LOGIN雨宮澪(あまみや みお)は、氷室知也(ひむろ ともや)を救うために、システムの拷問に耐えながら九十九回、死んだ。 ようやく彼のもとへ戻れたのに、待っていたのはスーツのポケットに入った、愛人の妊娠検査結果だった。 かつて雪の中で跪き、仏に祈ってくれた男が、いまは優しく、別の女の子供をあやしている。そして家族にだけ、こう告げる。「彼女が知ることは、永遠にない」 絶望した澪は、百回目の死を選んだ。今度は転生のためじゃない。彼から逃げるために。 「知也、あなたが言ってたよね。オーロラって、システムの転送エフェクトみたいだって……今度は、私が先に行くね」 狂った知也が真実を知ったのは、澪の火葬の日だった。 自分の手で殺したのは、彼女の子供だけじゃなかった。最後まで残っていた彼女の愛、そのもの。 彼女を追って、知也は九十九回、自殺を繰り返した。そしてようやく、澪のいる世界に辿り着いた時―― 澪は別の男の腕を取り、菜の花畑で笑っていた。 「いいよ」 一番残酷な罰は、彼女が他の誰かを愛しながら生きていく姿を、生きたまま見せつけられることだった。
View More三か月後、故郷の菜の花畑。澪は白い麻のワンピースをまとい、髪には淡い黄色の野花を一輪差していた。ウェディングドレスも、招待客もいない。ただ、見渡すかぎり広がる黄金色が、風に揺れて波のようにきらめいている。まるで大地そのものが、二人にそっと祝福を贈っているみたいだった。陽向のスーツのポケットには、いちごキャンディーがぎっしり詰まっていた。緊張のあまり、あぜ道でつまずきそうになった陽向を見て、澪は笑いながら、涙をこぼした。「澪」陽向は彼女の傷だらけの手首をそっと握り、痛ましい傷跡に唇を落とす。「君は――」「いいよ」澪が言葉を遮り、つま先立ちになって陽向の額に自分の額を寄せた。「百回も生き死を繰り返すずっと前から、私はもう、あなたのものだったんだから」指輪はなかった。陽向は草の茎で小さな輪を編み、それを澪の薬指にはめた。「帰ったら、ちゃんとしたのを買うよ」「これが本物よ」澪は微笑みながら、陽向の手を自分の胸に当てた。遠くでは、かまどの煙が細く立ちのぼっていた。夕日が二人の影を長く伸ばし、やがてその影はひとつに溶け合っていった。……そして、海の向こう――アイスランド。知也は黒い砂浜に立っていた。夜空ではオーロラが、緑のベールのように静かに揺れている。「伝説ではね、オーロラはいちばん強い想いを連れ去ってくれるそうですよ」ガイドが笑いながらそう言った。知也は顔を上げ、その幻想的な光をただじっと見つめた。ふと、澪の声が脳裏をかすめる。「オーロラってさ、システムの転送エフェクトみたいだよね」結局、最後まで彼女の代わりにこのオーロラを見届けることになったのかもしれない。吹雪が強くなってきた。知也は静かに踵を返し、空港へ向かって歩き出した。背後には、新雪にすぐ埋もれていく足跡だけが残っていた。
窓の外に、黒い影が一つ、音もなく立っていた。知也はガラス越しにその光景を見つめていた。澪が陽向の腕の中で崩れ落ち、泣いている。痩せた肩が震え、風に揺れる枯れ葉のように儚かった。包帯の白さが目に刺さる――自分を傷つけてまで、もう二度と戻りたくないと訴えているようだった。拳を握りしめる。指の関節が白くなる。けれど、心の底から湧き上がってきたのは怒りではなかった。それは、息を詰まらせるような鈍い痛みだった。思い出す――雪の中、膝をつき、震える体で自分のそばに居続けた澪。高熱で意識を失うまで凍えながら、それでも離れようとしなかった。胃出血の時も、イチゴ飴を手に握らせて笑っていた。「薬を飲んだあと、これを食べると一番甘いの」そう言って。あの三年間、狂ったように探し回った。最後には仏の前で額が割れるほど頭を下げ、ただ神に返してくれと祈り続けた。かつて誓った。永遠に愛し、守り抜くと。だが今、自分は彼女を絶望へと突き落とした張本人になっている。「氷室社長、まだ続けますか?」背後で部下の低い声がした。知也は答えなかった。喉が締めつけられ、視界がぼやける。澪が顔を上げた。その視線は、窓の向こうにいる知也を貫く、まるで最初から誰もいない空間を見ているようだった。――なんて、馬鹿げている。冷酷で強引であれば、奪い返せると思っていた。けれど、ようやく分かった。本当の愛は、所有ではない。手放すことなんだと。「……すべての手配を撤回しろ」知也はエレベーターへ向かって歩き出した。しゃがれた声が、かすかに震える。「今すぐだ」ドアが閉まる瞬間、手の甲に何かが落ちた。一瞬、動きが止まる。頬に触れると濡れていた。泣いていた。自分が。……三日後。澪の容態は少しずつ落ち着きを取り戻していた。でも手首の傷跡は、まるで消えない戒めのように残っていた。陽向はほとんど眠らず、病室に付き添い続けた。ある明け方、悪夢から目覚めた澪がふと目を開けると、陽向が彼女の手を握ったまま、眉を寄せて眠っていた。目の下の隈が濃い。そっと、その眉間に指先を伸ばした瞬間、陽向のまぶたがゆっくりと開いた。「どうした?痛むのか?」掠れた声。澪は小さく首を振り、逆に問いかけた。「どうして……私を諦めないの?」陽向は黙ったまま、ポケットから
記者会見の騒ぎがようやく落ち着き、陽向の心理カウンセリングセンターが再び扉を開いた。謝罪に訪れる患者が後を絶たず、マスコミの論調も疑惑から称賛へと変わっていった。すべてが順調に回り始めたように見えた。けれど、澪の胸の奥にはずっと引っかかるものがあった。知也が最後に闇へと消えていったあの背中。それが今も、落ちてきそうな刃物のように心に浮かんでいる。……ある曇り空の午後。澪が一人でカルテを整理していると、チャイムが鳴った。顔を上げると、白衣姿の男が二人、入り口に立っていた。険しい顔つきだ。「雨宮澪さんですね?」片方の男が書類を差し出した。「精神保健福祉法に基づき、同行していただきます。強制的な治療が必要と判断されました」澪の指先が一気に冷たくなった。書類に目を落とすと『転生者精神障害診断書』だった。有名な精神科病院の朱印が押されている。診断結果が、針のように胸に突き刺さった。重度の妄想性障害および自殺傾向。即時入院を推奨。続く説明文が、ナイフのように澪の心を抉った。患者は長期間にわたり「システムミッション」「転生世界」といった架空の設定に没入し、現実との区別がつかない状態。現実の人間関係を「救済」「崩壊値」といった妄想物語へと歪曲し、自身が「九十九回死亡した」と確信している。また、自傷行為を「システムからの罰」と位置づけ、自己傷害を正当化している。澪の呼吸が止まった。この診断書は、自分の全ての記憶を否定している。もしシステムが幻覚だというなら、じゃあ知也は誰?確かに彼の体温に触れた。雪の中で泣き崩れる姿を見た。それどころか、スタンガンで、お腹の子を殺された。「氷室知也はこの世界に存在しない!あなたたちは――」顔を上げると、医師は冷たい声で遮った。「雨宮さん、あなたの言う氷室知也は、氷室グループの代表取締役ですよ。彼はあなたのことなど知りません。三年前、あなたが統合失調症で初めて入院されたとき、病室のテレビで流れていた彼のインタビューをミッションのヒントだと思い込んでいたんです」澪は雷に打たれたように固まった。「嘘よ!こんなの捏造だ!」後ずさる足が震える。「私は病気なんかじゃない!」「ご協力ください」もう一人が前に出てきた。有無を言わせぬ口調。「さもなくば、強制的な措置を取ります」澪の呼吸
一週間後、ある有名メディアが突然ニュースを流した。【衝撃!人気心理カウンセラーの瀬川陽向が規則違反の治療に関与、患者が自殺未遂!】記事には、ぼやけた監視カメラの映像が添えられていた。画面の中で、若い女性がビルの屋上から身を投げ、消防マットに落ちて救われていた。そして、その映像の片隅に、確かに陽向の姿が映っていた。報道によれば、その女性は陽向の患者で、誤った心理介入によって精神が崩壊し、最終的に自殺を図ったという。ニュースが出るや否や、世論は騒然となった。陽向の心理カウンセリングセンターの入り口は、あっという間に記者で埋め尽くされた。フラッシュの光が眩しすぎて、目を開けていられないほどだった。「瀬川先生、患者の自殺行為について、どう説明されますか?」「治療方法に重大な問題があったと認めますか?」陽向は入り口に立っていた。表情は平静だった。けれど、けれど澪には、張りつめた肩の下に怒りを必死に押し込めているのが分かった。「この件は、きちんと調べる」陽向は低い声でそれだけを答えると、すぐに澪の手を引いて室内へ戻り、ドアに鍵をかけた。澪はパソコン画面に溢れる誹謗のニュースを見つめ、指がわずかに震えた。「……これ、本当じゃないわよね?」小さな声で問うと、陽向は静かに首を振った。その目には、怒りと疲労の両方が滲んでいた。「あの女性には確かに会った。でも彼女は重度の広場恐怖症で、窓際に立つことさえできなかった。飛び降りなんて、あり得ない」澪の胸の奥が、ずしりと重くなった。「……氷室知也だ」拳を握りしめる。爪が掌に食い込むほど強く。澪は知っていた。あの世界で、知也がどんなやり方で世論を操り、競争相手を次々と破滅させてきたかを。「彼が全部、仕組んだのよ……」やがて、ネット上に「さらなる被害者」の告発が次々と現れた。陽向が催眠を悪用して患者を操っていた、と書き立てる者。さらには治療の録音と称する音声データをアップする者まで現れた。それらの内容は文脈を無視して切り取られ、まるで陽向が患者を自殺へ誘導しているかのように聞こえた。センターの電話は鳴り止まず、予約はすべてキャンセルされ、入り口には卵を投げつける者まで現れた。ガラス窓が砕け散り、床一面に破片が飛び散る。澪は散らかり放題のオフィスの真ん中に立ち尽くし、黙々と
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