All Chapters of 髪を剃った君の左耳~ピアスホールに残った俺たちの十年: Chapter 51 - Chapter 60

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51.沈黙が触れる距離

寺務所の窓の外は、いつ雨が落ちてきてもおかしくないほど、白く曇っていた。冬の手前の、色を失いかけた空。薄い光だけを落としながら、どこか重さを孕んでいる。外から入ってくる光はやわらかいのに、そのやわらかさがかえって、室内の細かなものをくっきりと浮かび上がらせていた。小さな寺務所の机の上には、紙の束がいくつも積み上げられている。参列者リスト、供花の一覧、香典の振り込み明細、当日のタイムテーブル。どの紙も同じような白さをしていて、細かい文字だけが黒く並んでいる。その机を挟んで、椅子が二つ。本来なら、この寺務所には折り畳み椅子が三脚置いてある。だが今日は、父が別の檀家の納骨の対応に向かう前に、「後は任せた」と言って、自分の椅子を廊下側にずらして出て行った。残されたのは、机の片側に僧衣の男、もう片側にスーツの男だけ。「…では、このリストが現時点での参列予定者の確定分です」隆寛は、手元の紙を整え、机の中央に置いた。紙が木の天板の上で、さらりと音を立てて滑る。その音が、妙に大きく感じられた。部屋の中には、今、自分たちの気配しかないのだということを、あらためて意識させる。「ありがとうございます」浩人が、短く礼を言った。彼も椅子に座っている。椅子を引きすぎると、机から遠くなりすぎてしまう。自然と、二人の膝の位置は机の下で近づいていた。机の脚と脚の間は、それほど広くない。膝を少しでも前に出せば、互いの足がぶつかるだろう。だから二人とも、膝を揃えて、微妙な角度で引き気味に座っている。それでもなお、膝と膝のあいだの距離は、拳一つ分もあるかどうかというところだった。「…当日、香典は会社としてのものをまとめてお持ちする形でよろしいでしょうか」浩人が、紙を目で追いながら言う。「はい。その方が、受付としても取り扱いがしやすくなります」隆寛も、紙の文字に目を落とした。「個人でお持ちになる方がいらっしゃる場合は、別途、香典袋にご芳名をお書きいただくようお伝えいただければと」
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52.境内を歩く二つの影

寺務所の戸が閉まったとき、外の空気は、思っていたよりも冷たく感じられた。紙とインクの匂いで満たされていた狭い部屋から一歩出ると、冬の夕方の空気が、肺の奥にすっと入り込んでくる。薄曇りだった空は、いつの間にか雲が切れかけていて、西の方だけが薄く赤みを帯びていた。廊下の先、玄関のあたりから、泰然の朗らかな声が聞こえてきた。「せっかくですから、境内の桜でも見ていってください。十月桜でね、今の季節もちらほら咲いているんですよ」「桜、ですか」浩人の声が、それに続く。「ええ。春ほど派手ではありませんが、冬の花もなかなか風情がありましてね。隆寛」呼ばれた名前に、隆寛は「はい」と返事をした。「野上さんを案内してあげなさい。私はちょっと檀家さんのところへ行ってくるから」父は外套を羽織りながらそう言い、草履をつっかける。玄関の引き戸が開き、冷たい外気が一瞬流れ込んできた。檀家の家へ向かうらしく、すぐに戸は閉まり、足音が遠ざかる。玄関には、浩人の黒いコートと、革靴があった。スーツの上からコートを羽織った彼は、寺の土間に立っている。その姿が、この空間の中で少しだけ浮いて見える。だが、何度か足を運ぶうちに、その違和感も薄れかけている自分がいた。「…では、少しだけ」隆寛は、僧衣の上から薄手の羽織を引っかけた。冬の空気に慣れているとはいえ、日が傾き始めると、さすがに風が骨に染みる。「外は冷えますから、お足元にお気をつけください」「ありがとうございます」浩人は、きちんと頭を下げる。玄関を出ると、石畳が山門の方へと続いている。踏み固められたその道は、昼間は陽を受けて白く見えるが、夕方になると鈍い灰色に変わる。両脇には、砂利を敷いた細い通路と、低い植え込みが続いていた。二人は、自然と並んで歩き始めた。ただし、その「並び方」は、以前とはまるで違う。肩と肩のあいだには、きちんと一人分の距離がある。腕を軽く振っても、相手の手には触れない程度の間合い。意識して保たれたその距離
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53.崩れそこねた敬語

山門の前まで来ると、空気の冷たさが一段階変わった。境内の中よりも、外の方が、風が容赦なく肌を刺す。石畳の終わりと舗装道路の境界に、小さな段差がある。その手前で足を止めると、吐いた息が白くなって、すぐに夜の闇に溶けた。山門の外には、一台の車が停まっている。黒いボディに、外灯の淡い光がぼんやりと映り込んでいた。フロントガラスには、境内の十月桜の枝が細く影を落としている。エンジンはすでにかかっているようで、フロント部分から微かな振動と低い音が伝わってきた。道路脇の外灯は、決して明るくはない。黄味がかった光が、小さな円を地面の上に描いている。その輪の中に、浩人の影と、自分の影が落ちていた。「本日は、色々とありがとうございました」隆寛は、僧衣の袖を軽く合わせてから頭を下げた。顔を上げたとき、外灯の位置がちょうど浩人の後ろにあるせいで、彼の表情は半分影に沈んで見えた。額から鼻筋にかけてのラインだけがうっすらと浮かび、目元は暗くてよく分からない。それでも、口元の動きで、彼が少し笑ったことが分かる。「こっちの台詞だ。急に押しかけて悪かった」低く落ち着いた声。仕事で鍛えられた、取引先との会話に向ける声だと頭では分かっている。だが、耳には、大学の頃の、部屋で二人きりのときの声の温度が重なってしまう。「急に」ではない、と心のどこかが囁く。一周忌の準備という名目のもとに、何度もここに来ている。その積み重ねの延長に、今日がある。決して、今日だけが特別ではない。それなのに、こうして山門の外で向かい合っていると、「特別な夜」のように感じてしまう自分がいた。「いえ。本当に、助かっております」声を落ち着かせて返事をする。「一周忌は、寺にとっても大切な法要です。施主様と直接お話しできるのは、ありがたいことですから」形式として、これ以上なく正しい言葉。口にしながら、自分が僧侶の仮面をしっかりと被り直しているのを感じた。その仮面の内側で、別の顔が息を潜めている。短い会話が途切れた。
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54.一周忌のあとに残る余白

本堂の蝋燭が、一本ずつ静かに短くなっていた。一周忌の読経を終え、最後の参列者を見送ってから、どれくらい時間が経ったのか。扉は既に閉められ、外の冷気は薄く遮られている。それでも、本堂の中には、冬の空気特有の乾いた冷たさがうっすらと残っていた。本尊の前に立ち、隆寛は、静かに一礼する。合掌した手の中には、先ほどまでの声の余韻がまだ微かに残っている気がした。長時間の読経で喉はかすかに疲れているが、痛むほどではない。身体の方は、座り続けた足が痺れ、腰に重さがのしかかっている。それでも、「滞りなく終えられた」という感覚だけは、はっきりとあった。遺影の中の部長が微笑んでいる。写真の笑顔は、今日一日、何十人もの視線を受け止めてきた。白い花に囲まれたその顔を見つめながら、隆寛は、参列者の表情を一人一人思い返していく。部長の妻は、終始、きちんと背筋を伸ばして座っていた。涙は何度も目に溜まり、そのたびにハンカチで静かに拭っていたが、声を上げて泣くことはなかった。その肩に、一歩下がった位置からそっと手を添えていたのは、息子だろうか。スーツの袖から覗く手の甲が、少し震えていた。会社の同僚たちは、黒いスーツで整然と並んでいた。最前列の一角には、部長の直属の部下たちが座っていたのだろう。焼香の順番が回ってきたとき、彼らの中には、香炉の前でわずかに立ち尽くすように間を置く者もいた。その沈黙に、言葉にできない思いの重さが宿っていた。そして、その列の中に、ひときわ見慣れた背中があった。野上浩人。会社の代表として、また部長の部下として、今日の一周忌の準備を寺と共に進めてきた人物。その背中は、読経の最中も、焼香に向かうときも、少しも崩れることはなかった。ただ、退場の折、本堂を出る際に一瞬だけこちらを振り返り、僧侶として立つ自分に深く頭を下げたとき、そこに確かな熱を感じた。今、その背中も、黒い人波の一部として、すでに山門の向こう側へと去っている。「お疲れさま」静かな声が背後からかけられた。振り向くと、父・泰然が、僧衣の袖で額の汗を拭いながら歩み寄ってくる。隣には母もいる。片付け用の布巾を手に持ち、
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55.妙徳寺からの一本の電話

寺務所の窓の外は、午後の淡い光で満たされていた。冬の陽は低く、庭の木々の影を長く引き伸ばしている。磨き込まれた廊下の板の上には、障子越しの白い光が薄く落ち、その端に紙のような氷の冷たさが張り付いていた。寺務所の中は、それとは別の温度を持っている。小さな石油ストーブが一台置かれ、上にやかんが乗っている。時折、湯気がふうっと立ち上り、中の水が小さく鳴る。紙とインクと、少しだけ灯油の匂いが混ざった空気。机の上には、帳簿と領収書と、檀家の名簿が広がっている。隆寛は、筆ペンを指に挟み、今日届いた香典返しの控えを一つ一つ確認していた。名前の字の間違いがないか、金額が合っているか。目で追いながら、数字を頭の中で組み直す。静かな作業だ。耳に入るのは、筆が紙を擦るかすかな音と、ストーブの燃える音くらい。「…よし」一段落ついたところで、筆ペンをいったん置く。肩を軽く回すと、僧衣の布がさやりと音を立てた。長時間同じ姿勢で座っていると、肩の内側にじわじわと重さが溜まっていく。そのときだった。机の端に置かれた黒い電話機が、突如として鳴り始めた。甲高く、少しだけ古めかしい音が、寺務所の静けさの中に割り込んでくる。「私が出るわ」帳簿を抱えて部屋を出ていこうとしていた母が、電話に一番近い位置にいた。手を伸ばし、受話器を取る。「はい、慶林寺でございます」いつもの挨拶。声のトーンは柔らかく、どこかほっとする響きがある。受話器の向こうからの声は、ここからは聞こえない。ただ、母の表情が少しだけ明るくなるのが見えた。「あら、圭信さん」その名前が、寺務所の空気をわずかに変える。妙徳寺の住職、香坂圭信。父の従兄弟であり、修行時代から自分を見てきた僧侶の一人。昔から家との付き合いがあり、年に数度は寺同士の用事で会うこともある。母は受話器を耳に押し当てたまま、軽く笑った。「ご無沙汰しております。お元気でしたか」彼女の声は、少しだけ弾んでいる。相手が誰か以前に、親戚と話
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56.圭信の問いかけは刃ではなく鏡

書院の障子越しに射し込む冬の日差しは、どこまでも白かった。雲に薄く覆われた空から落ちてくる光は、真夏のような強さはなく、冷えた空気の中で静かに広がる。その光が、畳の目ひとつひとつをくっきり浮かび上がらせる。磨かれた床板には、庭の梅の枝の影が細く揺れていた。慶林寺の本堂脇にある客間――いわゆる書院は、来客のときにしか使われない。普段は締め切られた障子を今日は半分ほど開け放ち、冬の陽を可能な限り取り込んでいた。外は冷たい風が吹いているが、室内には火鉢が一つ置かれ、炭から立ち上る淡い熱と匂いがあった。その部屋の中央に、座布団が三つ並べられている。座布団の一つには、父・泰然が座っていた。もう一つには、香坂圭信。そして、その向かいに、隆寛。正座した膝に、僧衣の布が重なる。畳の上からじんわりと冷たさが伝わってくるが、火鉢のおかげで足の感覚が完全に失われるほどではない。「いやあ、相変わらず、よく手入れされた庭だな」障子の向こうの庭を眺めながら、圭信が感嘆の声を漏らした。五十代後半。泰然と同世代だが、少し若く見える。背筋はまっすぐ伸び、僧衣の襟元はきっちりと整えられている。目は涼しげで、どこか厳しさを含んだ形だが、口元には柔らかい笑みが浮かんでいた。「うちなんぞ、どうしても墓地の方に手が取られてしまってな。こういう奥の庭までは、なかなか手が回らん」「妙徳寺の方こそ、いつ伺っても綺麗にされています」泰然が穏やかに返す。「墓地の石塔の苔の具合など、とても真似できません」「苔の手入れは、あっちの祖父さんがうるさくてな」圭信は、肩をすくめるように笑った。「『苔を剥がすな』と檀家にまで言いに行ってたよ。あれは、すっかりあいつの趣味だ」泰然も、つられて笑った。火鉢の炭が、ぱちりと小さくはじける。静かな部屋の中に、その音が心地よく響いた。母が、湯気を立てる急須と湯呑みを載せた盆を持って部屋に入ってくる。「お待たせしました」「どうも」圭信は、軽く頭を下げた。
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57.真っ白な廊下に落ちる影

廊下に出た瞬間、空気の温度が変わった。書院の中には、火鉢の柔らかな熱と、茶の湯気がまだ残っていた。障子を閉めるとき、背中にその温もりがふっと触れ、次の瞬間には、冬の寺の冷気が全身を包む。息を吸うと、鼻の奥が少し痛む。冷たい空気が、喉をすべり落ちていく感覚が、妙に鮮明だった。慶林寺の本堂へと続く廊下は長い。磨き込まれた板の床は、薄い光を受けてかすかに光っている。廊下の片側にはガラス戸が並び、庭に面している。もう片側は、襖や柱、壁。昼と内側の境界線が、一直線に続いていた。外の空は、かろうじて青みを残しているが、雲が薄くかかり、太陽の輪郭は見えない。そこから落ちてくる光は、白く、冷たく、輪郭のはっきりしない明るさだった。その白い光が、ガラス戸越しに廊下へと流れ込む。板間に、一本の影が落ちていた。僧衣を纏った自分の影。立ち止まったまま、隆寛は足元を見下ろした。光の角度のせいで、影は実際の身体よりも細く、長く伸びている。肩の線は歪み、首のあたりは妙に細く見える。頭の部分は楕円に伸びていて、まるで誰か別人の影のようだった。僧衣の裾の影が、板の上に黒い帯のように落ちている。その下から、すねの形に沿った細い影が伸びている。足袋を履いた足首のあたりは、わずかに丸みを帯びていて、その先に、扇形に広がるような影がある。「…」少しだけ、足を動かす。僧衣の裾が、さやりと音を立てた。影も、それに合わせて動く。右足を一歩前に出すと、影の右足も、同じように前へ伸びる。左足を付けると、影もついてくる。動きは完全に一致しているのに、距離感だけが違って見える。一歩進むたびに、影は自分よりも先に前へ伸びる。その様子が、どうしようもなく、嫌だった。まるで、自分の意思とは関係なく、「僧侶としての人生」が先の方へと既定路線のように延びているみたいだ、とふと思ってしまう。足を止めてしまえば、影も止まる。それは知っている。理屈としては分かっている。なのに、今は、影の
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58.透明な穴に触れて知る絶望

慶林寺の一日は、静かに終わっていた。本堂の灯りは落とされ、外から見れば、山門の向こうに広がる寺は黒い塊のように沈んでいる。庫裡の窓から漏れていた明かりも一つ、また一つと消えていき、最後に残っていた台所の灯も、母の足音とともにすっと消えた。廊下を伝ってくる音が、だんだんと少なくなる。祖母の部屋の襖が閉まる音。水道の蛇口をひねる短い音。ふすま越しの、低く短い会話。それらが一つずつ減っていき、やがて慶林寺は、冬の夜の静寂にすっかり包まれた。隆寛は、自室の襖を閉める。木枠のはまった襖が、音を立てずにすべる。その感触が、手のひらから腕を伝って、肩のあたりまで冷たさを残した。部屋の中は、電気スタンドだけが灯っている。机の上に置かれたスタンドの光は柔らかく、畳の上に淡い円を作っていた。天井の蛍光灯に比べればずっと弱い光だが、その分、外からの冷気と静けさが強く感じられる。窓の向こうには、闇。ガラスに、うっすらと自分の姿が映っている。その輪郭が、電気スタンドの光に溶けて揺れていた。僧衣の合わせをほどきながら、隆寛は、ゆっくりと息を吐く。僧衣の布は、一日の体温を吸って、手に触れるとまだ微かに温かい。袖を抜くと、冷えた空気が直に肌に触れた。薄い寝間着に着替えると、その冷たさが一層はっきりと伝わってくる。脱いだ僧衣を、いつもの場所にかける。簡素なハンガーにかけられたそれは、昼間と同じ形のまま、そこにぶら下がった。布の折り目がきっちりと揃っている。どれだけ疲れていても、この行為だけは雑に済ませたことがない。僧衣を片付ける手つきは、もう癖になっていた。寝間着の袖口を少し引き下げ、腕をさすってみる。空気は乾いていて、皮膚の表面が少し軋むような感覚があった。鏡の前に立つ。部屋の隅に置かれた姿見は、修行から戻ってきたときに母が用意したものだ。寺から外に出ることが少ない生活になっても、身だしなみだけはきちんとしてほしい、と言われた。鏡は、電気スタンドの光を受けて、ぼ
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59.参拝にかこつけた距離

慶林寺の冬の朝は、音が少ない。山門の向こうから薄く街のざわめきが届いていても、境内に一歩足を踏み入れると、それは遠い別世界のように感じられる。冷たい空気は澄んでいて、息を吸えば、肺の奥まできりりと締め付けられた。本堂の朝課を終え、境内の掃き掃除を一通り済ませたころだった。ほうきの先で石畳の端に溜まった枯れ葉を集めていると、山門の向こうから、低いエンジン音が聞こえてきた。耳に馴染んだ音ではなかった。四葉商事の社用車の、あの固いアイドリング音とは違う。もっと静かで、滑らかで、個人の乗用車特有の音の揺れが混ざっている。手が止まる。ほうきの先が、石畳に軽く触れたまま動かなくなる。指先に伝わる感触が、遠くなる。タイヤが砂利を踏む音が、山門の向こうでわずかに響いた。息を吐く。白い霧が、口元からふっと立ち上がる。それが自分の顔の前でしばらく漂い、やがて冷たい空気の中に溶けていった。山門の方へ視線を向ける。しばらくして、門の向こうに車の影が見えた。黒いボディが、冬の淡い光を受けて鈍く光る。山門をくぐることはできないので、道路脇に停車したその車から、一人の男が降りてくる。コートの襟を立て、マフラーを緩く巻いた姿。髪は短く整えられ、額にかからないように流されている。吐く息が白く、顔の輪郭の周りでふわりと煙る。野上浩人だった。「…」胸の内側が、ひゅっと縮む。それでも、足は自然に山門へ向かって動き出していた。ほうきを手にしたまま、境内を横切り、石段を数段上がる。砂利が足袋の下で細かく鳴る。冬の光が、僧衣の袖を白く照らした。「おはようございます」山門のところで立ち止まり、自然な声の調子を装って口を開く。浩人が顔を上げた。「…おはようございます、副住職」少しだけ遅れて、穏やかな声が返ってくる。以前よりも、ほんのわずかに柔らかくなったように感じる。その微妙な変化を拾って
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60.雨が敷く境界線

雨の音が、寺の形を外から塗りつぶしていた。本堂の戸を引き寄せるとき、隆寛は僧衣の袖を少し押さえた。夜の湿った空気が、木戸の隙間から細く入り込み、指先に冷たさを残して消える。戸が枠に収まる鈍い音とともに、外界との境がもうひとつ閉じられた。灯明はすでに落としてある。蝋の匂いと線香の残り香が、まだ薄く空気の中に漂っていた。仏前に向き直り、掌を合わせる。額を指先に寄せる瞬間、膝から上にかけての身体が、わずかに重く沈んだ。今日一日分の疲れと、眠りに落ちることを許してくれない考えごととが、同じ重さで背中にぶら下がっているようだった。「……」合掌を解き、静かに一礼する。僧としての動作は身体に染み込んでいて、意識しなくとも滑らかに出てくる。それでも今夜は、その一つひとつがわずかにぎこちなく感じられた。本堂の畳を踏んで中央を横切り、奥の扉に鍵をかけていく。畳の感触が足袋越しに穏やかな弾力を伝えてきたが、その心地よさを受け取る余裕はあまりない。耳に入るのは、屋根と軒を叩き続ける雨音ばかりだ。本降りになったのは、夕方からだろうか。最初のうちは、庭の砂利を優しく濡らす程度の雨だった。客も引き、寺の仕事が一段落した頃には、空の色とともに雨の音も深くなり、今はもう、境内の輪郭をすべて水で塗りつぶしてしまうような勢いになっている。本堂の中央で一度立ち止まり、隆寛は振り返って仏間を見上げた。闇に沈みかけた御本尊の輪郭が、かすかな常夜灯の明かりで浮かび上がる。その前で日々、幾人もの名前を読み、その魂が静かにあるよう祈ってきた。人のために祈ることは、苦ではない。誰かの死や苦しみに向き合うとき、僧としての自分は、自分で思っているよりしっかりと働いてくれている気がする。問題は、自分自身の心に向き合おうとしたときだ。祈りの言葉が、自分にはどうしても届かない。廊下へ続く戸を開けると、冷えた空気が流れ込んできた。木枠のガラス越しに、暗い庭がぼんやりと見える。外灯の光が濡れた飛び石に映り、そこだけ白く滲んでいた。廊下は昼間に掃き清めたばかりで、板は薄く光沢を帯びている。足袋の裏から、磨かれた
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