All Chapters of 消えた約束、戻らぬ日々: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

間もなくして、ある重要なパーティーが開かれた。柊は破格の扱いで、綾子を伴って出席した。彼女は執事として随行しているはずだったが、立っていたのは本来、正妻がいるべき場所だ。宴の途中で、柊のスマホが震えた。彼が取ろうとした瞬間、綾子がそっとその手を押さえ、控えめな声で言った。「神宮寺様、宴の最中に雑事を処理するのは礼を欠きます。どんなに大事なことでも、後になさってください」柊の動きが一瞬止まり、彼は本当に携帯を引っ込めた。その様子を見た酔った客の一人が、隣に向かって冷やかすように言った。「へぇ、神宮寺さんはあの執事をずいぶん可愛がってるらしいな。たかが使用人のくせに、礼儀が何よりも上だ。電話も取らせてもらえないとは……」その言葉が終わるより早く、柊の目に鋭い陰が走った。彼の手の中のクリスタルグラスが、音を立てて砕け散り、破片とワインが飛び散る。次の瞬間、彼は一歩踏み出し、その男の襟首をつかむと、風を裂くような拳を叩き込んだ。「お前ごときが、俺の女を語るな」声は低かったが、氷のように冷たく、会場全体の空気が一瞬で凍りつく。その一撃は、無言の宣言でもあった。この男の心の中心にいるのは、もう別の女だ。口の軽い客は一瞬で酔いが醒め、地に這いつくばって必死に謝罪を乞うた。柊は乱れたスーツの襟をゆっくり整えると、彼に一瞥もくれず、綾子を抱いて会場を後にした。帰りの車の中、綾子は彼の肩にもたれ、甘く囁く。「神宮寺様、さっきのこと……嬉しかったです」柊が返事をしようとしたその時、車の側面で轟音が響いた。耳をつんざく衝突音とブレーキの音が空を引き裂いた。車体全体が制御を失い、回転した。危機一髪のその時、柊はほとんど反射的に、体をひねって綾子を強く抱きしめ、自らの背で衝撃を受け止めた。意識が戻ると、耳元では部下たちの焦った声が聞こえる。彼が見下ろすと、腕の中の綾子は怯えているものの、傷ひとつなかった。その瞬間、柊の脳裏に、かつての光景がよぎる。あの頃も同じように、七海を庇って身を翻した。事故の直前、自分がとったあの動作が、純粋な体の記憶だと彼は悟っていた。その席に座っていたのは、いつも七海だったからだ。だが、感謝に満ちた綾子の瞳を見つめるうち、柊は何も言わなかった。病院で、傷は丁寧に処置された。部下たちは一
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第12話

使用人は恐怖に震え、その場に膝をついた。「神宮寺様……そ、それが月島執事が新しいルールを作りまして、古くからの者たちは少しの過ちでも厳しく罰せられるように、叩かれたり、追い出されたり、中には……行方の分からない者もいます」柊は痛むこめかみを押さえ、胸の奥に得体の知れない苛立ちが湧いたが、深く追及はしなかった。それからほどなくして、大型プロジェクトの入札を落とすという重大な失態が起きる。柊は書斎で怒りを爆発させ、徹底的に調べさせた結果、原因は綾子の小さな、しかし致命的なミスに行き着いた。綾子は涙に濡れた瞳で頭を垂れ、自分の過失を認めた。柊はその姿を見つめ、込み上げる怒りを必死に抑え込む。喉まで出かかった叱責の言葉を呑み込み、やっと絞り出したのは「いい」の二文字だ。だがその瞬間、どうしても七海の顔が浮かんでしまう。七海なら、こんなミスは絶対にしなかった。物事をここまで悪化させることも、決してなかった。「七海の消息は、まだか」彼の声には、隠しきれない焦りが滲む。「……まだ、何の手掛かりも」今度ばかりは、柊も怒りを抑えきれなかった。七海の今回の家出は、いくらなんでも長すぎる。まるで、誰かに見せつけるように、彼はますます綾子を甘やかし、望むものを何でも与えた。ある日、綾子が誰かに殴られたらしく、頬を腫らして泣きながら戻ってきた。彼女の見苦しい姿を見て、柊の脳裏に真っ先に浮かんだ考えは、七海なのか?ついに我慢できなくなって動いたのか?その考えに、怒りよりも先に、奇妙な安堵が訪れた。見ろ、やはりまだ俺のことを気にしている。柊はますます確信した。七海はただ拗ねているだけで、極端な方法で彼と意地を張っているのだと。彼は捜索をさらに強化するよう命じた。時が経つにつれて大きくなっていた不安は、その発見によって一時的に押し込められた。深夜、神宮寺家。綾子は部屋の鍵を掛け、周囲を確認した後、暗号通信で電話をかけた。「そっちは片づいた?」「死んだ」無機質な声が受話口から返ってくる。通話を切った綾子は、長く息を吐いた。張り詰めていた肩の力が、ようやく抜けていく。あのボディーガードの兄がもし目を覚ましていたら、当時、自分が全ての罪を七海に押し付けたことを喋っていたかもしれない。いや、それだけじゃない。あの拉
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第13話

彼女の胸の奥で、不吉なざわめきが走った。上着を羽織ることも忘れ、慌てて階下へ向かう。リビングでは、柊が広いソファに沈み込み、指先に半分ほど燃え残ったタバコを挟んでいた。薄暗い空間の中で、赤い火点が揺らめきながら消えかけている。彼が顔を上げ、綾子を見たとき、その瞳は氷のように冷たく、鋭く、まるで何かを見透かすような光を宿していた。その視線の中に、彼女は久しく見ていなかった他人の色を感じた。綾子の心は一瞬でどん底に落ちた。最初の日々を除いて、柊がこんな疑念を含んだ目を向けたことなど、一度もなかった。「綾子」男は闇の中に座ったまま、感情の見えない声で言った。「俺に隠していることは、ないか」背筋が凍るような恐怖が全身を貫き、心臓が締め付けられる。彼女はまるで、自分の全ての秘密がその目の中で暴かれていくような錯覚に陥った。ドサリと音を立てて、彼女は冷たい床に膝をつく。薄いナイトドレスでは震える身体を覆い隠すこともできない。刹那のうちに、数え切れぬほどの言い訳が頭をよぎる。だが最終的に、彼女は真実の一部だけを差し出す決断をした。最も致命的な部分を隠すために。「神宮寺様、私はあなたに誓って忠実です」涙に濡れた顔を上げ、声を震わせながら言う。「た、ただ……怖かったんです。あの犯人が目を覚ましたら、また騒ぎを起こすんじゃないかって。それで、私がその、処理を頼みました。ちゃんとお金も払っていたのに、あの人たちが欲を出して……」柊の許可なく、彼が見逃した者を勝手に処分するのは、この屋敷では絶対の禁忌だった。彼女は怯えたように話しながらも、柊の反応を注意深く観察していた。柊は黙って煙を吸い、深く吐き出す。煙の向こうの瞳は暗く深く、何を考えているのか全く読めない。怒鳴りもせず、手を上げることもなく、彼女の涙ながらにすがりつくその姿が、どうしようもなく鬱陶しく感じられた。酔って有頂天になった男が、最近の柊が綾子という執事を大切にしているのを見て、笑って近づいてきた。「神宮寺さん、奥さんもう何カ月も姿を見せてないでしょう?もしかして他の男と逃げたんじゃないですか?」その言葉が終わらないうちに、柊の目の中に瞬時に嵐が巻き起こった。ガンッ!重いガラステーブルが蹴り飛ばされた。カップやボトルが砕け散り、人々の悲鳴の中、柊は拳銃を取り出
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第14話

ボディーガードたちが止めようとしたが、連れてきた部下が押さえつける。柊は内室の扉を蹴破った。柳瀬満(やなせ みつる)はのんびりと酒を味わっていた。彼の来訪を予期していたように、ただ淡々とまぶたを上げた。「やあ、神宮寺。珍しいじゃないか、ここまで自分から来るなんて」柊は無駄口を嫌い、一歩、また一歩と詰め寄り、机に両手を突き、身を乗り出して圧倒的な威圧感を放った。歯の間から噛みしめるように問い詰めた。「七海はどこだ」満はグラスを置き、ゆったりと背もたれに靠れ、冷笑を浮かべて言った。「自分の妻がいなくなったのに、俺に聞くのか?場所を間違えているんじゃないのか?」彼の目には隠そうともしない嘲りが満ちていた。「どうした、あの時、あの執事のために、彼女を差し出してた時は、彼女が心を痛めて、去っていくとは考えもしなかったのか?」「黙れ!」柊の理性が切れた。彼は素早く腰の拳銃を抜いて装填し、次の瞬間、冷たい銃口を満の額に押しつけた。彼の目は血走り、荒れ狂う殺意が渦巻いていた。「もう一言でも口を開いたら、撃つぞ!」空気が一瞬で凍り付いた。周囲のボディーガードも瞬時に銃を抜き、緊迫した空気が張り詰めた。しかし銃口を向けられた男は怯えるどころか、逆にその銃口に向かって低く笑い声を漏らした。その笑い声はこの個室に特に不気味に響き渡る。「神宮寺、お前は本当に惨めだな」と彼は嘲笑した。「銃を突きつけたところで何になる?自分で彼女を失くしたんだろう?」柊の激しく収縮する瞳孔と微かに震える銃口を見つめ、彼の口調はますます鋭さを増していった。「このありさまを見ろよ。惨めだ。お前は彼女の居場所を聞きに来たんじゃない。彼女が本当にお前を見捨てたのか、俺に確かめに来たんだろう?違うか?」「黙れっ!」怒号とともに、柊の指が引き金にかかる。こめかみに血管が浮き、呼吸が荒くなる。満はなおもひるむことなく、残酷でゆっくりと語りかけた。「神宮寺、お前は動揺している。ついに理解したのだな、この世には権力や暴力では留められないものがあるということを」柊の喉は詰まり、一言も反論できなかった。血走った目には、激しい怒りの奥に、見透かされた心の慌てと無力感が、どうしても隠しきれずにあふれていた。満の言葉は、鏡のように、彼の心の奥底に潜む恐怖をありのままに映し出し
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第15話

柊の手の中にあったクラスが勢いよく滑り落ち、床に砕ける音が耳を刺した。頭がパッと響くように真っ白になり、何も考えられない。綾子が隣で何か言っているが、その声はハエの羽音のようにぶんぶん耳を引っ掻くだけで、苛立ちばかりが募る。七海が出て行ったのか。本当に出て行くなんて、しかも子どもまで連れて行ったのか。その瞬間、綾子も執事も、頭の中からすべて吹き飛ぶ。これまでに怖さと怒りが交錯し、彼を飲み込まんばかりだ。そのとき、別の部下が入って来て低く報告する。「神宮寺様、病院の方で……あの犯人が目を覚ましました」柊の瞳に冷たい光が一瞬走る。実は彼は以前から、綾子が口封じに手を回したとにらんでおり、彼女が雇った者の手際が雑で、たまたま彼の部下に見つかって止められたのだ。それが、あの夜彼が深夜に綾子を問い詰め「何か隠しているだろう」と詰め寄った理由でもある。幸いその時、綾子は慌てて口封じの件を認めている。今、身代金要求をしていた者が目を覚ます。柊は間もなく、その男の証言と続く捜査から、彼が自ら命じて支払ったはずのボディーガードの家族への見舞金が綾子に横取りされ、一銭も渡らなかったために事態が悪化し、家族が惨死したことを知る。「綾子、お前が言うのとは違うな」男はまぶたすら上げずに圧をかける。「お前は、あいつらが欲深かったと言うのか」綾子の顔色は蒼白になり、全身震えながら跪いて懇願する。柊はかつて自分にとって特別だと思わせたその顔を見つめるが、そこに残るのはただ嫌悪と冷たさだけだ。そんな折、更に重い打撃が届く。彼が長年用意し、巨額を投じた核心プロジェクトが途中で奪われた。間一髪で命拾いした綾子は、藁をつかむように叫ぶ。「神宮寺様、必ず雨宮が外部と結託してあなたに報復したんです」「黙れ」柊は声を張り上げて言葉を断ち、目つきは恐ろしく陰険だ。「もう彼女の名を口にするなら、すぐに消してやる」綾子は恐ろしくて口をつぐむ。かつて高みにいた執事は今や地に伏し、柊の庇護を失えば、彼らは決して許さないことを知っている。彼女は這いつくばり、泣きじゃくりながら哀願した。「神宮寺様、もうしません、どうかここに置いてください、ちゃんと執事の務めを果たします」柊は一瞥すら与えず、手を上げてボディガードを呼び、「連れて行って反省室に閉じ
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第16話

七海は大きな窓の前に立ち、柔らかな陽光が広々とした部屋いっぱいに満ちていた。ここはライヒ国ではない。南方の温暖で住みやすい海辺の街だ。あの「ライヒ国へ行った」という話は、柊の支配から完全に逃れるための嘘にすぎなかった。彼女はスマホを手に取り、経済ニュースの速報に目を落とす。神宮寺グループの重要プロジェクトが突然他社に奪われたという記事が表示されている。その瞳は波ひとつ立たず、わずかに冷えた光を宿していた。今ごろ柊が怒りと混乱に沈んでいるのは、彼女にとって想定内の結果だ。「これは彼が私たちに払うべき代償よ」七海は小さくつぶやく。その声には一片の罪悪感もない。息子が受けた苦しみ、そして自分が味わった絶望に比べれば、これなどまだ足りないくらいだ。この街には柊や綾子の言うルールなど存在しない。息子は穏やかな環境でのびのびと育ち、性格も明るくなった。今では地元の評判の良い小学校に問題なく通っている。七海自身も、柊のそばで身につけた商才と鋭い洞察力を生かし、投資の仕事を始めていた。それが驚くほど上手くいき、事業は日ごとに拡大している。彼女はここに根を下ろし、息子と共に新しい人生を歩むと決めた。母子が暮らすのは立地の良い高級マンション。内装も整っており、あとは自分の好みに合わせて家具を揃えるだけ。温かく、心安らぐ空間だ。すべてが、確かに良い方向へ進んでいた。会社のオフィス選びにもこだわり、彼女は街の中心にある超高層ビルのワンフロア全体を見つけた。見晴らしがよく、間取りも理想的で、まるで会社のために設計されたような完璧な物件だ。ところが、仲介業者からそのフロアをすでに別の若者が先に押さえていると知らされる。相手も起業を予定しているらしい。七海はどうしても諦めきれず、何度も仲介を通して連絡を取り、補償金を出してでも譲ってもらえないかと申し出た。そしてようやく、相手が会って話をすることを了承してくれた。場所は、雰囲気の良い高級レストランに決まった。七海は早めに到着し、どう説得するかを心の中で整理していた。だが、個室の扉が開いた瞬間、現れたのは想像していた若者ではなかった。入ってきたのは三十代前半ほどの男性。濃い色のスーツをきっちり着こなし、背筋が伸び、凛とした佇まいをしている。仲介が話していた若者にどこか似てい
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第17話

レストランの暖かな灯りが、優人の端正な横顔をやわらかく縁取っていた。彼はすぐにはそのオフィスフロアを七海に譲るとは言わず、穏やかに首を傾けて、その口調には、わずかに察知しがたい含みが残されていた。「雨宮さん、この物件はもともと弟が気に入っていたものでして。兄の僕でも、勝手に決めるわけにはいきません」言葉の端に、彼はごくわずかな微笑みが浮かぶ。「とはいえ、できるだけ説得してみます。この立地は素晴らしいですし、雨宮さんのように意志の強い方が活かしてこそ、価値がある場所でしょう」七海の胸の奥がふっと緩む。彼の言葉に、希望の糸口が見えた気がした。「ありがとうございます、京極さん。お返事をお待ちしています」ふたりは連絡先を交換した。時計を見ると、すでに夕方近くになっている。七海は自然な口調で言った。「申し訳ありません、そろそろ息子を迎えに行かないと」「息子?」優人の表情が一瞬止まり、目の奥の熱がふっと冷めた。彼は無意識のうちに、七海の薬指に指輪がないことを確かめ、胸の奥に言葉にできない感情が広がる。そうか、もう家庭があるのだろうか。感情を押し隠し、彼は落ち着いた声で提案する。「お送りしましょうか」七海はその厚意を断らなかった。学校の門前に着くと、小さな影が駆け寄り、彼女の胸に飛び込む。「ママ!」夕暮れの光の中、彼女が子どもを抱きしめる姿を見つめながら、優人の口元にも自然と微笑が浮かんだ。「ありがとうございます、ここで大丈夫です」七海は息子の手を取り、軽く頭を下げた。「せっかくですし、家の前まで送りますよ」優人は穏やかながら譲らぬ口調で言い、視線は真っ直ぐ七海を見ていた。彼女は少し迷ったが、結局その提案を受け入れた。こうして、ふたりの正式な出会いが始まった。ほどなくして、あのオフィスフロアは七海の会社名義で契約が決まり、条件も驚くほど良かった。七海は優人に深く感謝し、仕事上の関わりも自然と増えていった。彼の商才と先見の明から学ぶことは多く、七海の事業もますます順調に進んでいく。ある晩、夕食後二人が並んでレストランを出て車に向かおうとした瞬間、暗がりから数人の覆面の男たちが武器を手に飛び出し、優人を狙って襲いかかってきた。一瞬の出来事だったが、優人は驚くほど素早く反応した。彼は七海を後ろへかばい、
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第18話

幸いにも、優人の部下たちが駆けつけるのは早かった。状況が収束した後も、空気にはまだ火薬の匂いが漂っている。七海は銃をバッグに戻し、優人を見上げた。その口調には複雑な探りが込められていた。「京極さん、本当に、驚かされました」優人は銃をしまい、振り返るといつもの様子を取り戻していた。さっきの鋭い男は幻だったかのように、彼は淡々と微笑んで言った。「立場上、多少の備えは必要なんですよ。怖がらせましたか?」七海は小さく首を振った。後日、彼女は独自のつてを使い、優人の素性を詳しく調べた。表向きには大手企業の経営者だ。だが、さらに掘り下げると、京極家はかつて裏社会で名を馳せた一族であり、父の代でようやく表の世界へ転身したことが分かった。道理で、彼には普通の実業家とは違う沈着さと決断力が備わっているわけだ。それは彼の育ちから滲み出るものなのだろう。優人が再び彼女に会おうと約束した時、まるで自分の過去を調べられたことも、少しも気にしていないようだ。静かな茶室で、優人はまっすぐに七海を見つめ、穏やかに言った。「雨宮さん、君のことを調べさせてもらいました。お互い、もう隠すこともないでしょう。はっきり言います。僕は君に惹かれています。もし可能なら、これからもっと近づきたいです」その率直さに、七海は一瞬言葉を失ったが、すぐに穏やかで強い口調で答えた。「京極さん、ありがとうございます。でも、私はやっと前の結婚から抜け出したばかりなんです。今の穏やかな生活を壊すつもりはありません。息子と二人で十分に幸せです。しばらくは新しいお付き合いを考えるつもりはないです」優人はその言葉に一瞬惜しむ様子を瞳に浮かべたが、それ以上迫ることはなく、ただ理解を示すように軽く頷いた。口調は変わらず穏やかだ。「分かりました。無理はしません。友人として、そばにいられたらそれでいい。時間はありますから」彼の態度は紳士的で誠実、七海に尊重と余地を与えるものだ。それからというもの、優人は本当に友人として寄り添った。七海の会社は軌道に乗り、スタッフも増えていく。優人は困った時には的確な助言をくれ、必要な時にはさりげなく手を差し伸べてくれた。七海は、努力で築き上げた安定した日々と、少しずつ根を下ろしていくこの街に、確かな安らぎを感じていた。だがある日、
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第19話

柊は、ようやく全ての障害を一時的に排除し、ほとんど焦るようにしてライヒ国行きのプライベートジェットへ乗り込んだ。胸の奥では、言葉にできないほどの高揚と、長く押し殺してきた怒りが渦巻いている。飛行中、彼は何度も頭の中で繰り返した。見つけ次第、あの無謀な女を思いきり叱りつけてやる。そして、七海の望む通りに綾子を追い出す。彼女さえ戻ってきてくれれば、勝手に出て行ったことなどもう咎めない。だが、手下たちがライヒ国中を探し回っても、報告は冷酷だ。七海と息子の入国記録も、行方の手がかりも一切ない。彼女たちは最初からライヒ国に来ていなかった。「無能どもが!」豪華なホテルのスイートで、柊は掴める物を片っ端から叩きつけ、砕き散らした。胸が激しく上下し、目の奥は血のように赤く染まる。自分は七海に出し抜かれた。かつて自分しか見えていなかったあの女が、今ではこんなにも巧妙な手口で、逃げた。「世界中を探せ!地の底に潜ろうが、必ず見つけ出せ!」彼は怒声を張り上げ、激しい怒りで声は嗄れていた。だが、怒りが収まると同時に、ふとあの日の光景が脳裏に浮かんだ。彼女が出て行く直前、振り返りもせずに言った言葉。「北国は寒いから、オーロラなんてもう見たくない」あの時は、ただわざと彼を怒らせたがるかもと思っていた。けれど今思えば、あの目にはもう、生きる色がなかった。「本当に俺と一緒に、オーロラを見たくなかったのか?」柊が胸の奥を鋭く刺す痛みが走る。「違う、そんなはずない。七海は俺を愛していた」彼は必死にそう言い聞かせる。「そう、全部、綾子のせいだ」綾子さえ始末してしまえば、七海はきっと戻ってくるはずだ。彼女は以前からずっと綾子の解任を要求していたではないか。帰国後、柊はまるで償うような気持ちで、監禁している綾子の部屋へ向かった。もともとは金を渡して、二度と自分の前に現れないようにするつもりだ。だが、部屋の前で腹心の部下が駆け寄り、分厚い報告書を差し出した。部下は硬い表情で報告する。「神宮寺様、確認が取れました。以前、月島執事が『奥様に殴られた』と訴えたあの傷ですが、自作自演でした。それに、奥様と月島執事が同時に拉致された件、月島執事が事前に行程を漏らしていたようです。さらに……奥様が柳瀬満の手の者に狙われたのも、月島執事が情報を流した結果でした」
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第20話

「そうだ……全部、俺のせいだ」柊は低く笑った。その笑いには、痛々しいほどの自嘲が滲んでいた。だが、その悔恨はすぐに怒りへと変わり、床にうずくまる綾子を睨みつける。目に宿るのは、底なしの殺気だ。「だが、お前がいなければ、お前が何度も彼女に罠を仕掛けなければ、七海が拉致されることも、俺の元から逃げ出すこともなかった!」綾子は彼の目に浮かんだ殺意に恐怖を覚え、生き延びたい一心で、震える唇から必死の弁解がこぼれた。「だ、だって……私を庇ってくれたから……隙を作ってしまったの。神宮寺様、柳瀬のような男が簡単に彼女を見逃すはずがない!彼女はきっと機密を引き換えに自分だけの生き残る道を選んだ!彼女はあなたを裏切った、とっくに……」「黙れ、七海はそんなことをする女じゃない!」柊が怒鳴った。その声にはわずかな震えが混じっていた。七海は裏切らないそう信じたい。彼の中で、最後の信念が必死に崩壊を拒んでいた。だが、心の奥底で、冷たい声が囁く。あのプロジェクトの資料が消えたのは、彼女が姿を消した前後だった。偶然とは思えない。「出て行け!全員出て行け!」彼は狂暴にすべての人を部屋から追い払い、一人荒れ果てた部屋と息が詰まるような静寂に向き合った。封じ込めていた記憶が、堰を切ったように脳裏に蘇る。息子が高熱で苦しんでいた夜、綾子のルールを理由に、救うことを許さなかった。冷たい床に跪く七海に鞭を振るうのを見ても、止めなかった。何度も、何度も彼は綾子を庇い、七海の痛みを見過ごしてきた。「うっ……」彼は頭を抱え、爪が頭皮に食い込むほど強く掻きむしった。それ以上考えることができなかった。後悔という名の毒が心臓を締めつけ、息ができないほど苦しい。初めて恐怖を感じた。それは権力を失う恐怖ではなく、七海がもう二度と戻らないかもしれないという恐怖だ。もう、彼女は二度と許してくれないかもしれない。「七海、俺が悪かった。本当に、俺が全部間違ってたんだ……」柊は子どものように呟く。しかし、返ってくるのは虚しい沈黙だけ。彼は七海を、完全に失ってしまった。そのとき、扉の外から部下のおそるおそる声がした。「神宮寺様、月島執事が……もう息をしていません」柊の瞳には虚ろいが広がり、声には一切の感情が込められていなかった。「元の雇い主に返せ」今、彼の心には一つの
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