LOGIN嫁いでからの三年間で、谷口真央(たにぐち まお)は前川誠也(まえかわ せいや)の敵に六十八回も暗殺されかけた。 川に沈められそうになったり、放火されたり、ナイフで襲われたり…… それもすべて、誠也が都内の裏社会のトップにのぼり詰めるため、数えきれないほどの敵を作ってきたからだ。 そして彼らは真央こそ誠也の弱点だと信じ込み、容赦なく狙ってきた。 死の淵から這い戻る度に、誠也は真央を強く抱きしめ、目を赤く潤ませ、震える手で手話を打った。 【俺が無能だからだ。君を守り切れなくて】 そして、最後の襲撃が起こった。真央は敵に石油タンクの隣に縛られ、爆発に巻き込まれて瀕死の状態になった。 病院で目を覚ましたとき、奇跡的に聴力を取り戻しており、耳に飛び込んできたのは、誠也と仲間の会話だった。 「昔、裕香が敵に拉致されたとき、お前は彼女を守るためにわざと縁を切ったように見せかけて、代わりに真央っていう耳の聞こえない娘を嫁に迎えた。しかも徹底的に甘やかして、街中が『誠也の一番は真央』だと信じるように仕向けて……その結果、敵は真央を狙うようになり、彼女は何度もお前の代わりに矢面に立ってきた。 誠也……そこまでするのは、あまりにも残酷じゃないか?」
View More陽子の言葉に、真央はそれ以上は何も言わず、ただぱちりと瞬きをして、意味ありげに笑った。 「恋愛って一番理屈じゃ説明できないものよ。見てなさい、智樹はきっと動くから」 当時の真央は、それを軽口の冗談と受け取り、真面目に受け止めなかった。 ところが、半月ほど経ったある日、本当に智樹からメッセージが届いたのだ。 評判の良い映画が公開されたから、一緒に観に行かないかという誘いだった。 真央はスマホの画面を前に数秒ためらった。これまで何度も世話になってきたのに、断るのも不自然に思え、結局「いいよ」と返事をした。 だが、映画館に着いた彼女は驚かされることになる。 上映ホールには、二人しかいなかったのだ。 さらに予想外の展開は、映画が終盤に差し掛かった時に訪れた。 エンドロールが流れるはずの場面で字幕は突然途切れ、スクリーンには不気味で見知らぬ映像が映し出された。 カメラは地面に固定され、レンズは木の扉の細い隙間を捉えていた。 「これ……何?」真央は眉を寄せ、隣に座る智樹を見やった。 智樹は答えを急がず、低く囁いた。 「続けて見れば分かる」 次の瞬間、映像の中に見覚えのある姿が現れた。 白いトレーを手にした人物が扉の前にやって来て、そっと腰を下ろすと、食事をトレーごと隙間から中に差し込み、足音を忍ばせて立ち去った。 その光景に、真央の息が止まった。 白いワンピースを着たあの少女――それは、間違いなく自分自身だった。 映像の中の「彼女」は、七日間にわたり、毎日同じ時刻に扉の前に現れては、食事を置き、ただ黙って帰っていった。 一度たりとも余計な言葉や行動はしなかった。 やがて画面は完全に暗転し、真央は震える声を漏らした。 「どうして……この映像を持っているの?」 智樹は真央を見据え、目を逸らさずに答えた。 「当時、あの小屋に閉じ込められていたのは……俺だったんだ」 その一言は、雷鳴のように真央の胸を打った。 かつて誠也と結婚したばかりの頃、彼に連れられて一週間だけ滞在した別荘の記憶が蘇った。 あの別荘の片隅には古びた小屋があり、そこには誰かが閉じ込められていた。 小屋は粗末で、使用人が運ぶのは冷めた食べ残しばかり。 彼女はその姿を気の毒に思い、そしてかつて漁村で虐げられてい
真央は智樹に連れ去られた後、まるで蒸発したかのように行方知れずとなり、誠也がいくら探しても、手がかり一つ見つからなかった。誠也は深い苦しみに沈み、毎日酒に溺れて心を麻痺させ、会社の仕事さえ放り出してしまった。 この自暴自棄な状態は、内部に潜んでいたスパイに付け入る隙を与えた。やがて前川グループは大きな危機に陥り、これまで障害を取り除いて守ってくれていた阿部グループも、もはや助けの手を差し伸べることはできなかった。 極秘情報の流出が原因で、阿部グループの株価は暴落し、瞬く間に倒産寸前まで追い込まれてしまったのだ。 裕香は一夜にして裏切りに遭い、家が没落して精神も崩壊。すっかり錯乱し、挙動不審になってしまった。 ある時には裸のままで狂ったように外へ飛び出し、通行人に写真を撮られてネットに拡散され、世間の話題をさらったことすらあった。 誠也はもはやすべてに向き合うことができず、手にしていた権力を完全に手放すと、たった一人で遠洋クルーザーに乗り込み、あてもなく海へ漕ぎ出していった。 誰も行き先を知らない。もしかすると彼自身さえ、航海の果てがどこなのか分かっていなかったのかもしれない。 …… その頃、真央は智樹に連れられ、A国へと渡っていた。 彼の手配で新たな身分を与えられ、聴覚障害者を教える学校の教師として働き始める。 都内でのあの争いを思い返すと、それは荒唐無稽な旧夢のようで、まるで前世の出来事のように遠く感じられた。 ある日、智樹が彼女を訪ねてきて、学校の増築を祝うため全教師を招いて食事会を開くと知らせてきた。 真央はそれをただの同僚との食事会だと思い、素直に了承する。 だが約束のレストランに着き、個室の扉を開けた瞬間、彼女は言葉を失った。 そこに座っていたのは、陽子と隆夫だったのだ。 その時ようやく悟る。これは単なる同僚の集まりではなく、智樹がわざわざ用意した場だったのだと。 「真央!久しぶり!会いたかったよ!」 陽子は先に立ち上がり、勢いよく彼女を抱きしめた。 「元気そうじゃない?ここでの暮らし、どう?」 「うん、落ち着いてるし、とても安定してるよ」 真央は笑いながら抱擁を返し、横にいる人物へ視線を向けた。 「小林おじさんも一緒だったんですね?」 「ああ。智樹がわざわざ
誠也はその言葉を聞いた瞬間、頭が割れるように痛んだ。 彼は、この間の埋め合わせによって、真央が本当に自分を許してくれたのだと確信していた。彼は密かに計画も立てていた。二人の子供を育て、世界一周の旅に出て、この世の美しい景色を一緒に見て回ると。 けれど、結局それはただの一方的な幻想だったのだ。 誠也は力なく首を振り、どうしても隠しきれないかすれた声で言った。 「いや、俺が君を殺せるわけない。君が俺を騙したとしても、それは俺が当然受けるべき報いだ。気にしない。真央、家に帰ろう……」「彼女を連れて行きたいだと?だったら、俺を乗り越えてからにしろ」背後の扉がバンッと開き、智樹が黒服の男たちを連れて堂々と踏み込んできた。 その顔を見た瞬間、誠也の胸が重く沈む。 智樹が絡んでいるとは予想していた。しかし、これほどあからさまに自分の縄張りへ踏み込んでくるとは思わなかった。 「智樹、これは俺たち夫婦の問題だ。お前が口出しすることじゃないだろ」 誠也の声は冷たく、全身から張り詰めた気迫がにじみ出ていた。 智樹は冷たい目で彼をさっと見やり、声には何の感情もこもっていなかった。「本来なら関係ないさ。だが、お前が庇い続けてきた裕香は、俺の家を滅ぼした元凶だ。お前が彼女をかばうってことは、俺にとっては半分は仇みたいなもんだな」 彼に言われ、誠也は裕香に異母兄がいたことを思い出した。彼はずいぶん前に家族内の権力争いで阿部家を追い出され、それ以来行方知れずになっていた。まさか、それが智樹だったとは! 「安心しろ。俺は筋は通す。阿部家が俺に負った借りは、阿部家自身に返してもらう。でも真央は……」 智樹の視線が真央に移る。 「俺は彼女を連れて行くと約束した。だから、必ず連れて行く」 「ふざけるな!彼女は俺の妻だ。お雨に連れ去る資格なんてない!」 「資格があるかどうかは、俺の腕次第だろ」 智樹は冷笑を浮かべ、イヤホンに低い声で言った。 「やれ」 次の瞬間、窓の外から無数の足音が鳴り響く。 誠也の瞳孔がギュッと縮む。 今や彼はビジネス界で絶大な権力を誇り、療養院の周囲には幾重にも監視の目が張り巡らされていた。それを突破し、外部の援軍まで遮断するとは……智樹が周到に仕込みを終えていた証拠だ。 誠也が
「助け……んぐっ!」助けを呼ぶ声が出る前に、裕香の後ろ首に手刀が打ち込まれ、そのまま意識を失った。 真央は周囲を見回し、部屋のノートパソコンを見つけると、素早くUSBを差し込んだ。 わずかな時間でデータは転送を終える。 今回、システムが攻撃されたという知らせは、すぐに誠也の耳に入った。阿部グループと前川グループは深い協力関係にある。今、阿部グループが攻撃を受けたことで、前川グループも当然、巻き添えを食った。誠也の眉間が鋭く寄せられる。真央に「急な社の用事で戻らないといけない」と告げようとしたが、ドアを開けると部屋はもぬけの殻。ベランダの欄干には、下に垂れ下がるロープが結び付けられていた。 誠也の目が一瞬鋭く光り、部下に命じた。 「すぐに療養院を封鎖しろ。誰一人出入りさせるな!」 真央が誠也の部下に捕まったとき、その表情には死を覚悟した決意が浮かんでいた。 誠也が裕香のパソコンに差し込まれたUSBを見て、一瞬で全てを理解した。 「真央、なぜだ……?俺とちゃんとやっていくって約束しただろ?どうしてこんなことを?それに……誰に命じられた?」 真央は突然、冷たい笑みを漏らす。 「誠也、本気で私があんたを許したと思ってるの?」 誠也の指先が震え、心臓を誰かに鷲掴みにされたような痛みが走る。 「私は許してなんかない。むしろ骨の髄まで憎んでる!」真央の目は血走り、憎悪に染まっていた。「もしあんたがいなけりゃ、私はあんな苦しみを味わうこともなかった!あの漁村で死んでた方がマシだったわ。少なくとも、あんたに一度は天国に持ち上げられてから地獄に突き落とされるよりは…… 外祖母の前で土下座して懺悔したあんたの姿……あれほど滑稽なものはなかった!」 真央の目には涙が滲み、体は震え止まらない。積もり積もった感情が、今一気に噴き出す。 「三年前、私の外祖母が拉致された時、あんたはどこにいた?そして、彼女がなぜ拉致されたか知ってる? オークションであんたが即決で高いワインを落札したって噂が出回った。誘拐犯どもは、私のためなら金を惜しまないと思って、外祖母を連れ去った。たった1億円なら、迷わず払うだろうってね 結局、彼らは金を手に入れられなかった。だから、私の外祖母を殺しただけでなく、現場には彼女の血
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