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第8話

Author: 悪女ヨ
羽空はスクリーンに映る私の姿を凝視していた。外国の商務省高官と握手を交わす映像に、喉が激しく動いた。

「財務部に伝えろ……銀行への担保株の利息を、さらに2ポイント上げろ」

……

ガルフストリームG650が成層圏を突き抜けるころ、私はホテルのラウンジで、特別な宅配便の受領書にサインしていた。

荷物を開けると、コピーの七枚の婚姻届受理証明書と七枚の離婚届受理証明書が現れた。

照明の下、それらは皮肉な輝きを放っていた。

中には万純からのメモが挟まっていた。

【あの男、これを全部集めたら千昭が戻ってくると信じてるみたい】

私は静かにベルを押し、やってきたウェイターに微笑んだ。

「これ、シュレッダーにかけておいてください」

……

羽空が私を見つけたのは、政略結婚の相手――一条グループの一条幻延介(いちじょう げんのすけ)とカフェでデートしていたときだ。

N国のガラス張りのカフェで。

幻延介の指先が、ゆっくりとカップの縁をなぞる。

この三年、ビジネス界で「狼」と呼ばれるこの男が、こんな穏やかな表情を見せるのは私の前だけだ。

「君と出会って、もう三年四ヶ月」

彼はそう言い、スーツの内ポケットから青いベルベットの小箱を取り出した。

「もう、日数計算はやめたい」

箱が開いた瞬間、ガラス越しの陽光が一斉にそのエメラルドカットのメインストーンへ集まった。

12カラットの稀少なピンクダイヤは、二十数個の最高級ホワイトダイヤに囲まれ、星の輪のようだった。

「先月、S国銀行の金庫から取り寄せた」

彼は、時計をはめた私の手首をそっと持ち上げた。

「思ってたより、ずっと君に似合う」

無数の契約書にサインしてきたその手が、今は緊張でかすかに震えている。

幻延介の声は、珍しくためらいがちだった。

「薬指が嫌なら、ネックレスにしてもいい」

私は笑って首を横に振り、指輪をそのまま薬指を差し出した。

――その瞬間、鋭い破裂音が室内を切り裂いた。

強化ガラスが砕け、無数の破片が陽光を反射する。

その中を、羽空が獣のように突進してきた。

そのハンドメイドの革靴が砕けたガラスを踏み、耳をつんざく音を立てる。

「千昭!」

血走った目で、彼は私と幻延介のつないだ手を睨みつけた。

「お前は俺の妻だ!今ここで何をしてる!二重結婚か!」

幻延介は私と羽空の
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