも優しく、マリアンヌは心地よさにそっと目を閉じた。 ふと彼の動きが止まる。不思議