Masuk朝餉の支度 翌朝、アンヌはまだ日が昇る前に韓信よりも先に起きて、村の長の台所を借りて朝餉の支度をした。素材は村の長の奥様が準備していた。アンヌは「粥膳」はどうだろう?と思った。 村の長の奥様に「粥膳」は韓信様の朝餉にいかがでしょうか?と聞くと、消化にもいいし良いんじゃないか、と彼女は答えた。韓信には長崎弁みたいな中国語が自然にでてしまったが、家族以外の人間には普通語のイントネーションで喋れるほどになっていた。 蒸し豚、岷江の小魚、桃があるから、小米粥、蒸豬肉配蔬(蒸し豚と野菜)、岷江魚煮(川魚の煮込み)、桃漬(桃の漬物)をお作り、と奥様が言った。 火をおこしてテキパキと作っていく。粥を煮ながら最後に散らす葱をトントンと切る。竹の蒸籠に豚肉と野菜を重ねて、ニンニクと醤で下味をつける。骨抜きをした川魚を酒と塩で下処理して、梅を加えて土鍋で弱火で煮る。若い桃を薄切りにして、塩で軽く漬けてしばらく置く。奥様は蓉の手際のよさに感心した。21世紀のお料理教室で学んだ技が役に立った。「それにしても蓉、昨晩は激しかったようだね。離れのお前さんの嬌声が母屋にまで聞こえたよ」と奥様が蓉の顔を見、野卑な表情を浮かべてズケズケと聞いた。こんな露骨な下卑た質問でも、古代中国に生まれたなら気にしないのだろう。だが、蓉の中のアンヌは真っ赤になった。「お、奥様、あ、あの、六回ほど愛でていただきました……」(これを読んでいる未来の人たち、ここは紀元前206年の古代中国なんですよぉ~。忘れちゃダメですよぉ~。漫画のキングダムの時代は紀元前245年から221年頃のお話で、今はそれから二、三十年しか経ってません!羌瘣も河了貂もこんな時代に住んでたんです。女は輪っかみたいに縫った麻の胸当て≒ブラはしてますが、下帯≒パンツははいてません!スッポンポンなんですよぉ~!トイレは豚小屋の上にあるし! 古代の中国では夜はやることもないから、夫婦はアレをするばっかりだし、話題も少ないから女同士の会話はアレの話ばかりなのだ……あれ?21世紀の女子高生と変わらないか……で、村の長の家は、秦朝の頃に劉邦が一時任じられていた亭長(江戸時代の日本の宿場にあった陣屋のような宿泊設備)の役をこの村では受け持っていた。それで、母屋の他に来客用の
なんで転生して漢の将軍に抱かれるんだっちゃ! 蜀漢の地方を視察していた韓信は、蓉の住む村の長の離れに一晩泊まることとなった。そこには、18歳の可憐な美少女がいた。彼女の名は張蓉。蜀漢では「張」は一般的な姓であり、「蓉」は芙蓉(ハス)の花を意味し、当時の女性に好まれた名であった。張蓉は韓信の着替えや食事の世話を甲斐甲斐しく務め、その白い肌と長い黒髪、澄んだ瞳に韓信は目を奪われた。 蓉の住む地方には、高位の客人には村の娘を夜伽として差し出す風習があった。夜更け、張蓉は韓信の褥に体を投げ出し、彼を受け入れようとした。 村の夜伽の風習など知りもしない韓信は狼狽して、「何!?何だ、この状況は!」と声を上げたが、張蓉は涙ぐみながら言った。「韓信様に抱いていただき、お種を頂戴しませんと、私ぁ村から叩き出されるとよ。この地じゃ、そうせん娘は穢れた女とされて、生きていけんと」蓉(アンヌ)は、母親に言われた言葉を繰り返した。 韓信は一瞬躊躇したが、彼女の切実な瞳と震える声に心を動かされ、彼女を抱く決意を固めた。 蓉(アンヌ)の華奢な体が韓信の腕に収まり、彼女の柔らかな乳房が彼の厚い胸板に押し付けられた。韓信の手が彼女の細い腰を掴み、彼のアレを秘めた場所に寄せようとしたが、その瞬間、蓉(アンヌ)が「んぁっ…韓信様、待ってくれんね!」と声を上げた。 韓信は驚き、「どうしたんだ?」と尋ねると、蓉(アンヌ)は顔を赤らめて言った。「私ぁ、男を知らんとよ。初めてなんじゃ…」と。韓信もまた狼狽し、「何!?おぼこなのか!?俺だっておぼこの女を抱いたことなんかないぞ。いつも商売女ばかりだ」と慌てふためいた。二人は褥の上で顔を見合わせ、気まずい沈黙が流れた。 韓信は頭をかきながら、「ええと、どうするんだこれ…。蓉、お前、どうしたい?」と尋ねると、蓉は目を伏せて、「どうしたいって言われても……わからんとよ……韓信様に抱かれんと村にいられんけど、どうしていいかも分からんっちゃ。おっ母は『お前は寝床に入って横になるだけで良い。何もするな。将軍様がなされるがまま体を委ねろ。ちょっと痛いかもしれんが、体の力を抜いてゆったりと構えるん
漢の将軍、韓信 項羽との抗争に敗れた劉邦は、辺境の蜀漢の地を与えられた。漢軍は蜀の桟道を通って蜀漢の地へと進んでいった。項羽を見限り漢に寝返った韓信は、かつての将官の地位を失い、蕭何の下で兵站作業の指揮を任されていたが、心は腐り果てていた。 竹や木材でできた蜀の桟道は脆弱で、兵士たちは荷駄と共に悲鳴を上げながら谷底へと転落していった。耐えきれなくなった韓信は兵站指揮を放り出し、軍を脱走しようとした。だが、将兵に捕まり、斬首されそうになった瞬間、蕭何が現れて彼を救った。「お前は大将軍になりたいと言ったな。だが、大将軍たるもの兵站にも精通せねばならぬ」と、蕭何は静かに諭した。韓信は渋々ながらその言葉を胸に刻んだ。 やがて、漢軍は蜀漢の地に近づいた。蕭何は劉邦に進言した。「韓信は将器の器です。地位を上げなされ」と。渋る劉邦は「二階級特進で十分だ」とケチな返答を返した。「大尽(だいじん)たるもの、そんな出し惜しみはいかん」と蕭何がたしなめると、劉邦は笑いものにされるのを嫌い、「よし、韓信を大将軍にせよ」と一気に昇進を命じた。史実によれば、韓信はこの時(紀元前206年頃)、劉邦に抜擢され大将軍となり、その才能を開花させるきっかけを得た。発奮した韓信は、蜀漢攻略に全力を注ぐ決意を固めた。 蜀漢の地に到着した漢軍は、あまりの辺境ぶりに驚愕した。成都を中心とするこの地域は、上下水道はおろか、まともな道路すらなく、田畑は原始的な焼畑農業に頼っていた。蕭何と韓信は、まずインフラ整備に着手した。蜀の桟道は急峻な山岳地帯を縫う細い通路で、木材と竹を組み合わせただけの不安定な構造だったため、韓信は中原から持ち込んだ技術を活用し、石材と土を組み合わせた舗装路を建設した。 兵士たちに命じて山を切り開き、運河用の水路と並行する形で幅広い街道を整備し、荷駄の運搬効率が飛躍的に向上して軍の補給線が安定した。蜀漢の焼畑農業は生産性が低く、食糧不足が常態化していたため、蕭何は秦の時代に李冰が岷江で築いた都江堰の技術を参考に、小規模な灌漑用水路を各地に設置し、川から水を引き、田畑を潤すことで水田農業を導入して稲作を奨励した。 これにより、蜀漢の食糧生産は倍増し、軍の長期駐留が可能となった。中原では既に都市に簡易的な下水溝が存在したが、蜀漢には皆無だったため、韓信は成都近郊に溝渠を