All Chapters of 髪を剃った君の左耳~ピアスホールに残った俺たちの十年: Chapter 41 - Chapter 50

52 Chapters

41.笑顔の決別

カーテンの隙間が、夜と朝の境目みたいに薄く明るんでいた。まだ太陽が顔を出しきる前の、世界全体が息を潜めているような時間帯だった。浩人は、胸にかかる重みがふっと消えた感覚で目を覚ました。さっきまで確かにそこにあった体温が、腕の中から抜けている。眠りの底から無理やり引き上げられた頭はぼんやりしていて、現実と夢の境をしばらく区別できなかった。鼻先に残るのは、シャンプーと、汗と、昨夜の湿った息の匂い。それが、今は布団と枕だけに薄く染みついている。視界をはっきりさせようとまばたきを繰り返し、身体を横向きに転がす。ベッドの中には、自分ひとりしかいなかった。代わりに、部屋の向こう側から同じ空気を吸う気配がする。隆寛が、窓際でシャツのボタンを留めていた。部屋の灯りは落ちていて、カーテン越しの早朝の光が、彼の輪郭を淡く縁取っている。白いシャツに腕を通し、下から順にボタンをかけていく指先は落ち着いて見えた。焦りも迷いも、表面からはうかがえない。その整った動きが、かえって不自然に感じられた。「……もう起きたのか」掠れた声が、枕に擦れた。自分でも聞き慣れないほど眠気の名残りを含んだ声だった。隆寛は振り返る。驚いているというより、声をかけられることを知っていたかのような、用意された反応だった。早朝の光の中で、その顔には影が少なかった。ただ、とてもきれいに整っていた。「起きちゃってた」柔らかく笑う。その笑い方は、どこか見覚えのあるものだった。教授に話しかけられたときや、知らない親戚に会ったときのような、表情だけで完成された笑み。どこにも、眠気も、後ろめたさも、寂しさも表には出ていない。浩人は片腕で上半身を起こし、背中を壁に預けた。布団がずるりと腰まで落ちる。肌に当たる空気はひんやりしていて、さっきまでそこにあった別の体温を思い出させた。「ずいぶん早えな」「今日は、ちょっと…朝一で行かなきゃいけないとこがあって」本当かどうか、判断のつかない説明だった。嘘と断じるほどの違和感はない。ただ、必要以上に
last updateLast Updated : 2025-12-28
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42.残された痛み

玄関のドアが閉まった音が、耳の奥にいつまでも残っていた。それからいくら時間が経ったのか、浩人には分からなかった。秒針の刻む音がかすかに聞こえるが、その一秒一秒が現実の時間と結びついていないように感じる。ドアの前に座り込んだまま、浩人はしばらく動けなかった。冷えたフローリングが素肌の足裏からじわじわと体温を奪っていく。その冷たさが、さっきまでこの部屋にいた体温と、あまりにも鮮やかに対比される。隆寛の笑顔が、まぶたの裏から消えない。あの、不自然なほど整った笑顔。泣いてくれたほうがずっとましだった。怒鳴られても、罵倒されてもいい。男らしくないと言われても、縋りつかれ、引き止められ、きれい事なしにぶつけられたほうが、どれだけ楽か分からない。ただ笑って、ありがとうと言って、行くよと告げるその姿は、まるで自分の手から勝手に離れていった何かのようだった。「……なんだよ、あれ」自分でも驚くほど乾いた声が、玄関に落ちる。誰もいない空間に向かって放たれた言葉は、反響もせずに消えた。ゆっくりと立ち上がると、足が少し痺れていることに気づく。慣れた部屋のはずなのに、どこに何があるのか一瞬分からなくなる。視界がぼやけ、空間の輪郭が不安定に揺れていた。リビングへ戻る途中、ふわりと匂いが鼻をかすめた。洗いたてのシャツの柔軟剤の匂いと、昨夜の体温の名残りが混ざったような、馴染みすぎた香り。それはこの部屋に何度も満ちてきた匂いで、いつもなら安心に直結するはずのものだった。だが今は違う。胸のどこかを鋭く突かれたように、息苦しさだけを連れてくる。深く息を吸おうとして、失敗する。肺の途中で空気が引っかかり、そのまま喉まで熱が戻ってくる。舌の裏に苦味がにじむ。それが、眠気の残りではなく、喪失の味だと理解するのに時間はかからなかった。ベッドのほうに視線を向けると、シーツが乱れたままになっている。自分の手で何度も引き寄せた身体の形が、そこに残っているように見えた。枕には僅かに髪の跡がついていて、その周辺の布だけが少しだけ色を変えている。近づきたくな
last updateLast Updated : 2025-12-29
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43.静寂は罰のように降り積もる

鐘の音が、闇の底から這い上がってきた。ごぉん…と低く響いて、まだ夜の名残を抱えた空気を震わせる。その一打で、浅い眠りの膜が強制的に破られた。隆寛は薄く目を開ける。視界に入る天井は、昨日見たばかりの見知らぬ木目だ。白い漆喰と、古い梁。自分の部屋の天井とは似ても似つかない。頭皮がじかに空気に触れている。それだけで、ここがもう「家」ではないのだと、身体の奥まで告げられている気がした。そして、自分はもう「隆寛」ではなく、「隆寛」なのだと。布団の中で息を吸う。鼻腔に入り込んでくるのは、洗い立ての寝具の少しだけ湿った匂いと、木の床の乾いた香り。ほかに何の匂いもしない。誰かの香水も、柔軟剤の甘い匂いも、コンビニの袋から漂う油の匂いも。鐘がもう一度鳴る。さっきよりわずかに近く、重い音。「…起きなきゃな」自分の声は喉の奥でひっそりと消えた。布団の向こう側、同室の誰かがわずかに寝返りを打つ衣擦れの音がする。それでも言葉で返ってくるものはない。ここでは、声は贅沢品だ。そう教えられたような気がして、隆寛は唇を閉じる。昨日、入所の説明で聞いた起床時間は四時半。今はきっとそれくらい。窓の外はまだ群青色で、カーテン越しに、夜と朝の境界みたいな気配だけが漂っている。布団から手を出すと、空気が刺すように冷たかった。剃ったばかりの頭皮にも、じわりと鳥肌が立つ。指先が自分の頭に触れた瞬間、つるりとした感触に、まだ現実感が追いつかない。少し前まで、髪があった。少し伸びすぎて、耳にかかる前髪を、無意識に指で払っていた。あの癖を、自分で断ち切った。床に落ちていく黒い束を見つめながら、これは過去を切り離す儀式なのだと、無理やり言葉を当てはめた。そうしなければ、決断が揺らいでしまいそうだったから。布団からゆっくりと身体を起こす。畳ではなく、板張りの床に敷かれた布団がわずかに軋む。その音に合わせたように、向かい側の布団から別の気配が起き上がる。「…おはよう」かすかな声が暗がり
last updateLast Updated : 2025-12-30
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44.慈遠の笑いが、胸の奥を痛ませる

座禅の鐘が鳴ると、時間の流れがねじれたように感じる。本堂の床に並んだ座蒲の列。そのひとつに腰を下ろし、足を組み、背筋を伸ばす。手を組み、膝の上に置く。形だけは、もう身体が覚え始めているはずだった。目を閉じると、すぐに広がるのは暗闇ではない。木の匂いと、擦り切れた畳の感触と、袖の中を抜けていく冷たい空気。視界を閉ざしても、世界は別の形で押し寄せてくる。「息を数えなさい。ひとつから十まで。それ以上は要らない。十までいったら、また戻ればいい」初日に桂木俊心が言った言葉を思い出す。静かな声だった。叱るでもなく、急かすでもない、ただそこに降ってくるような声音。息を吸う。胸がわずかに持ち上がる。吐く。数える。一、二、三…。そこまでは、うまくいく。空気の出入りに意識を絡めていけば、世界はたしかに狭くなる。自分の内側と外側の境界線が、少しはっきりしてくる。四、五…。数が進むにつれて、別のものが滑り込んでくる。講義室の窓から差し込んでいた午後の光。乱雑に積まれたレポートの束。その中から、無造作に抜き取られる一枚。経済学のレポート。表紙に書かれた自分の名前。その紙を片手に、にやりと笑った横顔。「やっぱ、これ、お前のだよな」耳の中で鮮やかに再生される声と、座禅堂の静寂が、同じ頭蓋の内側でぶつかり合う。六。指先が震える。組んだ手の中で、知らないうちに力がこもっていた。七…。息が、浅くなる。腹ではなく、胸だけが早く上下を始める。雑念を手放せと言われても、その雑念の中心にいる人間を、自分は「雑」と呼べない。八。膝の裏にじわりと汗が滲む。畳の目が、妙にくっきりと脳裏に浮かぶ。目を閉じているのに、視覚だけが鮮明になる。追い出したいのは記憶なのに、出ていけと言われた側が、扉の内側に深く根を張っている。九。息が引っかかった。喉の奥で小さな音がする。隣に座る修行僧たちの気配が、一瞬だけそこに向くような気がして、背筋が凍る。
last updateLast Updated : 2025-12-31
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45.師の言葉が、心の奥を撃ち抜く

午後の光は、講義室の窓から斜めに差し込んでいた。冬の陽射しは弱いくせに、木枠に沿って伸びるその帯だけはやけに鮮明で、埃の粒をひとつひとつ浮かび上がらせている。静かな空間の中で、その小さな埃が、ゆっくりと舞いながら落ちていく様子だけが時間の流れを教えていた。蒼蓮学院の講義室は、寺の一角を改装した古い建物だ。壁は白く塗られているが、ところどころ木材の色がにじみ出ている。机と椅子は簡素で、並び方はきっちりと揃っていた。床は磨き込まれた板張りで、歩くたびに軽く軋む音がする。隆寛は、その一番後ろの列の端に座っていた。机の上には、筆記用具とノート、経典。正面の黒板の前には、桂木俊心が立っている。四十代前半、僧衣の襟元は乱れひとつなく、立っているだけで姿勢の良さが分かる。背筋がまっすぐに伸びているのに、どこか柔らかい。その背中が、板張りの床と同じくらい、この部屋に馴染んでいた。「ここ、よく見なさい」白墨が黒板を滑る音がする。桂木は、すらすらと漢字とひらがなを組み合わせて書いていく。文字の線は太すぎず細すぎず、癖も少ない。書かれた一文を見て、隆寛は手元のノートに同じものを書き写した。筆圧は、意識しないとすぐ強くなってしまう。肩から指先にかけて、妙な力が入り続けているのが分かる。「ここで言う『煩悩』とは、嫌うべきもの…悪として切り捨てるべきものではない」桂木の声は、静かだがよく通る。読経のときと変わらない、深く落ち着いた音色。しかし今は、経文ではない日常の言葉で話している。そのギャップが、かえって耳に残りやすかった。「人を苦しめる原因であることは確かだが、同時に、生きている証でもある。怒り、憎しみ、嫉妬、欲望…そういったものがあるからこそ、喜びや慈しみもまた、はっきりと感じられる」黒板の前で、桂木は振り返る。視線は教室全体をゆっくりと横切っていく。誰か一人に刺すような鋭さはない。だが、どの顔も見逃さないように、均等に見ているのが分かる目だった。「では、どうすればいいか」そう言って、黒板に書かれた文字の一部を白墨で軽く叩いた。「切り
last updateLast Updated : 2026-01-01
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46.透明ピアスを通す夜

消灯の合図が鳴ってから、どれくらい時間が経ったのか分からなかった。寮の天井は、明かりを落とすとすぐにただの暗がりになる。昼間は木目や小さな傷まで見えていた白い天井板も、今は輪郭だけがぼんやりと浮かんでいる。窓の外から差し込む月の光が、薄い四角い影を床に落としていた。部屋には、布団が二枚。壁際に一枚、自分の布団。真ん中寄りに、慈遠の布団。横になっているはずの彼の姿は、暗闇に溶けて見えない。ただ、規則正しい寝息だけが、一定のリズムで空気を揺らしていた。すう…はあ…と静かに繰り返される音は、耳を澄ませばすぐにでも数えられるほど穏やかだ。それがかえって、自分の呼吸がどれだけ乱れているかを意識させる。胸の奥で、細かく震えるような息が、喉を行き来している。目を閉じても、眠りは全く近づいてこない。まぶたの裏に浮かんでくるのは、今日一日の断片ばかりだった。朝の座禅での、痺れる足の痛み。講義で桂木の言葉を聞いたときの、胸の奥を刺されたような感覚。作務で雑巾を握りしめた手の、赤くなった指の節。それらがばらばらに浮かんでは消え、消えてはまた戻ってくる。その隙間を埋めるように、別の記憶が滑り込んでくるのを、必死で押し返していた。ここに来てから、ずっと同じことを繰り返している気がする。座禅のときも、授業のときも、作務のときも。何かに集中しようとするほど、別の何かが顔を出す。忘れたい。忘れなくてはいけない。そう言い聞かせれば言い聞かせるほど、その輪郭は鮮明になっていく。隆寛は、布団の中で静かに息を吸った。鼻の奥に、古い木と布団の微かな匂いがしみ込んでくる。昼間に干された布団の、残り香のような日なたの匂いと、床板から立ち上る乾いた木の香り。それらが混じり合って、独特の寮の匂いになっている。耳を澄ますと、隣の部屋からも、かすかな寝息が重なって聞こえた。誰かが寝返りを打ったのか、板張りの床がきし、と小さく鳴る。その音がひとつひとつ、この場所が「修行の場」であり、「生活の場」でもあるのだと告げている。こんな静かな夜に、自分だけが眠れずにいる。目を開けると、天井と暗
last updateLast Updated : 2026-01-02
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47.護摩の炎が、嘘を焼く

護摩堂の中は、まだひんやりとしていた。外は冬の夕暮れで、日もすでに落ちている。堂の扉をくぐると、空気は外気よりわずかに暖かいが、それはまだ「火の熱」ではなく、人と木の匂いが溜まった温度だった。薄暗い空間の中央に、黒々とした護摩壇がある。四角く積まれた薪の上に、まだ火はない。油を含ませた薪の表面が、うっすらと照りを帯びている。その周りを囲むように、修行僧たちの座る位置が決められていた。隆寛は、定められた場所に膝をついた。僧衣の裾が畳に落ちる。膝に伝わる感覚は冷たくもあり、どこか湿り気も含んでいる。堂の中は、どこかしっとりとした空気に満ちていた。天井の梁には、過去の護摩行でついた煤がうっすらと残っている。薄暗がりのなかで、黒い影の筋が幾重にも重なって見えた。そこに、何度も何度も積み重ねられてきた炎の歴史が刻まれているようだった。正面に座る桂木俊心の姿は、炎のない壇の前でも、なぜか光をまとっているように見えた。彼は膝をつき、ゆっくりと合掌する。その動きに合わせて、堂の空気までもが静まり返る。導師の読経が始まり、小さな火が点された。油を含んだ薪に火が移されると、最初は細く頼りない炎が、薪の表面を舐めるように揺れた。ぱち、と小さな音がした。火種は、最初はただの赤い点に見える。その点が、呼吸をするようにじわりと膨らみ、やがて細い舌となって立ち上がる。読経の声が、それに重なる。低い声、高い声、複数の声が重なって、堂の壁を震わせる。木と土でできた空間は、音を吸い込むのではなく、柔らかく反響させていた。経文の言葉は、意味を持つ前に、塊になって胸にぶつかってくる。隆寛も、その一部として声を出していた。口が経をなぞるたび、昨日まで何度も唱えてきた言葉が唇から零れ落ちていく。今日だけ特別な文句ではないはずなのに、音のひとつひとつが、普段よりも深く身体に残る。火は、少しずつ大きくなる。細い舌が数本に増え、薪の隙間から顔を出す。黄色と橙のグラデーション。時折、青い芯のような色が一瞬だけ浮かんでは消える。空気の流れに合わせて、炎は揺れ、形を変え続ける。熱が、顔に届き始めた。
last updateLast Updated : 2026-01-03
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48.静まり返った夜、心だけが燃えている

護摩堂の戸が閉じられたとき、外の空気がこんなにも冷たいものだったかと、隆寛は思った。さっきまで肌を刺していた火の熱が、急激に奪われていく。頬に当たる夜風は鋭くはないが、火照った皮膚には十分すぎるほど冷たく感じられた。吐いた息が白くなり、すぐに闇に溶けて消える。足元は暗い。石畳の上に落ちた影が、ぼやけて揺れている。護摩行を終えた修行僧たちは、皆、言葉少なに寮へと戻っていく。袂が擦れる音と、草履が石を踏む音だけが、小さく続いた。隆寛は、列の少し後ろを歩いていた。頭の芯がまだ熱い。額には薄く汗が浮かんでいるのに、首筋には冷たい風が入り込み、ぞくりと身震いさせる。火の熱が身体の外側を焼き、今は冷気がその上を撫でている。温度だけで言えば、体は疲れきっているのに、胸のあたりは異様に冴えていた。護摩壇の前で見ていた炎の残像が、まだ目の奥にこびりついている。まぶたを閉じても、赤い光がちらつく。開けても、暗い境内の隅に、揺らめく影が見える気がした。「…寒」隣で誰かが小さく呟いた。声の主は慈遠だった。彼もまた護摩行に参加していた一人だ。息を白くしながら、肩をすくめている。「焚き火ってさ、離れた瞬間が一番寒いよな」ぽつりと落とされた言葉は、冗談のようでいて、どこか自分の今の状態を言い当てられたようにも感じられた。隆寛は、返事をしなかった。声を出す余裕が、うまく見つからない。ただ、少しだけ顎を引き、前を歩く背中を追う。寮の灯りが見えてきた。窓から漏れる柔らかな光が、雪も霜もない夜の庭をぼんやりと照らしている。建物の輪郭が浮かび上がると、不思議と肩が重くなった。ここに戻れば、今日一日は終わる。終わるはずなのに、終わりがどこにも見えない。玄関で草履を脱ぎ、板張りの廊下に足を乗せる。火照った足裏に、冷たい木の感触が伝わってきた。さきほどまで炎の前で感じていた熱を、木の床がすうっと吸い取っていくようだった。廊下も静かだ。護摩行を終えた他の僧たちが、それぞれの部屋に戻っていく足音が、遠くでしている。どこかの扉が開いて閉じる音。水の流れる音。短い咳払い。
last updateLast Updated : 2026-01-04
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49.理由をまとった再訪

一周忌という言葉を、今年に入って何度耳にしただろうと、隆寛はふと思った。檀家の誰それ、遠縁の誰それ。寺に生まれ育った以上、年忌法要は日常の一部であり、特別な響きを持たないはずだった。それでも「そういえば、四葉商事か。あの会社の部長さんの一周忌でね」と父が口にしたとき、胸の奥で何かが小さく跳ねた。「去年のお葬式に来てくれた、あの野上さん。また来られるそうだ。会社としてのご相談だと」寺務所で帳簿を見ていた手が、紙の上で止まる。「…そうですか」自分でも驚くほど、声は平板に出た。抑揚を削ったのは、意識的な操作というより、身体の防衛反応に近い。父・泰然は、息子の内側に起こった反応など知る由もなく、いつもの穏やかな口調で続ける。「応接間の方、整えておいてくれ。母さんは台所で手一杯だろうし、茶はお前に頼む」「分かりました」いつもどおりに返事をすると、泰然は満足げに頷き、別の用事に向かった。季節は初冬。山門から見える山肌の木々は、赤や黄をとうに手放していて、枝先だけが細く空に伸びている。風はもう冬の冷たさを含んでいるが、まだ刺すほどではない。昼下がりの陽射しは弱く、しかし、障子を透かすと部屋の中に柔らかな光の帯を落とした。応接間に入ると、紙と畳と古い木の匂いが鼻に満ちる。低い座卓の位置を少し整え、座布団を四枚、きちんと並べる。来客用の座布団は、新しい藍のカバーがかかっており、自分が普段使うものよりもいくぶんふかふかしている。隆寛は、窓際の障子を半分だけ開けた。西日の角度が、ちょうど座卓の端にかかるくらいになる。眩しすぎず、暗すぎず。客の顔がよく見えるようにという、寺の応接間で自然に身についた癖だった。「…会社としてのご相談、か」口の中で繰り返してみる。現実味のない言葉に、少しずつ輪郭が与えられていく。野上浩人。その名前を、意図的に思い浮かべないようにしてきた時間は長い。六年前、大学を卒業する前夜に別れてから、意識の表層に上がってくるたび、座禅の呼吸で押し戻してきた。それなのに、去年
last updateLast Updated : 2026-01-05
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50.日常の隙間に入り込むスーツ

最初の再訪から、一週間も経たないうちに、寺の玄関でまたスーツ姿を見ることになるとは思っていなかった。「四葉商事の野上様がお見えですよ」本堂から戻る途中、母にそう声をかけられたとき、隆寛は一瞬、自分の足が止まるのを自覚した。だが、次の瞬間には、僧衣の裾を整え、何事もない顔を作る。「分かりました。応接間ですね」「ええ。お父さん、今は檀家さんの相談中だから、少し遅れるそうよ。先にお話、伺っておいてもらえる?」さらりと言う母の口調には、特別な含みはない。少なくとも本人は、そう信じているだろう。寺にとっては大口の仕事を持ってきてくれた施主。好印象を持つのは当然のことだ。「…承知しました」声を整え、廊下を応接間に向かって歩く。板張りの床が、足裏に冷たさとわずかな湿り気を伝える。初冬の空気は、建物の中にもじわじわと入り込んでいる。応接間の襖の前で一度立ち止まり、深く息を吸う。それから、手を襖にかけた。「失礼いたします」声をかけて襖を開けると、座卓の向こう側に、やはりスーツ姿の背筋の良い男が座っていた。「お忙しいところ、申し訳ありません」浩人が立ち上がりかけ、軽く頭を下げる。濃紺のスーツにグレーのネクタイ。前回とは違う色合いだが、全体の印象は変わらない。仕事の装い。寺の木の匂いの中で、その布の匂いだけが異物のように感じられる。「いえ。住職が少し遅れると聞いております。よろしければ、それまでの間、こちらで承れる範囲でお伺いいたします」自然と口から出たのは、僧侶としての、そして「副住職」としての言葉だった。浩人は、薄く笑う。「助かります。…実は、一周忌の当日の流れについて、社内で少し意見が出まして」座布団に座り直しながら、黒いビジネスバッグからファイルを取り出す。紙の擦れる音。インクと紙の匂いが、畳の上でふわりと広がる。「故人のご家族と相談した結果、会社側の挨拶のタイミングや、弔辞の順番など、いくつか調整が必要になりまして…」内容は、確かに
last updateLast Updated : 2026-01-06
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