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All Chapters of 指切りの約束: Chapter 1 - Chapter 10

20 Chapters

第1話

目を覚ますと、体中が軋むように痛かった。もう何度も経験しているのに、中村拓海(なかむら たくみ)の獣みたいな体力には、いつまでたっても慣れない。振り向くと、彼ももう起きていた。きれいな広背筋がむき出しになっていて、太陽の光を浴びて彼の肌は淡い小麦色にほんのり輝いていた。そして、今彼はまだ目を半開きにして眠たそうにしていた。「起きるの早いすぎない?」拓海の声はまだ掠れていた。腰の鈍い痛みに、私は思わず顔をしかめる。屈んでストッキングを穿こうとしたら、昨日はストッキングが彼にめちゃくちゃに破られていて、もう穿ける状態じゃなかった。すると、拓海が寝返りを打ち、指先で私の下着をつまみあげて差し出してきた。その目元には、意地悪そうな笑みが浮かんでいた。「いい歳して、まだこんな白いレースなんて穿いてんのかよ。ダサいって。もっと違うのにしたら?」私は下着を受け取った。「じゃあ、新しいの買うね。どんなのが好き?」でも、拓海は私の言葉を遮った。「いや、もういい。オートロックの暗証番号を変えたから。今度からもう用がない限り来ないでくれ」それを聞いて、私は固まってしまった。拓海とこんな関係になって、もう1年が経つ。最初は数日おきに呼び出されるだけだった。でもいつからか、残業がある日以外は、ほとんど彼の家に泊まるようになっていた。普段は私が彼の家の片付けをして、仕事が早く終わった日には、ソファで一緒にポップコーンを食べながら映画を見た。そして、映画が終わる前からいちゃいちゃするのがお決まりだった。それはまるで、本当の恋人同士みたいな関係だった。いつしか私はこの生活に慣れてしまった。もしかしたら拓海も、私がそばにいることに慣れてくれたんじゃないか、なんて思う時もあった。もし、この先二人で家庭を築けたら、きっとすごく幸せだろうなとさえ思っていた。なのに、彼は今、私に「もう用がない限り来ないでくれ」と言った。とっさに私は口を開いた。「ご家族が来るの?それとも最近、仕事が忙しいとか?だったら私……」彼は体を起こして私を見ると、軽く唇の端を上げた。「違うよ。彩花がオッケーしてくれたんだ」しばらくして、私はようやく彼が言う「彩花」とは誰のことなのかを思い出した。最近、拓海が大学を卒業したばかりの女の子を口説いている
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第2話

この部屋はシンプルな内装だ。拓海は昔、「お前が来てから、うちに物がどんどん増えてきたな」って呆れたように言っていたっけ。でも、本当に私の物と言えるものは、こんな風にスーツケース一つに全部収まってしまうほどしかなかった。家を出ようとした時、拓海に呼び止められた。彼は引き締まった上半身を晒したまま、ドアのそばに寄りかかって、うつむきながらタバコに火をつけた。「薫、お前ももういい歳なんだ。そろそろ誰かを見つけて落ち着いたらどうだ」拓海は煙を吐き出し、口元に笑みを浮かべながら言った。「これからも、俺たちは友達だからな」それを聞いて、すぐに彼の言おうとしていることを察し、私はうなずいた。「分かった」S市の冬はいつもじめじめした寒さで冷え込むのだ。気温はそこまで低くないけど、その寒さは体の芯まで凍みるようだった。気が付くと、雪が降ってきたみたいで、冷たくて湿ったものが、鼻の先に落ちてきた。顔を上げてみれば、さっきまで晴れていた空が急に曇ってきていた。そして、細かい雪が風に乗って舞い落ちてきた。S市で雪が降るのはもう何年ぶりだろう。すくなくとも拓海と一緒にこの街に来てからは、雪を見た覚えがなかった。そう思っていると、急に故郷の雪景色が脳裏によぎった。私の故郷は北の海沿いの小さな町で、冬になると、潮風に吹かれてぼたん雪が一晩中降り続いて、次の日の朝には膝まで積り、あたり一面が真っ白になるんだ。それはここのとは違って、とても清々しい雪で、心に染みわたる冷たさを帯びたものではなかった。荷物を脇に置いて、私はバス停に置かれたベンチに腰を下ろし、実家に電話をかけた。すると、母がすぐに電話に出てくれた。その声は嬉しそうだけど、どこか遠慮がちだった。「薫?」冷たい空気が鼻の奥にしみて、私はツンとした鼻をこすった。「お母さんの料理が食べたくなっちゃった」母は喜んで言った。「じゃあ、作りに行ってあげようか?今すぐチケットを取ってみるわね。もうすぐお正月だから、取りにくいかもしれないけど――」それを聞くと、私は母の言葉をさえぎった。「ううん、いい。今年のお正月は、実家に帰るから」母は一瞬黙って、それから弾むような声を漏らした。「ほんと?」「うん!」私は顔を上げた。ちょっと雪が、目に入ったみたい。少し潤
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第3話

そんな彼は、並外れてかっこよく見えた。だから、彼が転校してきたその午後には全学年の女の子が群がって、教室の窓に張り付くほど拓海のことを見ていた。そして、数日もしないうちに、学校で一番人気の女の子まで、彼にラブレターを渡すようになった。でも拓海は誰にも見向きもしなくて、いつも教室の一番後ろの席で、一人突っ伏して寝ていた。何にも興味がないみたいで、授業が始まっても教科書も出さないし、授業を聞いている様子もなかったが、それでも先生から叱られることがなかった。ただ、たまにテストがある時だけ、拓海は私の背中を突っついて、声をかけてくれたのだ。「おい、答え見せろよ」彼は私が断らないって、分かってるみたいだった。それもそのはず、私が彼を断るわけがないのだから。それもあって、彼は他の男子生徒からはかなり反感を買っていた。「カッコつけやがって」なんて陰口を言われて、事あるごとに、喧嘩を売られるようになった。学校の裏路地で彼が喧嘩しているのを見かけるのも日常茶飯事だった。そしてある日、たまたまそこを通りかかると、拓海は顔を傷だらけにして一人で路地の壁に寄りかかりながら煙草を吸っていたのを見かけた。私は一瞬ためらったけど、自転車を止めて、ポケットから絆創膏を取り出して彼に差し出した。「顔から、血が出てる」すると、拓海は顔を上げて、私を冷ややかに一瞥して冷たく言い放った。「うせろ」そう言われて、あの時私は彼を本当に嫌なやつだなって思った。何よ、つんけんしちゃって。こっちだって別に彼のことが好きなわけじゃないのに。それ以来テストの時、拓海に突っつかれて声をかけられても、私は完全に無視した。そして、一ヶ月も経つと、拓海を見に来る女の子はずいぶん減ってきた。その代わりに、クラスでは彼についてあまりよくない噂がもちきりになった。拓海が一度だけ着てきたダウン、聞いたこともないブランドだけど一着60万円もするらしい、とか。拓海は隠し子で、母親は愛人なんだ、とか。彼と母親の存在が父親の妻にバレたから、見捨てられてしまったらしい。それでS市にいられなくなったから、彼の母親は拓海を連れて地元に戻ってきた、とか。次第に、拓海を見るみんなの目線には、憧れに混じって軽蔑や好奇心といった、複雑な感情が浮かぶようになった。そん
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第4話

一週間後、ようやく拓海は再び登校してきた。そして、私を見つけると、彼は青いダウンジャケットを差し出して、そっぽを向きながら言った。「お前の上着、ダメになったから。代わりにこれをやる」私は特に何も思わず、淡々とそれを受け取った。しかし、ずっと後になってから、私はやっとそのダウンジャケットの値段を知った。それはなんと、これまで私が持ってた服を全部合わせたくらいの高額だったのだ。……その後はごく在り来たりの展開のように、私に対する拓海の態度は少しずつ和らいでいき、私はこの小さな町で、彼のたった一人の友達になった。そして、大学受験を控えたある日、拓海が不意に聞いてきた。「薫、海外に行きたいとか思わないか?」急に聞かれて私はきょとんとした。すると、彼はうつむいて、耳の先を赤くしながら言った。「母が、受験が終わったらA国に行けって言うんだ。お前も俺と一緒に来ないか?」そう言われ、私は苦笑した。「うちにそんなお金があるわけないでしょ?」「じゃあ、お前はどこに行くつもりなんだ?」私は少し考えてから答えた。「B市かな。南の方は気候が合わないかもしれないし。それにB市なら実家から近いから、帰りたくなったら電車ですぐ帰れるしね」それを聞いた拓海は、私のニット帽をぐいっと引っぱって目深にかぶせると、それ以上何も言わなかった。あの後、先生に進路調査票を書いて提出するように言われた時、私は拓海がA国の大学を書くんだろうなと思っていた。でも彼は、私と同じB市の大学を書いた。私はそれを見て驚いた。「拓海、A国に行くんじゃなかったの?」拓海は机に突っ伏したまま、くぐもった声で言った。「なんか急に、A国も大したことないかなって思って、B市も悪くないだろ」……しかし、受験の三日前、拓海は急にその進路調査票を取り下げたのだ。理由を聞いても、彼は黙っているだけだった。その日の夜、私は初めて知った。拓海の父親の妻と、その息子が、交通事故で亡くなったそうだ。それで、拓海の父親は、拓海と母親を呼び戻したいと思っているらしい。息子を一人亡くして、ようやく彼の父親は残された彼に目を向けるようになったんだ。ただ、条件として拓海にはS市に残ってもらう必要があるそうだ。そうすれば、彼の母親と正式に入籍し、彼にも家も継がせ
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第5話

そしてあの男は、拓海の母親と結婚した後も、外で女遊びを止めなかった。それどころか、他に子供まで作ろうとしていたらしい。拓海の母親は、夫と毎日喧嘩ばかりで、心身ともに疲れ果て、重度のうつ病になって、最後は飛び降り自殺をしてしまった。それから拓海の父親は、まるで人が変わったかのように、ぴたりと女遊びをやめた。でも、すでに手遅れだった。親子の間にできたわだかまりはもうどうにもならなかった。そしてあの日から、拓海は二度とあの家に帰ることはなかった。彼は酒に溺れ、無謀な運転をするようになり、頻りにタバコを吸うようになった。他の金持ちのボンボンみたいに、毎晩遊び歩くようになった。昔は女の子に愛想笑いひとつしなかったのに。今では女をとっかえひっかえする、手慣れた遊び人になってしまった。あの純粋だった拓海は、もうどこにもいなくなってしまった。ただ私の記憶の中にだけ存在する、幻みたいに。そしてある夜、友達との集まりで、私は初めて拓海の新しい彼女に会った。色白で、清楚な感じの女の子だった。茶色のコートを着て、栗色のウェーブがかかった長い髪はカシミヤのマフラーにふんわりと包まれていた。にっこり笑うと目元がほんわかほころんで、とてもおしとやかな印象だった。息をのむほど美人というわけじゃないけど、すごく清純な子のようだ。拓海の言った通りだった。この女は、今までの彼の彼女たちとは、本当にタイプが違った。「鈴木さんですよね?」そう言いながら彼女は駆け寄ってきて、私の手を握りながら笑った。「拓海からよく話を聞いてます。彼って嘘つきね。あなたのこと綺麗じゃないって言ってたのに、本当はこんなにも綺麗なんですから!」女同士だからだろうか、私は彼女の目の奥に隠された敵意がすぐに分かった。やっぱり女の勘は当たる。きっと私と拓海がただの友達じゃないって気づいているんだろう。私が何かを言う前に、拓海が口を挟んだ。彼は女の手を握って紹介した。「田中彩花(たなか あやか)、俺の彼女だ」すると、周りのみんなが口々に彼を囃し立てた。「拓海さんが彼女を連れてくるなんて初めてじゃないか。今回は本気なんだな」「本当にすごいね。今まで拓海さんのこと好きになった子はいっぱいいたけど、誰も彼を射止めることなんてできなかったんだよ」「それで結婚式はい
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第6話

横にいた友達は、さっきの様子に気づくこともなく、酔っ払った口調で話しかけてきた。「彩花さん、知らないかもしれないけど、薫さんは魚が食べられないんだ。アレルギーだから」それを聞いて彩花は、淡々と答えた。「あら、そうなの?」……そしてお酒も進み、みんなが少し酔いが回ってきたころ、友達の一人が、顔を赤らめながら言った。「拓海さん、俺たちは前に、あなたが30歳までに身を固めるかどうか賭けてたんだよ。まさかこんなに早く本命を見つけるなんてなぁ」するとそれを聞いた別の友達も酔っぱらいながら、目を細めてへらへら笑って言った。「そうだよなぁ。昔はみんな、あなたと薫さんは仲が良いから、てっきり付き合うと思ってたぜ」それを聞いた彩花の表情が、見るからにこわばっていった。拓海は、ふと口の端を上げて言った。「そんなわけないだろ?俺たちが付き合うなんて。だって、親友なんだから、俺たちは。冗談きついって」そう言うと彼は、どうにもおかしくてたまらなくなったように、本気で笑い出してしまった。友人たちも、それに合わせて一斉に笑い出した。「だよな。今やっと分かったぜ。二人って、あれだ――純粋な男女の友情ってやつだな!はははっ」私もつられて笑った。「そうよ、私が拓海と付き合うなんて、ありえないから、そんなのおかしすぎる」すると、拓海が近づいてきて、私の肩に腕を回した。彼はもう酔っているのだろう。顔を赤く染め、潤んだ瞳で首をかしげて言った。「薫、お前まさか、本当に俺のこと好きなんじゃないだろうな?」その瞬間、私は何かをさぐろうとするかのように、彼の目をじっと見つめた。でも、彼の目からは何も読み取れなかった。拓海はただまっすぐに私を見つめて、まるで私たちの関係が、本当に彼の言う通りの「友達」であるかのように。だから、私も笑みを浮かばせて言った。「そんなの有り得ないから」「それなら良かった」拓海は頷くと、私の肩を揺すった。「俺たちは親友だからな」あれだけお酒を飲んだのに、私は不思議と頭は冴えわたっていた。そして、私は彼の言葉を繰り返した。「うん、親友だから」思い出が蘇る中、次の日の朝早く、私は実家に帰る飛行機のチケットを取った。搭乗直前、私は最後に一度だけスマホに目を落とした。拓海がインスタ
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第7話

そう思えた私は「はい」と答えた。「そんなに毛嫌いしないで。お母さんは分かってるの、あの中村って人が好きなんでしょ。えっ、今、なんて言ったの?」私は伏し目がちになった。「はい。紹介して」と答えた。その日の夜、夕飯を食べ終えると、私はいつものようにスマホを手に取った。すると、拓海からライン通話がかかってきた。新しいアカウントに変えたけど、昔のラインにはまだ友達がたくさんいた。だから、ここ数日はまだログインすることがあった。通話を取ると、拓海はここ数日の出来事なんてすっかり忘れてしまったようで、とても自然な口調で言った。「どうして電話、通じないんだ?」私が口を開く前に、彼は続けた。「まあいいや。お正月の準備はもう全部してあるから。他に何か欲しいものがあれば、秘書に買いに行かせるから言ってくれ」それを聞いて、私はふと、拓海の母親が亡くなったばかりの年を思い出した。あの年、私はお正月に実家へ帰っていた。そして年が明けたころ、新年の挨拶をしようと思って、拓海にビデオ通話をかけた。なかなか繋がらなくて、やっと繋がったと思ったら、画面は真っ暗だった。タバコの火を示す、赤い光だけがぽつんと見えて、それがゆっくりと暗くなっていった。そして電話口から拓海の掠れた声が聞こえた。「どうした?」しばらくして、画面が光に慣れて、やっと彼の姿が見えた。拓海は一人でベランダに座っていて、周りには空き瓶と吸い殻が散乱していた。外は、家々の明かりと煌びやかなネオンで街は賑やかだった。でも、その賑わいは彼とは全く関係ないみたいだった。拓海はただ一人、窓辺に座って他人の家の幸せそうな光景を眺めていた。そして、夜の闇に紛れて寂しそうにタバコを吸っていた。そんな彼を見て、私はどうしようもなく切ない気持ちになった。そう思うと私は泣きそうになりながらも涙をこらえて、必死に笑顔を作って見せた。「明けましておめでとう!お年玉はあるかな?」それを聞いた拓海は軽く笑ったようで、その直後、PayPay送金受け取り通知音が鳴った。確認してみると彼は私に、200万円も送金していた。私がしばらく呆然としていると、拓海がぽつりと呟いた。「薫、早く戻ってこいよ。俺は、すごく……」拓海の声は風に掻き消されて、最後の数文字が聞き取れなかった。そ
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第8話

私はスマホを耳から離し、通話を切った。そして、画面が暗くなった。てっきり眠れないだろうと思っていたのに、その夜は私は横になると、あっという間に眠ってしまった。次に目が覚めたのは、深夜の2時過ぎだった。喉が渇いて目が覚めたんだ。この町の冬は寒くて、久しぶりに帰ってきたから、まだ少し体が慣れていなかった。私は階下に降りて水を一杯飲んだ。そして、二階へ上がろうとした、その時だった。不意に、トイレからかすかな物音が聞こえてきた。泥棒だ。そう思うと、私は全身がこわばって、鳥肌が立った。心臓が止まるかと思った。私は息を殺して、しばらくその場で固まっていたけど、やがておそるおそる、裸足のまま床を踏みしめた。スマホは二階だ。なんとか二階に上がって、警察を呼ばないと。そう思いを巡らせながら、ちょうどトイレの横にある階段にさしかかった時、いきなりトイレのドアが開いたんだ。恐怖で頭が真っ白になった私は、とっさに近くにあった傘を掴んで、相手めがけてむちゃくちゃに殴りかかった。でもその人は傘をがしっと掴むと、私が叫び声をあげるより先に、ぐいっと私を引き寄せて口を塞いだんだ。そこでようやく気づいた。この泥棒、なんと服を着ていない。キャミソールを着ていた私の背中が、彼のむき出しの上半身にぴったりとくっついた。湯気と混じった、ヴァーベナのほのかな香りがした。信じられない、この泥棒は、人の家に押し入るだけじゃなくて、服までも着ていなかったのだ。このままじゃ窒息させられると思って、私は顔をそむけて彼の肘より下のあたりに思いっきり噛み付いた。そして、狂ったように反抗した。でも、男の人の力はすごく強かった。がっちり押さえつけられて、もう抵抗できないと悟った瞬間、私は急に身動きができないほど固まった。そして驚きと怒りと恐怖が同時に込み上げてきて、見つかったから口封じに殺されるかもしれない、それに、二階には両親もいるから、このままだと皆殺しになるかもしれない。そう思うと私は半泣きになりながら、震える声でお願いした。「お願い!命だけは助けて!窓際の棚に父のへそくりが入ってた。確か……4万円くらいはあったはず。もし足りなかったら、PayPayで送金するから!でも私もそんなに金持ってなくて……とりあえず手元には数十万円しかないんだ。なんとか
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第9話

……家に帰ってきた最初の夜に、見ず知らずの男の人と家のソファに座ることになるなんて、想像もしていなかった。しかも、ほとんど頭がくっつきそうな距離で。脱脂綿で男の傷口を押さえながら、彼の名前が藤井渉(ふじい わたる)で、画家をしていて、最近このあたりにスケッチに来ているのだと知った。「結構、深いみたい」私は渉の傷口を見つめて眉をひそめた。「病院で破傷風の注射を打った方がいいんじゃない?」そう言われ、渉は顎をさすりながら、真面目な顔で答えた。「狂犬病の注射の方が先じゃないかな」渉が私を犬呼ばわりしていることに少し遅れて気づいて、思わず彼を睨みつけた。でも、元はと言えば私が悪いので、気まずくて強くは出られない。だが渉もクスっと笑って、冗談めかして言った。「でも、この歯型、結構まん丸だね。芸術的なセンスがあるんじゃない?」それからというものの、母は渉のことがすっかり気に入ったみたいで、しょっちゅう声かけては、一緒に夕食をとるようになった。そして、その度、こっそり私に目配せをしてくるのだ。「藤井さんって、本当にいい人よねぇ。私やお父さんの仕事もよく手伝ってくれるし。ほら見て、あんなに格好いいんだから!あなたたち二人が結婚して子供でも生まれたら、きっと――」私は呆れて言った。「お母さん、もういい加減にしてよ」別に渉のことが嫌いなわけじゃない。ただ、彼が着ていたコートに見覚えがあったのだ。渉が家のソファの背もたれに無造作に放り投げたコート。あれは、拓海が着ていたのと同じブランドのものだった。あれはI国の老舗ブランドのオーダーメイドで、一着、数百万円は軽く超えるようなものだった。それを見た瞬間、この人も御曹司で私とは住む世界が違うんだと思った。しかし、渉は本当にお年寄りの受けがいいみたいで、いつも「おばさん」「おじさん」と親しげに呼びかけて人懐っこくて。さらには、家のウォーターサーバーのボトル交換のような手伝いもよくやってくれるから、あれだけ気難しい父でさえ、渉のことを褒めちぎっているのだ。そして大晦日の夜も、母は「一緒に年越しそばでも」と言って、彼を家に呼んだのだ。そのことで、私はこっそり母に呟いた。「どうして彼を呼んだの?」母は呆れたように私を見た。「可哀想じゃないの。一人ぼっちで年を越すなんて、あ
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第10話

私はベランダに立ち、ビールを片手に、つい友達の言葉を思い出してしまった。友達は、拓海が彩花をM国のシュヴァル・ブラン・ランデリへ休暇に連れて行ったことを私に悔しそうに話していた。「あいつのそばにずっといたのに、なんでモノにできなかったのよ?もし彼と一緒になれたら、一生楽して暮らせたのに!」それを聞いて私は力が抜けたように笑った。今頃、あの二人はきっとラブラブなんだろうから、悔しがっても仕方ないのに。これから先、拓海が過ごすお正月に、もう私は必要ないんだろうなと思った。それはまるで、彼の人生そのものに、私は必要なくなったことを告げているかのように感じた。そういえば、拓海との曖昧な関係を知られた時も友達に、惨めだって言われたことがあったな。うん、本当に惨めだと思う。拓海は一度も「好きだ」と言ってくれなかったのに、私はずるずると彼との関係を続けていた。拓海のことが、大好きすぎたんだから。拓海を失うことが耐えられなかった。たとえ自分に嘘をつくような親密な関係でも、私は付き合ったような気になっていた。しかし、結局そういう関係は長くは続かず、花火のように一瞬で消えてしまうものだった。「お邪魔してもいい?」そう考え事をしていると不意に声をかけられた。振り返ってみると、渉がタバコをくわえながら、首をかしげていた。私が気にしないと首を横に振ると、彼はベランダに入ってきた。そして両手で風をよけながらタバコに火をつけ、深く吸い込んだ。私は気まずくて、つい口を開いた。「一人でお正月を過ごしてるけど、大丈夫?ご両親は?」渉は煙を吐き出しながら、淡々と答えた。「遠くにいるんだ」それを聞いて、しまった、と思って、私は慌てて謝った。「ごめん!」渉は私を一瞥し、目に笑みを浮かべた。「南極行きのクルーズ船で楽しんでるよ」その言葉に私は黙り込んだ。自分がバカみたいに思えた。渉は思わず吹き出した。煙が喉に入ったらしく、彼は数回咳き込むと、私の隣にあったビールを手に取って一口飲んだ。私は気まずそうに言った。「あの……それ、私が飲んだ」渉は未開封のビールを一本、私に差し出した。でも、私が飲んでいたビールは手放さず、何事もなかったかのように言った。「この辺の冬は、何して遊ぶの?」彼のペースにのせられ、
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