All Chapters of あなたの愛したこの世界で、私は眠る: Chapter 1 - Chapter 10

15 Chapters

第1話

大晦日の夜、川嶋航平(かわしま こうへい)の初恋相手は、大きなお腹を誇らしげに突き出し、主卓に座っている。出産を控えた彼女の望みなら、航平はすべてを聞き入れる。検診に付き添い、マタニティ写真を撮り、挙式までやり直す。けれど、彼は知らない。私はもうすぐ命を落とすということを。私は二人の写真をすべて焼き払い、彼の指輪を捨てる。航平が新しい命の誕生を待ち望む、その一刻一刻で、私は彼との別れに備えている。……「航平、美音(みおん)の隣に座りなさい。妊娠中だから料理を取りづらいでしょ。あなたたちは幼なじみなんだから、彼女の好みもわかるでしょう」義母のその一言で、場の空気が数秒止まる。熱を帯びた視線が一斉に私に突き刺さる。そこには同情も、憐れみも、そして面白がる色も混じっている。胸がひやりと震え、私は思わず航平の手を握る。――行かないで。航平の大きな手が反対に私の指を包み、尾の指をそっとつまむ。心が少しだけ緩む。次の瞬間――彼は私の手を離し、軽く慰めるように叩く。「今日は祝いの日だ。母さんを怒らせるな」その言葉は風のように軽やかに過ぎ去る。私はこみ上げる苦さを押し隠し、声を失う。彼らは幼い頃の思い出話に花を咲かせ、私には入り込む隙がない。義母は機嫌をよくして、思ったことを口にしてしまう。「美音は本当に福のある子だわ。まだ二十五でお腹に子どもがいるなんて。あのとき航平がちゃんとしていれば……ああ、これ以上はやめておくわ」周囲は冗談だと思って笑い飛ばす。けれど、私だけが知っている。あの人の願いが現実になるということを。藤堂美音(とうどう みおん)の腹にいる子ども――それは航平の子だ。――半月前。私は末期癌の診断書を握りしめ、航平の初恋の人に喫茶店で待ち伏せされた。「妊娠してるの。子どもは航平のよ」膨らんだ腹を見た瞬間、頭の中が真っ白になった。それでも無理に平静を装った。「私は、あなたたちが昔の関係に戻るとは思わない」――彼を信じるべきだった。美音は表情を崩さずに笑った。「これもあなたのおかげね。もしあなたが子どもを産めなかったからこそ、航平は私にここまで心を寄せたのよ。遥(はるか)、あなたは航平の子を身ごもることができない」私はカップの取っ手を強く
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第2話

十九歳のあの年、彼は私を一学期まるごと追いかけてきた。告白されたその日、私は正直に打ち明けた。自分は貧しい家の出で、父も母もおらず、孤児院で育ったこと。性格がよくなく、考えすぎで、偏執的で、独占欲が強いこと。体も弱く、将来子どもを産めないこと。自分の欠点を何度も何度も並べ立てた。それでも彼は、根気強く何度も私への愛を肯定してくれた。最後にそっと抱きしめて、囁いた。「それでも俺はお前を愛してるって言ったら、一緒にいてくれる?」――七年前、彼は本当に川嶋家の一人息子じゃなかったのだろうか。あの時あれほど不完全な私を受け入れたのに、なぜ今、裏切りを選ぶのか。……食卓の重い空気に耐えきれず、私は先に部屋へ戻る。背後から聞き慣れた気配が迫る。「遥、どうした?」私は口を閉ざす。航平が顔を寄せてきて、唇を触れさせる。「妬いてるのか?美音とはもう終わってる。母さんは昔から彼女を可愛がってて、だから家に呼んだだけだ」胸の奥の苦さを押し込め、私は冷たく振り返る。「航平、あんなに楽しそうに一家で談笑できるなら、いっそ私と離婚して美音と結婚したらどう?」航平はまだ私が拗ねていると思い、にやりと笑う。「そんな冗談やめろ。お前と離婚したら誰がもらうんだよ。その性格、俺みたいに毎日あやしてくれるやつがどこにいる。あと……」言葉を切ったが、私は理解している。――あと、お前は子どもを産めないから、と。私は枕に顔を埋め、声を立てずに涙を落とす。まさかあの時、自分で口にした欠点が、今になって彼の刃になって私を刺すとは思わなかった。こういう何気ない冗談こそが、その人の本音を最もはっきりと暴くのだ。航平は、自分が口を滑らせたことに気づいたのか、大きな手で私を抱き寄せ、あやしてくる。私は怒りに震え、思わず病気のことを口にしそうになる。「全部、私が邪魔であなたたちの家庭がうまくいかないのよ。もし私が本当に死んでしまったら……」その言葉を遮るように、扉の向こうから女の声がする。「航平、いる?」航平は不機嫌に「何だよ」と答える。「もう休もうと思って。妊娠中で体がしんどいの。連れていってくれない?」背後の男が軽く舌打ちし、不満を示しながら「本当に面倒くさい」とぼやく。それでも渋々立ち
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第3話

航平は、昔から特別な日にこだわる人だ。私の誕生日、二人の記念日、すべてを一つ残らず覚えている。ふとカレンダーをめくりながら自分の余命を数えてみる。すると四月二日の日付に、大きな丸が書かれているのを見つける。少し逆算すれば、美音の出産予定日だと察せられる。――そんなに待ち望んでいるの?背後に航平がいるのを知りながら、私は皮肉っぽく言う。「どうして私は知らなかったのかしら。他の誰かと関係ある日なの?」航平は一瞬たじろぎ、平静を装いながら私の耳朶に噛みつく。「遥、もう結婚して何年も経つのに、お前はまた考えすぎだな」胸の奥が沈み込む。首筋に落ちる彼の吐息を感じながら、ただただ嫌悪しか覚えない。――結婚式の前。川嶋家との身分差は大きく、彼の両親は特に私を嫌っていた。そのせいで私は異常に敏感になっていた。何でも疑ってしまった。航平の愛を疑い、未来に自信を持てなかった。大きな家柄の川嶋家で、しかも独り息子である航平が、本当に一生変わらず私を愛し続けてくれるのか。私は迷っていた。けれど航平は私の手を強く握り、目を真っ赤にして叫んだ。「遥、お前は俺に約束したんだ。裏切るな。俺は一生お前しか見ない。財産を全部お前に移してもいい。もし俺が裏切ったら、身一つで家を出る」私はただ疑い深く、臆病だっただけ。それでも航平は家族に黙って、強引に資産を移してくれた。当時の彼は、私の小さな不安をすべて察し、行動で安心を与えてくれた。けれど今の航平は、ただ軽々しく「お前はまた考えすぎだな」と言って片づけるだけ。父親になる喜びに酔っているのか、航平は私の感情の揺れにまったく気づかず、独り言のように話す。「遥、あと四か月のカウントダウンだ。その時、お前にサプライズを用意するからな」私は笑って、黒いペンでその丸印の外にもうひとつ円を描く。「そう?じゃあ私もあなたにサプライズを用意しなきゃね」航平は喉の奥で笑い、顎を私の額に押し当てる。「遥、そんなことまで俺と競うのか。いいぞ、お前のサプライズ楽しみにしてる」私は彼の腕の中に閉じ込められながら、目の奥に笑みは一つも浮かばない。――本当にその時まで生きていられるのだろうか。時は流れていく。同時に、私の命もゆっくりと終わりへと数を刻
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第4話

異変に気づき、私は慌てて航平に電話をかける。暗闇の中、何も見えず、恐怖で全身が震える。コール音が鳴った瞬間、錯覚なのか、脚のあいだから熱い流れが伝うのを感じる。ようやくつながり、私は震える声で告げる。「航平……帰ってきて……転んだの……お腹が痛い……」受話器の向こうは騒がしく、航平の声もひどく不鮮明だ。「遥、お前、何て言った?お腹が痛いのか?」「帰ってきて……航平……」「生理か?二番目の引き出しに薬がある。ちゃんと飲め。どうしてもだめなら病院へ行け。俺は今まだ用がある」脚のあいだから赤い血が本当に流れ出ているのがはっきり見え、得体の知れない恐怖が襲ってくる。「私……妊娠してるかもしれない……航平……帰ってきて……」痛みで意識が遠のき、私は床に伏せたまま言葉がまとまらない。「痛い……私、癌なの……妊娠してるかも……助けて……帰ってきて……」声はどんどんか細くなり、航平に届いているのかもわからない。「遥、お前、自分で縁起でもないこと言うな。用が終わったら帰るから、それまで待ってろ。今、本当に忙しいんだ」「航平、早く来てよ。リハーサルが始まる、みんなお前を待ってるぞ」死の恐怖に押し倒され、汗で全身がびっしょりになりながら、私はもう抗えない。プーップーップーッ……心が完全に折れる。私は床に伏し、指の間から零れ落ちるように命が消えていくのを、ただ無力に感じている。――なぜ、今こんな時に……再び目を開けると、真っ白な天井が見える。意識が戻る。あの最後の瞬間、私は病院に電話をかけてから完全に気を失ったのだ。無意識に自分の下腹部へ手を伸ばす。あまりに冷静で、自分でもぞっとする。「……子ども、いなくなったんですね」医師は小さく息をつき、静かに告げる。「あなたの体はもともと虚弱で、妊娠には向いていませんでした。まして転倒までしてしまって……今はあまり考えすぎないでください。子どもはまた授かれますから、まずはゆっくり休んでください」去っていく医師の背中を見つめる。――もう二度と、ない……私の命も、長くはない。スマホがぶるぶると二度震え、通知を知らせる。美音の投稿がまた更新されている。【結婚式の真っ最中】大きく書かれた文字が、目に突き刺さるように痛い。
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第5話

昨日の夜は……結婚式のリハーサルだったのか。私は自嘲気味に笑う。結局、彼女がお腹に子どもを宿しているから、どんな願いでも航平は聞き入れる。涙が音もなく落ち、心はもう燃え殻のように冷え切っている。全身が果てしない悲しみに呑み込まれていく。癌に蝕まれ、流産の痛みに打ちのめされているこの時に、彼は別の女の夫になろうとしているなんて。ついさっきまで、そこには確かに小さな命が宿っていたはずなのに。必死にお腹を押さえ、そのぬくもりを探そうとする。痛みで呼吸が詰まりそうになる。この子がどれほど奇跡のように授かったか、私が一番知っている。大きく息を吸い込み、スマホの画面に映る自分を見る。そこに映っていたのは、生気の抜け落ちた顔だ。だが、スマホの中で高級ドレスに身を包んだ美音は、航平の腕を取り、まぶしいほどの笑顔を浮かべている。スマホが震え、航平からのメッセージが届く。【遥、何もないだろうな。ここ数日、出張に行くから家にいられない。一人でちゃんと自分を大事にしろ】――出張?私は画面を凝視し、美音の最新投稿を見つける。【パパになる彼は、妊娠中の私が不安定になるんじゃないかと心配して、愛の記録として結婚式をやり直してくれたの。気分転換のために、次はハネムーン!私を疲れさせないように、一歩も歩かせずに景色を見せるって豪語してるの。みんな、本当にできるかどうか見ててね】コメント欄は羨望であふれている。【それじゃあ私たち親族がちゃんと見守らなきゃ!】【うらやましい!あなた、すごく綺麗だし旦那さんも絶対イケメンだよね!】【羨ましい!私もその幸せにあやかりたい!】【旦那さん、本当に大事にしてくれてるね。幸せになってね】【お二人とも末永くお幸せに!】スマホを握りしめる。画面が完全に黒くなるまで。――また嘘……胸の奥で嵐のように感情が荒れ狂い、次第に頭が冴えていく。人間って、本当どうしようもない。痛みの果てにしか、手放せない。最初に航平の裏切りを知った時は、ただ恨み、憎んでいた。いちばん弱いのは、情を断ち切れない心だ。私は、この七年間の感情にしがみつき、彼がくれた愛を忘れられずにいた。けれど今日、ようやくわかった。私が捨てなければならないのは、七年前からの愛と、そして
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第6話

航平と別れると決めたことは、誰にも告げていない。彼が美音と結婚し、ハネムーンに出かけているこの日々、私は一人でひっそりと山を登っている。中腹にはまだ雪が残り、何度も滑り落ちそうになる。そのたび、そばの登山客が手を伸ばしてくれる。「危ないよ、お嬢さん。この高さから落ちたら命はないよ」私は小さく会釈して礼を言う。――本当は、どうでもいい。三か月生きるのも、一日生きるのも、もう大差ない。ただ、ここで本当に死んだら、この観光地に迷惑をかけるだけだ。そう思うと、自然と足取りが慎重になる。頂上に着いたとき、胸の奥が熱く込み上げ、言いようのない思いがあふれてくる。あの木を探し、根元をかき分けていると、結びつけられた布を見つけ、思わず息をのむ。「この赤い紐、もうずいぶん前のものね」隣でピンク色の服を着た女性が声をかけてくる。「ええ、昔……まだ子どもみたいに何もわかってなくて……」私はぎこちなく笑い、結び目をほどこうと手を伸ばす。初めてこの山に登ったのは、航平と一緒だった。あの頃はまだ恋の熱が冷めず、カップルがやることを片っ端から試していた。一緒に絵を書き、指輪を手作りして……そしていちばん無茶だったのが、この山に登り、縁結びの木に二人の名前を書いた赤い布を結んだことだ。私はあのとき、神さまに祈れば本当に永遠に一緒にいられると信じていた。けれど、人の心は移ろいやすく、神の加護など、当てにはならないのだ。力いっぱい引っぱってもほどけない。あの時、二人の永遠を願って、航平が固結びにしたのだ。「俺は固結びにしたからな。お前はこの先も、来世も、そのまた先も俺としか一緒になれない」そう言って、航平は私を強く抱きしめた。けれど今思えば、それは呪いだったのかもしれない。息が切れ、手のひらが真っ赤になるほど、私はその布を引きはがそうとする。「ほら、これを使いなさい!どうせ決着をつけるなら、思いきりやりなさい!」隣の女性はそう言って、ためらいもなく小さなナイフを差し出してくる。「ありがとう」私は受け取り、二人の名前が書かれた赤い布を勢いよく切り落とす。心の中で張りつめていた糸が、ぷつりと切れた気がした。――航平、この先も、来世も、そのまた先も、二度と私に関わらないで。誰かが言
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第7話

航平は、美音とあの馬鹿げた結婚式とハネムーンを終えると、急いで家に戻ってくる。家の中は、人が住んでいないかのように空っぽだ。航平は頭の中が真っ白になり、「遥」の名を何度も呼ぶが、返事はない。ここしばらく遥と連絡を取っていなかったことを思い出し、胸の奥に恐怖が広がっていく。航平はそのまま寝室へ駆け込む。遥の日用品や服はそのまま残っていて、ようやく息をつく。――どこかへ気晴らしに出かけたんだろう。最近、遥に隠していることがあまりにも多くて、航平の心は常にざわついている。あの夜、美音と一線を越えるべきではなかった。本当は、すべてを終わらせて普通に戻すつもりだったのに、美音は妊娠してしまった。長く迷った末に、航平はその子を残すことを選んだ。家では何年も前から「子どもはまだか」と催促され、その重圧はのしかかっていた。遥が家に顔を出すたびに、誰もいい顔をせず、そのたびに航平は胸を痛めていた。そして航平と美音の間で、ひそかに取り引きが交わされた。「この子を産むわ。その代わり、子どもが生まれるまでの一年間、あなたは私の夫として、何もかも私に従ってほしい。子どもを産んだら、必ずここを去るわ……だからせめて、この一年だけは夢を見させてほしいの」子どもが生まれたら、自分はそれを「孤児を引き取ったこと」にして家に連れ帰ればいい。遥は優しいから、きっとこの子を自分の子のように愛してくれる。それなら、彼女の「母になりたい」という夢も叶えられるはずだ。両親に真実を話せば、血のつながった孫だとわかる。家の中のいざこざも多少は収まるだろう。自分がしていることは、全部この家と遥のため――そう思いながら、航平はかすかに首を振る。「遥……これしか道はないんだ」そう自分に言い聞かせると、妙に納得したような気持ちになり、彼女に電話をかける。だが、遥は出ない。もう一度、二度とかけ直そうとした矢先、美音のほうでまた問題が起きる。航平は舌打ちして苛立ちをぶつけながらも、服を掴んで出ていく。今は美音がいちばん不安定な時期、何かあってはならない。遥が留守にしているのは、むしろ好都合だった。余計な嘘を繕う必要もない。――あと二か月。この二か月を無事に乗り切れば、遥もきっとわかってくれる。
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第8話

飛行機の中ではスマホの電源を切っていた。着陸してすぐに開くと、航平からの不在着信が一件だけ残っている。――忙しい合間を縫って、わざわざ電話してきたのだろう。私はその履歴を消し、折り返しはしない。航平の性格ならよくわかっている。電話やメッセージを送ったら、必ず返事が来るまで待つタイプだ。結婚して最初の年、私が友人と出かけたときのこと。人にぶつかられてスマホが壊れてしまって、一日中友達と話し込んでいて、彼に電話をかけ直さなかった。夕方、家の近くまで戻ると、航平は目を真っ赤にして立っていた。私の姿を見た瞬間、はっきりと肩の力が抜けるのがわかった。「なんで電話に出なかったんだ。何度もかけたのに、全然出ないから……ずっと心配して……」――あの頃は、そんなふうに私を気にかけてくれた。けれど今はどうだろう。もう何日も顔を合わせていない。私は彼のメッセージに返事をせず、電話にも出ない。それでも、彼はもう執拗にかけ続けてはこない。私も、返信して時間を無駄にする気はない。お互い、暗黙のうちにこの沈黙を選んでいる。飛行機が着陸し、外に出た瞬間、草の匂いを含んだ清々しい空気が肺に広がる。まるで生き返ったような気持ちになる。――あとどれくらい生きられるんだろう。いつも通り、私は綿密な街観光プランを自分のために作っていた。今の体では、生きている時間そのものが余分にもらったもののようだ。だからこそ、一瞬一瞬を無駄にできない。だが、世の中は思い通りにはいかない。最初の目的地、あれほど心待ちにしていた湖にさえたどり着けないうちに、視界が真っ暗になり、その場に崩れ落ちる。――もうこのまま死にに引きずられるのかと思う。けれど、まだ目を開ける瞬間が残されている。「さっき、あなたの緊急連絡先に電話をかけました」頭が一瞬止まる。私の緊急連絡先は航平しかいない。「……何を話したんですか?」看護師の顔には、同情の色が浮かんでいる。「いえ、何も……電話に出たのは女性でした。間違い電話だと言われました」――美音だろう。もうそんなに自然になっているんだ。航平は、スマホや腕時計みたいな私物にはいつも潔癖で、他人に触られるのを何より嫌っている。でも、今ではそれも当たり前か。あちらはもう「夫婦」なのだから。
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第9話

病院を出たばかりの私は、美音の最新投稿を目にする。アプリは私を彼女の熱心なファンだと勘違いしているのか、毎日のように通知を送ってくる。――それでも、気になって仕方がない。いま彼女と航平がどれほど幸せそうにしているのか。【妊婦になってから健診はすっかり日常になっちゃったけど、やっぱりあの冷たい機械がお腹の上を行ったり来たりするのはどうも慣れなくて……でもね、彼はいつもそばにいて、大きな手でぎゅっと握ってくれるの。その手を感じるだけで安心できるし、お腹の赤ちゃんの様子が見られると思うと、不思議と怖さなんてなくなるんだ。実は今日、すっかり忘れてたのに彼に連れ出されちゃって、『ほんとにお前はドジだな、妊婦になるとボケるっていうのは本当だな』なんてからかわれて……むかつく!私、全然そんなことないのに!】コメント欄は、ファンたちの熱狂であふれている。【ああ、旦那さん、本当にあなたを愛してる!】【バカだな、それは優しさからの呼び方だって!】【羨ましいなあ、出産がうまくいきますように!】無表情のまま、コメントを最後までスクロールし、何も言わない。――みんな、勝手に幸せになればいい。……命のカウントダウン、残り一か月。ようやく航平が、私の異変に気づく。「遥……お前……もう知ってたんだな」声は壊れそうに慎重で。私が電話に出ず、家を離れ、冷たい態度を取り続けてきた。どんなに鈍い人間でも気づくだろう。何年も同じ布団で眠ってきた夫が、今になってようやく気づいたのだ。私は答えない。航平も一瞬、沈黙する。「遥……お前は何も考えるな。あと一か月だけ待ってくれ。必ず説明する」一か月?私にそんな時間が残っているの?本当は、彼が心の奥で何を思っているのか、知りたい気持ちもある。「明日、住所を送る。必ず来て、直接説明して。さもなければ……」「明日は無理だ、遥。予定がある」美音のアカウントの投稿の多さを思い出し、私は皮肉に笑う。「……彼女の健診に付き添うんでしょ」航平は言葉を失い、沈黙する。その静けさが、私の心を冷やしていく。「遥、俺がこうしているのは全部、二人の未来のためだ。子どもが生まれたら、美音とは何の関わりもなくなる」あまりにも滑稽で、思わず息が漏れる。「私には、そんなに時
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第10話

人生は短い、楽しまなければ――そう思って、私は一人で人気の山あいの観光地へ向かう。息が詰まるほど美しい光景に、しばし心が癒やされる。思い立って、次は山頂を金色に染める朝陽を見にいく。その景色を見た人は幸運に恵まれる、と言われている。死を目前にした私にはもう逃げ道はない。ただひとつ、ささやかな願いだけを心にかける。――来世では、普通の家庭に生まれたい。金持ちでなくていい、平凡でいいから。私は生まれたときから孤児で、学校の授業参観にも誰も来てくれなかった。大きくなって結婚する時も、実家の人間に送り出してもらうことはなかった。なにより、親がいないというだけで、ずっと人に見下され、いじめられてきた。航平と一緒になってから、その差はさらにあらわになった。家柄の釣り合わない川嶋家は、最初から私をよく思わなかった。初めて連れて行かれた時、私は恐る恐る、その大きな家の敷居をまたいだ。航平の母は、そんな私の「貧乏くささ」を嫌い、ことごとく難癖をつけてきた。それは覚悟していたし、我慢できるつもりだった。けれど、その時の航平は、私に対する悪口を一切許さず、家族と激しく口論した。「母さん!遥を責めることは、俺を責めることだ。この人以外、俺は一生誰とも結婚しない!」怒りに燃えた航平の母は、矛先を私に向けた。「うちの息子に、どんな魔法をかけたのよ!」航平はその場で平手打ちを受け、それをきっかけに家との縁を断ち切った。そして私の手を取って言った。「遥!この家がお前を拒むなら、俺が一緒に出ていく!」あの頃の私は、あまりにも純粋だった。愛があればすべての困難を乗り越えられると信じていた。けれど、親子のいさかいなんて、一晩経てば元に戻るものだということを、忘れていた。彼は親や一族、立場や体面を守らなければならなかった。けれど、私には寄る辺が何ひとつなかった。病気になってから、私はますます弱くなっている。夜、痛みに耐えきれず寝返りばかり打ちながら、ふと思うことがある。――もし私に普通の家族があって、両親からたくさんの愛をもらっていたら、こんなに卑屈で、臆病で、敏感で、愛に飢えた人間にはならなかったのだろうか。いまよりも、もっと幸せでいられたのだろうか。でも、すぐに自分を叱りつける。
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