何度も死に、生まれ変わっても届かない愛 のすべてのチャプター: チャプター 11 - チャプター 19

知也は澪の墓前に立っていた。雨水が顎を伝い、墓石に静かに滴り落ちた。長い指が何度も「雨宮澪」という文字をなぞった。指先の皮膚が石のざらつきに擦り切れ、血が滲んだ。それでも知也は痛みを感じていないようだった。「……澪」しゃがれた声で彼女の名を呼んだ。声が砕けて、もう言葉にならなかった。遠くに立つ秘書は、ただその背中を見つめていた。三日間、知也はそこを離れず、何も口にしていなかった。濡れたスーツは肌に張り付き、髪は額に垂れ、その姿はまるで魂を抜かれた抜け殻のようだった。突然、知也はスーツの内ポケットからナイフを取り出した。刃が雨に濡れ、冷たく光った。一瞬の迷いもなく、彼は自分の手首を切り裂いた。「氷室社長！」秘書が悲鳴を上げて駆け寄ったが、知也に突き飛ばされた。「来るな」知也は低く笑った。その声は、地獄の底から漏れ出た悪鬼のようにしゃがれていた。「澪は痛みに弱かった。だから、俺が先に味わわないといけないんだ……どれだけ痛いか」鮮血が指を伝い、墓前に供えられた白いバラを赤く染めた。知也はその赤を見つめながら、ふと澪の九十七回目の自殺を思い出した。――氷の穴に放り込まれ、血液が凍っていく音。それはまるで砕けたガラスのようだった。「まだ……足りない」そう呟き、知也は二度目、三度目と刃を振り下ろした。腕全体が血に染まるまで続けた。秘書は青ざめた顔で、必死に彼を抱きとめた。「社長！そんなことをしても、雨宮様は戻りません！」「どけ！」知也は秘書を振り払った。彼はよろめきながら後退し、狂気に満ちた目で空を睨んだ。「彼女は死んだ！俺が殺したんだ！……俺には、一緒に死ぬ資格もないのか！？」彼は泥まみれの地面に膝をつき、額を墓石に押し当てた。そして子供のように崩れ落ち、嗚咽が雨音に混ざった。三ヶ月後。氷室グループは突然、解散を発表した。数千億の資産はすべて「美波児童基金会」に寄付された。――澪が生前、最後に寄付をした団体だった。記者が契約書に署名する知也を撮った時、包帯で覆われた彼の左手首から、まだ血が滲んでいた。それが、知也が公に姿を現した最後だった。その後、彼は贖罪の旅を始めた。全国八十一箇所の霊場を巡った。すべての山を、膝をつきながら登った。一つ目、高雲山。石段の上で、一歩ごとに額を地面に打ちつけた。額が

療養施設の桜が満開のころ、陽向は澪の部屋のドアをノックした。手には、湯気を立てるホットココアのカップがあった。その目は優しく、けれど揺るぎなかった。「澪。催眠療法を試してみよう。心の結び目を、少しずつほどいていきたいんだ」澪の指がぎゅっと縮こまった。関節が白くなる。あの記憶は鋭いガラスの破片のようだった。少し触れただけで、血が出るほど痛い。けれど、陽向の目はあまりにも静かで、沈まぬ大地のように安定していた。澪は、何かに導かれるようにうなずいた。治療室はカーテンが半分閉められ、光がやわらかく差し込んでいた。陽向の声は、柔らかいロープのように澪を導いた。「教えて。初めて氷室さんと会ったとき、彼は何してた？」「……地下室の隅で体を丸めていた。手首は血だらけで……」澪の声は煙のように薄く、まつ毛が震えた。「システムが言ったの。彼の『崩壊値』が世界を崩壊させるって」陽向のペン先が一瞬止まった。当初、彼はそれをトラウマ後の幻覚症だと考えていた。だが、澪の描写はあまりにも具体的だった。――十七歳の少年の傷跡。雪の中で六時間跪いたこと。感電自殺のときの生理反応。それらの細部は、恐ろしいほど真実味を帯びていた。「そのあと、どうなった？」陽向は努めて平静に問いかけた。「その後……私は九十九回死んだの」澪の涙が音もなく頬を伝い落ちた。「最後の一回、睡眠薬を飲んで……システムがようやく帰還を許してくれた。でも彼には、もう別の女の子どもがいた」陽向はペンを強く握りしめた。精神の崩壊を見たことは何度もある。けれど、ここまで臨死体験を正確に再現する人は初めてだった。瞳孔の収縮、呼吸の間隔、そのすべてが実体験の記録のようだった。催眠が終わる頃、澪の背中は汗でびっしょりと濡れていた。顔を上げた澪は、陽向を見つめ、ふいに笑った。「……それを、本当に起きたことだと思う？私自身も、もう区別がつかなくなってきた」彼女の目は必死だった。自分が狂っていないと証明したかったのだ。陽向は答えを急がず、ホットココアを彼女の手元へ押した。カップの底には角砂糖が一つ。澪は甘いものが苦手だと知っていたが、それでも黙って入れておいた。その小さな仕草に、澪の手が一瞬止まり、指先でカップの縁を無意識に撫でた。「来週から、絵画療法を試してみよう」陽向はノートを閉じ

澪の体がその場で固まり、次の瞬間、指が無意識に陽向の袖をきつく掴んでいた。目の前の男の骨の髄まで知り尽くしていたはずの顔が、まるで見知らぬ他人みたいに、遠く感じられた。雨水が知也の髪先から滴り落ち、泥水と混じって頬を伝う。その色は、かつて澪が彼のために流した涙と同じだった。陽向は澪の震えに気づき、そっと彼女の手を握った。言葉はなかった。ただ、その掌に込められた温もりが答えだった。一歩前へ出て、陽向は澪の前に立った。その目は冷静で、けれど鋭かった。「どなたが知らないが、自重してもらえる？」知也の視線がようやく澪から外れ、陽向に落ちた。瞳が濁り、拳がぎしりと鳴った。「……お前は誰だ？」「彼女の婚約者だ」陽向の声は低く落ち着いていた。それだけで、知也の心臓が音を立ててひび割れた。「婚約者……？」知也が笑った。その笑いには、壊れた歯車のような軋みが混じっていた。「ありえない！澪は俺の妻だ！彼女は俺のもとに戻るために、九十九回も死んだんだ！どうして……どうして……！」声は次第に掠れ、やがて嗚咽に変わった。澪は深く息を吸い、陽向の背後から一歩踏み出した。知也を見る目は水面のように澄んでいて、そこにもう愛も憐れみもなかった。「氷室知也。私たちは、とっくに終わったの」「嫌だ……」知也は膝をつき、泥水が跳ねた。伸ばした手が澪の裾を掴もうとしたが、澪は静かに一歩引いた。知也の指先が宙に止まり、絶望がその目を満たした。「澪……俺が間違ってたのは分かってる。本当に分かってるんだ。毎日、毎日、後悔してる……」しゃがれた声が雨に溶け、ほとんど聞き取れなかった。涙が知也の頬を伝い、雨水と一緒に地面へ落ちた。「君を騙すべきじゃなかった……傷つけるべきじゃなかった……それに……自分の手で、俺たちの子どもを殺すべきじゃなかった……！」言葉の終わりに、彼の喉の奥から瀕死の獣のような嗚咽が漏れた。澪の指先がかすかに震えた。封じ込めていた記憶が、胸の奥で泡のように浮かび上がる。澪は目を閉じ、呼吸を整えた。「知也。過去はもう過去よ。私は今、ちゃんと幸せに生きてる。だから……私を解放して」「解放……？」知也はよろめきながら立ち上がった。「じゃあ誰が俺を解放してくれる？澪、分かるか？君がいなくなってから、俺はあらゆる方法で君を探した！財産を全

記者会見の騒ぎがようやく落ち着き、陽向の心理カウンセリングセンターが再び扉を開いた。謝罪に訪れる患者が後を絶たず、マスコミの論調も疑惑から称賛へと変わっていった。すべてが順調に回り始めたように見えた。けれど、澪の胸の奥にはずっと引っかかるものがあった。知也が最後に闇へと消えていったあの背中。それが今も、落ちてきそうな刃物のように心に浮かんでいる。……ある曇り空の午後。澪が一人でカルテを整理していると、チャイムが鳴った。顔を上げると、白衣姿の男が二人、入り口に立っていた。険しい顔つきだ。「雨宮澪さんですね？」片方の男が書類を差し出した。「精神保健福祉法に基づき、同行していただきます。強制的な治療が必要と判断されました」澪の指先が一気に冷たくなった。書類に目を落とすと『転生者精神障害診断書』だった。有名な精神科病院の朱印が押されている。診断結果が、針のように胸に突き刺さった。重度の妄想性障害および自殺傾向。即時入院を推奨。続く説明文が、ナイフのように澪の心を抉った。患者は長期間にわたり「システムミッション」「転生世界」といった架空の設定に没入し、現実との区別がつかない状態。現実の人間関係を「救済」「崩壊値」といった妄想物語へと歪曲し、自身が「九十九回死亡した」と確信している。また、自傷行為を「システムからの罰」と位置づけ、自己傷害を正当化している。澪の呼吸が止まった。この診断書は、自分の全ての記憶を否定している。もしシステムが幻覚だというなら、じゃあ知也は誰？確かに彼の体温に触れた。雪の中で泣き崩れる姿を見た。それどころか、スタンガンで、お腹の子を殺された。「氷室知也はこの世界に存在しない！あなたたちは――」顔を上げると、医師は冷たい声で遮った。「雨宮さん、あなたの言う氷室知也は、氷室グループの代表取締役ですよ。彼はあなたのことなど知りません。三年前、あなたが統合失調症で初めて入院されたとき、病室のテレビで流れていた彼のインタビューをミッションのヒントだと思い込んでいたんです」澪は雷に打たれたように固まった。「嘘よ！こんなの捏造だ！」後ずさる足が震える。「私は病気なんかじゃない！」「ご協力ください」もう一人が前に出てきた。有無を言わせぬ口調。「さもなくば、強制的な措置を取ります」澪の呼吸

三か月後、故郷の菜の花畑。澪は白い麻のワンピースをまとい、髪には淡い黄色の野花を一輪差していた。ウェディングドレスも、招待客もいない。ただ、見渡すかぎり広がる黄金色が、風に揺れて波のようにきらめいている。まるで大地そのものが、二人にそっと祝福を贈っているみたいだった。陽向のスーツのポケットには、いちごキャンディーがぎっしり詰まっていた。緊張のあまり、あぜ道でつまずきそうになった陽向を見て、澪は笑いながら、涙をこぼした。「澪」陽向は彼女の傷だらけの手首をそっと握り、痛ましい傷跡に唇を落とす。「君は――」「いいよ」澪が言葉を遮り、つま先立ちになって陽向の額に自分の額を寄せた。「百回も生き死を繰り返すずっと前から、私はもう、あなたのものだったんだから」指輪はなかった。陽向は草の茎で小さな輪を編み、それを澪の薬指にはめた。「帰ったら、ちゃんとしたのを買うよ」「これが本物よ」澪は微笑みながら、陽向の手を自分の胸に当てた。遠くでは、かまどの煙が細く立ちのぼっていた。夕日が二人の影を長く伸ばし、やがてその影はひとつに溶け合っていった。……そして、海の向こう――アイスランド。知也は黒い砂浜に立っていた。夜空ではオーロラが、緑のベールのように静かに揺れている。「伝説ではね、オーロラはいちばん強い想いを連れ去ってくれるそうですよ」ガイドが笑いながらそう言った。知也は顔を上げ、その幻想的な光をただじっと見つめた。ふと、澪の声が脳裏をかすめる。「オーロラってさ、システムの転送エフェクトみたいだよね」結局、最後まで彼女の代わりにこのオーロラを見届けることになったのかもしれない。吹雪が強くなってきた。知也は静かに踵を返し、空港へ向かって歩き出した。背後には、新雪にすぐ埋もれていく足跡だけが残っていた。