桜庭美羽(さくらば みう)はほとんど眠れぬまま、朝を迎えた。目元の腫れを隠すため、冷たいタオルで丁寧にケアしてから、娘の桜庭香澄(さくらば かすみ)のために朝ごはんを作る。家には家政婦もいるけれど、香澄の朝食だけは、いつも美羽が手ずから作ると決めていた。香澄はもう中学一年生。昨夜の夫婦の口論を、彼女がこっそり聞いていたことに、美羽は気づいていた。香澄は静かにリビングへ来て、腫れた母の目元を見上げ、そっと抱きつく。「ママ、そんなに無理しなくていいよ。パパが悪いんだから、許さなくていいんだよ」美羽は苦笑しながらも、娘の柔らかい髪を撫でた。「大人のことは、気にしなくていいの。余計なことは考えずに、学校行ってきなさい」香澄はうなずき、朝食を済ませてから、運転手に連れられて学校へ向かった。美羽はひとり、リビングのソファにゆっくりと沈み込む。疲れ切った体で天井を見上げると、手入れの行き届いた黒髪が鎖骨に柔らかく散る。ふわりと肩を包むニットの下からは、どうしても隠しきれないしなやかな曲線がのぞく。三十六歳の今も、肌は驚くほど白く、皺一つ見当たらない。美羽は、生まれつき華やかで目を引く美人で、どこを見ても非の打ちどころがなく、昔からずっと告白されることばかりだった。けれど、美羽が心を動かされたのは、大学に入ってから。二年間もひたむきに想い続けてくれた桜庭京介(さくらば きょうすけ)の熱意に、初めて胸が揺れた。大学を卒業するとすぐに京介と結婚し、次の年には娘の香澄を授かった。京介はもともと資産家の家に生まれ、ここ数年は時代の流れに合わせて会社をIT化し、事業もまさに絶好調だった。だから美羽は、何も心配せずに暮らしてこられた。年齢を重ねても美しさは衰えず、むしろ気品だけが増していく。美羽の美しさは、周りでもよく知られていた。「この顔とスタイルで、京介を一途に夢中にさせているんだ」なんて、よく噂されてきた。そんな京介が裏切るなんて、美羽は一度たりとも想像したことがなかった。でも、偶然会社に立ち寄った日、地下駐車場で京介が、車の中で別の女と抱き合っている場面に出くわした。その瞬間、頭の中で何かが崩れ落ちる音がした。十年以上も仲の良い夫婦。信じてきた幸せな家庭。誠実だと思っていた夫が、あんな場所で他の女と我慢できずに――美羽
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