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選ばれなかった指輪 のすべてのチャプター: チャプター 1 - チャプター 10

10 チャプター

第1話

私は同じ男と、七度結婚した。そして彼も同じ女のために、七度、私と離婚した。彼が「自由の身」となって初恋と休暇を過ごすため、彼女が噂にさらされないように守るため。初めて離婚した時、私は手首を切って彼を引き留めようとした。救急車のサイレンが鳴り響く。だが彼は一度も病院に来てくれることはなかった。二度目は、私は自分の価値を犠牲にして彼の秘書になった。ただ、もう一度だけ彼の横顔が見たかったから。私のヒステリーも、譲歩も、妥協も――彼にとっては、いつもの「一時的な別れ」の儀式でしかなかった。彼は予定通りに私の元へ戻り、予定通りにまた去っていった。だから六度目には、もう泣き叫ぶこともなく、黙って荷物をまとめた。二人で過ごした部屋から、静かに出て行った。そして今回は七回目。今度こそ、私が本当に去るのだ。「白石雪歌(しらいし せつか)が帰国した。私たち……離婚しましょう」そう告げて、私――夏目千昭(なつめ ちあき)はサイン済みの離婚届を夫・入江羽空(いりえ はく)の前に静かに置いた。彼の表情が一瞬で凍りついたが、すぐに我に返り、慣れた手つきで署名をした。私から離婚届を差し出すのは、これが初めてだった。それでも彼は、これまで六回と同じように、聞き慣れた口調で私に約束した。「一ヶ月もすれば、雪歌も帰る。そうしたら……また籍を入れ直そう」昔の私なら、そんな言葉では満たされなかった。誓約書を書かせたり、無理に約束させたりしたかもしれない。でも今回は、心がまったく動かなかった。返事する気すら起きなかった。「千昭……聞いてるのか?」羽空は眉をひそめ、私の沈黙に苛立っている。私はただ、軽くうなずいた。「うん」そう答えると、私は淡々と服を畳み、スーツケースに詰め続けた。羽空が「また籍を入れ直そう」と言えば、必ず約束は果たす。彼は業界でも誠実で知られている。そこは疑いようがなかった。たまたま私たちの関係は、最初から夫婦というより、契約更新を繰り返す、ビジネスパートナーに近かったから。決められた期日が来たら、形式的に「婚姻届」と「離婚届」という「契約書」にサインするだけ。一年に二回。これまで、私は十四枚の「契約書」に名前を書いてきた。結婚式の日、彼は言った。「結婚
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第2話

二度目の離婚後、私は羽空の秘書採用試験に受かった。彼の好みに合わせたラテを手に、胸を高鳴らせて会長室のドアを開けた瞬間――そこで見たのは、彼の膝の上で雪歌と絡み合う姿だった。頭が真っ白になった。気がつくと、私は雪歌に掴みかかっていた。次の瞬間、羽空の一撃で地面に叩きつけられた。「あっ……!」私は床に倒れ込んだ。ドアの外には、見物の社員たち。まだ私を「会長の奥様」だと思っているから、雪歌を見る目は皆、軽蔑に歪んでいた。彼女の評判を気にしたのだろう。羽空は、泣いて否定する私を無視し、私のバッグを奪うと中身を床にぶちまけた。役所からもらったの離婚届受理証明書が、地面に散らばった。たった一枚の紙が、私と羽空の今の関係を、誰の目にも明らかにした。あの日以来、羽空は私と離婚するたびに、SNSでそれを公表するようになった。誰もが知っている――入江羽空が愛しているのは白石雪歌だけ。私こそが、しがみついて離れない女だと。……でも、今回は違う。彼の心配は無用だった。私は少しも躊躇せず、スーツケースの取っ手を握った。「ご心配なく。もう……お二人の邪魔はしないから」羽空は訝しげな表情で私を見つめていたが、私が一歩、ドアの外へ踏み出した瞬間、慌てたように声をあげた。「来月の十三日……再婚の日だ。忘れるな」私は思わずぼんやりとした。――なんて偶然なんだろう。私の海外に行くフライトも、同じ来月の十三日に決まっていたのだ。……雪歌が帰国してから、羽空が私を気にかけることは一度もなかった。私も、もはや彼を追いかけない。離婚後に彼の行動を探り、現れそうな場所で待ち伏せする……あの狂気じみた日々は終わった。親友の唐沢万純(からさわ ますみ)と、寿喜鍋を囲み、タピオカを啜り、焼鳥をつまみにハイボールを傾ける……そんな、楽しい日々を送っていた。気づけば、出国まであと二十日。その日、万純と待ち合わせたレストランで。料理を待っていると、偶然、羽空と雪歌が腕を組んで入ってきた。羽空が雪歌の腰を抱き、二人は楽しげに笑い合う。誰の目にも「お似合いのカップル」に見えるだろう。「……千昭?」彼の視線が、真っ先に私を捉えた。雪歌は甘えるように羽空の首に腕を回し、微笑んだ。
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第3話

雪歌が何度も彼の名前を呼び、声にはもう明らかな苛立ちがにじんでいた。ようやく羽空は、しぶしぶといった様子で私から視線を離した。……あのレストランでの出来事が、出国前の最後の関わりになると思っていた。けれど。まさか、羽空の秘書を正式に辞めたその夜に、彼からビデオ通話がかかってくるとは。信じられない気持ちで、思わず拒否しそうになった指をぐっと抑え、代わりに音声通話に切り替えた。受話器から、彼の不機嫌そうな声が響く。「なんで音声だけなんだ?」私は適当に答えた。「化粧してないから。ビデオはちょっと……」言ってすぐ後悔した。まるで「好きな男の前ではきれいでいたい」って言っているみたいじゃないか。案の定、羽空はふっと笑った。機嫌が良くなったような、軽い調子で言う。「もう長年連れ添った夫婦だろ。お前のどんな姿を見たことがないっていうんだ?」その冗談めいた口ぶりに、胸の奥がざらりと嫌な感触になった。私は冷たい声で返した。「用事はあるの?」私のよそよそしい態度を敏感に感じ取ったのか、彼は姿勢を正し、真面目な声に変わった。「人事から聞いたぞ。お前、辞めたんだって?」「うん」短く答えるだけ。それ以上の説明は必要ない。一瞬、沈黙が流れた。羽空は軽い調子で続けたが、どう聞いても無理に話題を探しているようにしか聞こえなかった。「まあ、いいんじゃないか。せっかくの会長夫人なのに、わざわざ秘書になるとか。苦労を買って出るようなものだ。それにしても、お前の勤務ぶりもすごかったな。会社でお前を見かけることなんて、月に一度あるかないか。でもちゃんと給料は払ってたんだ。会社中にお前がコネ入社だってバレちゃってさ、俺が縁故で人を採用してるって言われてるよ」私はうんざりして、彼の話を遮った。「白石のところに行かなくていいの?」羽空は思わず口ごもった。「別に、彼女と俺は何の関係もないんだ、ずっとそのそばに付き添う必要がないだろう」そう言うと、彼は黙り込んだ。その理由に、自分でも気づいたのだろう。――私も、もう「元妻」に過ぎないのだ。羽空の声が、少しだけ弱々しくなった。「……離婚のことは、悪かったと思ってる。でも、あの時離れなきゃ、雪歌が噂されるのが嫌でさ」私は小さくうな
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第4話

さらに噂によれば、あの二人の喧嘩の原因は、どうやら私にあるらしい。それを聞いても、私はただ無関心に笑うだけだった。今の私は、もうかつてのように、愛のためだけにバカなことばかりする私じゃない。一日中SNSを更新し、羽空や雪歌についての投稿を監視して、二人の関係に少しでもひびが入った瞬間に飛び出し、「彼を本当に愛しているのは私だ」と訴えるような女なんか、とっくにいなかった。熱愛中のカップルは、喧嘩をしてもすぐに仲直りするでしょ。私がその原因の一つになったところで、何の意味がある?私はただ、彼らの「遊び」の一部でしかないんだから。でも、それ以来、羽空からの電話は日に日に増えていった。残念ながら、私は直接切るか、さまざまな理由をつけて会うことを断り続けた。出国前日のこと。彼がコンサートに誘ってきた。「チケットもう取ってある。今夜会場で会おう。な?今日は俺たちの結婚記念日だろ?もう断らないよな?」彼がこれほどまでに頭を下げて、私に懇願したことは一度もなかった。これまでは、いつも彼が気まぐれに言葉を紡ぎ、ささやかな一歩を踏み出すだけで、私はその歓心を買おうと、残る九十九歩を一目散に駆け抜けていた。けれど最後には、たった一歩でさえも――雪歌のためなら、羽空はそれを引っ込めてしまうのだと気づいたのだ。しかし、私は本当に何と言えばいいのかわからなかった。だって、今日は結婚記念日なんかじゃない。私たちが四度目に「再婚」した日なんだ。離婚と再婚を何度も繰り返す中で、それでも彼に関するすべてを、私は一つ残らず心に刻み続けてきた。結局、私は彼の誘いを受け入れた。だって、あの歌手のコンサートをどうしても見に行きたかったから。でもその夜、私は会場の入口で待てど暮らせど、羽空の姿は最後まで現れなかった。届いたのは、彼からの一通のボイスメッセージだけ。コンサートの喧騒と、雪歌の笑い声が混じる中、彼の申し訳なさそうな声が聞こえた。「ごめん、千昭。雪歌が急に体調を崩して……今、病院に連れて行ってる。 記念日なんて、これからいくらでも一緒に過ごせる。明日、雪歌が帰ったら、お前のしたいこと、何でも付き合うから。な?」そのとき、会場の中から音楽が流れ出した。柔らかい歌声が夜空に溶けていく。――「あな
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第5話

「さよなら、元夫さん」そう言い残して、私はきっぱりと電話を切り、電源を切った。飛行機のエンジン音が轟き始め、胸の奥にようやく「終わった」という静かな解放感が広がる。――その頃。羽空は万純の家にいる。通話が切れたスマホを握りしめ、茫然と立ち尽くしている。かすれた声で、ようやく絞り出すように問うた。「……千昭は、どこへ行った?」万純は腕を組み、冷笑を浮かべた。「今さら聞くの?もう、行っちゃったわよ」「……行っちゃった?どういう意味だ?どこへ行ったんだ!」万純は肩をすくめ、わざとらしく笑った。「ふふ、私が教えると思う?」羽空の表情から一瞬で血の気が引いた。「唐沢、遊んでる暇はない」「あら、入江会長がそんなに焦るなんて珍しいわ」万純は白い目を向けると、くるりと背を向けてドアを開けた。「出て行って、あなたを歓迎する理由なんてないから」羽空は動かず、顔に影が差す。「今日、俺たちは再婚する約束だった。千昭がこのように消えるはずがない」「再婚?」万純は大げさに口元を押さえ、笑い声を漏らした。「入江会長、婚姻届受理証明書をなんだと思ってるの?スーパーのポイントカード?七回集めたら、何かと交換できるとでも?」羽空の瞳が鋭く収縮した。まるで心の奥の、誰にも触れられたくない場所を抉られるようだった。だがすぐに感情を押し殺し、冷たい声で言い放つ。「……千昭の居場所を早く言え!」「千昭はもうあなたの番号をブロックしたのよ。まだ分からないの?」万純は顎を軽く上げ、嘲笑った。「入江、千昭はもう戻ってこない」羽空の我慢は、ついに限界を超えた。彼は苛立ちを爆発させ、ソファの肘掛けを激しく叩きつけた。「千昭がそんなふうに消えるわけがない!俺たちのことに、お前が口を出す権利はない!」「私が権利がないって?まさかあなたがあるっていうこと?」万純は嗤うように笑い、引き出しから一束の書類を取り出して、彼の前に放り投げた。「なら、これを見なさいよ。あなたが千昭を邪魔する権利があるのかどうか?」羽空はうつむき、紙の内容を見た瞬間、息を呑んだ。それは――私の退職証明書、銀行口座の解約証明書、そして……行き先だけが丁寧に塗りつぶされた片道航空券。「……これで分かった?」
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第6話

羽空の声はかすれ、瞳は真っ赤に染まっていた。その瞬間、彼はようやく悟った。今度こそ、本当に自分の妻に捨てられたのだと。……羽空はまるで操り人形のように家へ戻った。ドアを開けた途端、懐かしい香りが鼻をくすぐった。――豚汁だ。千昭が得意だった、あの優しい味わいだ。羽空の心臓が激しく鼓動した。目の奥に一瞬、希望の光が灯る。「……千昭?戻ってきたのか?」彼はほとんど転がるようにキッチンへ駆け込んだ。期待に輝いた瞳が、そこでぴたりと止まった。笑みも、ゆっくりと消えていった。そこにいたのは千昭ではなかった。雪歌が白いシルクのネグリジェ姿で、ゆっくりとアクをお玉で軽くすくい取っている。彼女は羽空を見るなり、柔らかな笑みを浮かべた。「羽空、おかえりなさい」その一言で、胸の奥の期待が一瞬にして崩れ去った。羽空の表情は、冷たく閉ざされた。「もう海外に帰ったはずだろう?」彼は確かに、自ら雪歌を空港まで送ったはずだった。「やっぱり……」雪歌はお玉を置き、羽空に歩み寄った。華奢な指先が、彼の胸元にそっと触れた。「羽空が恋しくて……離れられなかったの。もう二度と、行かないわ」彼女は顔を上げ、その瞳に欲の光を宿した。「ねえ、結婚しましょう」羽空は一瞬、何かの冗談を聞いたかのように笑い、乱暴に彼女を突き放した。「……結婚?お前は自分を何様だと思ってる?」雪歌の顔が強張った。「どういう意味?」「俺の意味は――」羽空の声は氷のように冷たかった。「俺が再婚する相手は夏目千昭であって、お前じゃない」「あり得ない!」雪歌が叫んだ。「羽空、私のために何度も夏目を捨てたでしょう!今さら何を気取ってるの!」羽空の瞳に一瞬、狼狽の色が走った。そして、それはすぐにより深い冷たさへと変わり果てた。「俺が離婚したのは、お前の評判を守るためだ。愛していたわけじゃない。お前が何年も俺たちの間に入り込まなければ、千昭は去らなかった!」雪歌の顔が真っ白になり、次の瞬間、羞恥心と怒りで真っ赤に染まった。「嘘よ!それだけなら、どうして毎回ちゃんと彼女と再婚したの!?」羽空は言葉に詰まり、目の奥にかすかな虚ろいが走った。「……俺は、彼女に約束したからだ」――そうだ。
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第7話

「今すぐ出て行け」羽空は冷たく言い放つと、ポケットからスマホを取り出し、素早くボディーガードの番号を押した。「すぐに来い。白石を彼女がいるべき場所に戻せ」雪歌の顔色が一瞬で青ざめた。「やめて!羽空!私、そんなにあなたを愛してる……」だが返ってきたのは、玄関のドアが開く冷たい音だけ。黒いスーツのボディーガードが二人、無言で彼女の両腕を掴んだ。羽空はその場に立ち尽くし、床に散らばった陶器の破片とこぼれた豚汁を見つめた。そして、ゆっくりと膝をついた。味噌の香りが、静まり返った空気にただよう……もう二度と戻らない、あの人の温もりのように。……飛行機が異国の滑走路に着陸した瞬間、私は窓の外の景色がぼやけて見えた。見知らぬ風景に、胸が締め付けられる。到着ロビーを出ると、少し背を丸めた父親の姿があった。かつてビジネス界で名を馳せた父親は、今では白髪が目立ち、私を見るなり、目尻を赤くした。昔、夏目グループが海外へ移るとき、私は羽空のために国内に残り、父親の反対を押し切って結婚した。親子の縁が危うくなるほどだった。あれから六年、初めて家族と再会した。「父さん……」声が震えた。涙が溢れながら父親の胸に飛び込んでいた。「本当にごめんなさい……あんな男のために家族を捨てるなんて……」父親は力強く私を抱きしめ、過去のわがままを責める気もない。「家に帰って来られて何よりだ」その一言で、張り詰めていた心が解けた。――私の本当の「居場所」は、両親のそばにあるんだ。私は涙で目を潤ませ、ようやくわかった。以前の私は目がくらんで、初恋のために七度も私と離婚した羽空との家を、自分の居場所だと勘違いしていたのだ車の中で、父親が静かに言った。「入江グループの株を17%、買い取った」私は首を横に振った。「私のための復讐は必要ないよ。私自身のことは、自分で解決したいの」「復讐じゃない」父親は真剣な目で私を見た。「これは、君が戻ってきて夏目グループを継ぐことへの、プレゼントだ」……三年後。「会長、第三四半期の決算報告です。純利益は前年同期比65%増です」秘書が丁寧にファイルを差し出す。私はオーダーメイドのスーツをまとい、高層オフィスから金融街を見下ろす。三年
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第8話

羽空はスクリーンに映る私の姿を凝視していた。外国の商務省高官と握手を交わす映像に、喉が激しく動いた。「財務部に伝えろ……銀行への担保株の利息を、さらに2ポイント上げろ」……ガルフストリームG650が成層圏を突き抜けるころ、私はホテルのラウンジで、特別な宅配便の受領書にサインしていた。荷物を開けると、コピーの七枚の婚姻届受理証明書と七枚の離婚届受理証明書が現れた。照明の下、それらは皮肉な輝きを放っていた。中には万純からのメモが挟まっていた。【あの男、これを全部集めたら千昭が戻ってくると信じてるみたい】私は静かにベルを押し、やってきたウェイターに微笑んだ。「これ、シュレッダーにかけておいてください」……羽空が私を見つけたのは、政略結婚の相手――一条グループの一条幻延介(いちじょう げんのすけ)とカフェでデートしていたときだ。N国のガラス張りのカフェで。幻延介の指先が、ゆっくりとカップの縁をなぞる。この三年、ビジネス界で「狼」と呼ばれるこの男が、こんな穏やかな表情を見せるのは私の前だけだ。「君と出会って、もう三年四ヶ月」彼はそう言い、スーツの内ポケットから青いベルベットの小箱を取り出した。「もう、日数計算はやめたい」箱が開いた瞬間、ガラス越しの陽光が一斉にそのエメラルドカットのメインストーンへ集まった。12カラットの稀少なピンクダイヤは、二十数個の最高級ホワイトダイヤに囲まれ、星の輪のようだった。「先月、S国銀行の金庫から取り寄せた」彼は、時計をはめた私の手首をそっと持ち上げた。「思ってたより、ずっと君に似合う」無数の契約書にサインしてきたその手が、今は緊張でかすかに震えている。幻延介の声は、珍しくためらいがちだった。「薬指が嫌なら、ネックレスにしてもいい」私は笑って首を横に振り、指輪をそのまま薬指を差し出した。――その瞬間、鋭い破裂音が室内を切り裂いた。強化ガラスが砕け、無数の破片が陽光を反射する。その中を、羽空が獣のように突進してきた。そのハンドメイドの革靴が砕けたガラスを踏み、耳をつんざく音を立てる。「千昭!」血走った目で、彼は私と幻延介のつないだ手を睨みつけた。「お前は俺の妻だ!今ここで何をしてる!二重結婚か!」幻延介は私と羽空の
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第9話

羽空はスマホを取り出し、一つの動画を再生した。画面には、雪歌がやつれた姿で精神科病院の窓辺に立っている。薬の副作用で顔はむくみ、別人のように変わっていた。彼女は無表情で、ぼんやりと窓の外を見つめている。「あの女を売春させ、精神科病院にも入れたんだ」羽空は必死に訴える。「お前があいつを憎んでるから、俺は報復したんだ……!」「私が去った理由が、彼女だと思ってるの?」私はふっと笑った。「それなら教えてあげるわ。私は、もうどうでもよくなったの。彼女も、あなたも」その瞬間、幻延介が静かに私の手を包んだ。二人の指が優しく絡み合う。羽空の視線が、その繋がった手に釘付けになった。火傷したように、体が微かに震える。「来月、私たちは結婚する」私は穏やかに告げた。「その時は、ぜひご出席ください」その言葉に、常に冷静な幻延介が一瞬で笑みを浮かべ、少年のように嬉しかった。しかし、羽空の唇が小刻みに震え始める。次の瞬間、彼はいきなり私の腕に縋りついた。「ダメだ……千昭、ダメだ……そいつと結婚なんてしないで!一生俺を愛すると誓ったじゃないか……お願いだ、俺を捨てないで!」私は彼を見つめ、静かに言った。「七年前、あなたが初めて白石のために私と離婚した時、私も同じようにあなたに縋った。手首を切ってまで引き止めた。血で床が染まっても、あなたは一度も振り返りもせずに彼女のもとへ出て行った。救急車を呼んだのは――あなたじゃなく、家政婦だった。その後、一ヶ月入院したけど、あなたは一度も見舞いに来てくれなかった」幻延介がそっと私の肩を抱く。その時初めて、自分の体がまだ震えていることに気づいた。「もう大丈夫だ、千昭」幻延介の声は低く優しい。「過去は終わった。さあ、行こう」羽空が崩れ落ちるように膝をつき、周囲の視線も気にせず私の足に縋りついた。「行かないで!お前がいなきゃ、生きていけない……!この三年、ずっとお前を探し続けた!世界中を探したんだ!」私は彼の乱れた髪を見下ろした。かつて私を夢中にさせたその顔は、今は涙と絶望で歪んでいる。しかし、不思議なほど心は静かだった。底なしの湖のように……「入江さん」幻延介の声が冷たく響く。「もう一度、俺の婚約者に触れたら、明日
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第10話

アハマ諸島のピンクサンドビーチ。三百個のクリスタルランプが、夜の海を幻想的に照らし出していた。ヴェラ・ウォン最新作のウェディングドレスをまとう私の鏡に映る顔は、三年前よりずっと穏やかで、輝いていた。「夏目さん……」スタイリストが小声でささやく。「外に……男性の方が……」万純が即座に遮った。「千昭はお会いできませんとお伝えして」私はヴェールを整える手を止めた。「……入江が、まだ?」「昨夜からずっと、ビーチの入口で跪いたままよ」万純は軽蔑そうに言った。「千昭に会うまでは立たないって。警備員が三度も追い出そうとしたけど」窓越しに外を見ると、暴雨に打たれた男は全身ずぶ濡れで、高価なスラックスは粗い砂で擦り切れ、膝から血がにじんでいた。ボディーガードの差し出された傘を振り払い、まるでこの雨で罪を洗い流そうとするかのように。そこへ、幻延介がドアを開けて入ってきた。手にするタブレットに映っているのは、入江グループの株価が暴落するリアルタイムデータだ。――ちょうど半時間前、一条グループが入江グループの最後の7%株式の買収を完了したばかりだった。「結婚式の生中継をあいつに見せようか」彼は私の肩に顎を乗せ、教会内部のライブ映像を映し出した。彼の声音は穏やかで、まるで今日のメニューについて話すかのように。「わざと、あの年君たちが結婚した教会を選んだんだ」私は笑って、彼の手を軽く叩いた。「子供みたい」「千昭!」暴雨の中から、空気を引き裂くような叫び声が響く。「出て来い!俺に会え!」羽空はいつの間にか警備員たちを突破していた。豪雨の中、彼は海水に濡れたビロードの小箱を掲げる。中には、緑がかった翡翠の指輪――私たちが初めて結婚した日、彼が露店で適当に買ったペアリング。「……俺、胃がんの末期だ。医者があと三ヶ月って……」彼の声は震えていた。「頼む……最後に一度だけ……会ってくれ……」幻延介が突然私の手を強く握った。この「狼」が、目尻を赤くして震えている。私がまだ羽空に心を動かされるのではないかと心配してる。でも、もうそんなことはない。私はそっと幻延介の手を握り返し、スタッフに向かってうなずいた。「式を始めましょう」オルガンの音が響いた瞬間、砂浜か
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