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西風に散る暮雪、埋もれし初心

西風に散る暮雪、埋もれし初心

By:  六月の猫Completed
Language: Japanese
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九条司(くじょう つかさ)は、帝都の上流界隈で「狂気をはらむ御曹司」と囁かれる有力一族の跡取りだ。だが、彼が誰よりも深く愛しているのは、路上で拾い上げたあの物乞いの少女――高宮澪(たかみや みお)。十五歳から二十五歳になるまでの十年間、彼は彼女を掌中の宝のように甘やかし、持てる限りの愛とやさしさのすべてを注いできた。 ところがある日、司の隣にもう一人の女、芹沢梨紗(せりざわ りさ)が現れた。司は、彼女は特別だと言った。障がいを抱えながらも意志は揺るがず、果断でしなやかな女だ、と。やがて梨紗は、一歩ずつ澪の居場所を奪っていった……

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Chapter 1

第1話

九条司(くじょう つかさ)は、帝都の上流界隈で「狂気をはらむ御曹司」と囁かれる有力一族の跡取りだ。だが、彼が誰よりも深く愛しているのは、路上で拾い上げたあの物乞いの少女――高宮澪(たかみや みお)。十五歳から二十五歳になるまでの十年間、彼は彼女を掌中の宝のように甘やかし、持てる限りの愛とやさしさのすべてを注いできた。

澪がバイオリンを好めば、彼は仕事をすべて脇へ置き、海外まで同行して彼女の音楽留学に付き添った。株で十数億の損失が出ても、まるで気に留めなかった。

彼は愛を示すために、豪奢な贈り物を車に積んでは次々と彼女の前に運ばせ、さらには九百九十九日ものあいだ連続で配信を行い、告白と求婚を続けた。

彼女を妻に迎えるために、彼は三日間にわたって、家の厳罰に耐え抜き、ついに門地の釣り合いという壁を打ち破った。念願かなって、彼女に夢のような幻想的な結婚式を与えた。その日、彼女は誰もが羨むお姫さまになった。

それほどまでに彼女を愛した男が、いまは、出会ってまだ半年ほどの愛人の芹沢梨紗(せりざわ りさ)のために、薄い寝間着姿の澪を雪の上に跪かせている。

すべては澪があの女を追い詰め、彼の連絡先をブロックさせ、挙げ句に愛人を身を隠させたのだと、彼が思い込んでいるからだ。

「澪、教えて。お前は梨紗に何を言った?」

司は澪の向かいに腰を下ろし、ワイングラスを指先で転がしながら、気のない視線で彼女を見つめる。

そのまなざしは吹きすさぶ風雪よりも冷たかったが、声だけは驚くほど穏やかだった。まるで雪の景色の美しさを訊ねているかのように。

凍えで感覚を失った澪は、唇を震わせながらかろうじて言葉を絞り出す。

「司、私は……梨紗には会っていない」

司は唇の端をわずかに上げた。

「澪、いい子じゃないな」

彼が指先を軽く動かすと、護衛が身をかがめてスマホを差し出し、司は映像を再生した。

映像に映っているのは、危篤状態の澪の弟の高宮優斗(たかみや ゆうと)だ。呼吸器が引き抜かれ、酸素を奪われた顔は紫色に染まり、全身が止めどなく痙攣している。

「司、あの子は私に残った唯一の家族なの。お願い、傷つけないで」

澪は瞬く間に涙で顔を濡らし、司の脚にしがみついた。

「信じて。私は本当に何も言っていない。彼女がどこへ行ったのかも知らないの」

司は身を屈め、澪の涙の跡を指先でなぞった。

「言ったはずだ。梨紗も、俺には大事だと」

「いい子だろ。あと五十秒だ。酸素が途絶えた状態では、お前の弟は二分しか持たない」

司は背筋を伸ばし、一本の指でスマホの画面をコツコツと叩きながら、苛立ちを隠そうともしなかった。

澪の体は大きく震え、胸の奥に重い衝撃が落ちたような痛みが走る。

司は確かに梨紗のことは大事だと言っていた。けれど、澪はずっと信じようとしなかった。かつて、あれほど自分を愛してくれたのだから。

けれど今になって、澪は自分がどれほど可笑しかったかに気づいた。自分は彼にとって替えの利かない存在だと、信じ込んでいたなんて。

じつのところ、これまで、澪が梨紗に会ったのは一度だけだ。あの日はオークション会場で、彼女はコンパニオンを務めていた。

あの時、梨紗は休憩室に向かう澪を遮り、顎をわずかに上げて告げた。

「奥様、彼が嫌いだとは何度もお伝えしました。ご主人のせいで、もう私の生活にまで支障が出ています」

そのとき初めて、司が口にしていた面白い子猫ちゃんが梨紗のことだと、澪は知った。

梨紗は生まれつき左目に弱視を抱えながらも、きわめて高い美術の才に恵まれている。

「障がいを抱えながらも前へ進む天才少女画家」という姿がネットで話題となり、一躍人気を博した。

けれど彼女は配信で稼ぐことはせず、あくまで普通の学生のようにアルバイトで暮らしを支え、各種の宴会で給仕として働いていた。

誇り高く、自信にあふれ、眩しいほどに華やかな梨紗。瞬く間に、投資家の司を強く惹きつけた。

彼女が拒むほど、司の心は燃え上がる。追いかける姿は話題となり、ついには帝都の誰もが知る騒ぎとなった。

その日のうちに澪は司を問い詰めたが、彼は否定しなかった。ただ彼女を抱き寄せ、軽い調子で言った。

「ただの遊びだよ。仲間だってみんなやってる。俺はただ、いくらで彼女を靡かせられるか知りたいだけさ。安心しろ、澪。俺が一番愛しているのは、いつだってお前だ」

澪はなおも聞いた。

「もし、私が受け入れなかったら?」

司は澪の髪をそっと撫で、優しい眼差しに彼女の蒼白な顔を映した。

「澪、いい子でいろ。いい子でいれば、お前はずっと九条家の奥様だ」

澪は言葉を失った。拒む権利など自分にはないと、痛いほどわかっていたからだ。

澪は、司がいつか手を引くのを待つしかなかった。だが届いたのは、二人が付き合い始めたという知らせだった。

梨紗は一円も受け取らずに司の求愛を受け入れた。ただ一つの条件を出した――普通の恋人同士のように付き合うこと。

司は喜んで条件を受け入れ、彼女の配信に付き添って絵を描くのを見守り、展覧会に同行し、遊園地へも付き合い、屋台やジャンクフードまで連れ立って楽しんだ……

司は彼女を連れてさまざまな場に現れ、片時も離れず寄り添った。まるで普通の青年のように、SNSに恋人ぶりを投稿していた。

澪はそれを見るたび、胸が裂けるほどの痛みに襲われる。泣き叫び、何度も離婚を切り出した。

だが司は気にも留めず、ただ気だるげに言葉を投げた。

「いい子だ、澪。俺は従順な女が好きなんだ。わがままはやめろ」

澪は無理やり心を鎮め、彼の言葉を信じようとした。早く飽きて戻ってきてくれると願うしかなかった。

ところが今、梨紗は何の前触れもなく彼をブロックした。しかもその前に、澪と会ったことをわざわざ口にしていた。

澪にはそれが示威にほかならないと分かっていたが、どう言い繕っても司は信じようとしなかった。

「澪、まだ言わないのか?お前の弟の時間は残りわずかだ。十、九、八……」

司は腰を屈め、澪の耳もとに顔を寄せる。熱い吐息が頬を撫でたはずなのに、澪の全身は底知れぬ寒気に包まれた。

「言う、言うから」

我に返った澪は、裂けるような胸の痛みに喉を詰まらせ、初めて司に嘘をついた。

「彼女に言ったの。あなたから離れて、もう纏わりつくなって……」

澪は感情の糸が切れ、涙で視界がかすんだ。しがみついていた司の腕も、力を失い、少しずつ緩んでついには垂れ落ちた。

司は壊れかけた彼女の顔を眺め、冷え切った頬に手を当てて宥めた。

「澪、もう勝手なことはするな。弟のことを、もっと考えろ」

澪の表情は次第に虚ろになり、機械仕掛けのようにうなずいた。胸の奥で何かが砕け散り、その痛みは全身へと広がっていった。

身体が揺らぎ、今にも倒れそうになる。めまいが次々と押し寄せ、澪は耐えきれずに横ざまに倒れ込む。地面に身を打ちつけたその瞬間、両脚のあいだから温もりが広がるのを感じた……

そのとき、部下が慌ただしく駆け込んできた。

「社長、芹沢様を見つけました。彼女はいま、障がいを持つ子どもたちに絵を教えています」

部下は澪に視線を走らせ、ためらいがちに続けた。

「ただ……奥様が、もう社長とは会わないようにと彼女に言ったそうです。彼女は、社長にはもう探してほしくないと申しております。」

司の顔がぱっと明るむ。後段の言葉には耳を貸さなかった。その場で、梨紗の話題をトレンドに乗せる手配をした――「美しく、心優しい人だ」という賛辞とともに。

地面に倒れた澪へは、一瞥すら向けなかった。

「司、お腹が痛い……」

痛みに耐えきれず、澪は背を向けて歩み去る彼に手を伸ばす。だがその姿は遠ざかる一方で、ついに視界から消えた。

車に乗り込むと、司は執事に電話を入れ、澪を懲罰部屋に入れて反省させるよう命じた。

執事は、雪に倒れた澪の足もとに広がる鮮やかな赤を見て、慌てて声を上げる。

「奥様は流産されたようです。大量に出血が……」

司の顔はたちまち曇り、声は氷のように冷たくなる。

「妊娠していたのか?ますます言うことを聞かないな。そんな子は、現れるべきじゃなかった」

執事は深いため息をつき、命に背くことはできず、澪を懲罰部屋へ運んだ。

やがて澪は鋭い痛みに意識を引き戻される。下腹部が裂かれるような苦痛が全身を走り、体の奥で小さな命が消えていくのを、恐ろしいほど鮮明に感じ取った。

彼女は這いずって戸口に手を伸ばし、拳で扉を叩いた。声は掠れ、絶望に満ちていた。

「出して、病院へ連れていって、腹の子を助けて……

司、お願い……私たちの子を救って!

誰か、誰か来て!」

どれほど経ったのか。外から執事の声だけが返ってくる。

「奥様、この子は九条様がお望みになったものではございません。ご命令なしに病院へお連れすることは誰にもできません……どうかこれからはおとなしく、懲罰部屋でお身を慎まれてください」

力が一気に抜け落ちる。出て行く司の背の固さを思い出し、澪はその場に崩れ落ちた。

澪が望んだのは、ただ子どもだった。二人の子を持ちたかった。

けれど彼が望まないというだけで、澪には妊娠する権利さえ許されなかった。

いまや彼は愛人のために、澪の命をも顧みず、身ごもった彼女を閉じ込めてしまった……

澪は下腹部を押さえ、泣きたくても涙が出ない。痛みで息が詰まる。

波のような痛みが寄せては返し、意識が遠のいていく。沈む直前、かすかに唇が動いた。

「司……腹の子きみはもういない。だから私も、あなたなんてもういらない」

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第1話
九条司(くじょう つかさ)は、帝都の上流界隈で「狂気をはらむ御曹司」と囁かれる有力一族の跡取りだ。だが、彼が誰よりも深く愛しているのは、路上で拾い上げたあの物乞いの少女――高宮澪(たかみや みお)。十五歳から二十五歳になるまでの十年間、彼は彼女を掌中の宝のように甘やかし、持てる限りの愛とやさしさのすべてを注いできた。澪がバイオリンを好めば、彼は仕事をすべて脇へ置き、海外まで同行して彼女の音楽留学に付き添った。株で十数億の損失が出ても、まるで気に留めなかった。彼は愛を示すために、豪奢な贈り物を車に積んでは次々と彼女の前に運ばせ、さらには九百九十九日ものあいだ連続で配信を行い、告白と求婚を続けた。彼女を妻に迎えるために、彼は三日間にわたって、家の厳罰に耐え抜き、ついに門地の釣り合いという壁を打ち破った。念願かなって、彼女に夢のような幻想的な結婚式を与えた。その日、彼女は誰もが羨むお姫さまになった。それほどまでに彼女を愛した男が、いまは、出会ってまだ半年ほどの愛人の芹沢梨紗(せりざわ りさ)のために、薄い寝間着姿の澪を雪の上に跪かせている。すべては澪があの女を追い詰め、彼の連絡先をブロックさせ、挙げ句に愛人を身を隠させたのだと、彼が思い込んでいるからだ。「澪、教えて。お前は梨紗に何を言った?」司は澪の向かいに腰を下ろし、ワイングラスを指先で転がしながら、気のない視線で彼女を見つめる。そのまなざしは吹きすさぶ風雪よりも冷たかったが、声だけは驚くほど穏やかだった。まるで雪の景色の美しさを訊ねているかのように。凍えで感覚を失った澪は、唇を震わせながらかろうじて言葉を絞り出す。「司、私は……梨紗には会っていない」司は唇の端をわずかに上げた。「澪、いい子じゃないな」彼が指先を軽く動かすと、護衛が身をかがめてスマホを差し出し、司は映像を再生した。映像に映っているのは、危篤状態の澪の弟の高宮優斗(たかみや ゆうと)だ。呼吸器が引き抜かれ、酸素を奪われた顔は紫色に染まり、全身が止めどなく痙攣している。「司、あの子は私に残った唯一の家族なの。お願い、傷つけないで」澪は瞬く間に涙で顔を濡らし、司の脚にしがみついた。「信じて。私は本当に何も言っていない。彼女がどこへ行ったのかも知らないの」司は身を屈め、澪の涙の跡を指先でな
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第2話
澪が次に目を覚ましたとき、そこは病院のベッドだった。平らになった下腹に手を当てると、胸の底から悲しみが込み上げる――子どもは、本当にもういない。これで、彼女と司も終わるのだと悟った。病室の扉が開き、澪は横目でそちらを見た。司は梨紗の手を握りしめ、指を絡めたまま病室へ入ってくる。梨紗の目は冷たく光り、縁がかすかに赤く染まっている。怒りに満ちた視線を澪へ向け、吐き捨てるように言った。「奥様、私はもう身を引いたはずです。家族を巻き込むのは筋違いです。どうして両親を脅すんです?ご主人を止められない腹いせに、弱いほうへ矛先を向けるんですか?」身に覚えのない非難に、澪は思わず司を見た。司の視線は梨紗だけを捉え、そこには惜しみない称賛が宿っている。まるで宝物を見ているように。澪の胸は鋭く痛んだ。かつて司も、今のように優しく甘やかな眼差しを、片時も惜しまずに彼女へ注いでいた。「俺の妻がいちばんだ。他の女なんて、お前の髪の一本にも及ばない」、そう言って抱き寄せてくれたのに。けれど今、病室に入ってからの司は、澪に一度たりとも視線をよこさない。澪は自嘲気味に笑い、梨紗には目もくれず司に問う。「司、どうして私たちの子を救ってくれなかったの?」「自分に聞け。勝手に妊娠したのはお前だ」司は冷ややかに答えた。その声には怒号はないのに、抗いがたい威圧が宿っていた。「この結婚で、私には子どもを望む権利すらないの?」分かりきった問いだと知りながら、澪はそれでも口にする。司は一片の迷いも見せず、絶対的な威圧感を纏ってうなずいた。「その通りだ」澪はうつむき、目に涙があふれてきた。「私は、子どもの話を聞きに来たわけじゃない。司、説明してくれるって言ったよね」梨紗は不満げに司を見上げる。彼の前ではいつだって、権力にひるまず、知的で率直な姿を崩さない。司は彼女の背を軽く叩き、宥めながら、澪へ視線を向けた。その眼差しにはうっすらと責めの色が浮かんでいた。「澪、お前が梨紗を追い払って、彼女の両親を脅したんだ。謝れ」司の視線を受け、澪の胸に重い痛みが沈む。思わず声が漏れる。「私はやってない。だから謝らない!」「まだ騒ぐ気か?」「本当に、していないの」澪は首を振った。司の目がさらに暗く沈み、顔は険しさを増す。
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第3話
その後の数日、司は梨紗を連れて、ひときわ目立つようにさまざまな場に姿を見せた。彼女は高級ドレスも宝石も拒み、無地のワンピースに黒髪を真っすぐ垂らすか、きりりと高い位置で束ねるだけ。化粧もせず、飾り気のないその姿は、きらびやかな上流社会にあってひときわ清らかな流れのように見えた。司は公然と愛を示し、彼女の特別さを惜しみなく称えた。その影響で、多くの令嬢や名家の娘たちが彼女の装いを真似するようになった。デザイナーたちもまた、彼女をインスピレーションに新作を打ち出す。梨紗の弱視をどうにかしようと、司は巨額を惜しげもなく投じて自家用機を飛ばし、各国の専門医を呼び寄せ、チームを組んで診療に当たらせた。先天性の弱視は回復不能だが、それでも、これ以上悪化させない手立てはあるという。司は激しい怒りをあらわにし、彼女と同じ障がいを負おうとして、自分の目を潰しかけるほどに思いつめていた。その頃、澪はひとり病室のベッドに沈み、果てしない孤独に押し潰されていた。スマホの画面には、司と梨紗の熱愛ぶりを伝える記事が次々と躍り出る。澪の心は、そのたびに音を立てて崩れ落ちていく。司の愛は、誰にでも置き換えられるものだった。別の女のためにも、彼は同じ狂気を惜しみなく注げるのだ。澪は昏睡の弟を見舞いに行った。三年前、通学途中で交通事故に遭った弟を、司は世界一流の医療チームを呼び寄せて死神の手から奪い返したのだ。けれど弟は目を覚ますことなく、機械と薬にすがって命をつないでいる。澪は弟の手を握り、目を赤くしながらささやいた。「優斗……お姉ちゃん、ここを出るよ。行く前に、あなたを別の場所に移すから。司こそが私の幸せだって、ずっと思ってた。でも、違った」澪はまるで堰を切ったように、胸に溜め込んできた悔しさや悲しみを一気に吐き出した。昼をとうに過ぎ、彼女はようやく涙を拭って、名残を惜しみながら病院を後にした。澪はまず役所に足を運び、弟と二人分の除籍手続きをした。急ぎの申請を出したので、七日ほどで完了する予定だ。そのあと、かつて司から贈られた山荘へ向かい、宝物のように扱われてきた品々を一つ残らず整理し、オークションハウスに委ねた。さらに小さな法律事務所に立ち寄り、山荘の所有権を司に戻す手続きも済ませた。最後に澪は別荘へ戻り、自分の手で司のために作
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第4話
澪が目を覚ましたのは、一日後だった。背中の傷は手当てされ、もう痛みはほとんど感じない。ベッド脇で、司は気怠げにタバコをくゆらせていた。煙の幕の向こうから、氷のような声が落ちる。「梨紗が怒ってる。お前が宥めろ」澪は無表情のまま彼を見つめた。「九条様のご意向は?」その呼び方を耳にした瞬間、司の顔がさっと険しくなった。タバコを揉み消すと、灰のついた指先で彼女の唇をなぞる。「澪、俺に逆らうんじゃない」その瞳には、危うい光がちらりときらめいた。澪は息を呑み、胸の奥が大きく震える。司の祖父の警告が、急に頭によみがえる。――「司は、言うことを聞く犬しか可愛がらない。そばにいたいなら、一生、従順な犬でいる覚悟をしろ」当時の澪には、その意味が分からなかった。ただ、祖父が二人を引き離すために、大げさなことを言っているのだとしか思えなかったのだ。けれど今、澪は少し理解した。司の愛は狂おしいほど偏ったもので、自己中心的で、いつも彼が上に立つ。自分はただ、それに縋りつく存在でしかないのだと。澪は視線を伏せ、恐怖を隠しておとなしくうなずいた。「分かった」「曲を用意しろ。梨紗がバイオリンの独奏を聴きたいそうだ」司は満足げに澪の髪を撫で、みずから彼女の背に薬を塗っていく。その指先に触れられるたび、澪は凍りつくような冷たさを覚えた。夜が更け、澪は長袖のシャンパンゴールドの豪奢なドレスに身を包み、全身をきらめくジュエリーで飾り、運転手に伴われて、会場へと向かった。宴会は九条グループ傘下で最大規模を誇るホテルで催され、帝都の上流社会の面々がほとんど顔をそろえている。会場の女性たちは、ほとんどがシンプルで清楚なワンピースに身を包み、化粧もすっぴん風。そんな中、煌びやかな装いの澪だけが場にそぐわず、ひときわ浮いて見える。彼女が姿を見せた瞬間、視線とささやきが一斉に注がれる。そこにあったのは、軽蔑、憐れみ、嘲笑、そして侮蔑……「芝居でもしに来たのか? 物乞いは所詮物乞い、場違いな成り上がりだ。身につけられるものを全部ぶら下げてきたんだな」「もう九条社長に捨てられたんだろ。必死に取り入ろうとして、まるで滑稽な道化じゃないか」「芹沢さんには遠く及ばない、ただの見すぼらしい女だ」さまざまな声が耳に突き刺さり、澪の胸は押し
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第5話
ほどなくして、司はかすかに笑って、彼女の頬をそっと撫でた。「拗ねるな。ファーストダンスはお前とだ」梨紗は顔をそむけ、不機嫌そうにしながらも、結局は司の誘いを受けて彼とともにダンスフロアへ歩み出た。澪は顔を上げ、ダンスフロアの中心で踊る二人を見つめる。胸の奥は、不思議なほど静かだった。彼女はバイオリンをしまい、背を向けてその場を離れようとする。けれど、まだ数歩も進まぬうちに、数人の女たちが澪の行く手を塞いだ。言葉を発する間もなく、彼女は力ずくで会場の隅へと引きずり込まれた。「奥様――あら、違ったわね。もう九条様には捨てられたんだった。ねえ、この手を覚えてる?」女の一人が左腕を突き上げる。手首から先はもうない。「当時、あなたにちょっとぶつかっただけで、この手を切り落とされたのよ」「私の顔もよ。大した顔じゃないって言っただけで、硫酸を浴びせられたの」もう一人の女がマスクを外し、憎悪に燃える目で澪を睨みつける。「うちの会社だってそう。あんたが元は物乞いだって言っただけで、会社ごと潰された!」……澪の胸がかすかに震えた。彼女には分かっていた。これらはすべて、かつて司が仕組んだことだと。司は偏執的で苛烈な手段を惜しまずに澪を庇ってきた。けれどいま、その庇護を失った彼女を待つのは、恨みを抱いた人々の復讐にほかならなかった。「あんたたち、何をするつもり?」澪はもがいた。ひとりの女が澪の髪を乱暴に掴み、容赦なく頬を打ち据えた。「私と同じにしてやる。人間でも化け物でもない、見るに堪えない姿にな。それでまだ九条様にしがみつけると思う?」「芹沢様がおっしゃってたの。あなたを生き地獄にしてくれた人には、九条様の前で口添えしてくれるって」「芹沢梨紗が?」澪は衝撃に目を見開いた。気づけば床に押さえつけられていた。頬を乱暴につかまれ、次々と打ち据えられる。さらに用意していた針を取り出し、十本の指を押さえつけては、爪の奥へ深々と突き立てる。「――あっ!」痛みに思わず叫んだ澪だったが、その声はすぐに誰かの手で塞がれた。十本の指先に突き抜ける痛みは全身に響き渡り、澪の目から涙があふれ、体は震え続けた。女たちが入れ替わる隙を突き、澪はそばの一人を突き飛ばし、身を起こして駆け出した。足がもつれ、澪は目
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第6話
澪は再び病院に運び込まれた。全身に食い込んだガラス片を取り除く処置に、三時間もかかった。その後、数日間の休養を経て、彼女は退院の手続きをした。まだ片づけなければならないことが残っているからだ。まず銀行で現金を引き出し、それから、郊外の小さな、外部にはほとんど知られていない療養施設へ連絡を入れた。施設の改修費や新しい人工呼吸器の購入費を寄付する代わりに、優斗を受け入れてもらう。そして、このことは決して外に漏らさないように――誰にも知られてはならない。院長は快く承諾し、澪と優斗の新しい身分が整い次第、すぐに転院の契約を結べると約束した。澪ひとりでは優斗を連れ出せない。そのため、澪は彼に一生困らぬほどの財産を残したのだ。彼女は一度、これまでの病院に立ち寄り、優斗に会ってこの朗報を伝えようとした。だが病室の廊下に差しかかった瞬間、介護をしている看護師が中年の夫婦にもみ合いにされているのが目に入る。看護師は必死に病室の扉をかばい、背を広げて守っていた。「高宮さん、やっと来てくれました!この人たち、優斗の人工呼吸器を奪おうとしてるんです!」澪は勢いよく駆け寄り、目の前の二人を引きはがすと、鋭く怒鳴った。「何をしているの!ここは病院よ。勝手な真似は許さない!」「威張るんじゃないよ。あんたが九条家から追い出されたことなんて誰だって知ってる。私に手を出す気?私の娘婿に命じれば、すぐにでもあんたを殺させるわよ!とっとと失せな、あんたの障害のある弟だって長くはもたないんだから。私の息子こそ呼吸器が必要なんだ!」中年の女は、力いっぱい澪を突き飛ばした。澪はよろめいて倒れ込み、視界が暗く揺らいだ。顔を上げた先には、勝ち誇ったような梨紗の視線とぶつかった。「澪、みじめね」梨紗は腕を組み、冷ややかに続ける。「うちの両親を止められると思う?この呼吸器は必ず私がもらうわ」「何をしているの?早く手を貸しなさい!」彼女の指示で、司の護衛たちが看護師を押さえつけ、病室へとなだれ込む。乱暴に優斗の体から機械を引きはがそうとした。「ダメ!そんなことしたら死んじゃう!」澪は咄嗟に駆け込み、必死に部屋の奥へと割り込み、両腕を広げて優斗をかばう。「出ていけ!弟に手を出さないで!」その拍子に梨紗の母が「ああっ!」と声を上げて床
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第7話
澪は自ら優斗に白布をかけてやった。そのときになって、いつの間にか靴が脱げていて、裸足は血と泥に染まっていることに気づいた。彼女は地べたに座り、ティッシュで裸足をこすった。けれど、にじむ血が泥と混ざり、拭いても拭いてもますます汚れていくばかりだ。ふっと、感情がぷつりと切れた。胸元の服をわしづかみにし、声にならない叫びを口の奥で開きながら、涙だけが音もなく頬を伝う。どれほど経ったのか。澪はゆっくり立ち上がり、家へ戻って風呂に入り、清潔な服に着替えてから、簡単に化粧を整えた。――優斗を、きちんと見送らなければ。澪は優斗の死亡証明を受け取って、斎場へ向かった。式のあいだ、彼女は一言も発していなかった。抜け殻のように、ただ流れに身を任せた。骨壺を前にしたとき、澪は目を赤くしながら笑った。これでよかったのかもしれない。優斗はもう苦しまずに済む。自分にも未練はなくなった。これからは優斗と一緒に、この場所を離れられるのだ。だが、結局、澪は優斗のために立派な墓地を買い、墓碑を建てた。司に勘づかれるのを恐れたのもあるし、優斗の魂がこの都で居場所を失うのも心配だからだ。澪は骨壺を抱いて、墓前に一昼夜座り込んだ。幼い日の思い出を、そして胸の内を、優斗にたくさん話した。夜が明けるころ、澪は骨壺を抱き上げ、墓園を後にした。別荘に戻ると、中から艶めいた声が聞こえた。ドアに手をかけたまま、澪は動きが一瞬止まった。数秒ためらってから、彼女はやがて暗証番号を打ち込み、中へ入った。目に飛び込んできたのは荒れ果てていた部屋の中だ。あちこちに衣服が散らばり、引き裂かれたシルクの寝間着が、彼女のいちばん好きなクリスマスツリーに引っかかっている。お気に入りの果物皿には、コンドームの空き箱がいくつも放り込まれていた……部屋には、濃い体臭と香水が混ざり合った匂いがこもっている。梨紗は司の腕に身を預け、全身に刻まれた無数の口づけの痕が艶めかしく浮かぶ。彼女は司の首にしがみつきながら、切なげにその名を繰り返し呼んでいた。「司、最高。すごく気持ちいい」澪は視線を逸らさず、そのまま階段を上がった。死んだ心は、もう痛みを感じない。階下の声はいつまでも続いた。司の機嫌は上々らしく、梨紗が泣き声で許しを請うのが何度も聞こえた。どれほどの時間が過ぎたの
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第8話
司は梨紗に付き添い、美術展へ行った。ゲストとして壇上に立った梨紗は、堂々と語り、晴れやかな自信をまとっていた。視線はしきりに司へと向けられた。いつもの司なら、微笑みで応じていただろう。だがこのときは、胸の奥に理由のないざわめきが広がった。梨紗の顔を見ているはずが、頭に浮かぶのは澪の面影だ。十八歳の澪も、かつては同じように自信に満ち、眩しいほどに輝いていた。彼女はバイオリンを手に、ドイツの首席奏者に真っ向から挑んだ。勝った瞬間には、炎のように彼の胸へ飛び込んできて、凍りついた彼の心身をあたためてくれた。どんな困難に直面しても、澪は笑顔を絶やさず、前向きに立ち向かった。その笑顔には人を巻き込む力があり、司は心が荒れるたびに、彼女を見れば自然と安らげた。彼女の愛は熱くて、大胆だった。好きでないときはきっぱりと拒み、心を寄せるようになってからは一切ためらわず、惜しみなく彼に愛を注いだ。そんな日々の断片を思い出すうちに、司の口元に知らず笑みが灯る。十年の歳月で育まれた絆は、すでに互いの血に溶け込み、断ち切れるはずもなかった。ふいに、胸の奥を締めつけていた得体の知れないざわめきがすっと消えた。自分はただ外で気まぐれに遊んでいるだけ。いずれは必ず彼女のもとへ戻る。彼女は永遠に自分のもの――心配する理由なんてどこにもない。司はふたたび梨紗に目を向け、笑みを深めて手を差し出した。彼女が目を留めた作品は、最後はことごとく司が買い上げた。ご機嫌の梨紗は、家に戻るなり背伸びして司の頬に口づけ、わざとらしく体をすり寄せる。「司、もうクセになっちゃったの。もっと欲しい」そう言って自ら彼の上着を脱がせ、強気な仕草を見せた。これまでは、司はこうした挑発に弱く、梨紗の大胆さを面白がって受け入れてきた。だが今日は、ふいにそれが鬱陶しく思える。司は眉をぴくりと寄せ、彼女の手をつかむ。なぜか今日は胸がざわつき、どうにも気が乗らない。まるで何かが起こりそうな予感にとらわれていた。「どうしたの?」と首をかしげる梨紗。司は梨紗を見つめながらも、ふいに脳裏に浮かんだのは、口を押さえてえずく澪の姿だった。胸の奥が不意に震え、不安がさらに募る。――澪は自分を気持ち悪いと嫌悪している……司は顔を曇らせ、苛立たしげにネクタイを
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第9話
司は澪に、早めに会場に来るようとメッセージを送り、その後は真剣に仕事に取りかかった。宴会場を飾る花々はすべて空輸で取り寄せ、澪の好みに合わせて青のグラデーションで彩られていた。中央には巨大なクリスタルの靴が据えられ、その中には司が澪のために用意した贈り物がぎっしりと詰め込まれている。司は今日という機会に、澪に伝えるつもりだった――自分は彼女のもとへ戻るのだと。澪の幸福そうな顔を思い浮かべると、司は思わず口元をゆるめる。きっと感極まって、泣きながら彼の胸に飛び込んでくるはずだ。やがて出席者は全員そろった。だが、いつまで待っても澪の姿だけが現れない。司の胸に不安と苛立ちが入り混じり、落ち着かなくなる。彼はスマホを取り出して、澪に連絡を入れた。五度、六度とかけても応答はない。送ったメッセージも沈んだまま返事が返ってこない。この十年、澪はいつだって即返信し、電話も鳴ればすぐ出る。連絡が途絶えたことなど一度もなかった。このところの澪の様子を思い返し、司はようやく異変に気づいた。彼女は長らく自分から連絡をしてこず、笑顔も見せなくなり、その瞳は日に日に翳っていった。そしてついには、「離れたい」とまで口にしたのだ。司の心臓が強く跳ね、顔つきがみるみる険しくなる。「家へ行って奥様を迎えてこい」司は冷ややかに命じると、踵を返して上座に腰を下ろし、無言のまま入口を睨み据えた。彼の全身から放たれる冷気に、宴会場は水を打ったように静まり返り、誰一人として息をつくことすらできなかった。司は俯いたまま澪とのチャットを遡った。最後のやり取りは、彼に梨紗を追いかけるのをやめてほしいと願う澪の言葉だった。【司、もうあの子を追いかけないで。怖いの。あなたに捨てられそうで】【司、私じゃ、まだだめなの?】【永遠に置いていかないって言ったよね。ほかの女の人とあなたを分け合いたくない。帰ってきて、お願い】【あなたの好きなパジャマを着たよ。新しい体位も覚えたよ。ちゃんと言うこと聞くから、今夜は帰ってきて、ね?】一言一句がすべて、身を低くした彼女の懇願だった。澪は卑屈なほど慎ましく、細心の気遣いで彼を愛していたのに、司はまるで気づこうともしなかった。司の指先がわずかに丸まり、眉間に深い皺が刻まれる。胸の底の不安は、じわじわと濃くなる
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第10話
画面を見続けて目がひりつくころ、司はようやく、澪は本気で自分を捨てたのだと、遅ればせながら気づいた。苛立ってスマホを放り出し、タバコに火をつけて深く吸い込む。煙が肺に流れ込み、胸の痛みがいっそう増した。澪が本当に自分から離れたなんて、司はどうしても認めたくない。十年ものあいだ、彼女のそばには彼しかいなかった。彼は彼女の生活のすべてだった。彼から離れた彼女に行き場などないはずだ。もしかすると、やり過ぎたせいで、澪は今すぐには許す気になれないのかもしれない。手の中のタバコは燃え尽き、残り火が指先を焼いたが、司は気づきもしなかった。必死に頭を巡らせ、澪の行きそうな場所を探り続ける。そして、次の瞬間、着信音が鳴った。司は慌てて電話を取り、声を整えて言う。「澪、やり過ぎだ。いい加減に帰ってこい」電話口は二秒ほど沈黙した。続いて、秘書の声が聞こえた。「社長、奥様の行方がつかめません。奥様に関する情報はすべて抹消された。普段使いのアプリだけがログイン状態のままです」司の頭に衝撃が走り、雷に打たれたような感覚が全身を駆け抜けた。澪は、本気で跡形もなく消えるつもりなのか?「病院はどうだ?全プラットフォームでライブ配信を立ち上げろ。澪に伝えろ――戻らないなら、彼女の弟の呼吸器を外すから!」司は顔を曇らせ、ほとんど怒号のように吐き捨てた。秘書は怯えて、声を震わせて報告した。「社長……奥様の弟さんは病院にいません。数日前に、亡くなっています」「死んだ?」司はスマホを握りしめ、指の関節が真っ白に浮かび上がる。脳裏にはあの日の病室の光景が勝手に蘇った。――泣きながらすがる澪。呼吸器を外さないで、と。外せば弟は死ぬ、と。弟が死ぬはずがない。新しい機器を手配し、医師にも常に待機して救命の準備をさせていたのだから。――澪も随分腕を上げたものだ。わざわざ仕組んで、彼を騙すつもりだったのか?弟を死んだことにして、自分は戸籍を消して身を隠せば、彼に見つからないと思ったのか?金も権力もある。彼の手は天にまで届く。地獄にでも行かない限り、必ず見つけ出してやる。「本当に、亡くなっています」秘書は司の胸中をうかがうこともできず、ただ恐る恐る答えるしかなかった。「俺に仕えて何年になる?」冷淡さを取り戻した司の声は氷の
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