All Chapters of 海霧に沈む斜月: Chapter 1 - Chapter 10

20 Chapters

第1話

嫁いでからの三年間で、谷口真央(たにぐち まお)は前川誠也(まえかわ せいや)の敵に六十八回も暗殺されかけた。 川に沈められそうになったり、放火されたり、ナイフで襲われたり…… それもすべて、誠也が都内の裏社会のトップにのぼり詰めるため、数えきれないほどの敵を作ってきたからだ。 そして彼らは真央こそ誠也の弱点だと信じ込み、容赦なく狙ってきた。 死の淵から這い戻る度に、誠也は真央を強く抱きしめ、目を赤く潤ませ、震える手で手話を打った。【俺が無能だからだ。君を守り切れなくて】 真央は彼の涙を拭い、同じく手話で答える。【私はあなたの妻よ。一緒に立ち向かうのは当然のこと】 そして、最後の襲撃が起こった。真央は敵に石油タンクの隣に縛られ、爆発に巻き込まれて瀕死の状態になった。病院で目を覚ましたとき、奇跡的に聴力を取り戻しており、耳に飛び込んできたのは、誠也と仲間の会話だった。 「昔、裕香が敵に拉致されたとき、お前は彼女を守るためにわざと縁を切ったように見せかけて、代わりに真央っていう耳の聞こえない娘を嫁に迎えた。しかも徹底的に甘やかして、街中が『誠也の一番は真央』だと信じるように仕向けて……その結果、敵は真央を狙うようになり、彼女は何度もお前の代わりに矢面に立ってきた。 誠也……そこまでするのは、あまりにも残酷じゃないか?」 誠也は少し黙り、低く答えた。 「もし俺があの時、彼女を漁村から連れ出さなければ、今も貧しい親戚にいじめ抜かれてたんだ。俺は彼女に愛を与え、数えきれない財を与えた。裕香を守るためにその程度の苦痛を背負うのは、真央の務めだ」 仲間が眉をひそめる。「でも本当に命を落としたらどうするんだ?」 「構わん」誠也は気だるげに言い放つ。「俺の妻の座は、いつだって欲しがる女が山ほどいる」 その言葉を耳にした途端、真央の頭の中で轟音が響き渡り、全身の血が一瞬で凍りついた。 ――三年前。 前川グループが漁村に進出したあの日、真央は初めて誠也を見た。 黒いスーツを完璧に着こなし、長身に整った顔立ちの男は、村の幹部と小声で話していた。 そのとき大波が押し寄せ、礁に立っていた誠也はバランスを崩して海に落ちた。 真央は迷うことなく飛び込み、必死に冷たい海水から彼を救い上げた。 後日、
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第2話

真央は病院に三日間入院していた。 彼女は聴力が戻ったことを隠し、毎日誰もいない時を見計らって、こっそり発声の練習をしていた。 普通に話せるようになって最初にしたことは、小林隆夫(こばやし たかお)に電話をかけることだった。 隆夫は漁村の古い漁師で、彼女に唯一、優しくしてくれた人でもあった。 あの頃、叔父に殴られて全身傷だらけになり、海辺のボロ小屋で縮こまりながら今にも力尽きそうだった時、隆夫が温かいお粥を持ってきてくれて、彼女を死の淵から引き戻してくれたのだ。 電話が繋がると、真央はかすれた声で口を開いた。 「小林おじさん、私です、真央」 「真央?君……しゃべれるようになったのか?」 真央は説明する時間もなく、単刀直入に言った。 「小林おじさん、私、都内から出たいんです。七日後、療養院に行って祖母を連れ出してくれませんか?その後、海で待っていただけませんか。その時は、どうにかして私もそちらへ行きます」 言い終わると同時に、廊下から足音が響いた。 真央は心臓が締め付けられ、急いで電話を切った。誠也が病室に入ってきた時、その目には一瞬小さな疑いが浮かんでいた。 【今、人の声がしたような?】 真央は心臓が止まりそうになりながら、平静を装って答えた。 【動画を見ていただけよ】 誠也はそれ以上追及せず、彼女の携帯を布団に押し戻すように置くと告げた。 【真央、今夜、俺は重要なパーティに出席しなきゃならない。一人で病室に置いておくのは心配だから、一緒に来い】 真央は拒否できなかった。下手に疑われるのは危険だと分かっていたから、頷いて従うしかなかった。 …… その夜のパーティには多くの名士が集まっていた。 真央は誠也のそばに立ち、来客たちが彼女の幸運を褒め称えるのを耳にした。何もない人間が、誠也のような才能ある男性に掌の上で大切にされていると。しかし、それがどういう意味を持つのか、真央本人だけが痛いほど知っていた。 その時、主催者側の人間が豪華な包装のワインを抱えて壇上に上がった。 「こちらはエアールワイナリーの新作、限定のヴィンテージです。世界に一本きり。開始価格は八千万円」 言葉が落ちると同時に、人混みから一人の女性が優雅に現れた。 裕香。真紅のドレスに鮮やかな化粧。手
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第3話

真央は一瞬、息が詰まり、胸の奥が重く痛んだ。 彼女の脳裏に浮かんだのは、誠也がかつてプロポーズしてきた日のこと。 あの時、彼女は自分が彼に釣り合わないのではないかと怯え、すぐには答えられなかった。 その晩、誠也は彼女を路地裏の屋台に連れて行き、こう告げたのだ――【真央、俺は君の出自なんか気にしない。できれば、君の生活に入っていきたい】 その時の真央は、本気で思い込んでいた。ようやく自分の境遇を嫌がらない人と出会えた、と。彼女はその感情を何よりの恩恵だと信じて疑わなかった。 だが今になってやっと気づく。誠也の「受け入れ」は全部偽りだ。 彼は骨の髄から彼女を見下していたのだ。 …… パーティーが終わった後、誠也は真央を連れて、気の置けない仲間たちと夕食へ向かった。 だがそこで――裕香の姿があった。 外に目がなければ、わざわざ芝居を続ける必要もない。 「誠也、私のために一気に10億円なんて、少し大げさじゃない?」 裕香の言葉に、仲間がすぐに乗る。 「何が大げさなもんか!誠也の気持ちは10億円どころじゃねぇよ!命差し出せって言われりゃ、喜んで渡すさ!」 「その通りだよ!だいたい、誠也ほど目が肥えてる男が、どうして三年もあの耳の聞こえない女と恋愛ごっこできたと思う?」 「知らなかっただろう。あの耳の聞こえない女と結婚したばかりの頃、彼はどれだけ苦しんだか。彼女からはどうしても消えない魚の生臭い匂いがするから、あの1ヶ月間、彼は会社に泊まっていたんだ……」その言葉を聞いた真央の瞳は大きく震え、両手でスカートを強く握りしめ、表情を保つのがやっとだった。彼女ははっきり覚えている。結婚したての頃、誠也が一ヶ月も出張に出たこと。 画面越しに、彼はわざわざ覚えたばかりの手話を使い、愛しげに笑っていたのだ。 【真央、俺のこと恋しいか? 仕事が本当に手一杯で……落ち着いたら、必ず埋め合わせするから 今すぐ君のところに飛んでいって、抱きしめたい……】 その頃の真央は、まさか彼が「忙しい」以外の理由で離れているなんて、夢にも思わなかった。 ……その時、給仕が最高級の生牡蠣を何皿か運んできた。 その瞬間、真央の顔色は真っ白に変わった。 彼女は決して忘れられない。 あの日、両親が漁に出て、突然の
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第4話

操りやすくて、しぶとい…… これが誠也が彼女を選んだ理由なのか? 真央の心は粉々に潰され、鋭い痛みに覆われた。 けれど痛み以上に、恐怖が強く押し寄せる。 聞こえなかったあの数日間に、誠也とその仲間たちは、どれほど彼女の尊厳を踏みにじる言葉を吐いていたのだろうか。 表向きは笑顔を向けながら、実際には悪意に満ちた嘲りを浴びせていたのだ。 「はいはい、彼女が美味しいものを食べ慣れてないのは仕方ないじゃない」 裕香が立ち上がり、生牡蠣を手に取り真央の前に差し出す。「これはレモンを絞ったやつよ、食べてみて?」 迫ってくる生牡蠣に真央は慌てて手を振り払った。牡蠣は「パシャン」と音を立て、裕香のスカートに落ちる。 「きゃあ!このスカート、買ったばかりなのに!」裕香は甲高い声を上げ、悔しそうに誠也を見上げた。「私、親切で食べさせてやっただけよ。それをこんな仕打ちってどういうこと?誠也、ちゃんと叱りなさいよ!」 誠也は眉を寄せ、ティッシュを取って宥めるように言った。「もちろん叱るさ」 だが、裕香のお嬢様気質のわがままが爆発すれば、誰にも止められない。 「じゃあ罰を与えて、少しは礼儀を覚えさせてよ!」 誠也は彼女の腕を軽くつまみ、顔を寄せて小声で何か囁いた。 ほんの数秒、裕香の顔から怒りが消え、また甘ったるい笑みを浮かべる。 「まあいいわ。今回だけは見逃してあげる」 ――真央にとって、その一食はガラスを飲み込むような時間だった。 一口ごとに苦痛が走り、ようやく食事が終わって解散となった時には、全身の力が抜けていた。 地下駐車場で、誠也がふと足を止める。 【まだ別の付き合いがあって帰りは遅くなる。先に運転手に送らせるから、気をつけて帰るんだぞ】 真央は黙って頷き、車に乗り込む。 だがドアを閉める瞬間、誠也が待ちきれない様子で裕香の車に乗り込むのを目にした。 …… 帰宅した真央は、服を着替える間もなく執事に呼び止められる。 【奥様、旦那様の漢方薬を冷凍庫に入れてありますので、すぐに解凍せねばなりません。ですが私、急ぎの用事で出なくては……奥様、ご自分で取りに行っていただけますか?】 何も疑わず頷き、裏庭の冷庫へ向かう。 だが、中に入った途端、背後の扉が「バタン」と閉まった。
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第5話

翌日、真央はボディーガードに付き添われて、外祖母が入っている療養院へ向かった。 誠也が「国外へ送る」と言ったその時点で、彼が外祖母のことなど初めから気にもかけていないのだと、真央には分かっていた。 だからこそ、自分で外祖母を連れ出すしかなかった。 真央はいつものように病室に入った。 足を止めると同時に、外祖母が必死に体を起こし、目を赤くしながら手を動かした。 【真央、また入院したって聞いたけど、一体どういうことなの?誠也と結婚してから、ずっと怪我が絶えないじゃないか。あの人にいじめられてるんじゃないか?】 その仕草を見た瞬間、真央の鼻の奥がつんと痛んだ。 もうすぐここを離れるのだと思うと、もう嘘をつく必要もなかった。 【おばあちゃん、私と一緒に逃げませんか?静かな街に行って、もう二度と離れないで暮らしましょう】 ここまで言えば、外祖母も全てを悟ったのだろう。 ぽろぽろと涙を落としながら、乱暴なくらい強く手を動かした。 【いいよ、真央と一緒なら、どこへでも行く】 真央はその日、午後まで外祖母の側にいた。 そして西の街へ出かけ、外祖母の大好きな菓子を買いに行った。 だが戻ってくると、外祖母の姿はどこにもなかった。 職員に尋ねようとした矢先、突然スマホに匿名のメッセージが届いた。 【真央、お前の外祖母はこっちで預かってる。助けたければ1億円をこの口座にすぐ振り込め!】 真央の手から菓子が「バタン」と落ちた。 そんな大金、彼女には持っていなかった。 震える手で誠也に電話をかけ続けたが、何度かけても繋がらない。 仕方なく、ボディーガードに頼んで彼の会社へ向かうことにした。 幸運なことに、会社の前で車に乗り込もうとする誠也の姿を見つけた。 真央はふらつきながら駆け寄り、震える手で必死に手話を使った。 【誠也、外祖母が拉致されたの!犯人は1億円要求してる……】 だが誠也はそれを見ることもなく、気だるそうに一言だけ。 【俺は今忙しい。何かあればアシスタントに言え】 そう言うと、すぐに車に乗り込んだ。 その時、かすかにスマホ越しに裕香の甘ったるい声が耳に届いた。 「誠也、もう出発した?あのブラックフォレストケーキ、数量限定なんだから。遅れたら並ばなきゃいけなく
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第6話

真央は警察の協力を得て外祖母の葬儀を終え、骨壺を抱えて別荘へ戻った。 ソファに腰を下ろし、彼女は黙ったままスマホをいじり、外祖母とのチャット履歴を見返していた。 かつての優しい言葉の数々は、今となっては心臓を切り裂く拷問の刃に変わり、彼女を息苦しくさせるだけだった。 ふと目に入ったのは、三分前に裕香がアップした投稿。 写真に写っていたのはブラックフォレストケーキ。 その横で組まれた二つの手が、真央の目に突き刺さる。 【やっとずっと食べたがってたケーキを食べられた。でも、欲しい人を手に入れるのはいつになるのかな?】 誠也はそんな公然の場で、何事もないように曖昧な言葉を返していた。 【もう手に入ってるんじゃない?】 真央は思わずスマホを握り締めた。 結婚当初、誠也が真剣な顔で誓ってくれたことを思い出す―― 【外祖母は君にとって一番大切な人だから、俺も一緒に最後までちゃんと面倒を見るよ。できる限り安らかに過ごせるようにする】 だが現実はどうだ。 外祖母が拉致されても、誠也は裕香と過ごすことを優先し、彼女の助けを求めるのメッセージすら無視した! 分かっていたはずだ。 誠也にとって、自分など塵にも及ばない存在でしかないことを。 そのとき、玄関のドアが開く音がした。 誠也がリビングに入り、当たり前のように灯りをつける。 そして骨壺を抱いたままソファに座る真央を見つけた。 庭にいた老いぼれの犬を思い出したのか、彼は一瞬で合点がいったように手話で宥める。 【ただの犬だろ。君が欲しいなら、明日新しいのを買ってやるから】 そう言って、彼女の目元に溢れる涙を拭おうと手を伸ばす。 だが次の瞬間、真央はその手を乱暴に払いのけ、これまでにない憎悪を宿した目で睨みつけた。 突然の拒絶に誠也は驚いたものの、わざわざ気遣うこともしなかった。 【死んだ犬は戻らない。気が滅入るなら、お笑い番組でも見て気分転換しろ】 吐き捨てるようにそう言い残し、彼は二階へ上がってしまった。 誠也はその後二日間、真央を放置した。 そして結婚記念日になってようやく彼女の存在を思い出したのか、ジュエリー箱を手に帰宅し、無理やり彼女の首にダイヤのネックレスをかけた。 【まだ落ち込んでるのか?】 投げ
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第7話

真央は拳をぎゅっと握りしめた。 立ち上がろうとした瞬間、数人に腕をつかまれ、強引に船内のスイートルームへと押し込まれる。 そのうちの一人がスマホを取り出し、画面に文字を打ち出して見せた。【外は風が強いし、風邪ひいたら大変ですから、谷口さんはここで待っててください。誠也もすぐ来ます】 扉が閉まる直前、内側の部屋から誠也の低い笑い声がはっきりと聞こえた。 「小悪魔ちゃん、どこが調子悪いんだ?ここか?それともあそこか?」 裕香の息が乱れ、甘えるように震える声で「いやっ……優しくして……」と漏らした。 真央の胃がひっくり返る。 逃げ出そうとしたが、扉には鍵がかかっていて開かない。 その場に硬直し、全身の血が冷え切る。 背後から響く恥ずかしい音が、針のように耳を突き刺し、神経の一本一本をえぐるように責め立てた。 どれほど時間が経ったのか。ようやく内扉が開いた。 誠也が出てきて、その後ろには衣服が乱れ、顔を赤くした裕香がいた。 外に立つ真央を見た瞬間、誠也の顔が固まり、とっさに【裕香の肩が凝ってたから、俺がマッサージしてたんだ】と釈明する。 真央は伏し目がちに黙ったまま。 その平然すぎて麻痺したような様子が、なぜか誠也の胸をざらつかせ、不快にさせた。 彼は何事もなかったように真央を部屋の外へ連れ出し、直後、部下を呼びつけ、低い声で問いただす。 「誰の指示で彼女を内室に連れていった?」 仲間はきょとんとし、「遊びみたいなもんっしょ?どうせもうすぐ捨てるんだし、気にすることねぇじゃん」と答えた。 「俺がいつそんなこと言った?」 誠也は眉をひそめ、冷たく言い放つ。 「確かに彼女を娶ったのは裕香の盾にするためだ。でも、役目は果たしてくれたんだ。これからの暮らしを保証してやるつもりだ」 「誠也、らしくないなぁ」仲間はからかうように肘で小突いた。「まさか本気で惚れたりしてんの?」 誠也は答えず、冷たく一瞥だけして吐き捨てる。 「余計な口出しするな。知る必要のないことは聞くな」 その会話は、一言一句、真央の耳に届いていた。 彼女は唇をきつく結び、口元にかすかな笑みを浮かべる。その笑みは、どこまでも寂しげで哀しかった。 ああ、誠也はもう彼女の未来まで「整えてある」らしい。 だが
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第8話

誠也はまさか、真央が一匹の犬の遺灰のために海へ飛び込むなんて思ってもみなかった。 彼はすぐにライフセーバーを呼び、船を止めて海へ潜って探すよう指示を出した。 他の仲間たちも騒ぎを聞きつけて駆けつけてくる。 「あの女が海に飛び込んだ?」 「まさか誠也があいつを送り出そうとしてるの、バレたんじゃねえか?」 「そんなわけねえだろ。だって耳が聞こえねえんだぞ……」 誠也は甲板際に立ち、真っ暗な海面を凝視した。胸の奥が理由もなくざわつく。 誰かがぽつりと呟いた。 「でもあいつ、泳ぎ得意だろ?絶対溺れたりはしねえよ」 「そうだよ、真央は泳げるじゃん」 裕香が誠也の手を引き、囁いた。 「誠也、花火もうすぐ終わっちゃうよ。一緒に見ないの?」 その時になってようやく誠也は思い出した。本来なら大事なことをするはずだった。 この盛大な花火をきっかけに、裕香へ正式に想いを告げる――そのはずだった。 だが計画は、真央のせいで台無しになった。 「誠也、お前は裕香と花火を見てなよ。こっちは俺らが見ておく。人を引き上げたらすぐ報せるから」 仲間たちは二言三言で誠也を説き伏せ、彼は渋々裕香の手を引いて観覧席へ。だが心は真央の方へと引き戻されていた。 確かに、彼女の泳ぎは人並み以上だ。 だがこの冷たい海では、少しの油断が命取りになる……「誠也、サプライズありがとう。すごく嬉しい」 裕香はぎゅっと誠也の手を握り、打ち上がる花火の光がその顔を照らしたり消したりする。 そして不意に口調を変えた。 「でもさ、真央がそのまま死んじゃっても悪くないよね。もうあなたがトップなんだから、これからは私の盾になってもらう必要ないし」 その言葉は、誠也の神経をどこか鋭く刺激した。 彼は裕香の手を乱暴に振り払い、険しい表情で言い放つ。 「たとえ役に立たなくても、こんなところで死なせるわけにはいかない」 裕香は呆然とした。 「誠也……まさか心配なの?あなた、真央のこと好きになったんじゃないでしょうね?」 今夜二度目の問い。誠也の苛立ちはさらに募っていく。 ちょうどその時、仲間の一人が険しい顔で駆け寄ってきた。 「誠也、まずい……あの女の姿がどこにもねえ……」 その声を聞いた瞬間、誠也は振り返り、真央が落ち
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第9話

同じころ、別の場所では。 真央は船の甲板に横たわり、胸に骨壺を抱きしめながら荒い息をついていた。 出発の前に、防水対策をしておいたとはいえ、彼女は中に水が一滴でも入ることを死ぬほど恐れていた。 「早く、毛布を掛けろ」 隆夫が真央の体に毛布を掛け、さらに湯気の立つ熱い水を手渡した。 彼は真央に何があったのかを聞かなかった。ただ静かに安心させるように言う。 「雲市の方はもう段取りしておいた。船が着いたら迎えがいる」 真央は震える肩を押さえながら、必死に頷いた。 そして視線を船室の隅へ向ける。 「その人は……」 「君と同じだ。海から拾い上げた」 隆夫がわざと冗談めかして言った。 「なかなかイケメンだろ」 薄暗いランプの下、男は壁に寄りかかって座り、頭を垂らして眠っているように見えた。 高い鼻梁に、長いまつ毛。前髪はまだ濡れていて、乾き切っていない。 「拾ったときは、心臓が止まりかけてたんだ。どうにか蘇生させた」 隆夫はため息をつく。 「真央、この人も連れて行っていいか?」 真央は慌てて首を振った。 「もちろん、構いません」 大海から一番近い港まで二日二晩。 その間、真央は身体を休めながら、次にどうするかずっと考えていた。 誠也と結婚して三年。彼女はずっと傷つけられるか、傷つけられる道を歩いてきた。 それでも当時は思っていた。 誠也と添い遂げられるなら、どんなに痛みを受けても、必死に耐えられると。 いつか誠也がすべてを片付けてくれて、平穏な日々を送れると信じていたから。 今思えば――なんて愚かだったのだろう! 「ここは……どこだ?」 不意に、背後から声がした。 真央は振り返り、男がいつの間にか目を開けていることに気づく。灰色の瞳が彼女を見ていた。 「あなたは海に落ちてしまって……おじさんが助けたんです。今夜、この船は雲市に着岸します」 彼女が説明を終えると、男はしばらく黙り込んだ。 やがて口を開く。 「俺は、阿部智樹(あべ ともき)という。上陸したら、おじさんに金を渡す。命を救ってもらった礼だ」 真央は頷いた。そのとき、彼の腹が鳴る音が響いた。 真央はすぐに厨房へ行き、お粥を一杯よそって彼の前へ差し出した。 「二日も食べていないので
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第10話

「旦那様?お聞きになっていますか?」 執事の声が誠也の思考を現実へと引き戻した。彼はすぐさま問い返す。 「真央、この前家にいた時、何かおかしな様子はなかった?」 執事は少し思い返し、正直に答えた。 「奥様は最近ずっと気分が沈んでおられました。それは恐らく……外祖母が殺された件のせいかと……」 「なんだって?真央の外祖母が殺された?!」 あまりにも激しい誠也の反応に、執事は一瞬言葉を詰まらせた。 「数日前、奥様の外祖母が拉致されまして……通報したことで犯人が激高し、そのまま……旦那様、ご存じなかったのですか?」 誠也は思わずスマホを握りしめ、指の節が白く浮き出る。 脳裏には、あの日会社の前で真央と鉢合わせした光景がよぎった。 あのときの彼女は明らかに取り乱し、何かを伝えようとしていた。 だが彼は裕香のことで頭がいっぱいで、立ち止まって話を聞くことさえせず、出張中のアシスタントに丸投げしてしまった。 ――まさか、真央はあのとき助けを求めに来たのか? 頭の中はぐちゃぐちゃで整理がつかない。 もしあの骨壺の中身が、本当に真央の外祖母の遺灰だとしたら、自分のあの態度は彼女を追い詰める最後の一撃になってしまったのではないか。 浮かんでくるのは、涙で赤くなった彼女の目元と、衣服をぎゅっと握りしめる必死な手。 それは駄々をこねているのではなく、どうにもならない状況での必死のもがきだった。 それなのに、自分はその手を受け止めるどころか、冷たい態度で突き放したのだ。 あのとき少しでも我慢強く、理由を問いかけていたら――もしかしたら未来は違っていたのかもしれない。 俯いた誠也は、押し寄せる後悔と罪悪感に飲み込まれそうになっていた。 「誠也、もう捜索のゴールデンタイムは過ぎてる。これ以上続けても意味ないだろ」 傍らで仲間が諭す。 誠也は長く沈黙し、その場の空気が凝り固まるほどの重苦しさを纏っていた。 やがて彼はゆっくりと顔を上げ、低く命じる。 「船長に帰港を伝えろ。それと、俺の許可が出るまで捜索を止めるな。何があっても真央を……」 たとえ彼女が死んでいたとしても、遺体を見つけ出して連れ帰るのだ。 …… 「前川夫人が遭難した」という知らせは、すぐさま国内にも伝わった。そして誠也が上
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