All Chapters of あの日、死ねばよかったのに: Chapter 1 - Chapter 10

11 Chapters

第1話

九歳の時、私は結城柊也(ゆうき とうや)を庇って爆発の衝撃波を受け、それ以来、補聴器が手放せない体になった。彼はひどく罪悪感を抱いた。自ら私との婚約を申し出ると、目を赤くして誓った。「夏帆、俺が一生お前の面倒を見る」けれど、十八歳になったあの日。学園一の美人に課された「試練」とやらをクリアするため、彼はクラスメイトたちの前で、私の補聴器を乱暴に引き抜くと、嫌悪を込めた声で言い放った。「足手まといさん。とっくにうんざりしてるんだよ、お前には」「マジで九歳の時、お前が助からなければよかった。そのまま死んじまえばよかったんだ」私は、耳が完治したことを示す診断書を握りしめたまま、何も言わなかった。家に帰ると、私は黙って大学の志望校を変更し、両親を連れて彼の実家へ婚約破棄を申し出た。柊也。あなたと私、もう二度と会う必要はない。……「篠原夏帆(しのはら かほ)、マジで九歳の時、お前が助からなければよかった。そのまま死んじまえばよかったんだ」柊也がその言葉を口にした瞬間、個室内の空気が一気に沸騰した。「ヤベェ、やっぱ柊也はすげえや!」「今度、夏帆の耳が治ったらさ、本人の耳元で直接言ってやれよ。そしたらこいつ泣くかな?あのオドオドしたぶりっ子みてえな顔、マジでウケる」「聞かれたって別にどうってことねえだろ。障害者なんか誰もいらねえし、柊也が慈悲で可愛がってやってるだけじゃん?」私はその場で凍りついた。バッグの中の完治診断書を固く握りしめ、どうすればいいか分からなかった。大学受験が終わった後、両親は私を遠方の病院へ連れて行ってくれた。そこで耳は完治し、もう補聴器は必要なくなったのだ。今日は、私の誕生日パーティー。今日こそ、柊也を驚かせようと思っていた。耳が治ったこと、もう彼の手足まといじゃなくなることを伝えたかった。それなのに。心を込めて準備したサプライズは、私に血塗られた真実を突きつけた。柊也の言葉は鋭い刃となって、私の心臓に突き刺さる。胸が締め付けられ、呼吸すらままならない。爪が手のひらに食い込み、じりじりと痛む。私は唇をきつく噛みしめ、柊也を見上げた。なぜ、と問いたかった。だが彼は私に気づいていないようだった。手の中の白い補聴器を弄びながら、ふざけ
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第2話

ふと、今年の大小さまざまなパーティーで、似たような瞬間が何度もあったことを思い出す。柊也が私の補聴器を外し、優しい目つきで何かを口にする。彼が補聴器を戻した後、周りのみんなは決まってこう言った。彼は愛をささやいていた、私を絶対に裏切らないと誓っていた、と。もし、私の耳が治っていなかったら。あの甘い言葉の下に隠された、ガラスの破片のような、聞くに堪えない本心を、私は永遠に知ることはなかっただろう。「あ」と、葉月が突然声を上げた。彼女は柊也の肩に回していた手を放し、悪びれもなく私に謝る。「ごめんね、夏帆。私たち、仲間内ではいつもこんな感じでふざけ合ってるの。ヤキモチ妬かないでよ」柊也が「よせ、お前。いつも男みたいにはしゃぎ回って。どこに女らしさがあんだよ」と笑い飛ばす。そう言うと、二人は周りに誰もいないかのように、追いかけっこをしたりしてふざけ始めた。周りの誰もが、その光景に慣れっこになっている様子だ。私はぐっと目を閉じ、踵を返そうとした。だが、目ざとく気づいた葉月に腕を掴まれて止められる。彼女は非難するような目で私を見た。「みんな、夏帆に義理立てして、誕生日会に来てあげてるんじゃない。それなのに急に帰るってどういうこと?」柊也が「ほら」と私の頭を撫で、心底困ったというように宥めてくる。「みんながくれた誕生日プレゼント、まだ開けてもいないだろ。お姫様みたいに拗ねるなよ」私は眉をひそめ、無意識にその手を避けた。柊也の表情が瞬時に暗く険しくなったのを無視して、私ははっきりと彼に告げる。「私たち、別れましょう。もう二度と連絡しないで」そして、振り返らずに個室を出た。帰り道、スマホに次々とメッセージが届く。柊也は全く理解していないようだった。【お前、また何拗ねてんだ?みんながお前のためにわざわざ集まって、誕生日祝って、プレゼントまで用意してくれたのに、ドン引きする気か?】【葉月はただ盛り上がってただけだ。あいつはサバサバしてて、お前ら女みたいにぶりっ子したりしねえから、つい肩を組んだだけだろ?すぐに謝ってたじゃねえか】他の友人たちも、クラスのグループで私にメンションを飛ばしてくる。【篠原、お前、ちょっとひどすぎないか?】【いきなりキレて帰るとか、俺たちが何か悪いことしたかよ?
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第3話

柊也の腕は、行き場を失ったまま宙で固まっていた。しばらくして、痺れてきた腕を下ろすと、彼は少し苛立ったように問い詰めてくる。「お前、今日一体どうしちまったんだ?」「さっき告白を受け入れた時は、目に涙まで浮かべてたくせに。なんで急に態度を変えるんだ?」「夏帆。お前、自分が昔、どれだけ素直で聞き分けが良かったか、忘れたのか?」胸が詰まる。彼に何かを返す気にもなれなかった。以前の私は甘い夢に浸っていた。彼が想ってくれているのは私一人だけで、将来は一緒に天都の大学に進学し、一緒に暮らし、卒業したら順調に結婚して、子供を産んで……と。今日、血塗られた真実が暴かれるまでは。彼は私を愛してなどいない。ようやく、その事実を理解した。彼にとって私は、ただの「幼い頃に命を救ってやった手足まとい」でしかなく、その心に何の波風も立てない存在だったのだ。私は深呼吸をして、落ち着いた声で繰り返した。「拗ねてるんじゃない。本気で別れたいの。もう連絡してこないで」その言葉に、柊也は突然キレた。アクセサリーケースを地面に叩きつけ、その目には怒りが宿る。「夏帆、お前、マジでいい加減にしろよ……」その言葉は、途中で遮られた。父が私を背中に庇うように前に立つ。その眉間には皺が寄っていた。「柊也くん。言葉遣いには気をつけろ」「雨に濡れているようだし、今日はもう帰って、熱いシャワーでも浴びて休みなさい。もう遅いから、食事に誘うわけにもいかないしな」母が、笑顔でケーキの皿を差し出す。その笑みは、礼儀的なものだった。「お願い事は、もう夏帆が済ませましたから。プレゼントも、もう必要ありません。このケーキ、よかったら持って帰って食べてちょうだい」「早くお帰りなさい。男の子でも、夜道には気をつけないと」柊也はしばらく呆然としていた。その理由は私にもおおよそ察しがついた。これまで彼が家に来た時、両親はいつも熱烈に歓迎していた。門前払いなど、一度もされたことがなかったのだ。彼は、今日の両親の態度の急変が全く理解できないという顔で、何か言おうと口を開きかけた。だが、その言葉が発せられる前に。「バタン」という音と共に、玄関のドアが彼の目の前で無情にも閉められた。彼は、見事に門前払いを食らったのだった。
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第4話

「魚の記憶は七秒しかないって言うけど、俺は違う。俺が、夏帆っていうお姫様を、永遠に守ってやる」幼い頃の誓いを、覚えていたのは私だけだった。もし九歳の私が、十八歳の柊也が放った「お前が助からなければよかった。そのまま死んじまえばよかったんだ」という言葉を聞いたら、きっとショックで泣き崩れていただろう。だが、この数年間、耳が不自由なせいで陰口を叩かれた経験は一度や二度だけではない。私は柊也の態度の変化を、あっさりと受け入れた。人は、いつか大人になる。あの日、私が彼の命を救ったことで、結城家は負い目を感じていた。この数年、取引で五割近い利益をうちの会社に譲ってくれている。それだけでも、十分すぎる誠意だ。結局のところ、私たちはお互い、貸し借りのない関係になったのだ。そして私は、自分自身が「誰かの付属品」ではなく、他人に依存せずとも生きていける、一人の人間であると固く信じている。だから、私は母の顔を見上げ、きっぱりと言った。「もう、決めたから」私は母に付き添ってもらい、志望校を変更した。天都から、K市へ。その夜は眠れないかと思ったが、意外にもぐっすりと眠れた、昼過ぎまで。私は眠い目をこすり、無意識にスマホを手に取った。すると、ラインからボイスメッセージが三件届いていた。柊也の裏アカウントからだった。スピーカーから流れてきた彼の声は、どこか冷たさを帯びていた。「夏帆、ふざけるのはもう十分だろ。いい加減ブロックを解除しろ。何歳だと思ってんだ、そんなガキみたいな真似して」「昨日、お前が急に帰ったせいで、葉月がどれだけ自分を責めたか知ってるか。どう償えばいいか分からないって、屋上から飛び降りようとしたんだぞ。俺が必死で止めたからよかったものの」「夏休みはまだ時間がある。あいつや他の連中と、白嶺市(はくれいし)にでもスキー旅行に行って、気分転換させてやるつもりだ。お前、ヤキモチ妬くなよ。あいつが自殺騒ぎを起こしたのには、お前のせいでもあるんだからな」あまりの厚顔無恥な物言いに、笑えてくる。葉山葉月が、本気で死ぬ覚悟なんてあるはずがない。学生時代、彼女はいつも「私は女の中の女」で「男勝りの姐御」だと自称していた。ぶりっ子したり、すっぴん風メイクをしたり、高嶺の花を気取ったりする女とは違
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第5話

「昨日は本当にごめんなさい……まさか夏帆がそんなに本気で怒るなんて思わなくて。私はただ、柊也とは弟みたいに仲良くしてただけで……」葉月は、そこにない涙を拭う仕草をする。「結局、私のせいで……私がもっとちゃんとしてれば、夏帆は……おばさま、私が屋上から飛び降りようとしちゃったのは、本当に罪悪感で……だから、どうか夏帆を責めないでください」「もう、お芝居は終わりました?」母が葉月の言葉を遮る。その口元には、あからさまな皮肉が浮かんでいた。「最近の若い子って、本当にろくなことを覚えないんですね。いつもいつも『私、男友達しかいないから』だの、そういうわざとらしい演技ばっかり」「うちの夏帆があなたに何も言わないのは、あの子が私たちにちゃんと『分をわきまえる』ように育てられましたからよ。みっともなく人を罵ったりしないだけです。でも、本当にあなたの両親に会いたいですね。どういう教育をしたら、そうやって平気で男の子の集団に混ざり込めるのかしら?」「『男女の別』って言葉、知らないんですか?親が教えないなら、私が教えてあげますよ」「あなたみたいな子のこと、ネットで何て言うか知っています?ああ、そうそう。『自称サバサバ女』ってやつですよ」思わず吹き出してしまった。私もすぐに彼女を突き放す。「あなた、汗臭いわ。馴れ馴れしく触らないでくれる?」葉月が全身を硬直させた。母の言葉の意味を理解したのか、彼女の目はみるみるうちに赤くなり、どうしていいか分からないといった様子で立ち尽くす。大村(おおむら)という男子が、すぐに彼女を庇って声を荒げた。「おばさん、いくらなんでも失礼じゃないすか!葉月は、あんたの娘のせいで飛び降りそうになったんすよ!」私は彼を一瞥した。昨日、あのセリフを吐いたのはこいつだ。「障害者なんか誰もいらねえし、柊也が慈悲で可愛がってやってるだけじゃん?」強烈な吐き気が込み上げてくる。「夏帆、俺……」柊也が、いつものように私の手を掴もうと、無意識に一歩近づいた。「柊也……」葉月のか細い声が響く。その声と、真っ赤に腫れた目元に気づき、柊也の足は止まった。彼は私に近づくのをやめ、葉月にティッシュを差し出して涙を拭いてやる。「おばさん、さすがに言い過ぎですよ」その声には、我慢でき
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第6話

「な、なんだって?」柊也の顔が青ざめる。信じられないといった様子だ。「いつからだ?なんで俺に言わなかった?」私は鼻で笑う。目には何の感情も宿っていなかった。「それが何か?私が聞こえないのをいいことに、あなたがしてきたこと、全部わかってるって言ってるの」柊也は拳を固く握りしめ、呆然と立ち尽くし、言葉を失っていた。葉月の目には一瞬、嫉妬の色がよぎったが、すぐにいつもの大雑把な口調で私を非難し始めた。「やるじゃん、夏帆。演技うまいんだね。あなたの耳がもう治らない重度の障害だってこと、知らない人いないんだけど。そんな簡単に治るわけ?」言い終わると、彼女はわざとらしく目を見開いてみせた。「もしかして、自分が障害者じゃなくなれば、柊也がまた振り向いてくれて、お姫様扱いしてくれるとでも思った?うわぁ、夏帆ってこんなに腹黒かったんだ。柊也、絶対騙されちゃダメだよ」その言葉に、柊也の目が輝いた。彼は即座に罪悪感から抜け出し、再び得意げな笑みを口元に浮かべる。「葉月の言う通りだ。夏帆、ふざけるのはよせ。俺は、お前が障害者だからって馬鹿にしたことはないだろ?なんでそんな嘘をつく必要がある?こうしよう。さっきの言葉、全部撤回しろ。それから、俺たちと白嶺市に旅行に行くって約束しろ。そしたら、お前が俺に嘘をついたことは、水に流してやる。これが最後のチャンスだ」彼の言葉に、私は心底呆れた。その奇妙な思考回路は、到底理解が及ばない。私は母の腕を取り、そのまま背を向けて立ち去った。背後で、誰かがポツリと呟くのが聞こえた。「なんか、篠原のやつ、雰囲気変わったな」「変わったって、何が?あの顔とあの格好はいつも通りだろ?」「わかんねえけど、何か、こう……足りないっていうか……」葉月の悲しそうな声が答える。「夏帆は昔からちょっとツンとしてたから。多分、気のせいだよ」さっきの男子が、頭を掻きながら言った。「そっか。なら、俺の見間違いか……」翌日、柊也は葉月のスマホを使って、何度も私に電話をかけてきた。私は一度も出なかった。搭乗時刻が迫り、空港までの移動時間も考慮しなければならない。柊也は仕方なく、仲間たちと車に乗り込んだ。それでも、最後にメッセージを送ってくるのは忘れなかった。【夏帆、お前も少し
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第7話

この話になると、父と母はすぐに笑顔になった。母が応える。「ええ、遠方の病院で治していただいたんです。もうすっかり、元通りになりました」柊也の母は、それを聞いて大喜びしたが、それでもまだ諦めきれないようだった。「夏帆ちゃん、柊也が帰ってくるまで待ってみない?あちらにも、事情を知る権利はあるでしょう」「あなたは小さい頃、あの子の後ろを毎日追いかけて、命まで救ってあげたのよ?その気持ちが、そんな簡単に無くなるなんてことがあるかしら」私はテーブルの上で微かに揺れるお茶の水面を見つめた。そして、きっぱりとした態度で告げた。「おばさん。私と彼は、もうお互いに好きではありません。これ以上、お互いを苦しめるのはやめにしませんか」柊也の父はため息をつき、私たち家族の決意が固いことを察したようだった。説得しようとする妻を制し、執事に婚約書を持ってこさせた。二通の婚約証書が引き裂かれ、燃やされ、灰になっていく。それを見届けて、私もようやく安堵のため息をついた。私は二人にお願いした。「この件は、まだ公にしないでいただけますか。もう少し、時間が経ってから……」二人は頷いて同意した。だがその夜、柊也から電話がかかってきた。私はてっきり婚約破棄の知らせを聞いたのだと思った。ところが、彼は呆れたような声で言った。「志望校の登録ミスるとか、お前、なんでそんなにドジなんだよ」「俺がわざわざ確認しなかったら、お前、K市なんかの大学に行くところだったぞ」「夏帆。お前の志望校、俺が元に戻しといたから。葉月も天都大学志望なんだ。あいつ、家が貧しくて学費も払えないかもしれない。同じクラスだったんだから、俺たちで助けてやろうぜ」夏の夜の生ぬるい風が吹き抜ける。それなのに、全身が冷水を浴びたように冷たくなり、心はどん底まで沈んでいった。彼が……私の志望校を勝手に変更した?そうだ。そうだった。私は小さい頃から、柊也に隠し事など何一つしてこなかった。彼は私の好みも、趣味も、もちろん携帯番号やID番号だって暗記している。だから、彼は志望校登録の締切間際に、わざわざログインして確認したのだ。そして、私の志望校を書き換えた。他人の志望校登録を勝手に変更することが犯罪だということさえ、彼に告げる暇もなかった。
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第8話

【返信しねえなら、葉月と海外旅行に行ってもいいんだぞ】私は意にも介さなかった。何も答えず、ただブロックと削除を繰り返す。そして入学が近づくと、私はそのまま飛行機でK市へ飛んだ。*一方、柊也は、緊張しながら篠原家の玄関ドアをノックしていた。手には彼が手編みした小さな人形を握っている——水色とピンク色。彼の中の「二人」を模したものだ。これを見た時の、私の驚き喜ぶ顔を想像し、彼はもう待ちきれなかった。しかし、ドアが開いた時、そこに想像していた姿はなかった。彼は無意識に尋ねた。「おじさん、おばさん。夏帆、いますか?」「夏休みずっと会ってなくて。プレゼント持ってきたんです。それに、もうすぐ大学も始まるし、一緒に行こうと思って」母は表情を変えず、静かな声で言った。「柊也くん、お伝えし忘れていました。夏帆はもう、大学の寮に入りましたから。一緒に行く必要はありませんよ」柊也は一瞬固まったが、すぐに私がまだ怒っているだけだと決めつけた。彼が帰ろうと身を翻した時、私の父に呼び止められ、含みのある言葉をかけられた。「柊也くん。一度失ったものは、もう二度と戻らないんだよ」「大学が始まったら、うちの会社は忙しくなる。私と妻も、君をもてなす時間はなくなる。もう、邪魔をしに来ないでほしい」柊也は釈然としないままその場を去り、荷物を取りに自宅へ向かった。ドアを開けると、両親が二人とも、険しい顔でリビングのソファに座っているのが目に入った。彼はますます訳が分からなくなる。挨拶だけして部屋に戻ろうとしたが、父親に呼び止められた。「お前、今後一切、篠原家には行くな」「夏帆ちゃんは、もう遠方の大学へ行った。婚約も、一ヶ月以上前に破棄されている。今後、お前たち二人は、ただの幼馴染。それ以上の関係は一切ない」柊也は眉をひそめ、無意識に反論した。「ありえない。父さん、母さん、冗談だろ?」しかし、顔を上げると、そこには両親の冷え切った表情があった。彼はそれが真実であることを遅まきながら悟った。柊也の母がため息をついた、息子が不甲斐ないとでも言うように。「今や夏帆ちゃんの耳は治って、あの子の最後の欠点もなくなった。あの子が望めば、縁談なんていくらでもあるのよ。今さら、うちの家柄なんか、目に入るわけ
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第9話

柊也はあの時、葉月を慰めるのに必死だった。その日の私が補聴器をまったく着けていなかったことになど、気づきもしなかったのだ。共通の友人たちから、柊也が私を探しているという話を聞いた。少しも意外ではなかった。おそらく、彼はついに私の耳が治ったことを知り、あの個室で私が酷い言葉をすべて聞いていたことを、今さらながら思い出したのだろう。だが、そんなことはもうどうでもよかった。K市での日々は充実していた。新入生の合宿は死ぬほど疲れたし、日焼けもしたが、これほど気分が晴れやかだったことはない。サークルにもたくさん加入し、新しい友人も大勢できた。先輩が主催した合コンにも参加し、何人かの男子学生とラインを交換したりもした。だから、女子寮の前で、あの見慣れた男の姿を見つけた時、私は確かに少し驚いていた。回り道をして立ち去ろうと思った。だが、柊也の方が先に私に気づき、大股でこちらへ歩いてくる。その声には、どこか甘えるような響きがあった。「夏帆、会いたかった」「少し話そう。いいか?」ルームメイトたちは私たちに何かあると勘違いしたらしく、ニヤニヤと目配せを交わした後、先に寮へ戻っていった。私は空を仰ぐ。長いため息をついてから、彼を無表情で見据えた。「用件があるならさっさと言って。こっちは忙しいの。もう休みたい」柊也の目は赤く縁取られ、声も震えていた。「俺が悪かった。あの日は……ただ、みんなに囃し立てられて、引くに引けなくなって、お前ことを言ったんだ」「お前には聞こえないと思って、見栄を張って言っただけだ」「あの日、葉月とのデートをOKしたのも冗談だ。実際、デートなんかしてない……」私は思わず笑い出した。「それだけ?」私は彼を真っ直ぐに見つめ、静かに言った。「あなたは何度も私の補聴器を外した。あんな酷い言葉を言ったのは、一回や二回だけじゃないはず。みんなの前で、私を道化にして楽しんでいたんでしょう?」「葉山葉月とデートしてないって?一緒に白嶺市に行くために、スキーウェアを買いに行ったのは何だったの?やったくせに、みっともなく他人のせいにしないで」「あなたはいつも葉山葉月はまだ若いって言うけど、私は彼女より一つ年下よ。彼女が大変?少なくとも彼女は健康じゃない。この数年、私が耳のせいで
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第10話

呆然と立ち尽くし、黙りこくる柊也を横目に、私は彼を避け、身を翻して寮の建物に入った。翌日、寮の前に柊也の姿はもうなかった。いつも早朝にトレーニングをしているルームメイトが教えてくれた。「彼、学校に戻るって。もうあなたの邪魔はしないって言ってたよ」私は頷いて礼を言い、自分のやるべきことに戻った。ほどなくして、共通の友人のSNSを通じて、柊也と葉月が付き合い始めたことを知った。その友人は、よく愚痴のメッセージを送ってきた。【あの二人、毎日ベタベタして、マジでウザい】【柊也、大学のミスターに選ばれたらしい。まあ、あいつは顔も家柄もいいからな。そりゃあ、大勢の憧れの的になるわけだ】【そのせいで、葉月は相当嫉妬されてるみたいだぜ】【ていうか夏帆、お前は最近どうしてるんだ?】友人はあれこれと私の近況を探ろうとしてきた。だが、私は本当に忙しかった。授業、サークル活動、ルームメイトとの付き合い。そのため、彼とのやり取りはいつも適当な相槌で終わらせていた。しかし、すぐにその友人から新たなメッセージが届いた。【柊也と葉月、別れたぞ!】さすがに驚いた。あまりにも早すぎる。送られてきたボイスメッセージを聞いて、ようやく事情を把握した。葉月は、入学して二ヶ月で妊娠が発覚したらしい。柊也はその子を望まず、彼女に60万円を渡し、堕ろすよう言った。だが、葉月は首を縦に振らなかった。「私の体のこと、心配じゃないの?今回の中絶で、もし二度と子供が産めなくなったらどうするの?」柊也は苛立ったように言い放った。「お前は小説の読みすぎだ。一度堕ろしたら不妊になるなんて、そんな三文芝居みたいな話、信じてんのか。さっさと堕ろせ。俺の手を煩わせるな」口論の末、柊也が彼女を突き飛ばした。葉月は階段から転落し、出血、大騒ぎになった。意識を失う直前、彼女は声を張り上げて叫んだ。「柊也!この人でなし!私を妊娠させておいて、責任も取らないなんて!」だが、駆けつけた柊也の母親の方が一枚上手だった。彼女は6万円を払い、階段に残った血痕をこっそり採取させ、DNA鑑定に出したのだ。結果、葉月の胎内の子は、柊也の子ではないことが判明した。鑑定書を病室に突きつけられた葉月は唇を震わせ、何も言えなかった。
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