九条司(くじょう つかさ)は、帝都の上流界隈で「狂気をはらむ御曹司」と囁かれる有力一族の跡取りだ。だが、彼が誰よりも深く愛しているのは、路上で拾い上げたあの物乞いの少女――高宮澪(たかみや みお)。十五歳から二十五歳になるまでの十年間、彼は彼女を掌中の宝のように甘やかし、持てる限りの愛とやさしさのすべてを注いできた。 ところがある日、司の隣にもう一人の女、芹沢梨紗(せりざわ りさ)が現れた。司は、彼女は特別だと言った。障がいを抱えながらも意志は揺るがず、果断でしなやかな女だ、と。やがて梨紗は、一歩ずつ澪の居場所を奪っていった……
View More司には、もう喜びも悲しみもない。胸の中はからっぽだった。権勢の頂に立ちながら、ふいにすべてがうんざりしたのだ。彼は自分名義の財産をすべて澪へ譲渡し、彼女が何の不安もなく暮らせるようにした。秘書には多額の金を渡し、早期退職させた。見慣れた部屋を見回すと、また澪を思い出す。澪の背に刻まれた傷、彼女のあの絶望と冷ややかさがよみがえる。彼は気づく――自分はまだ罰を受けていない、と。上着を脱ぎ捨て、籐の鞭を手に取る。司は容赦なく己の身に振り下ろした。一撃ごとに全力を込め、やがて肌は裂け、血にまみれていく。「おちび乞い、すまない」「おちび乞い、愛している」彼は自らを打ちながら、澪へ謝罪の言葉を繰り返した。澪のいないこの街には、一日たりともいられない。全身傷だらけのまま、司は歩き出す。かつて澪と共に辿った道をもう一度踏みしめ、ひとつずつ、あの頃の幸せな思い出を拾い集めながら。そのころ、遠くドイツでは、澪のバイオリン教室がついに軌道に乗った。そこでは子どもから大人までが通い、澪は一人ひとりに弓の手ほどきをしている。澪が今使っているバイオリンは、ルーカスが探してくれたもので、手にしっくりと馴染んでいる。そのお礼に、彼女はルーカスへ腕時計を贈った。無職のように思っていたルーカスが、実はかつて帝都の篠原家の御曹司だったと澪が知ったのは、ずっと後のことだ。篠原家は当時、九条家をもしのぐ勢いを誇っていたが、一家そろって移住し、資産をすべて国外へ移したのだという。けれど、そんな来歴は、澪には関係がない。彼女にとって、ルーカスは、あくまで友人だ。ルーカスもまた何も迫らず、ただ静かに寄り添い続けた。日々はますます穏やかで幸せなものになり、澪はようやく過去の傷から立ち直ることができた。再び司の名を耳にしたのは、ある午後のこと。庭で日向に身を置き、コーヒーを飲んでいたときだ。司の弁護士がやって来て、澪に一通の書類を差し出した。「九条社長がお亡くなりになりました。全資産をあなたに譲るとの遺言です。こちらがその書類です」澪はコーヒーをひと口含み、淡々と言った。「寄付してください。女性や子どもを支える基金をつくって――この世から、もう物乞いの子どもがいなくなるように」弁護士はさらに分厚いアルバムをもう一冊取り出して、卓上
司の胸に小さな喜びが灯り、足早に階段を駆け上がった。澪の家に足を踏み入れるのは初めてだ。広くはないが、隅々まで温もりが行き届き、胸の内に家に帰ったようなぬくもりが灯る。ここで暮らすのも、悪くない。秘書には、司には平凡な日常など送れないと言われていた。だが司は、それを事実で覆してみせるつもりだ。自分にはできるのだと。澪と一緒なら、どんな暮らしでも構わない。司の表情はやわらぎ、目の奥の陰りも少しずつ薄れていく。彼は澪のあとに続き、ひとつの部屋へ入った。「司、弟を戻して」澪は不意に口を開いた。声は異様なほど穏やかだ。テーブルの上の骨壺を指さす。司の顔から、すっと血の気が引く。澪はさらに隣に置かれた小さな箱を示し、淡々と続ける。「それから、私に子どもを無事に産ませて」司の顔色はさらに白くなる。澪は上着を脱ぎ、傷跡だらけの背中を見せた。「背中を、元のきれいな背中に戻して」もはや司の顔には血の気がまったくない。握りしめた拳が震え、悔恨に押しつぶされそうになっている。「雨の日に、膝が痛まないようにして……」「もういい!やめろ!」司は声を荒らげて遮り、目元が赤くなる。「頼む、これ以上は言わないでくれ」「司、私たちはもう終わりよ。傷つけられたことは、取り返しがつかない。過去は過去。私はもうあなたを愛していない。ずっと前から、もう愛していないの。あなたが何をしようと、もう二度とあなたのことを愛することはない。私の願いは、あなたが私の世界から消え、永遠に姿を見せないことよ」「違う。お前はまだ俺を愛してる。俺が贈ったバイオリン、いつも手元に置いてるじゃないか」ぱしん、と乾いた破裂音がした。澪は手にしたバイオリンを振り上げ、勢いよく床に叩きつけた。弦が切れ、木片が四方に飛び散る……「ただ、使い慣れていただけ。でももう、音が変わったわ。だから替え時ね」澪の冷たく無情な眼差しが、司の胸を鋭く刺した。彼はこれほどまでにみじめな姿をさらしたことはなかった。ほとんど逃げ出すように澪の家を後にする。司は街をがむしゃらに走った。耳元を切り裂く冷たい風が、心臓をも突き刺すかのようだ。いつの間にか、背後から車が迫ってきていた。そのまま彼めがけて突進してきた。次の瞬間、轟音が鳴り響き、司の体は弾き
「社長、どうされましたか……」「澪は、俺と一緒に帰る気がない」司の声はあまりに小さく、ほとんど聞き取れないぐらいだ。秘書の反応は淡々としていた。まるで予想していたかのように、無言のまま脇の椅子へ腰を下ろした。司は秘書に目を向け、眉をひそめて口を開く。「どうすればいい」思いがけない問いかけに、秘書は驚きを隠せなかった。司が彼に意見を求めたのは初めてだった。彼は慌てて立ち上がり、姿勢を正して口を開く。「社長、お気に召さない話かもしれません。しかし、私は八年間ずっとお側で、社長と高宮様の歩みを見てまいりました」秘書はわざと一拍置き、そっと司の顔色をうかがった。怒りの気配がないのを確かめると、言葉を継いだ。「お二人は激しく愛し合い、幾度も荒波を乗り越えてこられました。ですが、穏やかな日常には耐えられなかった。そして、高宮様は去った。もう戻ってはこないでしょう。必要とあれば、私が彼女を力ずくでお連れし、屋敷に閉じ込めることもできます」秘書は視線を落とし、真剣な口調で続ける。「ですが、高宮様が社長の裏切りをお許しになることは、決してございません」司は首を横に振った。「俺は、彼女が自らの意思で戻ってきてほしい」秘書は驚いたように司を見つめたが、やがて思い切って進言した。もう一度、最初から彼女を追いかけ直し、再び恋をさせるしか道はないのだと。その言葉に司の瞳が一気に輝きを取り戻す。彼はすぐに退院の手続きをした。そして、澪の家の隣の別荘を買い取った。澪は、日々不安に怯えて過ごした。いつ司が飛び出してきて、自分を連れ去るのではないかと怯え続けていた。三日が過ぎても、司は姿を見せなかった。澪はようやく胸のつかえを下ろしかけたが、隣家の持ち主が変わっていることに気づいた。そして現れたのは司だった。彼は手作りのチョコレートを載せた皿を差し出し、冷ややかな顔にかすかな笑みを浮かべた。「おちび乞い、お前の大好物だ」澪は一瞬きょとんとした。彼にそう呼ばれたのは、何年ぶりだろう。「澪」や「ダーリン」と呼ばれるよりも、その呼び名のほうが好きだった。あの頃だけは、二人の気持ちがいちばん純粋だったから。「糖分控えてるの。チョコレートなんて、もうとっくに食べない」澪は冷たく言い放ち、そのまま部屋へ引き返し
司はそのまま、作りかけの教室で一時間も立ち尽くし、ようやく背を向けた。彼の胸中では葛藤が渦巻き、澪を無理に連れて帰るべきか迷い続けている。かつての彼なら、迷わず力ずくで澪を連れ戻しただろう。そばにさえいれば、それでよかった。だが今の彼の胸には、わずかな期待が芽生えていた。昔のように愛を抱いたまま彼の元へ戻ってほしい。そして彼女を幸せにしたい。ふたつの考えが頭の中で言い争い、耳鳴りが止まらない。司は町のバーのひとつに入り、カウンターに強い酒を並べさせ、一杯、また一杯とあおった。焼けるような酒でも、胸の陰りは少しも晴れない。飲めば飲むほど杯は重なり、胸の痛みも深まっていく。司はカウンターのハイチェアにもたれ、乾いた笑いを漏らしながら目を赤く滲ませた。どうしてこんなことになってしまったのか……あれほど愛し合っていたのに。彼女は一歩たりとも離れようとはしなかったのに。なぜ彼は、わざわざその手を放してしまったのか。十年前、彼が街で分家筋の兄弟たちに袋叩きにされていたとき、澪は通報するふりをして彼を救った。彼女の服はぼろぼろだったが、不思議なほど清潔で、瞳はきらきらと輝いていた。その一瞥で、彼は彼女を忘れられなくなった。「物乞いのくせにそんなに小ぎれいで、金はもらえるのか」彼はからかうように言った。彼女は顎をぐっと上げ、不機嫌そうに言い返した。「あなたに関係ないわ。お腹を満たす方法なら自分で見つける。それよりあなたこそ、人に殴られて顔を腫らしてるくせに、よく他人のことに口を出す余裕があるわね」彼が返事をする間もなく、執事が人を連れて迎えに来て、その場を離れることになった。彼女を再び見かけたのは、それから半月後のこと。弟を連れてスーパーから出てきた彼女は、満ち足りたようにお腹をさすっていた。司は思わず笑みをこぼした。やはり賢い子だ。小ぎれいな格好で試食を回れば、腹も満たせて、体裁も保てる。ますます彼女に惹かれ、彼は数日間つけ回し、家へ連れ帰る機会をうかがった。やがて彼女の弟が病に伏した。命の恩を返す名目で、司は彼女と彼女の弟を屋敷へ迎え入れた。それからというもの、彼の退屈だった日々は一変し、色づき始めた。二人は共に歳を重ねていった。彼女は賢く、どんなことでもすぐに身につけてしまう。彼は「ず
澪はルーカスの背後から一歩踏み出し、司と向き合った。司の胸に、きゅっと鋭い痛みが走る。彼女のまなざしには恐怖だけでなく、うっすらとした嫌悪が混じっているが、愛の気配はもうどこにもなかった。恐ろしい考えが頭をよぎる――昔のおちび乞いは、もう自分を愛していないのではないか。いや、そんなはずはない。ただ怒っているだけだ。司は珍しく傲慢さを抑え、声を和らげた。「話をしよう。説明できることがある」澪がルーカスに視線を送ると、彼はすぐに察し、リナを連れて部屋を出ていった。「外で待ってるから、何かあったら呼んで」澪は小さくうなずき、感謝の意を示した。その様子に、司は顔を曇らせた。彼女が他の男と親しくするのが気に入らない。やがて部屋には、澪と司の二人だけが残った。「九条様、何を話すつもりですか?」澪の声は冷ややかだ。胸の奥がざわつくのを覚えながら、司は言う。「そんな呼び方はやめろ。過去のことは俺が悪かった。梨紗がお前に何をしたか、もう知っている。報いを受けさせた」司は澪に、梨紗の一家がどんな末路を迎えたのかを語った。さらに、これまで彼女を公然だったり、あるいは陰で嘲ってきた者たちも、ことごとく相応の報いを受けたのだと告げた。「澪、お前はずっと子どもが欲しかったよな。帰ったら作ろう。何人でもいい」子どもの話になると、司の声に熱がこもった。「お前さえ戻ってくれれば、やりたいことは何も邪魔しない。これから先、俺のそばにいるのはお前だけだ。梨紗なんて愛していない。ただの遊びだったんだ。お前がそこまで怒るとは思わなかった……」澪は司の独り言をただ静かに聞いていた。心は波立つことなく、すべてが自分とは関係のないことのようだった。ただ「子ども」という言葉に触れた瞬間だけ、胸の奥がちくりと痛んだ。「もうどうでもいいの」澪は彼の言葉を遮り、静かに告げた。「私はすでに手放した。だから、私を放してほしい。もう、あなたを愛していない。たとえ力ずくで連れ戻され、閉じ込められ、極端に言えば殺されても――私の心は、あなたのそばにはいたくない」澪は一語一語を噛みしめるように告げ、その声音は揺るぎなく固かった。司の視線を正面から受け止めても、一歩も退かない。希望に揺れた司の目は、怒りへ、そして最後にはどうしよ
ドイツの小さな町。澪がこの町に来てから、すでに三か月が経った。ここの暮らしにもすっかり馴染み、近所の人とも少しずつ親しくなっていった。その日、声をかけてきたルーカスも実は澪と同じ出身で、再婚した母親とともにこの町へ来たのだという。彼にはハーフの妹、リナがいる。リナは十歳になったばかり。肌は白く、笑うと頬に小さなえくぼがふたつ浮かぶ。彼女はバイオリンが大好きで、澪の演奏に耳を傾けるたび、うっとりと目を細めた。やがて澪はリナにバイオリンを教えるようになり、ルーカスはその時間に合わせて毎日のように顔を出した。ルーカスの澪を見るまなざしは日に日に複雑さを帯び、ときどきぼんやりと彼女を見つめたまま動かなくなる。澪に気づかれると、彼は気恥ずかしそうに頭をかき、口実を作って席を外した。ルーカスは司とはまるで正反対の人だ。朝の陽ざしのような明るさをまとい、そばにいるだけで気持ちが和らぐ。彼と一緒にいると、いつの間にか肩の力が抜けていた。彼の機嫌を探る必要もなければ、急に突き放される心配もない。ましてや、自分を押し殺してまで気を遣う必要もない。この日、リナの練習を終えると、ルーカスがコーヒーを二つ持ってきて、そのうちの一杯を澪に差し出した。「澪奈、バイオリンの教室、やってみない?町でちょうど空き店舗が出てるんだ。君にぴったりだと思う」澪は一瞬きょとんとした。手元の蓄えは、かつて司から投資を学んで自分で増やしたもので、司が渡した二十億円にはいまだ手をつけていない。暮らしに困ることはないが、それでも何かを始めたい気持ちはあった。澪はうなずき、「ええ」と答えた。こうしてルーカスの助けを借り、彼女はその店舗を借りることになった。それからは、ルーカスとリナが毎日のように手伝いに来た。三人は紙で折った作業帽をかぶり、掃除をしたり、壁にペンキで絵を描いたりしていた。澪がうっかりペンキをはねさせ、ルーカスの顔に飛び散った。彼は無意識に手で拭ってしまい、たちまち顔はペンキまみれになった。澪とリナは腹を抱えて大笑いした。遅れて自分の姿に気づいたルーカスは、スマホで顔を確認すると、「よし、リナにも描いてやる」と冗談めかして追いかけた。リナは笑いながら澪の背に隠れ、三人は無邪気にふざけ合い、笑い声が絶えなかった。だが次の瞬間、澪の笑
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