All Chapters of 消えた温もり、戻らぬ日々: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

翌日。時哉の帰りを知った結衣はここぞとばかりにキッチンに立ち、腕によりをかけた朝食を作った。悠樹と拓海は一週間ぶりに会う時哉に大喜びで、彼にまとわりつきながら、我先にと話しかけていた。「パパ、ママはもう帰ってこないんでしょ?結衣さんに僕たちの新しいママになってもらおうよ!」「そうだよ、パパ!僕たち、結衣さんと生活するの、大好き!」時哉の箸を持つ手が止まった。こんな言葉を聞くのは初めてではなかったが、今回はなぜか不快感がこみ上げてきた。結衣はだし巻き卵を一切れ、時哉の茶碗にそっと入れた。「子供の言うことよ、本気にしないで。梨央さんが機嫌を損ねている間は、家のことは私がちゃんと見るから、安心して」時哉はまるで優しさで潤んでいるかのような結衣の瞳を見つめ返し、微笑んだ。「君には苦労をかけるね」時哉は朝食に集中しようとしたが、心も頭も梨央のことでいっぱいだった。昨夜、家に戻ってから、何もかもがしっくりこなかった。シーツは梨央が整えた時のようにパリッとしていなかった。布団はいつものようにふかふかでもなく、あのお日様の匂いもしなかった。服からも梨央がいつもまとわせていた、あのほのかな清潔な香りが立ち上ってこなかった。それどころか、食卓の食器でさえ、梨央がいた時ほどピカピカに磨き上げられてはいなかった。何もかもがおかしかった。時哉の視線がテレビ台の上で、不意に止まった。そこには写真立てが置かれていた。元々は時哉と梨央の結婚式の写真だったはずだ。それが今、結衣一人のスナップ写真に変わっていた。時哉は眉をひそめ、箸を置いた。その声には自分でも気づかないほどの怒りが滲んでいた。「テレビ台に置いてあった結婚式の写真は?」結衣はビクッと身を硬くし、唇を噛み、か細い声で言い訳を始めた。「写真立てが空っぽだったから、悠樹君と拓海君が気に入った写真を選んで入れたの。私、結婚式の写真なんて見てなくて……」涙が頬を伝ってゆっくりと流れ落ちた。悠樹と拓海もすぐに同調した。「そうだよ、パパ!結婚式の写真、どこに行ったかわかんない。きっとママがわざと隠したんだよ!」時哉も結衣の涙に気づき、すぐに表情を和らげた。「すまない、結衣。僕の言い方が悪かった。君を責めたわけじゃないんだ。この家は君の好きに飾ってくれて構わない……」結衣は
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第12話

時哉の心臓が激しく脈打った。喉の奥が緊張して圧迫感を感じた。カッと頭に血がのぼり、時哉はぐっと唾を飲み込んだ。その声には、抑えきれない焦燥と怒気が滲んでいた。「梨央があなたに電話させたんでしょう。彼女に伝えてください。ふざけるのも大概にしろと。僕が今日、彼女を迎えに行きますので!」そう言うと、時哉は受話器を叩きつけた。一息ついたのも束の間、電話のベルが再び甲高く鳴り響いた。時哉は電話をじっと見つめたまま、出なかった。一度、二度、三度。ベルの音はやがて鳴り止んだ。時哉は安堵のため息をついたが、心の中の苛立ちはどうやっても消え去らなかった。時哉は意を決して立ち上がると、研究所を飛び出し、車で梨央の実家へと直行した。梨央の両親はすでに退職し、町も出て、息子の家族と一緒に暮らしており、今は孫の面倒を見ていた。時哉は途中で手土産を買い、桜庭家の玄関のドアをノックした。ドアを開けたのは梨央の母親の桜庭静江(さくらば しずえ)だったが、時哉の顔を見るなり、その表情から笑みが消えた。「お義母さん、僕は梨央を迎えに来ました」時哉は手土産を差し出し、平然とそう言った。時哉が知る限り、梨央が結衣のことを実家に話すはずがなかった。差し出された時哉の手は宙に浮いたままだった。静江はそれを受け取ろうともせず、その表情は冷え切っていた。 一瞬にして、場の空気が凍りついた。時哉は手土産の袋を握る手に力を込めた。梨央の父親の桜庭正志(さくらば まさし)が孫を抱いて静江の後ろに現れ、時哉を厳しく一瞥した。「入れ」時哉は手土産をテーブルに置き、謙虚な態度で言った。「お義父さん、お義母さん。僕は梨央とちょっとした喧嘩をしただけです。今日彼女を迎えに来ました」時哉の視線は桜庭家が梨央のために残してある部屋に向けられた。「見る必要はない」正志が冷たい顔で言った。「梨央はここには戻っていない」「そんなはずはありません!」時哉は思わず口走った。実家に戻っていない?なら、梨央は一体どこへ行ったんだ?梨央は仕事もしていない、ただの専業主婦だった。この十年間、彼女の生活は時哉と子供たちのためだけに回ってきたのだ。彼らを除けば、彼女に行くあてなど、実家をおいて他にないはずだった。時哉は眉をひそめた。「お義父さん。梨央はまだ機嫌を損ねて
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第13話

悠樹と拓海が飛び込んできて時哉のそばに立ち、興奮した目で正志と静江を見つめた。「おじいちゃん、おばあちゃん!ママ、本当にパパと離婚したの?もう家に帰ってこないの?」正志と静江は二人の子供の嬉しそうな顔を見て、心の底からぞっとした。二人の脳裏に、次から次へと記憶が蘇った。梨央が妊娠し、出産した時の苦しみ。子供たちが病に倒れるたび、彼女が寝る間も惜しんで看病し、疲れ果てていた横顔。そして、梨央が家を出る前、二人の足元にすがりつき、身も世もないほどに泣きじゃくった、あの日の姿。梨央がこの二人の子供たちにどれほど絶望していたかという、その記憶……悠樹と拓海も自分たちが目をかけてきた孫たちだった。時哉の両親よりも、自分たちの方が長く面倒を見てきた。だが、今この瞬間、二人は娘が感じていた痛ましい絶望をようやく理解した。正志と静江は初めて、孫たちに冷たい顔を向けた。「そうだよ。あなたたちのママはあなたたちのパパと離婚した。もうあなたたちとは何の関係もない。私たちもあなたたちとはもう関係ない!あなたたちが森本結衣とやらを好きなら、その人にママになってもらえばいいだろう」正志と静江がこんな声色で話すのは初めてだった。悠樹と拓海はすぐに癇癪を起した。「関係ないなら関係ないでいいよ!結衣さんのほうがママより千倍も一万倍もいいんだ!僕たち、結衣さんに新しいママになってもらうんだから……」「いい加減にしろ!」時哉の怒声が二人の言葉を遮った。そこへ、結衣が慌てて駆け込んできた。「悠樹君、拓海君、そんなこと言っちゃダメ……」正志と静江は結衣の姿を見て、ますます怒りで目を赤くした。静江が竹ぼうきを掴んで、四人を追い立てた。「よくもまあ、この女まで連れてくるなんて!出ていきなさい!とっとと出ていけ!今後、二度とこの家の敷居は跨がせないから!」竹ぼうきが時哉と結衣の体に叩きつけられた。四人は家から追い出された。ドアがバンッという音と共に、力任せに閉められた。結衣は痛みで涙を流していたが、真っ先に時哉を気遣った。「時哉、怪我はない?」時哉は不意に一歩下がり、結衣が触れようとする手を避けた。時哉の表情は冷たく、その目には鋭さが宿っていた。「なぜ君たちがここにいる?」結衣の手が宙で止まり、傷ついた表情を浮かべた。「悠樹君と拓海君を学校に迎えに行
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第14話

家に戻ると、悠樹と拓海が庭でボール遊びをしており、結衣がキッチンで忙しそうに立ち働いていた。時哉が入ってくるのを見ると、結衣は甘えた声で手を差し出した。「時哉、私、手を怪我しちゃって、痛いの。ふーふーして……」時哉は結衣の手に目を落とした。それはもう治りかけの小さな傷口だった。なぜだか、時哉はふと梨央のことを思い出した。彼の記憶では、梨央もキッチンでよく怪我をしていた。包丁で指を切ったり、熱い油が跳ねたり。結婚したばかりの頃、梨央も「ふーふーして」とねだってきたことがあった。だが、彼はただ冷たく梨央の手を振り払っただけだった。「料理もできないなら、するな」と。あの日から、梨央がそんな些細なことで時哉を頼ることは二度となかった。それからはたとえ怪我をしても、いつも黙って一人で手当てを済ませ、食事の支度を欠かすことは決してなかった。時哉の心臓が不意に締め付けられるように痛み、罪悪感が一気に押し寄せてきた。時哉は今になってようやく自分がどれほど梨央に負い目があるかを悟ったのだ。時哉は結衣の差し出された手を冷たく振り払うと、彼女の目をまっすぐに見据え、感情の欠片もない声で言った。「梨央の離婚届に僕がサインするように仕向けたのは君だな」結衣の心臓がどきりと音を立てた。彼女は咄嗟に唇をきゅっと噛み、いかにも可哀想な様子で答えた。「ええ……」涙がそれに合わせてこぼれ落ちた。「時哉、私を責めるの?梨央さんが私のところに来て、頼んできたのよ。彼女が言ったの……」結衣は時哉の顔色をうかがった。「梨央さんは時哉も子供たちも、もういらないって。他にも時哉のことすごく酷い言葉で……私はあの時、本当に腹が立って。あなたが彼女にあんな風に貶められるのが許せなかったの……時哉、私に下心があったことは認めるわ。だって、私はあなたを愛しているもの。あなたと一緒になりたい。悠樹君と拓海君のことも、自分の本当の子供として大切に育てるわ」結衣はゆっくりと前に進み、時哉の腰に腕を回した。時哉から見えない角度で、その顔には勝利を確信した笑みが浮かんでいた。だが、次の瞬間、結衣の表情が凍りついた。時哉が結衣の腕を力ずくで引き剥がし、突き放したからだ。時哉の眼差しは感情を読ませまいとするかのように暗く沈んでいた。その声には冷酷ささえ滲んでいた。
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第15話

「私うっかりして、ご飯を全部ひっくり返しちゃった。地下室に行って、ジャガイモをいくつか持ってきてくれる?」悠樹と拓海は腹を空かせており、素直に頷いた。二人は懐中電灯を手に取り、地下室へと入っていった。中に入った瞬間、頭上でドアの閉まる音がし、続けて、鍵をかける音が響いた。二人の心臓がどきりと音を立てた。はっと顔を見合わせると、お互いの瞳には紛れもない恐怖とパニックの色が宿っていた。二人は踵を返し、地下室のドアを狂ったように叩いた。「出してよ!結衣さん、開けて!僕たちをここから出して!」二人は何が起きたのかを悟ったようだった。必死で許しを乞い、懇願した。「結衣さん!僕たちは絶対にあなたの言うことを聞くから!お願い、早くここから出してよ!」だが、返事はなかった。二人がどれだけ頼んでも、叫んでも、声が枯れ果てるまで呼び続けても、誰も助けに来てはくれなかった。元々切れかかっていた懐中電灯が一度点滅し、地下室は完全な暗闇に包まれた。悠樹と拓海は空腹と恐怖で、ついに耐えきれず、二人で抱き合って泣き出した。どれほどの時間が経ったのか、二人ようやく泣き止んだが、それでも固く抱き合ったままだった。暗闇の中、拓海が不意に口を開いた。「ねえ、お兄ちゃん。ママもあの時、こんなふうに怖かったのかな……」その問いに答える者はいなかった。ただ、再びしゃくりあげる声だけが響いた。二人は三日間も閉じ込められた末に、ようやく外に出された。結衣は二人に残り物のご飯を与えたが、腹半分にも満たなかった。結衣は相変わらず流行の服で美しく着飾り、ソファに座って笑みを浮かべていた。だが、悠樹と拓海が結衣に向ける目には恐怖しか宿っていなかった。その日から、悠樹と拓海は家に監禁され、奴隷のような生活が始まった。日中はすべての家事を言いつけられ、夜は地下室で寝かされた。二人は数え切れないほどの切り傷や火傷を負いながら、無理やり料理を覚えさせられた。ある時、悠樹が皿を一枚割ると、結衣は鋭い破片で彼の腕に長い切り傷をつけた。拓海が洗濯で結衣のスカートをダメにすると、罰として庭で三時間も跪かされた。二人は家の中で少しでも物音を立てることを禁じられた。一度、拓海がくしゃみをすると、結衣に何十発も平手打ちを食らった。このような虐待は枚挙にいとまがなか
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第16話

時哉は二人に駆け寄り、片腕に一人ずつ抱えて引き離した。だが、二人の子供は狂ったように、時哉に対しても殴りかかった。「この悪党ども、殺してやる!お前たちなんか、僕のパパとママじゃない!僕のママを返せ!」結衣は体の傷を押さえ、泣きじゃくりながら訴えた。「悠樹君と拓海君が学校をサボって宿題もしないから、先生からお電話があったの。私が二人を叱ろうとしたら、急に私に殴りかかってきて……」「この嘘つき女!」二人は怒鳴り、もがいた。だが、ここしばらくの栄養失調と全身の怪我で、すぐに気を失ってしまった。時哉は顔をこわばらせた。二人の子供が目に見えて痩せていること、そして様子がおかしいことに、時哉は鋭く気づいていた。時哉は結衣を一瞥した。「とにかく、彼らを病院へ連れて行こう」……「お子さんたちに大きな問題はありません。ただ、少し栄養失調気味ですね」医師の診断を聞くと、結衣はすぐに自責の念を口にした。「全部、私のせいだわ。私が作った料理が悠樹君と拓海君の口に合わなかったのね。あの子たち、この頃あまり食べてくれなくて。時哉、私は今まで子供の世話をした経験がなかったから。これからはちゃんと勉強するわ……」時哉は頷いたが、何も言わなかった。時哉が会計と食事を買いに行っている間、病室で悠樹と拓海がゆっくりと目を覚ました。結衣の姿が目に入ると、二人は怯えて震え出し、その目には恐怖が浮かんだ。結衣は陰険で残酷な声で警告した。「ほらね。あなたたちのパパは私の言うことしか信じない。死にたくなければ、余計なことは言わないことね。あなたたちが退院したら、今度こそ生き地獄を味わわせてやるから」病室の外で、時哉はその残酷で悪意に満ちた脅迫の言葉を聞いていた。頭がガンガンと鳴り響き、心の底からぞっとした。彼は先ほど、学校の担任に電話をかけていた。担任の話でも、悠樹と拓海は保護者から正式に休暇の届が出ていたとのことだった。結衣は彼に嘘をついただけではなく、子供たちを虐待していたのだ!バン!時哉は病室のドアを蹴破った。彼の目は真っ赤に充血し、全身から凄まじいまでの怒気を発していた。結衣は時哉の恐ろしい形相に、全身を震わせ、立ち上がった。「時哉、私は……」結衣が言い終わる前に、時哉は彼女の喉を掴み、そのまま持ち上げた。この瞬間の時哉はまるで地
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第17話

結衣は児童監禁および虐待の罪で、刑務所に収監された。悠樹と拓海が退院すると、父子三人は真っ先に桜庭家を訪れたが、門前払いだった。悠樹と拓海が正志と静江の足にすがりつき、泣きじゃくった。正志と静江の目には一瞬、痛ましげな色が浮かんだが、梨央との約束を思い出し、ついに梨央の居場所を明かすことはなかった。その後も、三人は何度か桜庭家を訪れたが、すべて無駄足に終わった。相良家には主婦がおらず、十歳の子供が二人だけ。仕方なく、親戚に来てもらい、身の回りの世話を頼むことになった。二人は数日体を休めると、再び学校に通い始めた。しばらく休んでいたため、授業にはついていけず、授業中も上の空。宿題もほとんど手付かずで、学校の担任から、時哉の研究室に何度も何度も電話がかかってきた。時哉自身も、仕事でミスを連発していた。再び学校の担任から苦情の電話を受け、彼は眉間を揉んだ。焦燥感と疲労が押し寄せた。そして時哉はまた梨央のことを思い出した。梨央が彼と離婚していたと知った時、彼の心には怒りがこみ上げていた。梨央が何も言わずに去ったことに腹が立ち、彼女が子供たちのことさえ顧みなかったことに腹が立った。だから時哉は研究所に戻り、研究プロジェクトに没頭することを選んだのだ。だが、毎晩、研究所のベッドに横になっても、昔のようにすぐに寝入ることができなかった。あの彼が当たり前の存在として無視し続けてきた梨央が今、頻繁に時哉の脳裏に現れた。梨央が時哉に媚びるように笑いかける顔。彼が怒った時、彼女が緊張してうろたえる顔。彼女が家事をしている時の甲斐甲斐しい姿。彼女が子供たちをあやす時の優しい顔……あまりにも当たり前すぎて顧みさえしなかった、あの数え切れないほどの瞬間が、 今や彼の胸を刺す棘となり、 その一つ一つが彼を苛んだ。その鋭く、そして絶え間ない痛みが、四六時中彼を苦しめ、寝ても覚めても気が休まらなかった。時が経てば経つほど、その痛みは強くなり、心は虚しくなっていった。あれほど深く愛し、切り離せないと思っていた結衣のことは逆に、どうでもいい存在になっていた。結衣が二人の子供を虐待していたと知った時、時哉の心にあったのは怒りと憎しみだけで、結衣への未練など、微塵も感じなかった。時哉はオフィスの椅子に座り、長く息を吐き出した。梨
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第18話

時哉の前に並んでいた悠樹と拓海が振り返り、時哉が隣のアパレルショップに駆け込んでいく姿をちょうど目にした。二人は一瞬のためらいも見せず、父の背中を追って走り出した。ガラスのドアについたベルがカランカランと軽やかな音を立てた。「いらっしゃいませ」「梨央!」「お母さん!」時哉と悠樹と拓海が梨央の真正面に立ち、彼女をじっと見つめた。すると梨央の笑顔が瞬時に凍りつき、ゆっくりと消えていった。父子三人の目はみるみるうちに涙が溢れた。時哉が梨央の腕を掴み、外へ引っ張り出した。その声はかすれていた。「梨央……君はなんて酷いんだ」「お母さん、僕たちはお母さんに会いたかったよ……」梨央は視線を時哉の上で滑らせ、悠樹と拓海の上で一瞬だけ留めたが、すぐにすっと外した。梨央の表情には何の波風も立っておらず、その声は他人行儀で、礼儀正しかった。「申し訳ありませんが、当店はレディース専門です。どうぞ、ご退店ください」悠樹と拓海は全身を震わせ、信じられないという目で梨央を見つめた。時哉は唇を固く引き結び、複雑な眼差しを向けた。「梨央、君は……」時哉が言い終わる前に、入り口のベルが再び鳴った。梨央は踵を返し、新しい客の応対に向かった。三人にはもう一瞥もくれなかった。悠樹と拓海が前に出ようとしたが、時哉に止められた。三人は店の隅に立ち、貪るように梨央の姿を見つめた。オープン初日とあって、客はひっきりなしに訪れた。梨央と二人の店員は目が回るほどの忙しさだった。父子三人はやがて客の流れに押されるようにして、店の外へとはじき出された。だが、三人はその場を去らなかった。時哉が何か食べ物を買ってきて、三人は店の外で夜になるまで待ち続けた。やがて店が閉店時間を迎え、店員たちが先に帰っていった。梨央がその日の売上を確認していると、時哉が二人の子供を連れて再び店に入ってきた。今度は三人とも、かける言葉が見つからなかった。今の梨央は三年前のあの疲れ切って生気もなかった専業主婦とは別人だった。彼女は揺るぎない存在感をまとい、その自信は内から溢れ出るかのように輝いていた。まるで、埃を払われて本来の光を放ち始めた宝石のようだった。そんな梨央の姿に、時哉は心を奪われると同時に胸を締め付けられた。心に渦巻く感情が最終的にただ一言になった
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第19話

この時、十歳くらいの男の子が店に飛び込んできた。悠樹を突き飛ばし、両腕を広げて梨央を背後にかばった。その子は目の前の三人の男たちを真っ直ぐに睨みつけ、ごくりと唾を飲んだ。梨央を振り返って小声で言った。「お母さん、怖がらないで。もし殴り合いになったら、お母さんはすぐに走って警察を呼んで!僕、喧嘩は強いんだから!」梨央は自分をかばうように立ちはだかる桜庭勇人(さくらば はやと)の姿に、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。梨央は勇人の手を握り、彼を安心させるように笑いかけた。「大丈夫よ、勇人。この人たちは私の知り合いだから……」悠樹と拓海は燃え上がるような憎悪を込めた目で勇人を睨みつけ、歯を食いしばりながら怒鳴った。「お前は誰だ!僕たちこそがお母さんの本当の息子だ!」時哉も歯を食いしばり勇人を睨みつけていた。怒りに震える悠樹と拓海を背後に引き寄せ、低い声に怒りを滲ませた。「梨央、悠樹と拓海こそが君の本当の息子だ。そいつは一体、誰の子なんだ?もしかして君は再婚したのか?」勇人は咄嗟に梨央の顔を見た。この人たちが母親の言っていた「元夫」と「その子供たち」なのだと察した。勇人は再び梨央を背後にかばい、一歩も引かずに大声で言い返した。「お母さんが再婚したかどうか、おまえたちに関係ないだろ!僕はお母さんの養子だ。これからは僕がお母さんを守る。おまえたちは早く帰れ、二度とお母さんをいじめに来るな!」「お母さん!僕たちを捨ててまで、よその子を養子にする気なの!」悠樹が目を赤くして問い詰め、拓海も憤慨した顔で梨央を見ていた。その視線は非難の色に満ちていた。時哉の目にも痛ましさと理解できないという色が浮かんだ。梨央は笑って、勇人の頭を撫でながら言った。「ええ、私は勇人のことが大好きよ。これからこの子が私の本当の息子だわ。あなたたち三人はもう私とは何の関係もない。二度と私の邪魔をしに来ないで」悠樹と拓海の目から、再び涙がこぼれ落ちた。心臓を無情に鷲掴みにされたかのように、息が詰まった。時哉は息を呑んだ。胸の上にずっしりと重い石を置かれたかのような圧迫感だった。時哉は前に出ようとする悠樹と拓海を引き止め、低い声で言った。「梨央、君がまだ怒っているのはわかる。お互い少し冷静になろう。日を改めて、もう一度しっかり話がしたい」父
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第20話

梨央のアパレルショップ「若葉」はブランドチェーンで、以前は主に西地方で販路を拡大しており、常盤通りのこの店は彼女が首都に出す第一号店だった。この夏休み、梨央は首都に残ることにしていた。常盤店の状況を把握する傍ら、他にもいくつかの良い立地と物件に目星をつけ、交渉や内装の準備を進めていた。梨央は多忙で、毎日店に出ているわけではなかった。だが、彼女が店にいる日には、決まって悠樹と拓海が店の入り口で見張るように立っていた。店長が眉をひそめて報告した。「桜庭さん。あの子たちですが、毎日ああして店の入り口に立っていまして……こちらからお引き取りをお願いしても、なかなか動いてくれず、桜庭さんに御用があると繰り返すばかりです」梨央は頷き、手元の作業を続けた。昼食の時間になっても、二人は帰る気配がなく、昼食も食べに行こうとしなかった。ただ、ショーウィンドウ越しに可哀想な様子で彼女を見つめていた。梨央はついにため息をつき、二人の前へと歩み出た。「お母さん!」悠樹と拓海の顔がぱあっと明るくなった。「ご飯、行くわよ」梨央は先に立ち、二人を隣のレストランへ連れて行った。昼時で混雑していたが、空席を二つ見つけ、二人を座らせた。梨央がカウンターで定食セットを二つ注文し、食事を待っていると、悠樹が彼女の手を引いて席に座らせようとしたが、彼女はそれを断った。食事を受け取ると、梨央は二人のテーブルにそれを置いた。不安そうにしている二人を見て、小声で言った。「食べ終わったら、まっすぐ帰りなさい。もう二度と来ないで」梨央はそう言うと、二人の反応も見ずに、踵を返して店に戻った。悠樹と拓海は目を赤く潤ませ、目の前の食事を見つめていた。こみ上げてくるもので喉がひどく詰まり、とても飲み込めそうになかった。悠樹が先にハンバーガーを掴み、大きな口でかじりつき、無理やり飲み込んだ。拓海も、母親が買ってくれた食べ物を口にしたが、砂を噛むようだった。二人は黙ってうつむいていた。周りの喧騒が嘘のように、その一角だけが重く沈んだ空気に支配されていた。昼食を終えて店に戻った時、梨央はもういなかった。二人はまた夜まで待った。時哉が仕事帰りにやって来たが、やはり梨央には会えず、三人はうなだれて家に帰った。夕食の席だったが、父子三人は何を口にしても、まった
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