All Chapters of 苦海に浮かび沈みても、君は渡らず: Chapter 1 - Chapter 9

彼の熱い吐息が私の頬にかかった。一瞬、彼の瞳の奥に――まるで深い愛情のような光を見た気がした。謙一は端正で整った顔立ちをした男だ。かつて私は、そんな彼に心を動かされたこともある。けれどその想いは、夜に咲いてすぐ散る月下美人のように、ほんの一瞬で消えてしまった。彼が身をかがめ、私に口づけようとしたそのとき――私は顔をそむけて避けた。謙一の眉がぴくりと動き、怒りをにじませたその瞬間、私は先に口を開いた。「水野社長……私、もうこの家を出ようと思います」部屋の空気がぴんと張り詰めた。「出る？」彼が眉をひそめた。「どこへ行くつもりだ」私は穏やかに答えた。「約束の五年が過ぎました。琢也も自分のことは自分でできるようになりました。……ですから、水野家を出るべきだと思います」彼は一瞬黙りこみ、私の身体に残るあざへ視線を落とすと、冷たく笑った。「まさか、琢也のことで怒ってるのか？まだ八歳の子どもだぞ。いつまでもそんな些細なことにこだわるな。もういいだろう。何と言っても、彼はお前の甥だ」彼の声には、どこか施しのような響きがあった。「何が欲しい？もう十年、契約を延ばして『俺の妻』でいたいのか？」私は首を振った。「何もいりません。琢也は私を憎んでいます。水野社長も私を見ると不快になります。みんなが不幸になるくらいなら、離婚の書類にサインして、お互い楽になったほうがいいと思います」思いもよらぬ言葉だったのか、謙一は一瞬、表情を失った。だがすぐに、鼻で笑った。「離婚？水野家を出たら、お前は本当に何もかも失ってしまうぞ？神崎家が戻してくれるとでも？恵里、よく考えろ。おとなしくしていれば、俺はもう十年『水野夫人』をやらせてやってもいいさ。今日のことは琢也が悪かった。俺からも言っておく」もう先ほどまでの熱はすっかり冷めていた。彼は面倒くさそうに背を向け、そのまま部屋を出て行った。――あと三日。たった三日我慢すれば、私は自由になれる。そう指を折りながら数え、疲れた身体で部屋の扉を押し開けた。だが次の瞬間、私はその場に立ち尽くした。整然としていたはずの部屋が、めちゃくちゃに荒らされていた。絵を描くためのイーゼルは倒され、完成した絵は細かく裂かれ、絵の具も筆もすべて壊されていた。この五年間、私は

母は狼狽したように部屋を出て行った。謙一はテーブルの上の写真を一瞥し、彼の秘書がすぐにそれを片付けた。彼は手に持っていた紙袋を私の隣に置き、いつも通り平静で冷淡な表情を崩さなかった。自分にとってどうでもいいものに、彼は怒りすら感じない。謙一は言った。「これは俺と琢也で買ったもの。彼からのお詫びのつもりだ」袋の中には高級なクレヨンと白い厚紙が入っていた。だが厚紙はクレヨンには向かないし、そもそも私はクレヨン画など描かない。それでも、謙一にとって「贈り物」をすること自体が最大の譲歩なのだ。飴と鞭は彼の常套手段だった。謙一は続けた。「明後日は琢也の誕生日だ。ちゃんと彼にサプライズを用意してやれ。機嫌が良くなったら、お前のことも少しは好いてくれるようになるだろう。そうすれば、これからはもっと言うことを聞くようになるさ」その声は珍しく穏やかで、どこか宥めるような響きを帯びていた。たぶん、私が喜んで素直に従うと思ったのだろう。だが私は首を振った。「明後日の飛行機のチケット、もう買いました」謙一の顔色が一気に暗くなった。「お前は俺をあんなに愛しているのに、それでも行くというのか？」そう、彼は愛を最も強い檻だと信じている。人を縛り、何度でも譲歩させ、屈服させるものだと。「いやだ！」言いかけた謙一の言葉を、子どもの鋭い叫び声がかき消した。琢也がいつの間にか帰ってきており、怒りに満ちた小さなモンスターのように私を睨みつけていた。「僕、この人と一緒に誕生日なんか過ごしたくない！彼女はただ神崎家がうちに押し付けた使用人だ！そんな卑しい人間が、僕の誕生日を祝う資格がない！あんた、出て行け！僕の家から出て行け！」もう痛くはないと思っていた。けれど、その幼い口から放たれた侮辱と拒絶の言葉が、胸の奥を針で刺すように痛ませた。五年間、細やかに尽くしてきた世話も、血のつながった家族の情も、結局は部外者の数言の噂話には敵わなかった。私は真っすぐに琢也を見つめた。「あなたの望み通りにするわ」……この茶番は、謙一の一言で終わった。彼は私のカードを停止し、子どもを抱きかかえながら「よく反省しろ」とだけ言い残して、振り返ることなく出て行った。彼は知らない。私には、もうお金など必要ないということを。

私は床に落ちた絵筆を拾い上げ、冷たく距離を置いた声で言った。「久しぶりね」謙一は反射的に眉をひそめたが、琢也が先にその手を振りほどき、私の方へ駆け寄ってきた。「神崎恵里」開口一番、その声音には明らかな苛立ちがにじんでいる。「僕にくれるって言った誕生日プレゼント、どうしたの？」彼は当然のように手を差し出し、責めるような目で私を見つめた。だが、私はもう彼を甘やかすことはしなかった。ただ静かに言った。「琢也、私はあなたに何も借りていないわ」その言葉に、彼の目が大きく見開かれた。信じられないといったように唇が震え、すぐに涙が溢れた。「なんで……なんで借りてないなんて言うの！もし、もしあんたが父さんを誘惑しなかったら、母さんは死ななかったんだ！」──そうか。この数年間、彼の耳元で囁かれてきたのは、そんな言葉だったのか。私は表情一つ変えない謙一を見て、胸の奥が冷えていくのを感じた。「それ、誰が言ったの？」私は涙で滲む彼の瞳を見下ろしながら尋ねた。琢也は慌てて袖で涙を拭った。「おばあちゃん……おばあちゃんが言ってた。あんたは僕の母さんになりたくて、父さんを誘惑したんだって」全身が震え、立っているのもやっとだった。これまで私は、そんな根も葉もない噂を流していたのは謙一の周りの女たちか、あるいは腹黒い誰かだと思っていた。まさか──それが私の実の母だったなんて。なぜ？どうしてそんなことを？「母が……？どうして……？本当は、母が私を──」言葉が喉に詰まり、震えた声しか出なかった。おそらく私の顔があまりにも恐ろしかったのだろう。琢也は一歩、怯えたように後ずさった。謙一が静かに息を吐いた。「人を思い通りに操りたければ、まずその人の支えを壊せばいい。恵里、お前の母親は琢也がお前を憎むことを望んでいたんだ。子どもがお前を憎めば憎むほど、お前は水野家の中で孤立され、俺にすがるしかなくなる。最初から最後まで、お前の母親が望んでいたのは、ただお前が水野家での地位を盤石にすることだけなのだ」彼の声は冷酷だ。まるで氷の刃で、私の見たくなかった真実を切り裂くように。「彼女はお前が水野家で地位を盤石にすることを望んでいた。でも子どもに慕われることは望まなかった。もしお前が本当の意味で力を持てば、彼女はもうお前を操れ

私は彼女の言葉を遮った。「もうやめて！彼は私の子どもじゃない！私はあなたたちに何の借りもない。道徳を盾に私を縛らないで」その瞬間、母はようやく動揺した。「でも……あなたが帰らなかったら、謙一が私たちを許してくれないのよ」私は彼女を見つめ、一言一言はっきりと言った。「この五年で、生んでくれた恩は返した。ひと月前に送ったあのお金で、私たちの親子関係は終わりにした」母の顔から血の気が引いた。あの金額は小さくなかった。なのに、彼女は当然のように受け取り、理由を尋ねることさえしなかった。父は深くため息をつき、母の腕を引いた。「行こう」その背中が急に老けて見えた。幼い頃の私は、父をただ母の言いなりになる弱い男だと思っていた。でも私の人生の悲劇は、まさにこの男が母を放任し続けたことから始まったのだ。私は一切の情を捨て、迷いなく二人を追い出した。私は花屋の中に立っていた。この店は、ほとんど一か月を費やして、少しずつ作り上げた私の心血そのものだ。──風鈴が鳴った。また顔を見たくない誰かかと思い振り返ると、そこにいたのは湊真だった。彼はわずかに息を切らし、額には薄い汗がにじんでいた。日差しがちょうど彼の顔を照らし、その鋭い輪郭を柔らかく見せていた。彼は私に尋ねた。「大丈夫ですか？」「え？」私は思わず聞き返した。「ネットで動画を見ました。何かあったのですか？」私はすぐに気づいた。彼が言っているのは――さっき母と私が道端で揉み合っていた、その動画のことだ。どうりで汗だくだったわけだ。きっと急いで駆けつけてくれたのだろう。たったの他人、友人と呼ぶことすらできない関係の人が、こうして心配してくれる。胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなった。「大丈夫ですよ」そう笑って答えたあと、ふと思い出したように言った。「……あ、そうだ、絵がもうできました。ちょうど来てくれたから――」指の長くくっきりとした手が、静かに私の絵のフレームに触れた。顔を上げると、いつの間にか湊真がすぐそばに立っていた。彼は私より頭半分ほど高く、近づいた途端、圧のような存在感を感じた。眉を寄せ、無表情な時の彼は少し厳しく見える。「森宮さん？」「俺は……」「恵里」背後から低い男の声が割り込んだ。──謙一だ。胸の奥