怜司は退院してからも、千紗の最後のため息だけを都合よく「心がまだ揺れている証拠だ」と思い込んでいた。これはきっと、最後の試練だ。千紗はただ時間と、もっと誠意を求めているだけなんだ。そう自分に言い聞かせて、むしろ以前よりも執着と熱意を増していった。国内の重要な仕事はほぼ全部リモートに切り替え、「千紗をもう一度振り向かせること」だけが、人生最大のプロジェクトになった。最初の頃、怜司は大きな真紅のバラの花束を抱えて、千紗の会社の前で待っていた。千紗がビルから出てきて、ちらりと怜司とその腕に抱えた鮮やかな花束を見た。でも、その顔には何の表情も浮かばない。足を止めることなく、まっすぐ地下鉄の駅へと歩いていく。怜司はあわてて花を抱えたまま追いかけた。けれど千紗はさらに歩みを速め、人混みにまぎれ、あっという間に地下通路の中へ消えていった。怜司はその場に立ち尽くしたまま、抱えた花束だけが、やけに重く感じられた。十回目のとき――怜司は、どこからか千紗のマンションの合鍵を手に入れた。彼女が出勤している間にこっそり部屋へ入り、小さなマンションの中を花と風船でいっぱいに飾りつける。ダイニングテーブルには、ミシュラン三つ星シェフが作った豪華なディナー。テーブルの上ではキャンドルがほのかに揺れている。千紗が仕事から帰ってきて、扉を開けるなり一瞬だけ動きを止めた。そして、その顔からはすぐに血の気が引いていった。表情は冷たく、何の感情も見せない。千紗は豪華な料理も、ロマンチックな飾りつけも見もしなかった。まっすぐリビングに歩いて行き、固定電話を手に取る。「……警備の方ですか?私の部屋に、見知らぬ男が勝手に入り込んでます。すぐ来ていただけますか」電話を切ると、顔をこわばらせた怜司に冷たく言い放つ。「出てって」二十回目――怜司は千紗がよく通うスーパーで、あたかも偶然を装って現れた。買い物カートを押しながら、千紗の後ろをついて回り、「実はエルバートで画廊を買収したんだ。前に絵を見るのが好きって言ってたろ?名義だけでいいから館長にならないか」――そんな話を延々と続ける。千紗は立ち止まり、静かに怜司を見つめて言った。「怜司さん、何でもお金で買えると思ってるの?」怜司が返事をする前に、千紗はスーパーの店長に向かって
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