女の勘なんて当てにならない――ずっとそう思っていた。でも、この胸のざわつきだけは、うまく笑い飛ばせない。放課後の保健室は、薄いミルク色の光で満ちていた。ベッドの白いシーツ、消毒液の匂い、壁掛け時計の秒針。いつもと変わらない景色だ。「保健室って、なんか落ち着くんですよね」そう言って、のど飴を一個だけ大切そうにポケットへしまったのは二年生の瑠衣ちゃんだ。「落ち着くってことは、元気ってことよ。今日は帰ったらお風呂にゆっくり入って、早めに寝ないとね。この前みたいに夜更かししちゃダメよ」いつもの調子で言うと、彼女は「はい、奈那子先生」と笑った。“先生”と呼ばれるたび、まだ少しくすぐったい。養護教諭になって六年目。けれど、毎日が初日みたいに、誰かの体温に触れるたびに胸のどこかがきゅっとなる。生徒がはけて、急に静かになった保健室。机に座って日誌をまとめていると、スマホが小さく震えた。〈次の休み、会えない?〉画面に浮かぶ名前は“望”。大学を卒業してすぐに付き合い始めたから、もう六年になる。「そろそろ、かな」小さく声に出した自分の声が、ちょっと上ずっていた。返信を打つ指がふるふると震える。〈もちろん。どこで?〉すると、すぐ既読がついて、少し間を置いて返事が落ちてきた。〈駅前のファミレスで。昼過ぎに会おう〉……ファミレス。思わず笑ってしまいそうになる。いや、笑っちゃだめだ。プロポーズって、もっとこう、夜景の見えるレストランとか、ワインとか、そういう――。でも、わたしたちはずっとこうだった。肩ひじ張らない、背伸びしない、等身大のお付き合い。“わたしたちらしい”って言葉に、何度も何度も救われてきた。ロッカーから荷物を取り出し、保健室の明かりを落として職員室へ鍵を返しに行く。すれ違いざまに国語の美千恵が「おつかれー、今日もモテモテ養護の女神?今日も遅くまで生徒残ってたでしょ」とひそひそ笑って、わたしは「女神は残業女神です」と肩をすくめた。美千恵のこういう軽口にどれだけ救われているか、たぶん本人はわかっていない。帰り道。駅までの並木道に、春を追いかけるみたいな風が吹いていた。ふいに、切れ端みたいな記憶が胸の内側でひらひらする。大学四年の春。小さな居酒屋で、緊張した顔で「これから、どうする?
Last Updated : 2025-09-12 Read more