漢の将軍、韓信 項羽との抗争に敗れた劉邦は、辺境の蜀漢の地を与えられた。漢軍は蜀の桟道を通って蜀漢の地へと進んでいった。項羽を見限り漢に寝返った韓信は、かつての将官の地位を失い、蕭何の下で兵站作業の指揮を任されていたが、心は腐り果てていた。 竹や木材でできた蜀の桟道は脆弱で、兵士たちは荷駄と共に悲鳴を上げながら谷底へと転落していった。耐えきれなくなった韓信は兵站指揮を放り出し、軍を脱走しようとした。だが、将兵に捕まり、斬首されそうになった瞬間、蕭何が現れて彼を救った。「お前は大将軍になりたいと言ったな。だが、大将軍たるもの兵站にも精通せねばならぬ」と、蕭何は静かに諭した。韓信は渋々ながらその言葉を胸に刻んだ。 やがて、漢軍は蜀漢の地に近づいた。蕭何は劉邦に進言した。「韓信は将器の器です。地位を上げなされ」と。渋る劉邦は「二階級特進で十分だ」とケチな返答を返した。「大尽(だいじん)たるもの、そんな出し惜しみはいかん」と蕭何がたしなめると、劉邦は笑いものにされるのを嫌い、「よし、韓信を大将軍にせよ」と一気に昇進を命じた。史実によれば、韓信はこの時(紀元前206年頃)、劉邦に抜擢され大将軍となり、その才能を開花させるきっかけを得た。発奮した韓信は、蜀漢攻略に全力を注ぐ決意を固めた。 蜀漢の地に到着した漢軍は、あまりの辺境ぶりに驚愕した。成都を中心とするこの地域は、上下水道はおろか、まともな道路すらなく、田畑は原始的な焼畑農業に頼っていた。蕭何と韓信は、まずインフラ整備に着手した。蜀の桟道は急峻な山岳地帯を縫う細い通路で、木材と竹を組み合わせただけの不安定な構造だったため、韓信は中原から持ち込んだ技術を活用し、石材と土を組み合わせた舗装路を建設した。 兵士たちに命じて山を切り開き、運河用の水路と並行する形で幅広い街道を整備し、荷駄の運搬効率が飛躍的に向上して軍の補給線が安定した。蜀漢の焼畑農業は生産性が低く、食糧不足が常態化していたため、蕭何は秦の時代に李冰が岷江で築いた都江堰の技術を参考に、小規模な灌漑用水路を各地に設置し、川から水を引き、田畑を潤すことで水田農業を導入して稲作を奨励した。 これにより、蜀漢の食糧生産は倍増し、軍の長期駐留が可能となった。中原では既に都市に簡易的な下水溝が存在したが、蜀漢には皆無だったため、韓信は成都近郊に溝渠を
Terakhir Diperbarui : 2025-10-29 Baca selengkapnya