Mag-log in大晦日の夜、川嶋航平(かわしま こうへい)の初恋相手は、大きなお腹を誇らしげに突き出し、主卓に座っている。 出産を控えた彼女の望みなら、航平はすべてを聞き入れる。 検診に付き添い、マタニティ写真を撮り、挙式までやり直す。 けれど、彼は知らない。私はもうすぐ命を落とすということを。 私は二人の写真をすべて焼き払い、彼の指輪を捨てる。 航平が新しい命の誕生を待ち望む、その一刻一刻で、私は彼との別れに備えている。
view more航平の精神は、日に日に壊れていく。不動産会社の都合で、退去まではわずかな猶予が与えられているが、彼はその間ずっと、変わらぬ部屋の中で、遥との記憶に取り憑かれたように過ごしている。ときどき、疲れ果ててそのまま眠りに落ちる。夢の中で、遥が現れる。いつものように微笑み、名を呼ぶ。けれど、真夜中に目を覚ますと――そこにあるのは、冷たい闇と、何も語らない家具だけだ。その繰り返しが、航平の心を少しずつ蝕んでいく。やがて、夢と現実の区別さえつかなくなる。目を覚ませば、すべてが見慣れた光景。けれど、肝心の「彼女」だけがいない。その現実が、何よりも彼を壊す。食事ものどを通らず、一日中、遥の服を抱きしめては独り言を繰り返す。やがて、川嶋家も彼を見限る。――跡取りとしての名も、地位も、すべて失う。引き渡しの日、彼は玄関先にうずくまる。風が冷たくても、もう寒いとも感じない。業者が最後の荷物を運び出したあと、引っ越し業者の一人が、小さな包みを差し出す。「押し入れの奥に、これが残っていました」航平は受け取った瞬間、目の奥が熱くなる。――それは、遥と付き合い始めた年に、二人で山の神社に結んだ赤いお守り布だ。その瞬間、すべてを悟る。遥は、もうずっと前から覚悟を決めていたのだ。彼を手放すことを。別れを、静かに、準備していたのだ。なのに――自分だけが、何も気づかずにいた。あんなに彼女の小さな変化に敏感だったはずなのに。航平は、その手の中で何度も赤い布を撫でている。端のほうは刃物で切られたようにぼろぼろで、そこには「川嶋航平」と自分の名が残っている。――遥は、本気で断ち切ろうとしていたのだ。「俺は固結びにしたからな。お前はこの先も、来世も、そのまた先も俺としか一緒になれない」数年前、そう言った日の記憶が、遠い夢のように蘇る。航平は赤い布を胸に押し当て、足元が崩れ落ちるほどの痛みに耐える。そのまま膝をつき、額を床に押し当てて祈る。――どうか、遥が俺を許してくれますように。自分もすぐに、彼女のもとへ行くつもりだ。けれど、七年前の航平もまた、同じように神に祈っていたことを、もう思い出せない。人の心は移ろいやすく、神の加護など、当てにはならないのだ。
長い時間が経ってから、ようやく航平は遥のスマホを開く勇気を持つ。ロックを解除すると、画面の待ち受けは二人のキス写真から、町の風景へと変わっている。連絡先の自分の登録名も、もう消えている。二人の写真は一枚も残っておらず、まるで自分という存在が最初からなかったかのようだ。それでも、そこには確かに遥の足跡が残っている。彼女のスマホには、今も毎月の自動寄付が設定されている。支援先は、子ども食堂を運営するNPO法人だった。最新のメールには、こんなメッセージが届いていた。【ご支援、心より感謝いたします。どうかあなたにも、穏やかな日々が訪れますように】その一文を見た瞬間、航平の目が熱くなる。――それなのに、どうして彼女が病に倒れなければならなかったのか。検索履歴を開くと、最も多く調べられていたのは、【末期がん、あと何日生きられるか】下には、同じ病に苦しむ人たちからの励ましの言葉が並んでいる。【心を穏やかに】【笑って過ごせる日を大切に】――航平には、死を覚悟した人間の心がどんなものなのか、想像もできない。怖かっただろうか。遥はあんなに臆病な人だった。きっと一人で布団の中に隠れて、泣いていたに違いない。胸の奥が細い針で何百回も刺されるように痛む。それでも、航平の指は止まらない。病気が見つかる前、検索履歴の上位を占めていたのは――【妊娠しやすくなる方法】【不妊治療、漢方】【排卵を促す注射】航平は知っている。遥は、もともと子どもを強く望む人ではなかった。幼いころから孤児として育ち、「母になる」ということに憧れよりも恐れを抱いていた。それでも、彼のために。川嶋家のために。遥は数えきれないほどの注射を打ち、苦い薬を飲み続けていた。航平はその姿をただ「健気だ」と思っていた。けれど――彼女がどれほどの重圧を抱えていたのか、その時は何も分かっていなかった。「……本当に、馬鹿だな」涙をこぼしながら、航平はなおも遥のスマートフォンをスクロールする。もう視界は滲んで、文字さえ読めない。それでも――自分の存在を示す何かを、必死に探し続ける。そして、一つアプリの中に、それを見つける。質問サイトのようなページだ。【あなたにとって、幸せとは何ですか?】航平は震える指でその回
遥が遺したのは、スマートフォンと身分証明書だけだった。骨壺すら、持ち帰ることは許されなかった。あの日、航平は火葬場で取り乱し、喉が裂けるほど叫び続けた。だが返ってきたのは、職員の冷静な一言だけ。「遥さんは生前、『身寄りがない場合は市の方に一任してほしい』と書面で残されていました。遺灰は、委託業者によって海に散骨させていただきました。昨日、すでに見送らせていただきました」――彼女の骨の最後の欠片すら、見ることはできなかった。家に戻っても、遥の写真は一枚も見つからない。けれど、部屋の中はあの頃と何一つ変わらないままだ。二日も経たないうちに、不動産会社の担当者が訪ねてきて告げる。「売買契約が成立しましたので、今週中に引き渡しの立会いをお願いできますか」その瞬間、航平はすべてを悟る。――遥は、出発の前にこの家を売っていたのだ。彼女は本気で自分を憎んでいたのだろう。二人の思い出が詰まった最後の場所さえ、手放してしまうほどに。慌てて買い戻そうとするが、口座の残高はほとんど空だ。航平名義の資産は、すべて遥が寄付に回されていた。そのニュースはすぐにSNSで話題となり、トレンドを席巻する。誰かが彼女の本名と経歴を掘り起こし、そして――「川嶋航平」という名も晒される。世間は騒然となり、彼女の死の真相を疑い始める。やがてネットの矛先は、一つのアカウントに向けられる。――わずか数か月で数十万人のフォロワーを集めた、「妊娠中の人気インフルエンサー」のアカウントへと辿り着く。航平はいまや無一文となり、川嶋家からの信頼も地に落ちている。ネット上の世論を抑える力も、日に日に弱まっていく。だが、彼は反論しようともしない。ただ、あらゆる噂が勝手に膨れ上がっていくのを、黙って見ているだけだ。最初はただの憶測にすぎなかった。だがついに、彼の不倫が決定的な形で暴かれる。【うわ、だからいつも「旦那がイケメン」って言ってたのに写真出さなかったんだ。まさか自分が不倫相手だったとはね】【サイテー。クズ男と略奪女は一生一緒にいなよ。奥さんの命返してあげて】【亡くなる前に旦那の全財産を寄付した奥さん、マジでかっこいい。スカッとした】子どもを失った美音は、もはや何の支えもなくなる。ネット上では彼
航平の体は震えが止まらず、スマホのロックすらまともに解除できない。深く息を吸い込み、必死に落ち着こうとする。――離婚なんて、ありえない。遥には父も母もなく、頼れる親戚もいない。卒業してからは専業主婦として暮らし、社会経験もほとんどない。なにより、彼女は自分を手放せるはずがない。そうやって一つひとつ冷静に考え直し、航平の胸は次第に落ち着きを取り戻していく。さっきまでの混乱は、ただ立て続けの出来事に飲まれていただけだ。ロックを解除したその瞬間、スマホが鳴る。――遥からの電話。迷うことなく応答し、慌てて声を上げる。「遥、俺が悪かった!お前、まだあの街にいるんだろ?すぐ迎えに行く。帰ろう。離婚なんて言わないでくれ」「少々お待ちください」返ってきたのは、知らない男の声だ。苛立った航平は、思わず「本人に代われ」と怒鳴ろうとする。だが、次の言葉に息を呑み、口を閉ざすしかない。「こちらは清水ホテルです。32号室でお亡くなりになった方がいらっしゃいました。末期の癌で、事前に市役所の方へ『身寄りのない場合は火葬をお願いしたい』という旨を残されていました。親族の連絡先が見当たらなかったため、最後に登録されていた緊急連絡先としてあなたにご連絡しています。もし遺品を受け取られる場合は、市営火葬場までお越しください。一週間以内に受け取りがない場合は、市の規定に基づき処分となります」――それは、遥が最後に自分へ送ってきたホテルの部屋番号だ。耳の奥がじんじんと鳴り、最初の一言以外、後は何も入ってこない。「嘘だ……そんなはずはない……詐欺だ……」ふらついた足取りで数歩進んだあと、そのまま床に崩れ落ちる。「調べろ!今すぐ遥の消息を確認しろ!」秘書は、失意に打ちひしがれて座り込む航平の姿に、息をのむ。一体、何が起きているのか。航平は会社に戻り、震えるような気持ちでひたすら待ち続ける。その数十分は、何年にも思えるほど長く感じられる。秘書が受け取った報告書に目を落とし、一瞥しただけで凍りついたように立ち尽くす。航平は震える手で書類を奪い取り、視線を必死に焦点へと結び、一字一字を追っていく。――川嶋遥(かわしま はるか)……女……二十六歳……孤児…………二〇一八年七月三日、婚姻届提出
Rebyu