All Chapters of 西風に散る暮雪、埋もれし初心: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

司はふだん感情を表に出さない。だが、このときばかりは抑えがきかず、どこか取り乱れている。轟音と怒号が響き、オフィスの外にいた事務員は顔色を失った。手にした書類を見下ろし、ノックする勇気が出ない。「それ、私にちょうだい」不意に現れた梨紗が事務員の手から書類を受け取る。「私が中へ持っていくわ。あなたは他の用事を」事務員は救われたようにほっとして、梨紗に一礼した。「芹沢様、ありがとうございます」梨紗は微笑んだ。司から与えられた特権で、会社のどこへでも自由に出入りできる。彼のオフィスに入るのにさえノックは要らない。書類を手に、彼女はそのまま扉を押し開けた。だが、目の前の光景に息を呑んだ。司の顔は土気色にこわばり、血走った目でスマホを射抜くように見据えている。手から滲んだ血が、シャツの袖口を赤く染めていた。「司、何してるの?自虐でも始めたわけ?」梨紗は気持ちを立て直し、いつもの高慢な口ぶりでそう言った。司はその声に顔を向け、冷たい視線を投げた。その鋭さに、梨紗は思わず一歩後ずさる。「昨日の宴会、行くなって言うから、ちゃんと言うこと聞いたわ。でも教えて。澪とはもう離婚してるのに、どうして彼女にサプライズを用意するの?」梨紗は平静を装いながら彼のそばへ歩み寄り、書類を机の上に置いた。「言ったはずよ。私と一緒にいるなら心も体も全部、私だけに向けて。澪みたいな女と同じ男を共有するなんて、私は絶対に受け入れない。あの女にそんな資格はないの。それでもだらだら未練を引きずるなら、私たち、別れよう」怒りに任せて背を向けた梨紗は、司がいつものように慌てて宥めに来るのを待った。これまで何度も「別れる」と口にするたび、彼は決まって動揺していたのだ。だが、その言葉が落ちたあと、オフィスは水を打ったように静まり返った。司は立ち上がった。だが宥めることはせず、冷たい視線で彼女の背中を射抜く。背筋に冷たいものが走り、梨紗は反射的に振り返った――そのまま司の胸にぶつかった。「謝らなくていい、私は……」梨紗の言葉が終わる前に、司の手が彼女の喉を掴んでいた。「お前ごときが、うちの澪と張り合うつもりか?俺が甘やかしてやるから持ち上げられているだけだ。俺が見放せば――お前なんて泥よりも価値がない」淡々とした司の声は氷のように
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第12話

「入れ」司は椅子に身を戻し、入口の方へ体を向けた。血のついた指先を机に置き、見た目は冷ややかだが、胸の奥はざわついている。秘書が入ってきて、室内の光景に一瞬固まった。視線が梨紗をかすめ、手にした資料をきゅっと握りしめた。梨紗はこの場の空気がさらに重くなるのを感じ、心の奥から「早く出ろ」とせき立てられる。耐えきれず、彼女はほとんど駆け出すようにして九条グループのビルを後にした。オフィスの中で、秘書は資料を司に差し出し、無言のまま脇に立った。息を潜め、地面にでも消えてしまいたい心地だった。司は手元の資料を睨みつけ、顔色はますます険しく沈んでいく。充血した目に怒りの火が宿り、指先に力がこもるたび、傷口から新しい血がにじみ出て資料に滴り落ち、赤い染みを広げていった。――澪の弟は、本当に死んでいた。澪は悲しみに打ちひしがれ、彼のために自ら縫った服や編んだマフラーを焼き捨て、思い出の詰まった大切な品々を売り払い、司から贈られた山荘さえ返してしまった……澪は自分の痕跡をすべて消し去り、きっぱりと彼のもとを去ったのだ。司の呼吸は荒くなり、心臓は大きな手に掴まれ潰されるように締めつけられる。資料を握り潰し、額の血管が浮き上がって脈打つ。全身にたぎる怒りは、今にも爆発しそうだった。「梨紗の家族を全員ホテルに連れて来い。それから、澪を苦しめた連中と医者もだ」嵐の前触れのような気配に、秘書は冷や汗を滲ませ、指示を受けるなり、慌てて部屋を飛び出した。司は車を飛ばして墓地へ向かった。弟の墓前には花が供えられている。胸がざわりと波立ち、あたりを見回す。「澪!ここにいるのか?」司は自分の声が激しく震えていることにも気づかなかった。「俺が悪かった。お前を傷つけた。戻ってこい。俺が代わりに仇を討つ」返ってくるのは、風の唸りだけ。司はふらりと体を揺らし、なおも執拗に澪の名を呼び続けた。「もう探しても無駄ですよ。ここにいるのは私だけです。花は私が供えたものです」墓地の係員が歩み寄り、手にした花束を弟の墓碑の前に置く。「碑を立てた人は?その居場所を知っているのか」司が詰め寄ると、係員は首を振った。「高宮さんがいらしたのは一度きりでした。ここで一昼夜、墓を守っていらっしゃいました。帰り際にお金を託されて、『弟はひまわりが好きだから
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第13話

司が手をひらりと振ると、護衛が数人現れ、梨紗の両脇を抱えて立たせ、左右から平手を浴びせた。ほどなく彼女の頬は腫れ上がり、歯が抜け、口元から鮮血が滴り落ちた。気高く取り繕ってきた仮面は維持できず、涙が溢れて、掠れ声で命乞いをする。「もうやめて。お願い、もう殴らないで」「これでわかったか?」司は上座に腰を下ろし、脚を組んだまま、嘲るように彼女を見下ろした。梨紗の身体がびくりと震え、激痛で嘘をつく気力も失せた。「わ、私はあなたを愛してるから、澪を狙ったの。あなたも私を愛してると思ってた。だから二人のために、邪魔を取り除こうとしたのよ」司は怒りに嗤った。「どうやらお前は、状況が見えていないらしいな。お前なんて所詮、俺にとってはただの暇つぶしだ。俺が愛したのは、最初から最後まで澪だけだ」「違う。あなたは私を愛してる。私のために何でもしてくれた。澪とだって離婚して……」司の氷のような眼差しに射抜かれ、梨紗の声はしだいに力を失っていった。司にとって、あの頃の澪は少し言うことを聞かなかったから、ほんの躾のつもりだった――それを、この女は澪を傷つける口実にしたのだ。澪の絶望に満ちた傷ついた瞳を思い出すたび、司の胸は無数の蟻に食い破られるように痛み、体の芯までさらに冷え込んでいった。司はうんざりしたように書類を床へ放り、冷たく言い放つ。「澪が受けた痛みは、倍にして返せ」「やめて、そんなことしないで!司、これは故意の傷害よ、犯罪なの!」梨紗はもがきながら必死に命乞いした。「私が悪かったわ。ほんとに、もう自分の過ちに気づいたの。触らないで、あんたたち触らないで!」梨紗は取り乱し、喉が裂けるほどの声で叫んだ。護衛たちは彼女の命乞いに耳を貸さなかった。冷凍庫から大きな氷を運び出すと、裸のままその上に跪かせた。梨紗は寒さと恐怖に震え、二分とも耐えられずに意識を失った。冷水を浴びせられて叩き起こされ、定められた時間跪かされたのち、階段の前へ引き立てられた。転げ落ちること十回。さらにロビーに引きずられ、籐の鞭で六十回打ち据えられた。梨紗はすでに虫の息だったが、医師が特別な処置を施し、どうにか持ち直させた。――これを、彼女は毎日繰り返させられた。司はさらに、梨紗が纏っていた「不屈のヒロイン」という虚
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第14話

司はうなだれるようにホテルを後にした。彼はホテルの宴会場を閉ざし、あの連中を中に閉じ込めた。澪が許す日まで、毎日ここで終わりのない苦痛を味わわせるつもりだ。あてもなく車を走らせる。窓の外では雪が舞い、ひとひらひとひらが胸に重く落ちてくるようだ。耳の奥で、澪の絶望した声が反響する。「司、どうして私たちの子を助けてくれなかったの?」「この結婚で、私には子どもを望む権利すらないの?」胸の痛みは増すばかりだった。思いも寄らぬほど事態は手の中からこぼれ落ち、感情が制御できなくなる。司はブレーキを踏み抜いて車線の真ん中に車を停め、狂ったようにハンドルを叩きつけた。突然の急停車で、後続車は危うく追突しかけた。クラクションが狂ったように鳴り響くが、司はまるで耳に入らない。車から降りてきて詰め寄ろうとした人も、彼の冷ややかな視線に射すくめられ、足早に引き下がっていった。通報を受けて駆けつけた警察も手の打ちようがなく、脇で交通整理をして他の車を迂回させるしかなかった。どれほどの時間が過ぎただろう。白い雪が車の屋根をすっかり覆いつくすまで、司はなおも動かなかった。彼はいつのまにか意識を失っていた。そのころ澪はロシアを発ち、四回の乗り継ぎを経てドイツへ渡り、人里離れた小さな町に身を落ち着けた。十年も司のそばにいたから、彼のことはよく知っている。過去に彼女が足を運んだ場所を、司が真っ先に当たることはないはずだ。しばらくはここで静かに過ごせると澪は思った。できることなら、梨紗が司の心を縛りつけ、司にもう自分を探さないでいてほしいと澪は願った。これからは互いに別々の道を歩む、遠い他人でありたいと。澪は小さな別荘を一軒買い、好みに合わせて新居を整えた。弟のためにも一部屋を設け、骨壺をそっと据えた。その後、生活用品を買い揃え、冷蔵庫いっぱいに食べ物を詰め込むと、なぜだか胸が晴れやかになった。これからは、ここで新しい暮らしを始められる――彼女はそう思えた。九条家に入ってからというもの、澪には自分の生活などなかった。すべては司に縛られ、彼に依存していたのだ。彼のもとを離れて最初の数年は、決して楽な日々にはならないだろうと、彼女はよくわかっている。学歴も、肩書きも、跡形もなく消えたのだから。荷ほどきを終えた澪は、バイオリンを取り出
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第15話

国内で、司は病院で目を覚ました。刺すように眩しい白に、一瞬意識が揺らいだ。思わず言葉が口をついて出た。「奥様を病院に呼べ」秘書の体がびくりと震え、死人のように顔を青ざめさせてうつむいた。震える声で告げる。「奥様は……もう、いらっしゃいません」その言葉で視界がはっきりし、ここ数日の出来事が一気に脳裏へ押し寄せた。胸の苛立ちは、再び燃え上がる。澪は家を出たのだ。司は医師の制止を振り切って無理やり退院すると、別荘の内装を一からやり直させた。梨紗が足を踏み入れる前の様子へ戻した。澪を探すため、人を動かし続けたが、誰ひとりとして彼女の行方を突き止められなかった。まるでこの世から跡形もなく消えてしまったかのようだった。司は毎日、ただ無気力にオフィスへ通った。どんな案件にも興味を示さず、数十億円規模の案件はためらいもなく手放してしまう。わずかひと月あまりで、会社の資産は何千億円という単位で目減りしていった。このときになって初めて、司は思い知らされた――澪は司なしではいられないのではなく、本当は、司のほうこそ澪なしでは生きていけないのだと。彼は床から天井までの窓越しに空を見上げる。青空に浮かぶ白い雲のひとつひとつが、どれもこれも澪の横顔に見えた。視線は離せず、心はますます空虚さを増していった。司の祖父が財務報告書を手に、怒気をはらんでオフィスに乗り込んできたとき、司はちょうど窓の外をぼんやりと眺めていた。「司!この一か月、何をしていた!会社を引き継ぐ前、俺にどう約束した!」報告書が司の胸に叩きつけられ、司の祖父の目は怒りで見開かれた。「数千億円くらい、また稼げばいいだろう」司は気のない調子で答えた。「愚か者!たかが金にもならん女一人のために、会社を潰す気か!」激昂した司の祖父は手を振り上げた。だが、司の眼差しの底の冷たさを見た瞬間、動きは空中で凍りついた。彼には重々わかっていた。この孫はひとたび逆上すれば、もう何も顧みない。いまや羽根が生えそろい、祖父である自分には、もはや抑え込むことはできないのだ。「おじいさん、彼女は、俺の妻だ」司は表情ひとつ変えず、声色も穏やかだった。だがその響きに、司の祖父は、わけもなく背筋に冷たいものが走った。「お前たちはすでに離婚している。澪にとってお前は、結婚の誓い
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第16話

澪奈(れいな)――澪の新しい戸籍名だった。司は一度目を通しただけで、記された情報をすべて頭に刻みつけた。司は手を放し、踵を返して外へ出る。ちょうどそのとき、押し寄せてきた警官隊と鉢合わせた。彼らは「騒乱行為」の容疑で司を拘束した。司は無反応のまま連行に応じ、警察署へ向かった。道すがら、司は秘書に澪の新しい身元情報を送って、行方の追跡を命じた。司が逮捕されたという知らせは瞬く間に広がり、罪状をめぐる憶測が飛び交う中で、過去のスキャンダルまで掘り返された。――競合相手を違法な手段で圧迫した。――人を不当に監禁し、傷害を負わせた。――不正に利益を貪り、力ずくで奪い取った。さらに、元妻の澪がかつて物乞い同然の境遇にあったことまで暴かれ、加えて卑猥な中傷までが拡散していく。「司に飽きられた女が、弱みを握って逃げた」――そんな物言いまで踊った。ネットは一斉に司の件で沸き立ったが、九条家がすぐに事態を収束させなかったことで、人々は彼が見捨てられたと受け止めた。司への攻撃は激しさを増し、ついには九条グループの株価が急落し、株主たちは甚大な損失を被った。だが司は、そんな世間の騒ぎをまるで気にも留めていなかった。彼は留置場の中で、ただ黙って秘書の調査報告を待ち続けていた。三日目、秘書がようやく知らせを持ち帰った。澪の姿が最後に確認されたのは、ドイツの空港だった。その知らせを聞いた瞬間、司の胸はぱっと晴れ渡った。彼は定められた手続きを済ませ、釈放され、警察署を後にした。出口には記者が押し寄せ、フラッシュが容赦なく焚かれる。矢継ぎ早に質問が飛んでくる。「九条さん、元妻を探しているのは、彼女が重要な証拠を握っているからですか?」「今回の逮捕について、どう説明されますか?一流財閥の御曹司として、その行動の結果を考えたことは?」「九条グループはあなたを切り捨てるのではないですか?」「元妻との離婚には強引な手段を使ったというのは本当ですか?彼女の失踪はあなたと関係があるのですか?」司はふいに足を止め、最後の質問を投げた記者へ冷ややかに一瞥した。記者はびくりと身を震わせ、足元から這い上がるような寒気に襲われ、慌てて人垣から退いた。司の目が、あまりにも恐ろしかった。その後の司は電光石火だった。ネットに中傷を
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第17話

ドイツの小さな町。澪がこの町に来てから、すでに三か月が経った。ここの暮らしにもすっかり馴染み、近所の人とも少しずつ親しくなっていった。その日、声をかけてきたルーカスも実は澪と同じ出身で、再婚した母親とともにこの町へ来たのだという。彼にはハーフの妹、リナがいる。リナは十歳になったばかり。肌は白く、笑うと頬に小さなえくぼがふたつ浮かぶ。彼女はバイオリンが大好きで、澪の演奏に耳を傾けるたび、うっとりと目を細めた。やがて澪はリナにバイオリンを教えるようになり、ルーカスはその時間に合わせて毎日のように顔を出した。ルーカスの澪を見るまなざしは日に日に複雑さを帯び、ときどきぼんやりと彼女を見つめたまま動かなくなる。澪に気づかれると、彼は気恥ずかしそうに頭をかき、口実を作って席を外した。ルーカスは司とはまるで正反対の人だ。朝の陽ざしのような明るさをまとい、そばにいるだけで気持ちが和らぐ。彼と一緒にいると、いつの間にか肩の力が抜けていた。彼の機嫌を探る必要もなければ、急に突き放される心配もない。ましてや、自分を押し殺してまで気を遣う必要もない。この日、リナの練習を終えると、ルーカスがコーヒーを二つ持ってきて、そのうちの一杯を澪に差し出した。「澪奈、バイオリンの教室、やってみない?町でちょうど空き店舗が出てるんだ。君にぴったりだと思う」澪は一瞬きょとんとした。手元の蓄えは、かつて司から投資を学んで自分で増やしたもので、司が渡した二十億円にはいまだ手をつけていない。暮らしに困ることはないが、それでも何かを始めたい気持ちはあった。澪はうなずき、「ええ」と答えた。こうしてルーカスの助けを借り、彼女はその店舗を借りることになった。それからは、ルーカスとリナが毎日のように手伝いに来た。三人は紙で折った作業帽をかぶり、掃除をしたり、壁にペンキで絵を描いたりしていた。澪がうっかりペンキをはねさせ、ルーカスの顔に飛び散った。彼は無意識に手で拭ってしまい、たちまち顔はペンキまみれになった。澪とリナは腹を抱えて大笑いした。遅れて自分の姿に気づいたルーカスは、スマホで顔を確認すると、「よし、リナにも描いてやる」と冗談めかして追いかけた。リナは笑いながら澪の背に隠れ、三人は無邪気にふざけ合い、笑い声が絶えなかった。だが次の瞬間、澪の笑
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第18話

澪はルーカスの背後から一歩踏み出し、司と向き合った。司の胸に、きゅっと鋭い痛みが走る。彼女のまなざしには恐怖だけでなく、うっすらとした嫌悪が混じっているが、愛の気配はもうどこにもなかった。恐ろしい考えが頭をよぎる――昔のおちび乞いは、もう自分を愛していないのではないか。いや、そんなはずはない。ただ怒っているだけだ。司は珍しく傲慢さを抑え、声を和らげた。「話をしよう。説明できることがある」澪がルーカスに視線を送ると、彼はすぐに察し、リナを連れて部屋を出ていった。「外で待ってるから、何かあったら呼んで」澪は小さくうなずき、感謝の意を示した。その様子に、司は顔を曇らせた。彼女が他の男と親しくするのが気に入らない。やがて部屋には、澪と司の二人だけが残った。「九条様、何を話すつもりですか?」澪の声は冷ややかだ。胸の奥がざわつくのを覚えながら、司は言う。「そんな呼び方はやめろ。過去のことは俺が悪かった。梨紗がお前に何をしたか、もう知っている。報いを受けさせた」司は澪に、梨紗の一家がどんな末路を迎えたのかを語った。さらに、これまで彼女を公然だったり、あるいは陰で嘲ってきた者たちも、ことごとく相応の報いを受けたのだと告げた。「澪、お前はずっと子どもが欲しかったよな。帰ったら作ろう。何人でもいい」子どもの話になると、司の声に熱がこもった。「お前さえ戻ってくれれば、やりたいことは何も邪魔しない。これから先、俺のそばにいるのはお前だけだ。梨紗なんて愛していない。ただの遊びだったんだ。お前がそこまで怒るとは思わなかった……」澪は司の独り言をただ静かに聞いていた。心は波立つことなく、すべてが自分とは関係のないことのようだった。ただ「子ども」という言葉に触れた瞬間だけ、胸の奥がちくりと痛んだ。「もうどうでもいいの」澪は彼の言葉を遮り、静かに告げた。「私はすでに手放した。だから、私を放してほしい。もう、あなたを愛していない。たとえ力ずくで連れ戻され、閉じ込められ、極端に言えば殺されても――私の心は、あなたのそばにはいたくない」澪は一語一語を噛みしめるように告げ、その声音は揺るぎなく固かった。司の視線を正面から受け止めても、一歩も退かない。希望に揺れた司の目は、怒りへ、そして最後にはどうしよ
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第19話

司はそのまま、作りかけの教室で一時間も立ち尽くし、ようやく背を向けた。彼の胸中では葛藤が渦巻き、澪を無理に連れて帰るべきか迷い続けている。かつての彼なら、迷わず力ずくで澪を連れ戻しただろう。そばにさえいれば、それでよかった。だが今の彼の胸には、わずかな期待が芽生えていた。昔のように愛を抱いたまま彼の元へ戻ってほしい。そして彼女を幸せにしたい。ふたつの考えが頭の中で言い争い、耳鳴りが止まらない。司は町のバーのひとつに入り、カウンターに強い酒を並べさせ、一杯、また一杯とあおった。焼けるような酒でも、胸の陰りは少しも晴れない。飲めば飲むほど杯は重なり、胸の痛みも深まっていく。司はカウンターのハイチェアにもたれ、乾いた笑いを漏らしながら目を赤く滲ませた。どうしてこんなことになってしまったのか……あれほど愛し合っていたのに。彼女は一歩たりとも離れようとはしなかったのに。なぜ彼は、わざわざその手を放してしまったのか。十年前、彼が街で分家筋の兄弟たちに袋叩きにされていたとき、澪は通報するふりをして彼を救った。彼女の服はぼろぼろだったが、不思議なほど清潔で、瞳はきらきらと輝いていた。その一瞥で、彼は彼女を忘れられなくなった。「物乞いのくせにそんなに小ぎれいで、金はもらえるのか」彼はからかうように言った。彼女は顎をぐっと上げ、不機嫌そうに言い返した。「あなたに関係ないわ。お腹を満たす方法なら自分で見つける。それよりあなたこそ、人に殴られて顔を腫らしてるくせに、よく他人のことに口を出す余裕があるわね」彼が返事をする間もなく、執事が人を連れて迎えに来て、その場を離れることになった。彼女を再び見かけたのは、それから半月後のこと。弟を連れてスーパーから出てきた彼女は、満ち足りたようにお腹をさすっていた。司は思わず笑みをこぼした。やはり賢い子だ。小ぎれいな格好で試食を回れば、腹も満たせて、体裁も保てる。ますます彼女に惹かれ、彼は数日間つけ回し、家へ連れ帰る機会をうかがった。やがて彼女の弟が病に伏した。命の恩を返す名目で、司は彼女と彼女の弟を屋敷へ迎え入れた。それからというもの、彼の退屈だった日々は一変し、色づき始めた。二人は共に歳を重ねていった。彼女は賢く、どんなことでもすぐに身につけてしまう。彼は「ず
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第20話

「社長、どうされましたか……」「澪は、俺と一緒に帰る気がない」司の声はあまりに小さく、ほとんど聞き取れないぐらいだ。秘書の反応は淡々としていた。まるで予想していたかのように、無言のまま脇の椅子へ腰を下ろした。司は秘書に目を向け、眉をひそめて口を開く。「どうすればいい」思いがけない問いかけに、秘書は驚きを隠せなかった。司が彼に意見を求めたのは初めてだった。彼は慌てて立ち上がり、姿勢を正して口を開く。「社長、お気に召さない話かもしれません。しかし、私は八年間ずっとお側で、社長と高宮様の歩みを見てまいりました」秘書はわざと一拍置き、そっと司の顔色をうかがった。怒りの気配がないのを確かめると、言葉を継いだ。「お二人は激しく愛し合い、幾度も荒波を乗り越えてこられました。ですが、穏やかな日常には耐えられなかった。そして、高宮様は去った。もう戻ってはこないでしょう。必要とあれば、私が彼女を力ずくでお連れし、屋敷に閉じ込めることもできます」秘書は視線を落とし、真剣な口調で続ける。「ですが、高宮様が社長の裏切りをお許しになることは、決してございません」司は首を横に振った。「俺は、彼女が自らの意思で戻ってきてほしい」秘書は驚いたように司を見つめたが、やがて思い切って進言した。もう一度、最初から彼女を追いかけ直し、再び恋をさせるしか道はないのだと。その言葉に司の瞳が一気に輝きを取り戻す。彼はすぐに退院の手続きをした。そして、澪の家の隣の別荘を買い取った。澪は、日々不安に怯えて過ごした。いつ司が飛び出してきて、自分を連れ去るのではないかと怯え続けていた。三日が過ぎても、司は姿を見せなかった。澪はようやく胸のつかえを下ろしかけたが、隣家の持ち主が変わっていることに気づいた。そして現れたのは司だった。彼は手作りのチョコレートを載せた皿を差し出し、冷ややかな顔にかすかな笑みを浮かべた。「おちび乞い、お前の大好物だ」澪は一瞬きょとんとした。彼にそう呼ばれたのは、何年ぶりだろう。「澪」や「ダーリン」と呼ばれるよりも、その呼び名のほうが好きだった。あの頃だけは、二人の気持ちがいちばん純粋だったから。「糖分控えてるの。チョコレートなんて、もうとっくに食べない」澪は冷たく言い放ち、そのまま部屋へ引き返し
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