All Chapters of 風だけが、知っている: Chapter 11 - Chapter 20

24 Chapters

第11話

一か月後。怜司は空港に降り立つや否や、ほとんど駆け足でVIP通路を抜けた。スーツケースには目もくれず、荷物はすべて秘書に任せる。真っ先にタクシーへ飛び乗り、向かった先は――病院だった。胸の奥で、焦りと後悔と、償いたい一心がぐるぐると渦巻いている。千紗がもし突然現れたら、きっと驚いて、次には拗ねた顔で「遅いよ」と泣きつくかもしれない――そんな姿を想像して、どうしようもなく会いたかった。用意したピンクダイヤの指輪で、ちゃんとプロポーズして、今度こそ全部をやり直したい。そう誓って、病院に着いた。入り口で車を降り、迷うことなくVIP病室へ駆け込む。ドアを勢いよく開けながら、思わず笑みさえ浮かべて――「千紗、ただいま……」言葉が途切れ、笑顔が凍りつく。病室には、誰もいない。ベッドはきちんと整えられ、カーテンが風に揺れている。そこには、千紗の気配も、温度も残っていない。怜司は呆然と立ち尽くす。胸が、冷たい手で鷲掴みにされたように痛む。慌てて廊下の看護師を呼び止める。「この病室の患者は?高瀬千紗はどこですか?」看護師は少し驚いてから事情を説明する。「高瀬さんなら、ひと月前にご自分の意思で退院されました。手続きもすべてご本人が済ませています」「退院した!?」怜司は思わず声を荒げる。「誰が手続きしたんだ?傷はまだ治りきってないだろ!誰が許可したんだ!」「い、いえ、ご本人がどうしてもと……すべて自分で手続きを済まされました」看護師は怜司の気迫に押されて、思わず半歩引く。自分から退院した……?怜司の胸が、ずしりと重く沈む。だが、すぐに自分に言い聞かせる――そうだ、きっと家で待っているに違いない。家の方が楽だし、メイドもいるし、そっちの方がいい。自分はただ焦って混乱しているだけだ。すぐに踵を返し、帰路を急ぐ。歩きながら後ろの秘書に早口で指示を飛ばす。「美和は彼女のマンションまで送って。俺は用事ができたと伝えて、しっかり休むように言ってくれ」美和は怜司について別荘に行きたそうに甘えてみせたが、怜司は気もそぞろに「今日は無理だ」と遮り、結局、美和は不満げに「分かった。でも、絶対に迎えに来てね」とだけ言い残して、秘書に連れられて別の車に乗り込んだ。怜司はひとりで車を走らせる。アクセルを踏み込み、闇の中
Read more

第12話

怜司の指先は氷のように冷たい。手紙の文字は、千紗らしい端正でまっすぐな筆跡。容赦なく胸に突き刺さる。【怜司さん、いろいろとありがとう。彼女にプロポーズしたなら、ふたりの幸せを心から祈ってる。これですべてを、終わりにしましょう】「プロポーズ……?」怜司は呆然とつぶやく。頭の中が真っ白になる。「誰に……?」その瞬間、記憶の底にあの日の夜がよみがえる。ヴェルヌのホテルで、美和がピンクダイヤの指輪をはめて、写真を撮らせた夜。絶対に誰にも送るなと、あれほど念を押したはずだった――まさか、あれが……怒りと焦燥が一気に全身を駆け抜ける。怜司は手紙を握りしめ、低くうめくように「美和……!」と声をもらす。気づけば、書斎を飛び出して玄関へ向かっていた。エンジンをかけ、矢のように美和のマンションまで車を飛ばす。美和のマンションの前に着くなり、怜司は勢いよく車のドアを蹴り開けて外に出た。そのまま階段を駆け上がり、荒々しくインターホンを連打する。しばらくして、部屋のドアが開く。美和は明らかに念入りに身支度をしていて、顔には期待と嬉しさが浮かんでいた。「怜司さん、どうしたの?こんなに早く来てくれるなんて……」その言葉が終わるより早く、怜司は美和を乱暴に押しのけ、部屋に踏み込む。辺りを鋭く見回す。「怜司さん、どうしたの?」美和は怜司の様子に気づき、不安げに笑顔をこわばらせる。怜司は一切返事をせず、すぐさまソファの上のスマホに目を留めた。そのまま強引に手に取り、ロックを解除し、SNSのアプリを開く。投稿には、美和が日常を切り取った華やかな投稿がいくつも並んでいる。――やっぱり、あった。「千紗だけに公開」の設定で、投稿された一枚の写真。投稿されたのは、ちょうどヴェルヌで「絶対に載せるな」と怜司がきつく言った、あの夜だった。指輪をはめて微笑む美和の写真――本当は千紗に贈るはずだったピンクダイヤ。キャプションには、たったひと言。【結婚します】轟音が頭の中で鳴る。怜司は視界が真っ暗になるほど、怒りと動揺に全身をさらわれた。次の瞬間、スマホを美和の足元へ叩きつける。指さしながら、喉がかすれる声で怒鳴った。「これ……!これはなんだ?あの夜、絶対に投稿するなって言ったよな?何をやったんだ!」美和は怜司のこれまで見
Read more

第13話

違う――たった一つの投稿だけで、千紗があんな手紙を残して、すべての連絡先を絶ち、跡形もなく姿を消すなんて。千紗の性格を思えば、傷ついたり、誤解したりすることはあっても、ここまで徹底的に自分から離れるなんて絶対にありえない。本当は、ほかに何か理由があるはずだ。美和は、きっと他にも何かしたに違いない。美和は床にへたり込み、怜司が戻ってくると、パニックになって叫びながら壁際まで這って逃げようとした。「スマホ!」怜司は低く、かすれた声を絞り出す。美和はガタガタ震えながら、床に落ちた画面の割れたスマホを指差す。怜司はそれをひったくり、ガラス片で手を切るのも構わず、必死で中身を確認した。LINEの履歴、メッセージ、連絡先――どこにも変なものはない。もうだめかと諦めかけたとき、指先がスマホバンキングのアイコンをすべった。そこで手が止まる。胸騒ぎが一気に広がる。アプリを開くと――最近の振り込み履歴に、見知らぬ宛名。そして、【皮膚移植手術】とメモされた高額な送金。怜司は茫然と立ち尽くした。次の瞬間、血走った目で美和をにらみ、スマホの画面を顔の前につきつける。「これは何だ?説明しろ」美和はその記録を見た瞬間、顔面蒼白になる。目は泳ぎ、唇は震え、「ただ……ただ先生に感謝の気持ちを……手術が成功したから……」と弱々しくつぶやく。「ふざけるな!」怜司は怒鳴り、力任せに美和を引き起こして壁に押し付ける。「本当のことを言え。俺の我慢にも限界がある。嘘をついたら、お前を許さない」極限の恐怖の中で、美和の心の防波堤はとうとう崩れ落ちた。泣き叫びながら、必死にしがみつき、ついに白状する。「言う、言うから!あれは……あれは私が先生にお金を渡して、傷を大げさに言わせただけ。本当は、ちょっと縫えば済んだのに、皮膚移植が必要だって嘘ついてもらったの」怜司はその場で固まる。頭が真っ白になり、しばらく意味が呑み込めない。「どういうことだ、それは……?」「つまり……」美和はもう投げやりな笑いを浮かべて続ける。「私の傷なんて、皮膚移植なんか必要なかったの。簡単に縫えば治るものだった。でも、先生を買収して、あなたに嘘をつかせた。私が本当に知りたかったのは……あなたが、最後にどっちを選ぶのか……ほら、ちゃんと選んだじゃない。彼女の
Read more

第14話

怜司は勢いよく蛇口をひねり、冷たい水を顔にぶつけた。ダメだ、このままじゃいけない。絶対に、千紗を失いたくない。十年。気づけば、彼女は空気のように自分の人生に染み込んでいた。当たり前だと思っていたのに、いなくなった瞬間、息もできないほど苦しい。必ず見つけ出す。何があっても。千紗の前に膝をついて、すべて謝って、言い訳せずに心から詫びたい。この先の人生、全部かけて償いたい。千紗だけを、二度と手放さない。あのピンクダイヤ――本当は、千紗のためだけに用意した指輪だ。絶対に自分の手で、彼女の薬指にはめるつもりだった。そうだ、ピンクダイヤだ!最後の望みは、まだ残っている。怜司はふらつきながらマンションを飛び出した。今はもう、その胸に「千紗を見つけ出す」その思いしか残っていない。車に戻ると、手が震えてハンドルをうまく握れない。深く息を吸い込み、なんとか気持ちを落ち着けてから、すぐに秘書へ電話をかける。「全力で調べてくれ。千紗がどこの国、どこの都市にいるのか、できるだけ正確な住所まで。ありとあらゆる手段を使って、今すぐだ!頼む!」情報を待つ一分一秒が、まるで拷問のように長く感じられる。怜司は車の中で煙草に火をつけ、一本、また一本と吸い続ける。頭の中には、千紗があの投稿を見たときの君ち、傷だらけの脚で退院手続きをし、荷物をまとめて家を出ていく後ろ姿――そんな場面ばかりが、勝手に浮かんでは胸を切り裂いていく。そのたび、呼吸が苦しくなる。ようやく、スマホが鳴った。「社長、見つかりました。高瀬さんは、一ヶ月前にエルバート行きのフライトに乗っています。今いる会社の住所と、だいたいの住まいのエリアも把握できました」――エルバート。怜司の心臓が跳ねる。すぐにでも会いに行くしかない。怜司はすぐに一番早い便を手配し、プライベートジェットも準備させた。飛行機の中で、彼女に会ったらまず何を伝えるべきか、どんな言葉で謝るべきか、どんなふうに指輪を差し出すか――何度も頭の中でシミュレーションを繰り返した。千紗が指輪を見て、もしかしたら驚いて、感動して、泣きながら許してくれる――そんな都合のいい場面まで何度も想像してしまう。今度こそ、絶対に彼女を二度と傷つけない。すべてをやり直すんだ。十数時間のフライト中、一睡も
Read more

第15話

エルバートの雨は、いつも突然降り出し、なかなか止まない。千紗は黒い長い傘を差して、早足で地下鉄の駅へ向かう。トレンチコートの裾は少し雨に濡れたけれど、もう気にしない。ここに来て、もう一ヶ月が経つ。人生をまるごとリセットしたみたいな日々だ。新しい仕事は、簡単じゃない。全て英語での会話、未知の分野、息つく暇もない金融街。最初のうちは、毎晩遅くまで残業して資料を調べ、必死に業務を覚えて、同僚に追いつくことに全力だった。脚の傷跡は雨の日になると、まだうずく。でも、それも今やただの「思い出」にすぎない。もう、振り返らないし、立ち止まらない。怜司に出会って支えられたあの頃の努力――それさえも超える勢いで、今は自分自身のために生きている。その頑張りと持ち前の才能は、すぐに結果となって返ってきた。ある日、グループでのプロジェクト発表で、千紗の正確なデータ分析とわかりやすい論理説明が、上司の注目を集めた。先週は、マネージャーから「君の成長スピードは想像以上だ」と評価され、今進めているM&A案件を成功させれば、昇進も視野に入るとほのめかされた。「千紗、あなた本当にすごいわ。来てもらって大正解だよ!」現地の同僚・サラが、給湯室で笑いかけてくる。「ありがとう、でもまだまだ勉強中だよ」千紗も笑い返し、コーヒーを受け取る。英語は少しだけ訛りが残るけれど、もう不安はない。こちらの食事にも徐々に慣れ、仕事帰りに近所のスーパーで買い物し、自炊するのが日課になった。借りてるマンションの部屋も、きちんと片付けて温かな雰囲気。窓辺には小さな観葉植物――エルバートの貴重な陽差しを受けて、葉をのびのび広げている。週末は同じ国から来た同僚たちと博物館を巡ったり、静かな古本屋で午後を過ごしたり。ときどき、一人で映画館へ行き、夜は川辺をぶらぶら歩きながら対岸の灯りが一つずつ点くのを眺めるのも好きだった。ここでは誰も、彼女の過去を知らない。エルバートでの千紗は、「努力家で静かで、ちょっと真面目なアジア人の同僚」――ただ、それだけ。古いラベルをすべてはがした今、初めて心から「自由だ」と感じている。それでも時々、悪夢を見る。崩れ落ちるパーティ会場、冷たい手術室の光、背を向けて遠ざかる人影――けれど、目が覚めて窓の外の夜空を見上
Read more

第16話

怜司は高級そうなスーツを身にまとい、傘も差さずに立っていた。髪は雨で濡れて額に張り付き、頬はこけ、目の下には濃いクマ。ひと月前とはまるで別人のように、やつれていた。その目には、抑えきれない喜び、罪悪感、不安、そしてわずかな期待――さまざまな感情が混じっている。千紗は思わず立ち止まった。胸の奥に、一瞬だけ鈍い痛みが走る。たった一ヶ月なのに、まるで前世と今世くらい、遠く離れてしまった気がする。どうしてここに?どうして、こんな姿で?まだ気持ちが追いつかないうちに、怜司が駆け寄り、冷たい風と煙草の匂いをまとわせて、いきなり強く抱きしめてきた。「千紗、やっと見つけた。絶対に見つけられるって、信じてた……」その声はかすれていて、失いかけたものを必死に取り戻すような熱がこもっていた。「ごめん、ごめん、全部俺が悪かったんだ……本当に、最低だった」周囲の人たちが興味深げに立ち止まる。千紗は体を固くし、呼吸もままならないほど強く抱きしめられたまま、怜司の匂いに思わず吐き気を覚えた。「……離して」声は冷たく、何の情もこもっていない。怜司は一瞬驚いたように固まり、それでも腕は離さず、ただ千紗の腕をつかむ。赤く充血した目で、必死に彼女の表情を探る。「千紗、聞いてくれ、全部知ってる。美和の仕業だったんだ、あの投稿も、皮膚移植の話も全部……騙されてたんだよ」必死で弁解し、救いを求めるように言葉を繰り返す。「もう全部、けじめはつけた……これ、見てくれ」怜司は何かを思い出したように、あわてて片手を離し、スーツの内ポケットを探る。そして、黒いベルベットの指輪ケースを取り出した。そのまま、ひざまずいた。雨で濡れた歩道にもかまわず、周囲の視線も気にせず、怜司はケースを開けてみせた。中には、大きなピンクダイヤの指輪。千紗は一瞬だけ目を見開き、すぐに冷ややかな笑みを浮かべた。「千紗、これがお前への指輪だ。ずっと渡したかった。これが100回目のプロポーズなんだ、お前は『百回目なら結婚する』って言ったろ?お願いだ、やり直させてほしい。もう二度と泣かせない……愛してる」その声は周囲にも届き、スマホで動画を撮りはじめる人まで現れる。千紗は静かに彼を見下ろした。十年、愛してきて、数ヶ月、恨んできた男。そして今、雨
Read more

第17話

千紗は足早に自分のマンションへと向かった。もう一刻も早く、あの執拗に追いかけてくる男を、現実からも心からも締め出したかった。「千紗!話だけでも、三分……いや、たった一分でいい。お願いだから!」怜司の声は荒く、必死さと哀れさが入り混じっていた。「自分がどれだけ最低か分かってる。何だってする。だから、怒らないでほしい」千紗は足を止め、くるりと振り返る。その顔には、隠そうともしない冷たい苛立ちが浮かんでいた。「怜司さん、もういい加減にして。ここはエルバート、国内じゃない。勝手なことばかり通用する場所じゃないの。つきまとうのはやめて」「せめて、家の前まで送らせてくれ。無事に帰るのだけは見届けたいんだ」怜司が一歩近づく。雨に濡れたその顔は、ひどく情けない。「結構よ」千紗はきっぱり遮り、マンションのインターホンを押す。英語で警備員に「下に付きまとってくる人がいる」と伝えると、すぐに制服姿の屈強な警備員が現れた。ほどなくして、制服を着た背の高い警備員が現れた。びしょ濡れの怜司をじろりと見て、低い声で問いかける。「どうされましたか?こちらの方に、迷惑がかかっているようですが」怜司は千紗が一度も振り返らず、ためらいもなくエントランスのカードキーをかざして中へ消えていく後ろ姿を見つめた。何か言いかけて一歩踏み出したが、警備員のたくましい腕が道をふさぎ、それ以上近づくことさえできなかった。「これ以上は立ち入りをご遠慮ください。さもなければ、警察を呼びますよ」重たい鉄の扉が「カシャン」と閉まり、千紗と外の世界とを完全に分断した。怜司は、ただ二度ほどその扉をむなしく叩き、閉じたまま動かないエレベーターの前で、あの遠ざかる背中を呆然と見送るしかなかった。翌朝、雨はすっかり上がった。千紗が支度を終えてドアを開けると、向かいの空室だった部屋の前に、いくつかの段ボール箱が積まれていた。気にも留めずエレベーターに向かうと、なんと中に怜司がいて、有名なカフェの紙袋を手に持っていた。「おはよう、千紗」「お前の好きなサンドイッチとホットココア、朝イチで買ってきたんだ」千紗はまったく彼の存在に気付かないふりをし、何も言わずにエレベーターに乗り込む。その目はまっすぐ前だけを見て、数字だけを追っていた。怜司は気まずそうに手を引っ込
Read more

第18話

千紗は首筋をほぐしながら、ぼんやりとパソコン画面から顔を上げた。オフィスには、もう数人の同僚しか残っていない。ここ二日、彼女は自分のアパートへ帰っていなかった。仮眠は会社のソファで数時間。目が覚めれば、そのまままた案件の資料に埋もれていた。帰りたくなかった。あの男と顔を合わせたくなくて。怜司は、もう彼女の生活に根を下ろしたみたいだった。朝は決まってアパートの前で「偶然」を装って待ち伏せ。昼は出前でランチを届け、夜は会社やマンションの入口で必ず待っている。悔いと執着を滲ませた顔で、同じ言葉を何度も繰り返し――会社ではすでに噂の的になっていた。給湯室やエレベーターでは、ひそひそ声と好奇の視線。「入り口のあれ、彼女の元カレなんだって?金持ちそうなのに、どうしたんだろう」「国内からわざわざ追いかけて来たらしい。一途だね」「いや、あれはストーカーでしょ。千紗さん、うんざりして会社に泊まり込んでだよ」そのざわめきが蚊みたいに耳について、千紗の神経をかき乱す。彼女は必死に無視し、すべてのエネルギーを仕事に注ぎ込んだ。その日の午後、突然プロジェクトリーダーに呼び出される。胸がざわつく――もしかして、怜司のことで会社に迷惑をかけているのか。「千紗さん、どうぞ」上司は厳格な顔立ちの中年男性。千紗はおそるおそる椅子に腰を下ろした。今にも「申し訳ないが…」と遠回しに解雇を言い渡されるのでは、と覚悟していた。「入口にいたあの男性についてだけど」上司は眼鏡を押し上げながら、率直に切り出す。「それは君の私的な問題だ。会社は原則、個人のプライベートには干渉しない」千紗の心臓は、不安でぎゅっと縮み上がる。「ただし――」上司は声の調子を変え、鋭い視線を千紗に向けた。「仕事に影響だけは出すな。いま進めているM&A案件は、会社としても最大級のものだ。君は中心メンバーだ。全力で取り組んでくれ。もしこの案件が成功したら、君の昇進は確実だ」千紗は驚きと安堵で一気に力が抜ける。すぐに背筋を伸ばし、きっぱりと答える。「わかりました。必ず期待に応えます」「よろしい。必要なら警備に言って、あの男を入り口から遠ざけてもらって構わない」「……ありがとうございます。でも今はまだ大丈夫です」騒ぎを大きくしたくなかった。千紗は席に戻り、全
Read more

第19話

M&A案件の最終プランが承認され、相手企業からも前向きな回答を得た――その瞬間、オフィスの空気が一気に弾けた。「千紗、よくやった!」普段は厳しいマネージャーが、珍しく満面の笑みで千紗の肩を力強く叩く。「今夜はお祝いだ。みんなで飲もう!」プロジェクトメンバーたちも歓声を上げて盛り上がる。みんなこの数週間、膨大なプレッシャーと戦ってきた分、成功の喜びで一気に疲れが吹き飛ぶ。誰からともなく「どこのレストランで祝う?」と話がはじまり、にぎやかにエレベーターを降りていく。冷たい風に頬を撫でられ、千紗は思わず首をすくめる。けれど顔には、自然と笑みが浮かんでいた。少しだけ、熱い視線を無視して歩き出す。また、怜司が外で待っていた。千紗が同僚に囲まれ、心からの笑顔で談笑しているのを見て、怜司は一瞬、呆然と立ち尽くす。近づこうとしたが、その足は途中で止まった。自分があの輪に入れば、きっと千紗の笑顔は消えてしまう。そんな気がして、どうしても踏み出せなかった。ためらいと恐れ――怜司は、その場でただ立ち尽くし、千紗たちが賑やかにレストランへ向かうのを見送るしかなかった。無意識のまま、彼もその後ろを追いかけてしまう。お祝いのディナーは、まるで祝祭だった。千紗は同僚たちに囲まれ、みんなからお酒を注がれる。普段はあまり飲まないが、今日は特別に何杯も受けた。頬がほんのり赤く染まり、瞳はキラキラと輝いている。会議での熱い攻防を振り返り、声を上げて笑う千紗。ガラス越しにその様子をじっと見つめる怜司。――彼女がこんなふうに心から笑うのを、いつから見ていなかっただろう。半年前?いや、もっと前から。自分が美和ばかりかばうようになってから、千紗はだんだん黙りこみ、痩せて、言葉も少なくなった。あの頃の千紗は、いつも眉をひそめて涙を浮かべていた。あるいは、背を向けて何も言わず、ただ静かに離れていった。その姿を「わがまま」だと決めつけ、うんざりしていた自分。けれど今――ガラス越しに見える千紗は、自信に満ちて、同僚たちと明るく笑い合っている。その姿を見て、怜司は初めて気づいた。千紗が「笑わなくなった」わけじゃない。無口で冷たい人間になったのでもない。自分と一緒にいたあの年月、とくに最後のあの頃――あのよく笑い、よくしゃべ
Read more

第20話

怜司がゆっくりとまぶたを開けると、真っ白な天井が視界に広がった。点滴のボトルが、静かに薬を落としている。しばらく頭がぼんやりして、ここがどこかも分からなかったが、やがて自分が病院にいることに気づく。強烈な頭痛と、胃の中を焼くような不快感。昨夜の酒が、まだ体中を巡っている。無意識に手を動かすと、すぐ隣にあたたかな人の感触があった。思わず顔を向ける――千紗が、ベッド脇の椅子でスマホを見ている。その横顔は、静かで、どこか遠い。胸の奥に、激しい歓喜が湧き上がる。やっぱり、千紗の心にはまだ自分がいる――そう思わずにはいられなかった。自分が倒れたと知って、どうしても心配になって駆けつけてくれたんだ。きっと、まだ自分を見捨てきれないはずだ。「千紗……」怜司の声はひどくかすれていたが、抑えきれない高揚と震えがにじんでいた。思わず手を伸ばし、彼女の手を掴もうとする。「やっぱり、来てくれたんだな。俺のこと、まだ心配なんだろ?心のどこかには、まだ俺がいるんだよな?」けれど千紗は、彼の指先が触れるよりも早く、静かに手を引いた。スマホをテーブルに置き、代わりに枕元のコップを持ち上げ、怜司へ差し出す。その顔には、もう何の感情も浮かんでいなかった。「先生が言ってた。アルコール中毒と過労だって……とりあえず、水、飲んで」怜司は差し出された水を見つめ、千紗の無表情な顔をもう一度見た。さっきまで湧き上がっていた期待が、少しずつ胸の奥で冷えていく。けれど、まだどこかに「もしかしたら」という淡い希望が残っていた。コップを受け取りながら、怜司は必死に言葉を繋げる。「ずっと、そばにいてくれたんだろ?……一晩中、俺のこと、見ててくれたんじゃないのか?千紗、まだ俺のこと気にしてくれてるんだろ?やり直そう……もう一度、ちゃんとやり直させてくれ」千紗はその言葉を、淡々と遮った。「怜司さん、少し話がしたい」その瞬間、怜司の心臓が嫌な予感で跳ね上がる。千紗はまっすぐに彼を見つめて、静かに口を開いた。「十年――本当に長かった。長すぎて、自分でも忘れそうだったよ。あなたに会う前、自分がどうやって一人で生きてたのかも、思い出せないくらい。怜司さんには、本当に感謝してる」千紗の声は穏やかで、誠実だった。「私を、あの出口の見えない場所から助け出
Read more
PREV
123
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status