All Chapters of 髪を剃った君の左耳~ピアスホールに残った俺たちの十年: Chapter 11 - Chapter 20

52 Chapters

11.蝋燭の残り香と静寂の底

冬の午後の光は、すでに色を失いかけていた。本堂の高い窓から差し込む陽は、白く薄く、畳の上に落ちる影を淡くにじませるだけだった。さっきまでぎっしりと埋め尽くされていたはずの座布団は、今はまばらにずれているだけで、人の気配は跡形もない。線香の匂いだけが、まだ濃く残っていた。甘く、少しだけ湿った香りが、肺の奥までゆっくり入り込んでいく。蝋燭の灯りはすべて落とされているにもかかわらず、焦げた芯と溶けた蝋の匂いが、どこかに小さな熱の名残を感じさせた。本堂の中央に置かれた祭壇には、遺影がまだ掲げられている。四十九日法要が終わり、読経も焼香もすべて済んだあと。檀家たちは皆、寒い外気の方へと戻っていった。静寂だけが、取り残された。隆寛は、祭壇から少し離れた位置で、僧衣の袖をきちんとたくし上げていた。手には掃き箒。畳の目に沿って、ゆっくりと前後させる。乾いた音が、規則的に本堂に響いた。「…」声にはならない息だけが、喉の奥で静かに出入りする。呼吸を乱さないように意識すると、そのこと自体がかえって胸に重さを作る。だが、それを無視する術はもう身体が覚えていた。修行の場で教え込まれた呼吸のリズムは、今も習慣として骨の内側に染み込んでいる。四十九日。区切りの法要。亡くなった者が、ようやく向こう側へと落ち着いていくための節目。その意味を知っているからこそ、読経には一つも乱れがあってはならなかった。実際、声は最後まで途切れていない。導師である父の声に、自分の声を重ね続け、音の川を濁らせることはしなかった。表面上は、何一つ問題はない。僧侶として、やるべきことをやっただけ。それでも、肩には疲労が静かに降り積もっていた。箒を動かすたびに、肩甲骨の奥で筋肉が重く軋む。読経のときに長く同じ姿勢を保っていたせいだけではない。張り詰めた意識を数時間保ち続けたあとの反動が、身体を内側からきしませている。「……」自覚したくなくて、隆寛はわずかに首を回した。僧衣の襟が、かすかに擦れる音を立てる。首筋に走る違和感が、すぐに見つかった。
last updateLast Updated : 2025-11-28
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12.綻びをつくる声

本堂の外気に混じった冷たさは、扉が閉じてしまえばすぐに薄れた。それでも、一度入り込んだ外の温度は、線香と蝋燭の匂いが支配する空気の中で、異物として残り続ける。隆寛は、祭壇の前から数歩下がった位置で、箒を持つ手を再び動かし始めた。視線は相変わらず真っ直ぐ前を向いたまま、足元の畳だけを淡々と掃いていく。耳だけが、背後の気配に神経質なほど敏感になっていた。廊下から一歩、また一歩と踏み込まれた足音。板張りとは違う畳の柔らかさを含んだ、わずかに沈む気配。僧侶の脚絆ではなく、革靴の底が浅く沈む音だと、耳が先に判断する。「ありがとうございます」などと言葉を返してしまった以上、知らないふりを貫くことはできない。それでも、振り向かないという選択だけは、ぎりぎりのところで守りたかった。本堂の中央から少し外れた位置に、もう一つの気配が落ち着く。祭壇に向かうのではなく、隆寛と斜めに距離を取る位置。正面に立たれるよりも、そのほうがむしろ意識してしまう。「…ここはどこから片付ければいいんですか」背後からの声は、あくまで穏やかだった。本堂の静けさを壊さないように抑えられた音量。それでいて、低くよく通る響きは変わっていない。隆寛は、箒の先を軽く止め、僧衣の裾を乱さないように一歩だけ下がった。視線を下げたまま、声だけを少し後ろへ向ける。「こちら側の座布団を…片付けていただけると助かります。畳を拭きやすくなりますので」言いながら、右手で本堂の端に積まれた座布団の山を指し示す。動きは小さく、必要最低限。その仕草すら、自分の中では過剰に感じられた。背中越しに感じる視線が、一瞬だけこちらに触れた気がした。続いて、布の擦れる音。コートの袖が動き、座布団を持ち上げる気配が伝わる。沈黙が、本堂の中に再び広がった。箒の音と、座布団が重なり合うわずかな物音だけが、静寂の表面に小さな波紋を作る。視界の端に、黒いスーツの膝が見える位置まで寄ってきては、また離れていく。本堂の中央から少し外れた場所に二人の影が伸びる。夕方へ向かう薄い光が、伸びた影の輪郭を曖昧にしていた。「&
last updateLast Updated : 2025-11-29
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13.記憶に触れる指先

本堂の空気は、夕方に近づくにつれてじわじわと色を失っていった。高窓から落ちてくる光は、さっきまでの白さを保ちながらも、どこか薄く、輪郭の甘い影だけを畳の上に落としている。祭壇の前に並んだ白い花は、長い法要に耐えたあとで、端の方の花弁がところどころゆるんでいた。さっきまで人が出入りしていたせいか、少しだけ茎が傾いている花もある。その足元には、ほろりと力尽きたような白い欠片が、ぽつりぽつりと畳に落ちていた。隆寛は、本堂の中央に立っていた。祭壇から少し下がった位置、読経のときに座っていた場所のすぐ近く。箒を脇に立てかけ、今はしゃがみ込んで花弁をひとつずつ拾い上げている。指先でつまむ白い破片は、冷たかった。まだ水分は残っていて、柔らかいはずなのに、指に触れる感触はどこか頼りない。爪の先で触れれば、すぐに形を失ってしまいそうな脆さがあった。掌に溜まっていく小さな白の重さは、ほとんど感じられない。感触としてはないのに、目に見える量だけが増えていく。そのアンバランスさが、胸に妙な空虚を生む。「…」言葉にはならない息が、喉の奥で細くほどける。線香の甘い香りが、まだ強く鼻を刺していた。蝋燭の芯の焦げた匂いも薄く混じっている。そこに、さっき入ってきた外気が持ち込んだ冷たい空気の残り香が、ごくかすかに重なっていた。隆寛は拾い集めた花弁を小さな器に移し、また新たな欠片を探して視線を落とした。畳の目の間に、小さく潰れかけた花弁がひとつ挟まっているのが見える。立ち上がってから箒で掃いてもいい。理性はそう判断した。けれど、身体の方が先に動く。僧衣の裾が畳を擦らないように気をつけながら、腰を落とし、指先でそっとその欠片に触れた。指の腹に微かな湿り気が移る。その感覚に集中していると、背後でわずかな衣擦れの音がした。座布団を持ち上げる動きが一段落したのか、革靴の底が畳の上で静かに位置を変えた気配。花弁に意識を向け続けようとするのに、耳は勝手に背後の気配を拾い続ける。右肩のうしろあたりから、僅かに近づいてくる足音。畳の沈み方が、さっきよりも自分に近い。「…あ」祭壇の前、踏み台の下の
last updateLast Updated : 2025-11-30
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14.逃げる背中、残る熱

肩に触れられた感覚は、僧衣の布越しに消えない火種のように残っていた。隆寛は、花弁を摘もうとして中途半端な位置に固まっていた自分の指先を、ゆっくりと畳から離した。伸ばしていた手を引き寄せるとき、僧衣の袖口がわずかに震える。その震えさえ、制御しきれない自分の一部として意識に引っかかった。呼吸が浅い。胸の奥まで空気が届かない。線香の香りと蝋燭の匂いが混ざった本堂の空気は、いつもと同じはずなのに、今はやけに重たく感じられる。肩に置かれた手は、すでに離れている。実際にはもう何も触れていない。なのに、皮膚の内側だけがじんじんと熱を放ち続けていた。僧衣の襟が、呼吸に合わせてわずかに上下している。意識すればするほど、その動きが目立ってしまう気がして、隆寛は僧衣の内側にある自分の胸の動きを押し殺そうとした。だが、うまくいかない。ここは本堂。自分は僧侶。動揺を表に出す場所ではない。そう頭の中で繰り返しても、身体はまるで別の理で動いていた。肩のあたりの皮膚が、過去の夜の記憶と現在の接触を一つに束ねて、独自の熱を持ち始めている。「…すみません」ようやく喉の奥からこぼれた声は、自分でも驚くほどか細かった。謝罪の意味を、言葉に添える余裕はない。ただ、その場から離れたいという本能だけが、かろうじて声を形にした。返事を待たずに、隆寛はゆっくりと立ち上がった。膝に溜まっていた血が一気に引く感覚と同時に、少しだけ眩暈が走る。畳がわずかに揺れたように感じたのは、実際に身体がふらついたせいか、頭の中の混乱のせいか、自分でも判別がつかなかった。立ち上がるとき、僧衣の裾がふわりと揺れる。その布の動きが、静まり返った本堂の中でやけに大きな存在感を持った。足先から伝わる畳の感触が、不安定な自分の重心を無理やり支えている。「…少し、失礼します」振り向かずに付け加えた声は、さっきよりもさらに震えていた。自分で自分の声を聞いて、僧侶としての威厳などどこにもないと痛感する。本堂の正面、山門側へと続く広い引き戸は、
last updateLast Updated : 2025-12-01
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15.残心 — 熱が消えない場所

庫裏の戸を閉めた瞬間、世界の温度が変わった。本堂の冷たい空気と線香の匂いは背中の向こうに置き去りにされ、代わりに、煮物と茶の混じった柔らかい匂いと、畳の乾いた香りが鼻腔に入り込んでくる。さっきまで外にいたのだと、皮膚の表面が遅れて思い出す。廊下は薄暗かった。夕暮れはすでに過ぎていて、天井近くに取り付けられた小さな灯りだけが、黄味がかった光を降ろしている。その光は強くはなく、むしろ影を濃くするために存在しているようだった。隆寛は、戸口から数歩だけ中に入り、そこで足を止めた。歩き続ければ、そのまま台所の方へ出られる。住職夫婦のいる居間とも繋がっている。誰かの気配のある方へと行けば、さっき本堂で揺れたものも、少しは紛れるのかもしれない。そう思う一方で、足は廊下に貼り付いたように動かなかった。心臓が、まだ速い。僧衣の内側で、鼓動が自分のものではないみたいに跳ねている。鼓膜の内側から、どくどくと血が流れる音が微かに聞こえる気さえした。「……」息を整えようと、ひとつ深く吸い込む。庫裏の空気は本堂よりも温かいはずなのに、肺の奥は冷たかった。呼吸を落ち着かせようとすればするほど、さっきの感覚が鮮明になっていく。肩。右肩のあたり。僧衣越しに触れられた、その場所。無意識のうちに、右手が持ち上がっていた。自分の意思よりも先に動いた指先が、僧衣の上からその部分を押さえる。固い布越しに、皮膚の下の熱が伝わってきた。触れた瞬間、そこだけが異様に火照っていると分かる。まるで小さな火種が、肩の内側に埋め込まれてしまったみたいに。「……っ」思わず指先に力が入る。押さえたくらいで熱が引くはずもないのに、押さえずにはいられない。確かめるように、撫でるように、同じ場所を何度もなぞってしまう。僧衣の生地の感触が、手の平の中で何度も往復する。粗くもなく、柔らかすぎることもない、日常に馴染んだ布。その下にある自分の皮膚の温度だけが、異質だった。「……どうし
last updateLast Updated : 2025-12-02
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16.静寂のレポート

冬の昼の光は、教室の窓ガラスを均一に白く曇らせていた。曇天ではないのに、太陽はどこか遠くにあって、じかに届いてくるというより反射しているだけのように見える。蛍光灯の白さと外の白さが混じり合い、空間全体が淡く色を失っていた。教室の最前列、スクリーンの前に立つ経済学の教授が、分厚いレポートの束を机に置く。紙が机に当たって鳴る鈍い音が、静かな教室にじわりと広がった。「今回のレポート課題、テーマは『地域経済における公共財の役割』でしたね」教授が穏やかな声で言うと、前列から順に、わずかな姿勢の変化が起きる。ノートパソコンを閉じる者、ペンを指で弄ぶ者、眠気を振り払うように首を回す者。それぞれの仕草が小さく連なって、教室の空気を微かに揺らす。美原隆寛は、その中ほどの席に座っていた。白いノートの上には、まだ書きかけのメモが一行だけある。ボールペンを持つ指はきちんと揃えられ、背筋はまっすぐに伸びていた。長めの黒髪が額にかかり、その影が黒目の色をさらに深く見せている。真正面から見れば、ただの真面目な学生にしか見えないだろう。だが横顔には、どこか年齢にそぐわない静けさがあった。授業に飽きているわけでも、特別に昂ぶっているわけでもない。ただ、湖面のように波のない状態が、彼の基本値としてそこにある。教授が一番上のレポートを手に取った。紙をめくる音がもう一度鳴る。「いくつか紹介したいものがあります」ざわ、と教室の空気が小さく動いた。自分の名前が呼ばれるのではと期待する者と、絶対に読み上げられたくないと祈る者との気配が、微妙な温度差となって前後の席に漂う。隆寛は、特に何も期待していなかった。自分のレポートが良い出来かどうかを決めるのは自分ではない、と当たり前のように思っていた。昨夜、提出用に印刷した用紙をクリップで留めたとき、内容について考えることはもう終わりにしている。事実だけを淡々と積み上げただけだ、とそれだけの認識だった。教授は数枚分のタイトルと要約を、さらりと読み上げていく。「商店街における高齢者の見守り機能と外部性」「地域祭礼と観光消費の関係」「ボランティア活動が生むソーシャ
last updateLast Updated : 2025-12-03
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17.深海の文章

夕方の図書館は、昼間の賑やかさが嘘のように静まり返っていた。大きな窓の向こうには薄い雲が広がり、沈みかけた太陽の光が、キャンパスの建物の輪郭だけを白く縁取っている。室内の照明はすでに点いているが、蛍光灯の白さと窓からの残光が混じり合い、紙の表面だけがやけに明るく浮かび上がって見えた。野上浩人は、三階の閲覧スペースの隅に座っていた。前には貸出禁止の参考図書と、返却されたばかりのレポートの束。教授が「優秀作と、少し変わった視点のものは共有しておきます」と言って、コピーを置いていったものだ。浩人は、もともとそれに大して興味はなかった。自分の単位には何の問題もない。課題も成績も、予定どおりにこなしている。人のレポートをわざわざ読む余裕があるなら、他の講義の予習か、就活情報サイトを眺めていた方が有意義だとさえ思う。それでも、手は自然とその束に伸びていた。理由は、自分でもはっきりしない。ただ、「時間はまだ少しあるし」と、自分に適当な言い訳を与えただけだった。紙の束を手に取ると、コピー用紙の角が指先に軽く食い込んだ。擦れた紙の匂いが鼻腔をくすぐる。プリントされたインクの匂いも混ざり、独特の乾いた匂いになっている。図書館の空調の低い唸りが、遠くで常に続いている。浩人は、一番上のレポートを何の感情もなくめくった。「『商店街の活性化における高齢者支援の外部性』ね」タイトルを小さく読み上げて、ページをめくっていく。内容はよくあるものだった。商店街のイベントが地域の高齢者を引き出し、見守り機能として働いている、云々。教科書の引用とインターネットで拾える統計データをつなぎ合わせた、整った、しかし特徴のない文章。悪くはない。だが、どこかで見たことのあるレポートだ。教授が「よく書けています」と言っていたのも理解できるが、心に残るものはほとんどない。浩人は、二枚ほど斜め読みして、すぐにレポートの端を揃え、束の下に戻した。次の紙に指先を滑らせる。次は地域祭礼と観光消費の関係、その次はボランティア活動とソーシャルキャピタル。
last updateLast Updated : 2025-12-04
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18.廊下の遭遇

昼下がりの大学本館の廊下には、講義を終えたばかりの学生たちの声がまだ残滓のように漂っていた。階段の方からは笑い声が上がり、自動販売機の前では缶コーヒーのプルタブを引く軽い音が続く。さっきまで人で混み合っていたはずの廊下は、ちょうど授業の入れ替えと入れ替えの狭間に差しかかり、人の波の密度が一瞬だけゆるんでいた。窓の外に目を向けると、斜めから差し込む陽射しが校舎の壁を白く照らし、その反射が廊下の床に細長い光の帯を落としている。光と影の境目がはっきりとしていて、その上を通る足音だけが、いつもより静かに響いていた。野上浩人は、その廊下の中央を真っ直ぐに歩いていた。左手には、講義資料と一緒に折りたたんだままのコピー用紙が挟まれている。胸ポケットに入れておくには目立つ気がして、資料の束の内側に紛れ込ませたままだった。それでも、紙の角が時おり指先に触れ、そのたびに、そこに書かれている文字が脳裏に浮かぶ。美原隆寛。見慣れない四文字と、柔らかな名前。昨日、図書館であのレポートを読んで以来、その名前は頭のどこかでずっと呼び出され続けていた。講義中、教授の声が単調なグラフの説明に移るたび、ノートの端に書いたその名前の文字だけが、紙の上で濃度を増していくような気がした。実物を見たことは、まだない。名簿の顔写真などないから、名前から姿を想像するしかない。勝手に思い描くイメージはいくつも浮かんでは消えたが、どれも決定的ではなかった。ただ一つ、共通していたのは「静かな目をしているだろう」という確信だけだった。どういう顔をしているのか。どういう声で話すのか。あの文章を書いたとき、どんな表情だったのか。考えれば考えるほど、知りたいという感情は強くなる。それは好奇心という言葉で片付けるには、どこか質が違った。対象を遠くから眺めて楽しむのではなく、近づいて、触れて、その輪郭を確かめたいという種類の欲求だ。人の流れが一瞬途切れ、廊下の先がぽっかりと空白になった。その先に、光の帯が一本、床の上に落ちている。そし
last updateLast Updated : 2025-12-05
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19.捕まえられた胸

廊下を満たしていた静けさに、じわじわと人の気配が戻り始めていた。遠くの階段の方から、笑い声と足音が重なって聞こえてくる。扉の開閉する音、誰かが教室の中で椅子を引く音。それらが少しずつ近づいてくるのを感じながらも、美原隆寛の耳には、目の前の男の声の方がずっと鮮明だった。興味ある。さきほど野上浩人が言った言葉が、まだ胸の奥でくっきりと響いている。その一言は、軽く投げられたようでいて、妙に重かった。褒めている、とも違う。評価している、とも違う。もっと単純で、逃げ場のない感想。興味ある。お前に。お前の書いたものに。そう言われてしまった気がして、胸の内側がきゅうと縮んだ。廊下の白い光の中で、隆寛は自分の指先がわずかに震えていることに気づく。トートバッグの持ち手を握りしめている左手。布の感触がじくじくと生々しく伝わってくる。指の節の皮膚が引きつり、爪の先にまで、さっきの言葉の余韻が残っていた。浩人は、その震えには気づかないようだった。長身の体を少しだけこちらに傾け、自然な距離で立っている。圧迫感はない。だが、存在の密度は濃い。背後を学生たちが通り過ぎていくたびに、彼の肩がほんの少しだけ光を遮り、隆寛の視界の明るさが変わる。「俺、野上浩人」そう名乗られたとき、名前の響きが胸の内側に沈むように入り込んできた。そのとき一度、喉の奥で言葉が詰まった。自分の名前を返すまでに、数拍の間が空いたのは、そのせいだ。「…美原隆寛です」そう告げたとき、自分の声が思っていたよりもかすれていることにも気づいた。肺に溜まっていた空気が少しだけ抜け、胸の奥の詰まりがわずかにほどけていく。それでも、熱はまだ残っていた。興味ある。ただその一言で、自分の中の何かが捕まえられてしまったのを、はっきりと自覚していた。人の足音が増え始めた廊下の中で、二人だけの小さな空白がまだ保たれている。周囲のざ
last updateLast Updated : 2025-12-06
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20.静かに並ぶ机

午後の光は、窓際に置かれた観葉植物の葉を透かし、その影が長い机の表面に薄く揺れていた。大学の自習スペースは、講義が終わったばかりの時間帯だけ少し混むが、しばらくすれば波が引くように人の気配が薄れていく。今はちょうど、その境目だった。椅子を引く音や、プリントをまとめる音が点々と残っているだけで、部屋全体には静けさがゆっくり戻りつつあった。美原隆寛は、窓に近い席に座り、ペンを指に挟んだまま資料を読み返していた。黒髪が頬に沿って落ち、視界の端に影を作る。紙に印刷された文字の列は淡々としていて、読み終えたページに自分の呼吸が薄く落ちていくのがわかる。集中しているときの彼は、まるで空気と同化しているかのように動きが少なく、筆記の音すら控えめだ。そこへ、後ろから足音が近づいた。一定のテンポで、無駄がなく、迷いのない歩幅。聞き慣れたリズムが近づいてくるのを、隆寛は視線を上げずに察した。椅子が一つ、隣で軽く音を立てて引かれた。浩人が、何の前置きもなく腰を下ろした。声をかけるでも、視線で合図するでもない。まるで「そこに座るのが当然だ」とでも言うような自然さだった。隆寛は一瞬だけ指を止めたが、すぐにペン先を文字の上に戻した。その動きはぎこちなくも、拒絶するようなものでもなかった。二人の間に、机の幅ほどの細い空気が流れる。その空気が、隆寛には妙に落ち着くものに感じられた。浩人は持っていた資料を机に置き、筆箱を開いてペンを取り出した。動作は静かで、少しの無駄もなかった。彼の存在は、長い影がひとつ隣に伸びるように隆寛の横にあった。プリントをめくる音がした。浩人がページを読み進めているらしい。その紙の擦れる音が、自習室の空気と同じ温度で広がった。隆寛は、自分の呼吸が知らないうちに整っていることに気づいた。さっきまで軽く張っていた胸の奥の緊張が、いつの間にか解けている。隣に誰かがいるだけでこんなふうになるのは、彼にとって珍しい感覚だった。ペン先が紙を滑る音が響く。シャッというリズムが、静かな空間に淡く混ざる。浩人は、その筆記音を耳に染み込ませるように聞いていた。視線は資料の文字を追っているが、意識の半分は隣の気配に向
last updateLast Updated : 2025-12-07
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