All Chapters of 髪を剃った君の左耳~ピアスホールに残った俺たちの十年: Chapter 21 - Chapter 30

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21.「行くぞ」が日常になる

夕方の薄い光が廊下の床に長く伸びていた。講義と自習を終えた学生たちが教室から流れ出し、ざわめきだけが波のように残っている。自習スペースの空気は昼より少し温度が落ちて、静かな冷たさが机の表面にうっすらと広がっていた。隆寛は、ノートを閉じる指先の震えを自分で抑えながら、ゆっくりとペンをしまった。課題は終わった。終わってしまってから、隣にいる浩人の気配が濃くなるのを感じて、胸の奥がわずかにざわつく。椅子が引かれた。高めの音が床に響き、隆寛は自然にそちらへ視線を向けた。浩人が、机から身体を起こし、バッグの肩紐を整えていた。目線だけが隆寛に向く。その一瞬に、呼吸のリズムが変わった。そして、ごく自然な調子で言葉が落ちた。「飯、行くぞ」短い。命令でも強制でもない。なのに、拒む余地を与えない響きだった。隆寛は、ひと呼吸遅れて立ち上がった。本当は断ろうと思えば断れた。用事がある、と言えば済む。だが、喉の奥まで上った言葉は声になる前に消えた。断れないのではない。断ちたくなかった。そんな自分の心を直視するのが怖くて、視線は少し下に落ちた。二人は廊下に出た。夕方の光が白く反射し、壁に影が重く落ちている。学生たちの声がまだ遠くから響いてくるが、それが耳に触れても二人の歩調は崩れなかった。浩人は、無言のまま歩き出し、その歩幅を隆寛に合わせていた。気づいたとき、隆寛は胸に淡い熱を覚えた。浩人が誰かに速度を合わせる姿を、あまり見たことがなかった。学食に向かう途中、ガラス壁の向こうに夕暮れ色の空が見えた。灰色と橙色が混ざり合い、キャンパスの建物が影の輪郭だけになっていく。足音がふたつ、リズムよく並んで響く。学食の入り口に近づくと、ざわめきが一気にあふれ出した。食器が当たる音、椅子を引く音、遠くの笑い声。それらが重なり合って混濁した空気を作っていた。その中で、浩人は振り返らずに言った。「辛いの食える?」その問いは、隆寛の体温のど真ん中に落ちてきた。自分に合わせようとしているのか、それともただの確認なのか、判断がつかない。それでも、胸
last updateLast Updated : 2025-12-08
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22.夜の部屋で落ちる影

夜の冷えが街路樹の影を細く伸ばし、学生用マンションの外壁へ薄く貼りつけていた。講義も自習も終え、キャンパスの灯りが次々と落ちていく時間帯。学生たちの足音がまばらに遠ざかる中で、浩人と隆寛は自然な流れのまま並んで歩いていた。どちらからともなく、というより、気づけば同じ方向を向いている。そんな暗黙の合意がすでにできあがっていた。マンションのエントランスに入ると、乾燥した夜気の匂いがふっと途切れ、暖房の作った人工的な温度が肌にまとわりつく。エレベーターの鏡には、並んで立つ二人の姿が淡く映っていた。隆寛は壁側、浩人はその隣。互いに手に持ったバッグの位置を気にすることもなく、沈黙は不思議と居心地が悪くなかった。扉が開き、浩人の部屋へと向かう。角を曲がるたび、廊下の灯りが影を交互に押し出すように揺らす。その影に、隆寛は少しだけ自分の呼吸が乱れるのを感じた。部屋に入ると、浩人は無言で電気を点けず、奥の机の前に置いてあったノートPCだけを開いた。パチリという軽い音とともに、白い光が暗がりに広がり、室内の輪郭をゆるく浮かび上がらせた。隆寛は靴を脱ぎながら、その光の色にわずかに目を細めた。暗闇の中に置かれる白は冷たくはなく、どこか静かな引力を持っていた。浩人はさっと上着を脱ぎ、部屋着に着替えていた。無造作に見える動きには、意識しなくても身体が場の空気に馴染んでいるような自然さがある。隆寛の心をわずかに揺らすその存在感は、部屋着になったことでより近く感じられた。「そこ、座れ」短い声が、机の前の空気を切るように落ちた。隆寛は机横のソファでも良かったが、迷うより早くその指示に従っていた。椅子の横に置かれたスツールに腰を下ろす。PCの光が頬にあたり、薄手のシャツ越しに夜の冷えがゆっくりと染み込んでいく。浩人は椅子に座り、隣にいる隆寛と同じ画面を見る角度に身体を調整した。その動作が、隆寛のほうへわずかに寄る。二人の距離が狭まり、熱が重なるように空気が密になる。画面には翌週の課題の資料が開かれていた。白い光に照らされた文字列が整列し、沈黙の中でその光だけが弱い呼吸をしているように見える。隆寛は画面を覗き
last updateLast Updated : 2025-12-09
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23.触れそうで触れない髪

深夜の気配は、壁の薄さを越えて室内にまで染み込んでいた。窓の外の風も、人の足音も、すべてが遠くに沈み込んでいる。浩人の部屋には、卓上灯とPCの白い光だけが点在し、その二つの光が浮かび上がらせる影が、夜の濃さをいっそう深くしていた。課題の資料はあと少し。だが、進むほどに、文字よりも互いの呼吸のほうが意識に触れてくる。隆寛は、机の上の資料を読むために前へ身をかがめた。薄手のシャツの肩が静かに動き、長めの黒髪がさらりと頬に沿って落ちる。光を受けて柔らかく揺れたその髪が、紙に触れそうで触れない距離に影を落とした。その影が、緩やかに揺れる。浩人の視線が、そこに吸い寄せられた。指先が無意識に動いた。隣に座る隆寛の肩、そのすぐ近くに落ちた髪の束へと伸びる。気づけば、浩人の手はその黒髪のすぐそばにあった。触れない。だが、指先と髪の距離は、数センチしかない。触れたら戻れなくなるの、わかってるくせにその心の声が、夜気の中で熱を帯びていた。指先が汗ばむほどではない。だが、そこにある欲望を隠しきれない感覚が、皮膚の裏側をやわやわと押し広げていく。隆寛は、その気配に気づいた。ページの文字を追っているふりをしながら、背中にじわりと上る熱に呼吸を整えようとした。額の前に落ちた髪がわずかに揺れる。そのたびに、後ろから向けられる視線と熱が、肌を撫でていった。顔を上げたら、何かが壊れる。そう思って、視線を紙に固定したままにした。触れてほしい 触れられたら壊れる胸の中心が、ぎゅ、と小さく軋んだ。恐怖ではなく、期待でもない。その間にある、名のつかない渇きだった。浩人の指先はまだ髪のそばにあった。触れないまま、だが触れているも同然の近さで。沈黙が濃くなる。音がひとつも介入しない。互いの呼吸だけが、静かに混ざり合っていた。隆寛の肩が、わずかに上下する。浩人には、その動きさえ音のように感じられた。隣にいる人間の、髪の揺れ、首筋の温度、紙に落ちる影。どれもが鮮明に見える。夜の光はあまりにも弱いのに、必要なものだけが白く浮かび上がって
last updateLast Updated : 2025-12-10
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24.常習化する距離

夜の匂いが、数日間ずっと同じように二人の周りを包んでいた。大学の空気、学食のざわめき、課題の紙の匂い、浩人の部屋に染みついた静けさ。そのすべてが、まるで二人の生活にさざ波のように反復され、いつのまにか“同じリズム”として馴染み始めていた。その間に何か劇的な出来事があったわけではない。ただ、二人の距離は、自然に、そして危ういほど穏やかに、日々同じように積み重なっていった。朝は別々に過ごし、講義中も特別話すわけではない。それでも、課題に取りかかる時間帯がくると、不思議と互いの居場所がわかってしまう。今日も、夕方の自習室の角で、二人は横並びに座っていた。隆寛が資料に目を落とし、浩人がタイピングを始める。その音が、同じテンポで呼吸に入り込む。気づけば、隆寛は浩人の指の動きに自分の心拍が合わせられている。そして浩人もまた、隆寛がページをめくる小さな音に、無意識のうちに集中を引き寄せられていた。こうした沈黙の時間が、最近は当たり前になっていた。課題が終わると、浩人が自然な調子でバッグを肩にかける。「行くぞ」その声は、強制ではなく、許可を求めてもいない。ただ、そこにいるのが当然だと言うような響きだった。隆寛も、特に断る理由を探さない。断れないのではなく、断ちたくない。口に出さなくても、その感情が胸の奥で響く。学食に向かう途中、夕方の光が長い影をつくり、二人の歩幅が静かに揃う。浩人は少し歩く速度を落とし、隆寛が後れを取らないようにしていた。気づくのは、いつも隆寛のほうが先だ。肩越しに伝わる微妙な速度の調整、そのさりげない気遣い。それに気づくたびに、胸に温かい重みが沈んでいく。学食に入ると、ざわついた声が一気に押し寄せるが、二人が座る窓際の席だけは、なぜか境界線を引いたように静かだった。浩人がトレーを置きながら聞く。「今日、食えるか」「食べれる」自然にタメ口
last updateLast Updated : 2025-12-11
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25.徹夜に溶け落ちる体温

深夜二時を過ぎると、空気の密度が変わる。話し声の余韻も、外を走る車の音も、徐々に遠のいていき、世界の大部分が眠りに沈んだことを肌が理解する。そんな時間帯の空気は、妙に乾いていて、微かに熱を含んでいた。浩人の部屋もまた、その静けさに包まれていた。机の上にはレポート用紙と参考資料が何段にも積み上がり、PCの白光がその山を淡く照らしている。熱源はほとんどないのに、空気だけがじんわりと熱を持っているように感じられた。隆寛は、資料を持つ指が落としていく影の揺れに気づいていた。眠気ではなく、集中が限界に近づいている証拠だった。視界の端がかすむ。紙の文字列が、段々と輪郭を失っていく。キーボードを叩く音が、かすかに響く。その音が途切れたとき、隆寛はゆっくり顔を上げた。浩人は、ずっと同じ姿勢のまま資料を読み込んでいた。肩幅の広い影が、PCの光で一層濃く見える。髪が眉の影を落とし、目元の鋭さを夜の闇に沈めていた。隆寛は、その姿をぼんやりと眺めたまま、気づけば小さく息を吐いていた。その息さえ、疲労の重さに沈んでいた。資料のページをめくろうとしたとき、指先がわずかに滑った。活字がにじむ。その瞬間、肩の力がすとんと抜けた。「……もう、だめだ」声には出していない。けれど、身体が限界を訴えるように、背筋が緩んだ。隆寛は無意識のまま立ち上がり、ベッドの端へふらりと歩いた。深夜の静けさの中、布の触れる音だけが小さく響く。ベッドに腰を下ろすと、緊張が一気にほどけ、背中がゆっくり沈んだ。頬に、黒髪がさらりと落ちた。光に透けたその髪が、横顔に柔らかい影を落とす。呼吸が浅くなる。胸が上下するたびに髪が揺れ、頬に触れるか触れないかの距離で空気を撫でた。浩人は視線を上げた。その瞬間、喉の奥が小さく鳴った。普段なら気にもしないだろう、小さな音。
last updateLast Updated : 2025-12-12
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26.黒髪に落ちる指

深夜の空気は、触れれば割れそうなほど静かだった。外の世界はとうに眠りに落ち、遠くの道路を走る車の音さえ聞こえない。浩人の部屋には、PCの白い光だけが溶け落ちるように広がり、机に積まれた資料と、ベッドの端で前屈みになっている隆寛の輪郭を淡く浮かび上がらせていた。隆寛は、限界寸前の意識を必死に繋ぎ止めていた。姿勢を正そうとするが、身体が言うことを聞かない。ベッドの端に腰掛けたまま、わずかに揺れるように呼吸をしている。その呼吸の浅さが、疲労の深さをそのまま表していた。頬に落ちた髪が、揺れるたびに微かな影を作る。黒髪が肩に流れ、光をかすかに飲み込みながら、隆寛の横顔を柔らかく包み込んでいた。浩人は、その髪を見るたびにほんの少しだけ視線が吸い寄せられるのを自覚していた。自覚して、抑えようとさえしていた。けれど、深夜の静けさは理性を薄く剥がしていく。積み上げた資料の端が、微かに震えるほどの静寂。その中で隆寛の吐く息は、やけに大きく聞こえた。「……っ」眠気に溺れそうになったのか、彼の肩が少しだけ動いた。その動きで、黒髪がさらりと頬に落ちた。髪が光の筋を受けてゆっくり揺れる。その自然な軌跡が、浩人の視界を引っかける。触れたい。その瞬間、胸の奥で起きた感情はあまりに鮮烈だった。数日前から無意識に抑え込んでいた欲が、深夜二時という時間に引き出されるように顔を出した。隆寛は、ベッドの端で少し前に倒れるようにもたれている。片方の膝に肘を置き、指先で資料のページを持っているが、実際にはもう文字が目に入っていない。肩が小刻みに上下するたび、髪がその動きにあわせて揺れた。浩人はゆっくり息を吸った。その息が肺に落ちるまでの間に、また髪が揺れる。……無理だ。視線だけで触れてしまいそうだ。椅子から立ち上がったわけではない。ただ、身体
last updateLast Updated : 2025-12-13
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27.耳の形に理性を失う

卓上灯の光は、夜が深まるほどに鋭さを増していく。狭いワンルームの空気は、昼間とは違う濃度を帯びていた。湿ってもいないのに重く、冷えてもいないのに背筋にひやりとしたものが落ちる。深夜特有の静けさが、二人の呼吸を際立たせていた。隆寛は、ベッドの端で、かすかに前へ傾いでいた。先ほど浩人が触れた髪は、まだその触感を残しているように見える。頬にかかった黒髪が影を落とし、その影が呼吸に合わせて揺れるたび、静寂はゆっくり色を変えた。紙をめくる音が途切れた。代わりに聞こえたのは、隆寛の深い、少し乱れた息。浩人は、視線を落とした。髪の先、頬の線、その奥の耳へと。黒髪の隙間から見え隠れしていたその部分が、ふとした動きで露わになった。髪をかきあげたのは、隆寛自身だった。眠気を払うように指を額へ滑らせた。その一瞬の動作で、隠されていた耳が光の中に浮かび上がった。その形を捉えた瞬間、浩人の心臓が音を立てた。隆寛の耳は、小さく整っていて、透明な光の粒を含んだように白かった。柔らかい赤みを帯びた耳介のカーブが、卓上灯の光に反射してゆらりと輝く。その光景は、たった一秒の出来事だった。だが浩人には、もっと長く見えた。喉から、小さな音が漏れた。「……っ」自分のものとは思えないほど低く、熱の混ざった音。隆寛には届かなかったかもしれない。でも、空気がその震えを確かに拾っていた。耳が露わになるだけで、こんなにも心臓が揺れるのか。その事実に、浩人自身が驚いていた。隆寛は、髪をかきあげた姿勢のまま固まっていた。息の出入りが、先ほどよりも浅くなる。胸の上下が微かに速くなる。気づいている。見られていることを。髪の影から現れたその耳が、深夜の白光を受けて静かに震えていた。隆寛の緊張と戸惑いが、皮膚越しに伝わるようだった。浩人はゆっく
last updateLast Updated : 2025-12-14
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28.ピアスホールの痛みとその意味

深夜の空気は、課題を提出し終えたあとの気の抜けた静けさで満たされていた。張りつめていた緊張がすっと抜けるその瞬間は、毎回どこか宙に浮いたような感覚を伴う。けれど今夜は、それ以上の何かが二人のあいだに漂っていた。卓上灯だけがついたままの部屋は、薄い光と濃い影を交互に刻んでいる。缶コーヒーの空き缶がベッド脇の机に二本並び、深夜までの作業の痕跡がそのまま残っていた。隆寛は、背筋を伸ばしたあと、軽く首を回した。緊張が解けた身体には、疲労のぬるい重さが残っている。浩人は机に寄りかかるようにして座り、息をゆっくり吐いた。深夜の空気が、わずかに肌を冷やす。その時だった。隆寛の視線が、浩人の左耳に向いた。黒髪の間からのぞく、小さな黒いリングピアス。いつもさりげなく揺れていて、隆寛にとっては“浩人そのもの”のような象徴だった。視線がそこに吸い寄せられたことを自覚する頃には、もう口が動いていた。「……耳、開けてみたい」言った瞬間、隆寛自身が驚いた。声は静かで、深夜の空気に吸い込まれるような弱さだった。浩人は、動きを止めた。数秒間、返事が来ない。沈黙が、影のように二人のあいだに落ちる。やがて、「……は?」短い声。しかし、その声には抑えきれない熱が滲んでいた。隆寛は視線を外さず、ゆっくり繰り返した。「耳、開けたい」浩人の喉が小さく動いた。卓上灯に照らされた横顔が、僅かに揺れた影の中で固まったように見えた。「……みはら、お前」言葉が続かない。それほど意外だった。それでも、数秒後に漏れた言葉は低く、深く、どこか支配する響きを持っていた。「任せろ」強く言ったわけではないのに、胸が震えるほどの確信があった。
last updateLast Updated : 2025-12-15
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29.触れない唇、最初の肌

新しく通されたリングが軽く揺れた。耳たぶに残る熱と鈍い痛みが、じんじんと脈打つみたいに存在を主張してくる。隆寛は、小さく息を吐いた。胸の奥に溜め込んでいた緊張が、ようやく出口を見つけたように抜けていく。耳元をかすめる自分の呼気がやけに熱く感じられ、視界の端がふわりとにじんだ。「……ふー……」声にならない吐息が漏れる。肩から力が抜け、背中がわずかにベッドの縁へ預けられた。浩人は、その変化をすぐ目の前で見ていた。ピアッサーを机の端に置き、指先についた微かな赤をティッシュで拭いながら、視線だけは隆寛から離せなかった。卓上灯の光が斜めから差し込み、新しく開いた耳たぶを照らす。うっすら赤く腫れた皮膚と、そこに嵌めたシルバーのリング。さっきまでなかったものが、もう当たり前のようにそこに居座っている。自分のものにした、という感覚が、喉の奥で静かに熱を持った。隆寛が、ゆっくりと顔を傾ける。横顔が光のほうに向き、そのラインが浮き上がる。長いまつげの影が頬に落ち、薄く開いた唇からまた小さな息が漏れた。「……変な感じ」ようやくこぼれた言葉は、疲労と高揚が混ざったような弱さを含んでいた。浩人は、短く息を吸う。「痛むか」問いかけた声は、自分で思った以上に低く落ちていた。隆寛は、少し考えるように瞬きをしてから、小さく頷いた。「痛い……けど」そこで言葉が途切れる。途切れたあとの沈黙に、別の意味がにじんでいた。けど、嫌じゃない。そう続けられることを、浩人はなぜか確信してしまった。指先が勝手に動いた。リングのすぐ下、耳たぶの少し赤くなった部分へ、人差し指がそっと伸びる。「っ……」触れた瞬間、隆寛の肩がびくりと跳ね
last updateLast Updated : 2025-12-16
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30.不可逆の夜

夜明け前の気配は、窓の隙間からゆっくりと部屋に滲み込んでいた。薄いカーテン越しの光にはまだ色がなく、青とも灰ともつかない淡さで、乱れたベッドの縁をかろうじて縁取っているだけだった。卓上灯は消されていて、しばらく前まで二人の肌を照らしていた光はもうない。残っているのは、熱と、浅い呼吸と、夜の余韻だけだった。シーツはぐしゃぐしゃに寄れている。その皺の中に、さっきまでの動きが刻み込まれているように見えた。隆寛は、仰向けになりきれず、浩人の胸にもたれるような体勢になっていた。片方の頬が、浩人の裸の胸板に触れている。肌の下でゆっくりと刻まれる鼓動を、耳の奥で聞いていた。耳たぶが、じくじくと痛んだ。そこだけ異様に鮮明で、そこだけが夜の中で覚醒している。新しく通されたシルバーのリングが微かに触れ合うたび、チリ、と小さな電流みたいな痛みが走る。その痛みが、先ほどの選択を何度でも思い出させた。刻まれた証。その言葉が、頭の奥で静かに浮かんでは沈んだ。胸の奥は、満たされていた。自分の輪郭がやっとどこかに定着したような、そんな感覚。見失いそうだったものに、今夜、はっきりと境界線が引かれた。その境界が、浩人の腕の中にある。それが、怖かった。満たされているのに、怖い。失うことを考えた瞬間、呼吸が苦しくなる。浩人の腕が、隆寛の背中にしっかりと回っていた。逃がすつもりのない、拒絶を許さない、そんな強さ。けれど締めつけるほどではない。むしろ、ここから落ちていかないように支えるみたいな力加減だった。汗のにじんだ肌と肌が、ところどころまだ離れずにくっついている。胸のあたり、脇腹、太ももの側面。触れている部分すべてに、ぬるい熱が残っている。どこまでが自分の体温で、どこからが浩人の体温なのか、もう分からなかった。隆寛は、浅く息を吸った。空気が冷たくて、喉の奥だけ少しひやりとする。吐く息は、浩人の胸元に当たって、跳
last updateLast Updated : 2025-12-17
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