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第10話 はじまり

Author: 葉山心愛
last update Last Updated: 2025-09-26 19:30:00
三月も中旬を過ぎたころ。

引っ越し業者に頼むにはもう時間が足りず、荷物は自分たちで運ぶことになった。

來が荷物の量を確認したいと、初めてわたしの家にやってきた。

ドアを開けて中に入った來は、部屋をぐるりと見回すと、少し驚いた顔をした。

「思ったより少ないですね」

確かに、必要最低限のもの以外はすでに段ボールに詰めていたし、家具も小さな本棚やタンス、軽いテーブルばかりだった。

「これなら俺一人で運べるかな。何回か往復すれば大丈夫そうだ」

來が頼もしそうに言う。

わたしは心の中で、やっぱりしっかりしている人だなと思った。

その日は、簡単な夕食を出すことにしていた。

でも、冷蔵庫にはほとんど何も残っていなくて、作れたのはチャーハンくらい。

「ごめんなさい、こんなものしか出せなくて……」

思わず頭を下げていた。気づけばまた敬語に戻っている自分に、内心で苦笑する。

來はスプーンを口に運ぶと、少し目を細めて言った。

「これから、こんな美味しいご飯が食べられるんだな」

その言葉に、胸がドキリと跳ねた。

簡単なチャーハンを褒められただけなのに、どうしてこんなに心が揺れるんだろう。

わたしは視線を落としながら、頬の熱を隠すように小さく笑った。

***

3月30日、土曜日。

今日と明日の2日間で引っ越しと婚姻届の提出を済ませることになっていた。

朝から荷物を運び出しながら、來が「ベッドがなくて助かったな。布団で寝ててくれてありがとう」と冗談めかして言う。

確かにベッドがあったら、もっと大変だっただろう。

重い家具や家電はすべて來が率先して持ってくれて、わたしが運んだのは段ボールだけ。

何度も往復して、昼から夕方にはすべてを運び終えることができた。

來のマンションは、外観からして高級そうで立派だった。

エントランスに足を踏み入れると、シンプルだけれど洗練された雰囲気が漂っていて、わたしは思わず背筋を伸ばしてしまう。

エレベーターで6階へ上がると、そこに來の部屋があった。

中に入ると、広々としていて整った空間が広がっていた。

無駄のないシンプルな家具が並んでいて、それでいて温かみもある。

「ここが奈那子の部屋だ」

そう案内されて、驚いた。

わたし専用の部屋がちゃんと用意されていたのだ。

そこに自分の荷物をすべて運び込むと、ようやく「引っ越したんだ」と実感が湧いてきた。

夕方、すっかり疲れ切
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