All Chapters of 海霧に沈む斜月: Chapter 11 - Chapter 20

20 Chapters

第11話

誠也は茶を注ぐ手をぴたりと止めた。 「叔父さん、真央は今行方不明です。俺はいまだに既婚の身なんです」 裕香の父の顔に浮かんでいた笑みが瞬時に凍りつき、権力者らしい気の抜けた声で返した。 「海に落ちた者なんて、九割方骨も残らん。まさか見つからないからって、まだ探し続ける気か?」 「探し続けなくても、今の段階で裕香と結婚するのは賢明じゃありません」誠也は急須を置き、真っ直ぐ見据えた。「俺は妻を亡くしたばかりです。こんな時に裕香が嫁いできたら、外でどう言われるか。そんな思いを裕香に背負わせるわけにはいきません」 パーンッ―― 裕香の父が持っていた湯呑を机に叩きつけた。 「誠也、くだらんことを言うな!下々の噂話なんぞにいちいち耳を貸すのか?」彼の笑みは完全に消え、鋭い目つきで睨みつける。「お前はまだ真央のことを気にしてるんだろう。言い訳を並べて裕香をないがしろにして!」 誠也の指先がわずかに震え、喉仏が上下する。 「これは言い訳じゃありません。それに……今は状況が特殊です」 「特殊だと?」裕香の父が冷笑した。「この数年、お前が敵に狙われてきた時、誰が手を下し障害を取り除いた?誰が助けてお前を上へ引き上げた?それを全部忘れたのか?」 誠也は顔を上げ、瞳に冷たい光を宿す。 「阿部家の恩は心に刻んでいます。でも、結婚のことは……譲れない一線があります」 「一線だと!?」裕香の父は完全に怒りを爆発させた。「つまり阿部家に盾突くつもりか!いいだろう!」 言葉を吐き捨てると、裕香の父は勢いよく立ち上がった。 一瞬にして茶席の香りは硝煙の匂いに塗り替えられた。 誠也は黙って座ったまま、彼が袖を払い出て行くのを見送るだけだった。 アシスタントは堪えられず口を開いた。 「前川様、ずっと裕香との結婚を望んでいらっしゃったのでは?今、阿部社長を怒らせては、結婚話が……」 だが誠也はまるで聞こえないかのように立ち上がり、足早に茶室を後にした。 …… その頃、前川グループ。 裕香は秘書の制止も無視し、誠也のオフィスに突入、室内の物を滅茶苦茶に叩き壊していた。 「裕香さん、どうか落ち着いてください!」秘書が慌てて止めるが、全く効果はなかった。 誠也が会社に到着した時、社長室の人々が
Read more

第12話

誠也は思わず息を呑んだ。 「裕香、ナイフを下ろせ!」 裕香は一歩後ずさりし、目に赤みが広がっていく。 「盾の女にすら敵わないなんて、生きてる意味ないでしょ。それに……そのほうが、あんたもっと後悔するんじゃない?」 次の瞬間、刃が振り下ろされようとした瞬間、誠也は飛ぶように駆け寄り、裕香の手からナイフを奪い取ると、彼女を抱きしめた。 裕香はその腕の中で声をあげて泣き出し、泣きながら拳で誠也を叩いた。 「誠也なんて大嫌い!私だけを愛してるって言ったのに……なんで嘘ついたの!」 誠也は彼女の姿を見て、この数日で自分が何をしたのかを思い知らされ、とうとう心が折れた。 「……悪い。俺が悪かった」 「謝られてもいらない!欲しいのは誠也が私を娶ってくれること!」裕香の目は真っ赤に潤む。「私たち、ここまでずっと一緒に歩いてきたんだよ。あと一歩踏み出せば、永遠に一緒になれるのに。もし嫌なら、死んだほうがまし!」 誠也は堪らず、裕香の口を手でふさぎ、荒い声をあげた。 「死ぬなんて二度と口にするな!そんなこと、絶対にさせない」 真央を失った彼だからこそ、もう二度と裕香まで失うわけにはいかなかった。 …… 裕香の強引さに押され、誠也は彼女と結婚式を挙げることを承諾した。 だが裕香が楽しそうにウェディングドレスやリングを選んでいるのに、彼はどうしても心が浮かなかった。 かつてはあれほど待ち望んでいた日だったはずなのに。 ついに想い続けた人を娶れる時が来たはずなのに、胸は少しも高鳴らなかった。 最も大きな理由は…… この期に及んで、まだ真央を忘れられないからだ。 彼は指示を出し、救助隊を毎日大海原に送り出していた。 だが結果はひとつ――真央はもう死んだという現実。 それでも、誠也は決して諦められず、真央はただ見つからないだけだと信じ続けていた。 「誠也、このドレスどうかな?」 更衣室から裕香が現れ、弾む声で評価を求めてきた。 誠也の視線はドレスに落ちた。 だがどういうわけか、瞼の裏に浮かぶのは真央の姿だった。 彼女が自分と結婚したときも、真っ白なウェディングドレスをまとい、澄んだ瞳に自分の姿だけを映していた。 ――【私と結婚してくれる?】 手話でそう問うと、真央は涙を
Read more

第13話

誠也は一瞬ぼうっとしてから、慌てて付き添いの友人を突き飛ばし、よろめきながら控室を飛び出した。 結婚式場では、裕香がバージンロードの先で立ち尽くし、いくら待っても誠也の姿が現れなかった。 彼女は堪えきれずに親友へ問いかけた。 「誠也は?どうしてまだ出てこないの?」 親友も困惑しきりだった。 やがて誠也の付き添いの友人が息を切らして駆け込み、顔を真っ青にして叫ぶ。 「裕香さん、大変!誠也が……逃げた!」 「逃げた?!」 「そ、その……アシスタントが言ってたんだ。真央さんが見つかったって!」 その一言は雷鳴のように裕香の胸に直撃した。 世界がぐらりと揺れ、視界が歪む。 次の瞬間、彼女は勢いよくベールを引きちぎり、瞳は鋭い光を帯びていた。 「車を!すぐに追うのよ!」 …… 一方その頃、雲市郊外のコテージでは、真央が庭でしゃがみ、野良猫に餌をやっていた。 当初は短く滞在するつもりだったが、陽子がどうしても引き止め、給料まで上げてくれたため、結局ここに腰を落ち着けることにした。 あの時別れたきり、智樹とは一度も連絡を取っていない。 隆夫が念を押していた、「あれはただの人助けで、見返りなんていらない」と。 「真央、そのイケメンくんが来てるわよ!」 陽子が慌ただしく駆け込んできた。 「ほら、この前の……えっと、あの阿部……何とかさん!」 言い終わるより早く、ボディガードに囲まれた長身の男が庭へと足を踏み入れた。 真央が顔を上げると、瞳孔が縮む。 そこに立っていたのは、半年前の落ちぶれた姿とはまるで別人の智樹。 仕立てのいいスーツを纏い、堂々とした風貌に変わっていたが、瞳の奥に残る冷ややかさだけは昔のままだった。 理由を考える暇もなく、彼は真央の前に立ち、平静な声で問う。 「どうして俺に連絡しなかった?」 真央は口を開きかけたが、言葉にならない。 代わりに陽子が慌てて場を繕った。 「阿部さん、外は暑いですから、まず中でお掛けください」 家に入り腰を下ろすと、真央は智樹に熱いお茶を差し出し、小さな声で言った。 「小林おじさんが……助けたことにお礼なんていらないって言ったから、私……」 智樹は指先で茶碗の縁をなぞり、目を深くして告げた。 「見返りが要らない
Read more

第14話

「もし君が俺を手伝ってくれるなら、絶対に安全な場所へ連れて行ってやる。誠也には二度と見つからない」 智樹はそう言って一拍置き、「だが嫌なら無理強いはしない。君たちのことには、これ以上口を出さない」と続けた。 そう言い終えると彼は手首の時計をちらりと確認し、立ち上がった動作も凛として急かす気配は微塵もなかった。 「……行きます!」 真央が呼び止めた。その声にほんのかすかな震えが混じっていた。 誠也に無理やり連れ去られるくらいなら、智樹の計画に乗って演じる方がまだましだ。 完全な自由を得られるのなら、こんな屈辱など取るに足らない。 智樹は足を止めたが、何も聞き返さず、静かにうなずいただけだった。 「決まりだな」 誠也が飛び込んできた瞬間、真央の鼓動は雷鼓のように乱れ始めた。 半年ぶりに見る彼は、以前よりやつれていた。 ほとんど扉を蹴破るように乱入し、真央を見た瞬間、その顔から落ち着きという落ち着きは消え失せた。 彼は一気に距離を詰め、彼女を抱きしめた。その力は骨まで食い込むほど強烈だった。 「よかった……生きてたんだ。やっぱり君は生きてると信じてた」 骨の隙間がきしむような痛みに真央は耐え切れず、手を彼の胸に押しつけた。 その声は氷のように冷たい。 「誠也、放して」 拒絶の一言に誠也は息を呑み、動きを止めた。 目を見開きながら、信じられないという表情で呟く。 「真央……?声が……出せるのか?」 真央は真っ直ぐ彼を見つめ、瞳に一片の温もりも宿していなかった。 「ええ。もうずっと前に聴力は戻ってたわ。あの日……あなたの敵が仕掛けた爆発で、死にかけたその時にね」 ドンッと雷鳴に打たれたように、誠也の頭の中は真っ白になった。 「私がなぜ海に飛び込んだか知りたいなら……今一度思い返してみればいい。聴力が戻ってから、あなたが私に何をしてきたのか」 彼女の言葉は鍵のように、誠也の封じ込めていた記憶を開いていく。 退院したばかりの真央を連れて行った競売会。自分の名義で落とした高級ワインを裕香に渡したこと。 仲間たちの前で、「同じベッドで眠るのは苦痛だ」と侮辱したこと。 裕香がほんの少し傷ついただけで、真央を数時間も冷凍庫に閉じ込めたこと。 裕香と一緒にいるため、彼女からの救い
Read more

第15話

「うん、許してあげる」 真央の声はかすかで、瞳には一片の温かさもなく、ただ冷えきった静けさだけが広がっていた。 誠也はその異変に気づくどころか、たちまち喜びに飲み込まれる。 彼はすぐさまアシスタントにプライベートジェットの準備を命じ、真央を都内へ連れ帰ろうと急き立てた。 ところが民宿を出た瞬間、ウエディングドレス姿の人影が突然飛び出し、進路を塞いだ。 髪を乱した裕香は、冷たい刃のような視線を誠也に突き刺す。 「誠也……私に説明してもらえる?どういうつもり?」 言葉は途切れ、裕香の視線が鋭く真央に向けられる。 悔しさと恨みが入り混じった声が吐き出された。 「彼女のために結婚式から逃げて、雲市まで探しに来たのよね?そしてまた彼女を都内に連れ戻して、よりを戻そうっていうの?」 誠也は裕香が追ってくるとは全く予想していなかった。 条件反射のように真央の手を握りしめる。 「ごめん、裕香……どうしても真央のことを忘れられないんだ。彼女が姿を消してから、毎日が苦しくてたまらなかった……」 「どうして!」 裕香は突然、喉を裂くような悲鳴をあげ、涙がとめどなく頬を伝った。 「誠也!どうして私にこんな仕打ちをするの!何年も一緒にいたのに……ずっと私だけを愛してるって言ったじゃない!それなのに、なんで真央のせいでこんな風になるの!」 裕香の崩れ落ちそうな姿を見つめ、真央の胸には複雑な感情が押し寄せてくる。 はっきりと理解してしまった。 誠也の薄情さは、決して誰か一人に向けられたものではない。彼の心の中には、常に彼自身しかいなかったのだ。「もし今日、彼女を連れて行くなら……私はここから飛び込む!」 裕香は近くの激しい流れの川を指差した。 彼女のまなざしには、もはや後がない決死の覚悟が滲んでいた。 「真央が死んだとき、あなたは狂ったみたいに泣き叫んでたわよね。結局あなたの心には、死んだ人間だけが価値があるってことなんでしょ?」 「裕香、落ち着け!」 誠也は眉を深く寄せた。 「俺は彼女がいなくなったから特別に思ってるわけじゃないんだ。三年間一緒に過ごすうちに、気付いたら……好きになってたんだ」 その言葉を聞いた瞬間、裕香の目は深い絶望の色に染まる。 すぐに彼女は自嘲のように笑いだした
Read more

第16話

コンピュータのデータはすぐに智樹の手元へと同期された。 同じ頃、真央の携帯に智樹からのメッセージが届く。 【よくやった。あとはチャンスを見つけて、裕香が持ち歩いているパソコンにUSBを差し込むだけだ。そうすれば任務は完了だ】 真央は唇を噛み、たまらず問い返した。 【任務が終わったあと、私をどう助けてくれるの?】 智樹はためらわず答える。 【新しい身分を用意する。それでも不安なら、阿部グループに来ればいい。俺の手の届く範囲にいれば、あいつは君に一指も触れられない】 その言葉を目にした瞬間、真央の胸に張り詰めていた不安がようやく緩んだ。 …… 真央が初めて動いた時、誠也は何ひとつ怪しむ素振りを見せなかった。 彼女が裕香にどう接近すべきか考えていた矢先、まるで天からの機会が降ってきた。 その日、誠也は彼女を呼んで言った。 「真央、都内で一番大きい西山霊園に、君の外祖母のために最高の区画を取っておいた。明日一緒に行って、ちゃんと安置しよう」 真央はその言葉に、かすかな苦笑を浮かべる。 「おばあちゃんの遺骨は手元にないのよ。どうやって安置するの?」 「有名な僧侶に頼んである。法事をして、魂を位牌に呼び込めるようにしてくださるんだ」 誠也は彼女の腰に手を回し、柔らかな声で囁いた。 「真央、もう一度チャンスをくれてありがとう。これからは、君を世界一幸せな女にしてみせる」 真央は瞳の奥に浮かんだ嘲笑を伏せると、そっと彼の腕に指先を添え、力の抜けた声で答えた。 「信じてるよ」 翌朝、誠也は真央を連れて西山霊園へ向かった。 真央は傍らで、ぼんやりと僧侶が神木の剣を振り回しながら呪文を唱える姿を眺めていた。誠也が空っぽの骨壺を墓石の下に収める様子さえ、どこか他人事のように眺めているだけ。心の中には一片の感情もなく、退屈な芝居を眺めているかのようだった。 儀式を終えると、誠也は墓石の前にひざまずき、過去への懺悔を口にした。 全てが終わったあと、真央は彼に尋ねる。 「誠也、療養院にもう一度連れて行ってくれない?」 「療養院?なんのために?」 「この数日ずっと夢を見るの。おばあちゃんが療養院にいた頃の夢……もう一度だけ、あの部屋に行きたいの。ほんの少しでいい、もう一度だけ見ておきたい」
Read more

第17話

「助け……んぐっ!」助けを呼ぶ声が出る前に、裕香の後ろ首に手刀が打ち込まれ、そのまま意識を失った。 真央は周囲を見回し、部屋のノートパソコンを見つけると、素早くUSBを差し込んだ。 わずかな時間でデータは転送を終える。 今回、システムが攻撃されたという知らせは、すぐに誠也の耳に入った。阿部グループと前川グループは深い協力関係にある。今、阿部グループが攻撃を受けたことで、前川グループも当然、巻き添えを食った。誠也の眉間が鋭く寄せられる。真央に「急な社の用事で戻らないといけない」と告げようとしたが、ドアを開けると部屋はもぬけの殻。ベランダの欄干には、下に垂れ下がるロープが結び付けられていた。 誠也の目が一瞬鋭く光り、部下に命じた。 「すぐに療養院を封鎖しろ。誰一人出入りさせるな!」 真央が誠也の部下に捕まったとき、その表情には死を覚悟した決意が浮かんでいた。 誠也が裕香のパソコンに差し込まれたUSBを見て、一瞬で全てを理解した。 「真央、なぜだ……?俺とちゃんとやっていくって約束しただろ?どうしてこんなことを?それに……誰に命じられた?」 真央は突然、冷たい笑みを漏らす。 「誠也、本気で私があんたを許したと思ってるの?」 誠也の指先が震え、心臓を誰かに鷲掴みにされたような痛みが走る。 「私は許してなんかない。むしろ骨の髄まで憎んでる!」真央の目は血走り、憎悪に染まっていた。「もしあんたがいなけりゃ、私はあんな苦しみを味わうこともなかった!あの漁村で死んでた方がマシだったわ。少なくとも、あんたに一度は天国に持ち上げられてから地獄に突き落とされるよりは…… 外祖母の前で土下座して懺悔したあんたの姿……あれほど滑稽なものはなかった!」 真央の目には涙が滲み、体は震え止まらない。積もり積もった感情が、今一気に噴き出す。 「三年前、私の外祖母が拉致された時、あんたはどこにいた?そして、彼女がなぜ拉致されたか知ってる? オークションであんたが即決で高いワインを落札したって噂が出回った。誘拐犯どもは、私のためなら金を惜しまないと思って、外祖母を連れ去った。たった1億円なら、迷わず払うだろうってね 結局、彼らは金を手に入れられなかった。だから、私の外祖母を殺しただけでなく、現場には彼女の血
Read more

第18話

誠也はその言葉を聞いた瞬間、頭が割れるように痛んだ。 彼は、この間の埋め合わせによって、真央が本当に自分を許してくれたのだと確信していた。彼は密かに計画も立てていた。二人の子供を育て、世界一周の旅に出て、この世の美しい景色を一緒に見て回ると。 けれど、結局それはただの一方的な幻想だったのだ。 誠也は力なく首を振り、どうしても隠しきれないかすれた声で言った。 「いや、俺が君を殺せるわけない。君が俺を騙したとしても、それは俺が当然受けるべき報いだ。気にしない。真央、家に帰ろう……」「彼女を連れて行きたいだと?だったら、俺を乗り越えてからにしろ」背後の扉がバンッと開き、智樹が黒服の男たちを連れて堂々と踏み込んできた。 その顔を見た瞬間、誠也の胸が重く沈む。 智樹が絡んでいるとは予想していた。しかし、これほどあからさまに自分の縄張りへ踏み込んでくるとは思わなかった。 「智樹、これは俺たち夫婦の問題だ。お前が口出しすることじゃないだろ」 誠也の声は冷たく、全身から張り詰めた気迫がにじみ出ていた。 智樹は冷たい目で彼をさっと見やり、声には何の感情もこもっていなかった。「本来なら関係ないさ。だが、お前が庇い続けてきた裕香は、俺の家を滅ぼした元凶だ。お前が彼女をかばうってことは、俺にとっては半分は仇みたいなもんだな」 彼に言われ、誠也は裕香に異母兄がいたことを思い出した。彼はずいぶん前に家族内の権力争いで阿部家を追い出され、それ以来行方知れずになっていた。まさか、それが智樹だったとは! 「安心しろ。俺は筋は通す。阿部家が俺に負った借りは、阿部家自身に返してもらう。でも真央は……」 智樹の視線が真央に移る。 「俺は彼女を連れて行くと約束した。だから、必ず連れて行く」 「ふざけるな!彼女は俺の妻だ。お雨に連れ去る資格なんてない!」 「資格があるかどうかは、俺の腕次第だろ」 智樹は冷笑を浮かべ、イヤホンに低い声で言った。 「やれ」 次の瞬間、窓の外から無数の足音が鳴り響く。 誠也の瞳孔がギュッと縮む。 今や彼はビジネス界で絶大な権力を誇り、療養院の周囲には幾重にも監視の目が張り巡らされていた。それを突破し、外部の援軍まで遮断するとは……智樹が周到に仕込みを終えていた証拠だ。 誠也が
Read more

第19話

真央は智樹に連れ去られた後、まるで蒸発したかのように行方知れずとなり、誠也がいくら探しても、手がかり一つ見つからなかった。誠也は深い苦しみに沈み、毎日酒に溺れて心を麻痺させ、会社の仕事さえ放り出してしまった。 この自暴自棄な状態は、内部に潜んでいたスパイに付け入る隙を与えた。やがて前川グループは大きな危機に陥り、これまで障害を取り除いて守ってくれていた阿部グループも、もはや助けの手を差し伸べることはできなかった。 極秘情報の流出が原因で、阿部グループの株価は暴落し、瞬く間に倒産寸前まで追い込まれてしまったのだ。 裕香は一夜にして裏切りに遭い、家が没落して精神も崩壊。すっかり錯乱し、挙動不審になってしまった。 ある時には裸のままで狂ったように外へ飛び出し、通行人に写真を撮られてネットに拡散され、世間の話題をさらったことすらあった。 誠也はもはやすべてに向き合うことができず、手にしていた権力を完全に手放すと、たった一人で遠洋クルーザーに乗り込み、あてもなく海へ漕ぎ出していった。 誰も行き先を知らない。もしかすると彼自身さえ、航海の果てがどこなのか分かっていなかったのかもしれない。 …… その頃、真央は智樹に連れられ、A国へと渡っていた。 彼の手配で新たな身分を与えられ、聴覚障害者を教える学校の教師として働き始める。 都内でのあの争いを思い返すと、それは荒唐無稽な旧夢のようで、まるで前世の出来事のように遠く感じられた。 ある日、智樹が彼女を訪ねてきて、学校の増築を祝うため全教師を招いて食事会を開くと知らせてきた。 真央はそれをただの同僚との食事会だと思い、素直に了承する。 だが約束のレストランに着き、個室の扉を開けた瞬間、彼女は言葉を失った。 そこに座っていたのは、陽子と隆夫だったのだ。 その時ようやく悟る。これは単なる同僚の集まりではなく、智樹がわざわざ用意した場だったのだと。 「真央!久しぶり!会いたかったよ!」 陽子は先に立ち上がり、勢いよく彼女を抱きしめた。 「元気そうじゃない?ここでの暮らし、どう?」 「うん、落ち着いてるし、とても安定してるよ」 真央は笑いながら抱擁を返し、横にいる人物へ視線を向けた。 「小林おじさんも一緒だったんですね?」 「ああ。智樹がわざわざ
Read more

第20話

陽子の言葉に、真央はそれ以上は何も言わず、ただぱちりと瞬きをして、意味ありげに笑った。 「恋愛って一番理屈じゃ説明できないものよ。見てなさい、智樹はきっと動くから」 当時の真央は、それを軽口の冗談と受け取り、真面目に受け止めなかった。 ところが、半月ほど経ったある日、本当に智樹からメッセージが届いたのだ。 評判の良い映画が公開されたから、一緒に観に行かないかという誘いだった。 真央はスマホの画面を前に数秒ためらった。これまで何度も世話になってきたのに、断るのも不自然に思え、結局「いいよ」と返事をした。 だが、映画館に着いた彼女は驚かされることになる。 上映ホールには、二人しかいなかったのだ。 さらに予想外の展開は、映画が終盤に差し掛かった時に訪れた。 エンドロールが流れるはずの場面で字幕は突然途切れ、スクリーンには不気味で見知らぬ映像が映し出された。 カメラは地面に固定され、レンズは木の扉の細い隙間を捉えていた。 「これ……何?」真央は眉を寄せ、隣に座る智樹を見やった。 智樹は答えを急がず、低く囁いた。 「続けて見れば分かる」 次の瞬間、映像の中に見覚えのある姿が現れた。 白いトレーを手にした人物が扉の前にやって来て、そっと腰を下ろすと、食事をトレーごと隙間から中に差し込み、足音を忍ばせて立ち去った。 その光景に、真央の息が止まった。 白いワンピースを着たあの少女――それは、間違いなく自分自身だった。 映像の中の「彼女」は、七日間にわたり、毎日同じ時刻に扉の前に現れては、食事を置き、ただ黙って帰っていった。 一度たりとも余計な言葉や行動はしなかった。 やがて画面は完全に暗転し、真央は震える声を漏らした。 「どうして……この映像を持っているの?」 智樹は真央を見据え、目を逸らさずに答えた。 「当時、あの小屋に閉じ込められていたのは……俺だったんだ」 その一言は、雷鳴のように真央の胸を打った。 かつて誠也と結婚したばかりの頃、彼に連れられて一週間だけ滞在した別荘の記憶が蘇った。 あの別荘の片隅には古びた小屋があり、そこには誰かが閉じ込められていた。 小屋は粗末で、使用人が運ぶのは冷めた食べ残しばかり。 彼女はその姿を気の毒に思い、そしてかつて漁村で虐げられてい
Read more
PREV
12
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status