司の胸に小さな喜びが灯り、足早に階段を駆け上がった。澪の家に足を踏み入れるのは初めてだ。広くはないが、隅々まで温もりが行き届き、胸の内に家に帰ったようなぬくもりが灯る。ここで暮らすのも、悪くない。秘書には、司には平凡な日常など送れないと言われていた。だが司は、それを事実で覆してみせるつもりだ。自分にはできるのだと。澪と一緒なら、どんな暮らしでも構わない。司の表情はやわらぎ、目の奥の陰りも少しずつ薄れていく。彼は澪のあとに続き、ひとつの部屋へ入った。「司、弟を戻して」澪は不意に口を開いた。声は異様なほど穏やかだ。テーブルの上の骨壺を指さす。司の顔から、すっと血の気が引く。澪はさらに隣に置かれた小さな箱を示し、淡々と続ける。「それから、私に子どもを無事に産ませて」司の顔色はさらに白くなる。澪は上着を脱ぎ、傷跡だらけの背中を見せた。「背中を、元のきれいな背中に戻して」もはや司の顔には血の気がまったくない。握りしめた拳が震え、悔恨に押しつぶされそうになっている。「雨の日に、膝が痛まないようにして……」「もういい!やめろ!」司は声を荒らげて遮り、目元が赤くなる。「頼む、これ以上は言わないでくれ」「司、私たちはもう終わりよ。傷つけられたことは、取り返しがつかない。過去は過去。私はもうあなたを愛していない。ずっと前から、もう愛していないの。あなたが何をしようと、もう二度とあなたのことを愛することはない。私の願いは、あなたが私の世界から消え、永遠に姿を見せないことよ」「違う。お前はまだ俺を愛してる。俺が贈ったバイオリン、いつも手元に置いてるじゃないか」ぱしん、と乾いた破裂音がした。澪は手にしたバイオリンを振り上げ、勢いよく床に叩きつけた。弦が切れ、木片が四方に飛び散る……「ただ、使い慣れていただけ。でももう、音が変わったわ。だから替え時ね」澪の冷たく無情な眼差しが、司の胸を鋭く刺した。彼はこれほどまでにみじめな姿をさらしたことはなかった。ほとんど逃げ出すように澪の家を後にする。司は街をがむしゃらに走った。耳元を切り裂く冷たい風が、心臓をも突き刺すかのようだ。いつの間にか、背後から車が迫ってきていた。そのまま彼めがけて突進してきた。次の瞬間、轟音が鳴り響き、司の体は弾き
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