LOGIN柊は必死に七海を抱きしめ、彼女の抵抗など耳に入らなかった。今、彼の頭の中には一つの考えしかなかった。彼女を自分の元へ連れ戻すこと。「運転しろ!」彼は低く命じた。七海の心は沈んでいき、ついには絶望で満たされた。彼女は残った力を振り絞り、絶望を帯びた嘲りの声を漏らす。「柊……あなた、本当に狂ってるのね。忘れたのか、あの時あなたはどうしていたかを?私たち……昔に戻れると思ってるの?」柊の動きが止まった。返事はなく、指先でそっと彼女の頬を撫でるだけ。その深い瞳には、複雑で言葉にできない感情が渦巻いていた。次の瞬間、耳をつんざく急ブレーキの音が空気を裂く。黒いSUVが何台も車を取り囲み、完全に行く手を塞いでいた。周囲には不穏な影が漂う。明らかに好意的ではない。「息子を守って!」七海は震える声で叫ぶ。柊は腕をぎゅっと固め、深く彼女を見つめた。その視線には、いつもの独占欲に加え、はっと我に返った痛みが宿っていた。もう一度、自分のわがままで彼女と子どもを危険に晒すところだった。その瞬間、頭の中に一つの考えが鮮明に浮かぶ。間違った。大きな間違いだった。彼女を無理やり連れ戻しても、二人の関係は修復されず、ただ深い恨みを生むだけだ。すでに彼女に与えた傷は大きい。愛に苦しむことも、独占欲も、母子の命の安全の前では一瞬にして軽くなる。「車に残って動くな!」彼は七海を安全そうな車内へ押し込み、かつてないほど冷静で真剣な口調で告げる。「息子は、俺に任せろ」言い終わる間もなく、銃声が轟き、見知らぬ悲鳴が混ざる。柊は驚異的な身のこなしで包囲を突破し、恐怖で顔を青ざめさせた息子をしっかり抱き上げて車に戻す。息子は事前に耳栓を装着され、状況がよくわからずぼんやりと二人を見上げるだけだった。柊は息子を見つめ、喉を震わせ、かすれた声で呟く。「ごめん……パパは、ちゃんとした父親じゃなかった」そして、彼は銃弾が飛び交う中に再び飛び込み、激しい戦闘音がしばらく続いた後、ようやく静寂が訪れる。車の外は、不気味なほど静かだ。しばらくして、窓がそっと叩かれる。七海は震える手で窓を下ろすと、柊が車の傍らに寄りかかっていた。顔色は蒼白で血の気はなく、それでもかすかな笑みを彼女に向ける。「全員、片付いた」微かな息で、力を込
七海と優人の関係は、穏やかな日々の積み重ねの中で、確かに少しずつ深まっていく。彼が与えてくれる尊重、理解、そして静かに寄り添う優しさは、柊のもとでは一度も得られなかったものだ。その日、柊は何時間もかけて花を選んだ。彼の冷たい印象とはまるで正反対の、あまりにも華やかで大ぶりな花束。不器用な期待を胸に抱きながら、再び七海の前に姿を現した。大きな体でその花束を抱える姿は、どこか滑稽ですらあったが、彼の心は一つの想いに満ちていた。これを見たら、きっと七海も少しは心を動かしてくれるはずだ。だが、彼が目にしたのは、七海が優人と並んで立つ姿だ。七海は少し顔を上げ、優人の話を穏やかに聞いていた。横顔は柔らかく、口元に淡い笑みを浮かべている。七海が顔を上げると、柊の姿が視界に入った。柊の胸に宿っていた期待が音を立てて崩れ落ちた。顔に張りついていたわずかな笑みが消え、代わりに重い陰が落ちる。その視線は七海をしっかりと捉え、声は喉の奥から絞り出すようにして聞いた。「お前……本当にこの男と一緒になったのか?」七海は眉をひそめる。「柊、私たちはもう終わったの。あなたのそばで、私は半分死んでたようなもの。あんな日々には、もう戻りたくない」ここで騒ぎを起こしたくはなかった。ましてや、もう終わった過去のために。柊は彼女の瞳に宿る疎遠さを見て、後悔が津波のように自分を飲み込んだ。。一歩前に出て、これまで見せたことのないほど低い姿勢で言う。「悪かった、七海。本当に悪かったんだ。頼む……やり直すチャンスを、たった一度でいい、くれないか……」その顔には、悔恨と切実な愛情が刻まれていた。あまりに真っ直ぐで、痛々しいほどに。七海はそんな彼を見つめた。かつては傲慢な男が、今ではこんなにも惨めに頭を下げている。ほんの一瞬胸の奥に、初めて彼に惹かれた頃の幻がよぎる。だが、それはもう、遠い昔のこと。少しの間を置いて、彼女は静かにそう告げた。「柊、もうあなたを好きじゃないの」あの頃、彼のために熱く脈打っていた心は、あの結婚生活の中で完全に凍りついていた。彼女はもう一度も彼を見なかった。横を向き、優人に優しく声をかける。「行きましょう」そして彼の腕にそっと手を添え、振り返ることなく歩き出した。柊はその場に取り残された。まるで捨てられた古い
柊には、彼女の恐怖も拒絶も感じ取れなかった。ただ腕の力を少しずつ強め、七海の柔らかな体を自分の胸の奥へと深く抱き込んでいく。長い間空虚だった胸の内が、この瞬間ようやく満たされ、痛みを伴うほどの満足感が込み上げた。彼女を見つけるために、どれほどの力を使い果たしたか神にしか分からない。焦燥と不眠が続き、彼の神経はすでに限界まで張り詰めていた。七海は最初こそ驚きで体をこわばらせたが、すぐに理性が戻る。彼女は力いっぱい柊を突き放した。「離して」彼女の声は氷のように冷たい。「離さない」彼は低く唸り、腕でさらに強く抱き締めた。ほとんど彼女を自分の胸の中で粉々に揉み潰さんばかりの力で。「七海、会いたかった……気が狂いそうなくらいに」顔を彼女の首筋に埋め、懐かしいだがどこかよそよそしい香りを貪るように吸い込む。胸の奥で擦り切れるような声で続けた。「お前たちが危ないんじゃないかと……怖くて、夜も眠れなかった」だが次の瞬間、彼の声が鋭く跳ね上がる。勢いよく顔を上げ、彼女を射抜くように見つめた。「さっきの男、誰だ」七海はその熱い視線を避け、冷たく言い放った。「あなたには関係ない」ためらいもなく、説明する気さえない。「七海……」その冷たさに打たれたように、柊の気勢は一気にしぼんだ。哀願にも似た声で呟く。「そんな言い方しないでくれ。本当に、会いたかったんだ」今の彼は無精髭を生やし、高級スーツも皺だらけ。七海が知る彼とはまるで別人のように、惨めで落ちぶれて見えた。けれど七海はただ静かに、かつて愛と憎しみが絡み合った男を見つめていた。心の奥は、静まり返った深い水面のように、何の波も立たない。「私はもう出ていったの。あなたの執事に席を譲っただけでしょ?」彼女は淡々と告げる。「俺の妻は最初からお前だけだ!」彼は掠れた声で叫んだ。ちょうどその時、先ほど去った優人が戻ってきた。柊を一瞬見た後、穏やかに七海へ視線を向ける。「こちらの方は?」七海が答えるより早く、柊が前へ出て、彼女を半ば庇うように立ちはだかった。一語一語を噛み締めるように言い放つ。「俺の女だ。近づくな」七海は嫌悪げに眉をひそめ、はっきりと説明した。「元夫です」優人は理解したように頷き、口元に柔らかな笑みを浮かべる。「なるほど、元夫さんですか」
七海は、優人のマンションのリビングに座っていた。手にしたカップがかすかに揺れ、指先が小さく震えている。優人は彼女の前に片膝をつき、申し訳なさと恐怖の入り混じった眼差しで見上げた。「ごめん、七海。僕のせいで、君を巻き込んでしまいました」その声は深く沈み、かつてないほど真剣だ。「手を下したのは、おじさん京極信明の部下です。うちの一族のことは知ってるでしょ。父と僕はずっとクリーンな経営に切り替えようとしてきたけど、おじさんは昔のやり方を捨てきれなかったんです」彼は苦く息を吐き、続けた。「最近、君と僕が一緒にいるところを調べられたんだと思います。きっと君を僕の弱点だと考え、脅しか報復のために狙ったんです。僕の落ち度です。もっと早くに警護をつけるべきでした。まさか、昼間から堂々と動くとは思わなかったんです」その誠実な告白に、七海の胸に渦巻いていた恐怖は、やがて別の複雑な感情に変わっていった。柊の世界から逃げ出したと思っていたのに、いつの間にかまた別の闇に足を踏み入れていたのか。数日後、七海は密かに仕入れた情報で、優人が京極信明(きょうごく のぶあき)の不正を一気に暴き、膨大な証拠を警察に提出したことを知る。その結果、信明は逮捕され、家の中の反抗勢力は完全に一掃された。優人はお詫びの食事を、温かみのある上品なファミリーレストランに手配した。明らかに心遣いが感じられる選択だ。柔らかな照明と穏やかな音楽に包まれた店内は、どこか懐かしい安心感があった。柊が好んで選ぶような、冷たく豪華な場所とはまるで違っていた。息子は優人の姿を見つけた瞬間、ぱっと顔を輝かせ、母の手を振りほどいて駆け寄った。「京極おじさん」優人は自然な動作でしゃがみこみ、彼を抱き上げると、隣の子ども用チェアに座らせる。その仕草には慣れと優しさがあった。さらに彼は、事前に息子が最近ハマっているアニメキャラクターのぬいぐるみを用意していた。「ありがとう、おじさん」息子はぬいぐるみを持って、顔を真っ赤にして嬉しそうに笑い、優人に幼稚園での出来事を楽しそうに話し出す。七海はその光景を静かに見つめ、胸に複雑な思いがある。息子がこんなに無邪気に懐くのは、きっと父親から受けたことのない種類の愛情を感じているからだろう。柊の世界には、常にルールと支配があり、時に見せる愛情
「そうだ……全部、俺のせいだ」柊は低く笑った。その笑いには、痛々しいほどの自嘲が滲んでいた。だが、その悔恨はすぐに怒りへと変わり、床にうずくまる綾子を睨みつける。目に宿るのは、底なしの殺気だ。「だが、お前がいなければ、お前が何度も彼女に罠を仕掛けなければ、七海が拉致されることも、俺の元から逃げ出すこともなかった!」綾子は彼の目に浮かんだ殺意に恐怖を覚え、生き延びたい一心で、震える唇から必死の弁解がこぼれた。「だ、だって……私を庇ってくれたから……隙を作ってしまったの。神宮寺様、柳瀬のような男が簡単に彼女を見逃すはずがない!彼女はきっと機密を引き換えに自分だけの生き残る道を選んだ!彼女はあなたを裏切った、とっくに……」「黙れ、七海はそんなことをする女じゃない!」柊が怒鳴った。その声にはわずかな震えが混じっていた。七海は裏切らないそう信じたい。彼の中で、最後の信念が必死に崩壊を拒んでいた。だが、心の奥底で、冷たい声が囁く。あのプロジェクトの資料が消えたのは、彼女が姿を消した前後だった。偶然とは思えない。「出て行け!全員出て行け!」彼は狂暴にすべての人を部屋から追い払い、一人荒れ果てた部屋と息が詰まるような静寂に向き合った。封じ込めていた記憶が、堰を切ったように脳裏に蘇る。息子が高熱で苦しんでいた夜、綾子のルールを理由に、救うことを許さなかった。冷たい床に跪く七海に鞭を振るうのを見ても、止めなかった。何度も、何度も彼は綾子を庇い、七海の痛みを見過ごしてきた。「うっ……」彼は頭を抱え、爪が頭皮に食い込むほど強く掻きむしった。それ以上考えることができなかった。後悔という名の毒が心臓を締めつけ、息ができないほど苦しい。初めて恐怖を感じた。それは権力を失う恐怖ではなく、七海がもう二度と戻らないかもしれないという恐怖だ。もう、彼女は二度と許してくれないかもしれない。「七海、俺が悪かった。本当に、俺が全部間違ってたんだ……」柊は子どものように呟く。しかし、返ってくるのは虚しい沈黙だけ。彼は七海を、完全に失ってしまった。そのとき、扉の外から部下のおそるおそる声がした。「神宮寺様、月島執事が……もう息をしていません」柊の瞳には虚ろいが広がり、声には一切の感情が込められていなかった。「元の雇い主に返せ」今、彼の心には一つの
柊は、ようやく全ての障害を一時的に排除し、ほとんど焦るようにしてライヒ国行きのプライベートジェットへ乗り込んだ。胸の奥では、言葉にできないほどの高揚と、長く押し殺してきた怒りが渦巻いている。飛行中、彼は何度も頭の中で繰り返した。見つけ次第、あの無謀な女を思いきり叱りつけてやる。そして、七海の望む通りに綾子を追い出す。彼女さえ戻ってきてくれれば、勝手に出て行ったことなどもう咎めない。だが、手下たちがライヒ国中を探し回っても、報告は冷酷だ。七海と息子の入国記録も、行方の手がかりも一切ない。彼女たちは最初からライヒ国に来ていなかった。「無能どもが!」豪華なホテルのスイートで、柊は掴める物を片っ端から叩きつけ、砕き散らした。胸が激しく上下し、目の奥は血のように赤く染まる。自分は七海に出し抜かれた。かつて自分しか見えていなかったあの女が、今ではこんなにも巧妙な手口で、逃げた。「世界中を探せ!地の底に潜ろうが、必ず見つけ出せ!」彼は怒声を張り上げ、激しい怒りで声は嗄れていた。だが、怒りが収まると同時に、ふとあの日の光景が脳裏に浮かんだ。彼女が出て行く直前、振り返りもせずに言った言葉。「北国は寒いから、オーロラなんてもう見たくない」あの時は、ただわざと彼を怒らせたがるかもと思っていた。けれど今思えば、あの目にはもう、生きる色がなかった。「本当に俺と一緒に、オーロラを見たくなかったのか?」柊が胸の奥を鋭く刺す痛みが走る。「違う、そんなはずない。七海は俺を愛していた」彼は必死にそう言い聞かせる。「そう、全部、綾子のせいだ」綾子さえ始末してしまえば、七海はきっと戻ってくるはずだ。彼女は以前からずっと綾子の解任を要求していたではないか。帰国後、柊はまるで償うような気持ちで、監禁している綾子の部屋へ向かった。もともとは金を渡して、二度と自分の前に現れないようにするつもりだ。だが、部屋の前で腹心の部下が駆け寄り、分厚い報告書を差し出した。部下は硬い表情で報告する。「神宮寺様、確認が取れました。以前、月島執事が『奥様に殴られた』と訴えたあの傷ですが、自作自演でした。それに、奥様と月島執事が同時に拉致された件、月島執事が事前に行程を漏らしていたようです。さらに……奥様が柳瀬満の手の者に狙われたのも、月島執事が情報を流した結果でした」