髪を剃った君の左耳~ピアスホールに残った俺たちの十年

髪を剃った君の左耳~ピアスホールに残った俺たちの十年

last updateDernière mise à jour : 2026-02-12
Par:  中岡 始En cours
Langue: Japanese
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慶林寺の副住職・隆寛(りゅうかん)は、剃り上げた頭と黒い僧衣の下に、ひとつだけ過去を残している。 左耳の、小さな穴。 大学時代、その耳に初めてピアスを通し、息を止めさせたのは、今や商社マンとなった浩人だった。 出家前夜まで激しく求め合いながら、「お前の未来の邪魔にはなれない」と笑って去った隆寛。 数年後、上司の葬儀で再会した二人は、僧侶と故人の部下という仮面を被ったまま、視線だけを交わす。 寺を継ぐ責務、空白の時間、修行で燃やそうとした恋情。 敬語と礼儀で固めた距離の内側で、まだ耳はあの頃と同じように震える。 いずれ、祈りと欲のどちらかを捨てなければならないのだろうか… 答えは、まだ雨音の向こうに隠れている。

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Chapitre 1

1.黒いスーツの帰還者

冬の空は、どこまでも薄い灰色だった。雲が低く垂れ込めているのに、雪になるほどの冷え込みではなく、ただじっとりとした冷気だけが肌にまとわりつく。

斎場の前に黒い車が次々と横付けされては、人を吐き出し、また動き出していく。黒いコートと黒いスーツが、そのたびにどこかから現れては、入口へ吸い込まれていく。野上浩人もその一人だった。

革靴の底が、敷き詰められた薄い砂利を踏んで、しゃり、と乾いた音を立てる。マフラーを外しながら、彼は見慣れた日本語の看板をぼんやりと眺めた。「◯◯セレモニーホール」と書かれた白い看板が、冬空の下でやけに浮いて見える。

香港の喧騒から、つい数日前に戻ってきたばかりだという実感は、まだ身体のどこかに残っていた。ビルの隙間を縫う湿った熱気と、早口の英語と中国語が飛び交う空気。その反動なのか、今目の前にあるこの静けさは、妙に現実味がない。

受付に進む列が、ゆっくりと流れている。浩人もその最後尾に並んだ。前に立つ男の背中越しに、香典を収める小さなテーブルが見える。ふと鼻をくすぐったのは、線香の匂いだった。湿った畳と、古くなった木と、花屋が大量に持ち込んだ生花の香りが、線香の甘い煙と一緒になって、薄い靄のように漂っている。

受付係の若い社員に頭を下げ、香典を渡し、記帳する。故人の名前の下に、自分の名を殴り書きするように書いて、ペンを置いた。

「野上さん、日本に戻ってたんですね。」

背後からかけられた声に振り向くと、同じ部署の男がいた。グレーのコートの襟に、霧雨のような水滴がいくつか光っている。

「まあ、一応本社勤めってことになってるからな。」

そう答えながら、口元だけで笑みを作る。軽く肩を叩かれ、そのまま一緒にホールの中へ進んだ。

式場に足を踏み入れると、空気が一段と重くなる。白い花で埋め尽くされた祭壇の中央に、故人の遺影が掲げられている。少し古臭いスーツ姿で笑っているその男を、浩人は何度も会議室で見てきた。上司ではあるが、プライベートで飲みに行ったことは、数えるほどしかない。

「やっぱ急すぎたよな。」

横で誰かが小声で呟く。

「一週間前まで、普通に出社してたのにさ。」

そうだ、一週間前まで。浩人は、香港の狭いサービスアパートの一室で、深夜に届いたメールを見て、ただ「マジか」と声に出しただけだった。急性心筋梗塞。単語だけ見れば、ニュースでいくらでも転がっているような死因だ。

にもかかわらず、今こうして遺影として笑っている顔と、その単語がうまく結びつかない。

席に案内され、浩人は前から三列目あたりに腰を下ろした。黒いスーツの肩がぎっしりと並び、ざわめきはしばらく続いたが、スタッフが静かに会釈をして回り始めると、自然と声は小さくなっていく。

「香港の生活どうだ?」

左隣から、不意に声がした。振り向くと、出張で何度か現地に来たことのある先輩社員が、目を細めている。

「暑いですよ。湿気もえぐいし。」

浩人は、条件反射のように笑ってみせる。

「でもまあ、飯はうまいし、景色も悪くないです。暮らしてみれば、案外どうにかなりますよ。」

「女は?」

「……まあ、それなりに。」

期待どおりの答えを返すと、先輩は小さく笑って前を向いた。彼らの会話は、葬儀の場には似つかわしくない軽さを帯びているけれど、誰もとがめはしない。その軽さが、重たすぎる空気を中和しているのだとしたら、それもまた一種の役割なのかもしれない。

しばらく会場を見渡していると、会社の顔ぶれが自然と目に入る。管理職が並ぶ席、若手社員が固まる場所、取引先からの花輪。どれも見慣れた光景だ。仕事の延長線上にある、形式的な別れ。

「仕事だから。」そう頭のどこかで繰り返しながら、浩人は自分の膝に置いた手を組み直した。

胸の奥に、小さなざらつきがある。悲しくないわけではない。だが、号泣するほどの感情も湧いてこない。海外赴任という距離が、そのまま心の距離になってしまったような感覚だった。

「人生、こんな風に突然終わるんだよな。」

ふいに、そんな言葉が頭をよぎる。自分でも驚くほど、平坦な思考だった。

今朝、スーツに腕を通しながら、ネクタイの色を何度か変えてみた。それでも、鏡に映る自分の顔は、どれを合わせてもあまり変わらない。二十代半ばの男としては、そこそこ整った方だと自覚してはいる。だが、そこに「悲しみ」だとか「喪失」だとかいった感情がはっきりと浮かんでいるかと問われれば、答えに窮する。

仕事で評価され、海外にも出され、周囲から見れば「順調」だろう。それでも、ときどき胸の奥にぽっかりと穴が空いているような感覚に襲われることがある。充実していると言いながら、どこか充たされていない。そんな矛盾が、香港でも、そして今この斎場でも、変わらずそこにある。

受付近くから、誰かが小走りで入ってくる音がした。スタッフのささやき声と、弔電の確認。細かな動きがいくつも積み重なり、やがて全体が静けさの方へ傾いていく。

ふと、祭壇の前に置かれた香炉から、細い煙がまっすぐ立ち上っているのが見えた。空調の流れに揺らされながらも、芯の部分だけは途切れずに伸びている。目で追っていると、それが天井近くの白い空間で溶けて消えていくのが分かった。

生まれて、働いて、ある日突然こうして煙になる。そう思うと、胸のざらつきが、少しだけ重さを増した。

「……」

言葉にならないため息が喉の奥でほどけていく。誰かが咳払いをし、別の誰かがハンカチで目を押さえた。

浩人は、自分の内側を一度確かめるように、胸にそっと手を当てた。鼓動はいつもどおり規則正しく鳴っている。興奮も、高揚も、激しい悲しみもない。ただ、鈍い空虚さだけが、冬の曇天と同じ色をして、胸の底で静かに横たわっている。

その空虚が、何かを呼び込もうとしているような感覚に、彼はまだ気づいていなかった。

そのとき、前方でスタッフの一人が立ち上がり、小さく一礼した。会場全体に視線が走る。そろそろ式が始まる合図だ。

静かに立ち上がる人々の気配。席の隙間をすり抜けるようにして、黒い衣をまとった人物たちが祭壇の側面に現れ始める。僧侶たちだと理解するのに、時間はかからなかった。だが、この場が「葬儀」であり、今まさに何かが始まろうとしていることを、ようやく感覚として理解した瞬間、浩人の背筋に、かすかな不穏さが走った。

それは、死の儀式が始まることへの畏れではなかった。もっと違う、別の何かの始まりを、かすかに予感させる冷たさだった。

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1.黒いスーツの帰還者
冬の空は、どこまでも薄い灰色だった。雲が低く垂れ込めているのに、雪になるほどの冷え込みではなく、ただじっとりとした冷気だけが肌にまとわりつく。斎場の前に黒い車が次々と横付けされては、人を吐き出し、また動き出していく。黒いコートと黒いスーツが、そのたびにどこかから現れては、入口へ吸い込まれていく。野上浩人もその一人だった。革靴の底が、敷き詰められた薄い砂利を踏んで、しゃり、と乾いた音を立てる。マフラーを外しながら、彼は見慣れた日本語の看板をぼんやりと眺めた。「◯◯セレモニーホール」と書かれた白い看板が、冬空の下でやけに浮いて見える。香港の喧騒から、つい数日前に戻ってきたばかりだという実感は、まだ身体のどこかに残っていた。ビルの隙間を縫う湿った熱気と、早口の英語と中国語が飛び交う空気。その反動なのか、今目の前にあるこの静けさは、妙に現実味がない。受付に進む列が、ゆっくりと流れている。浩人もその最後尾に並んだ。前に立つ男の背中越しに、香典を収める小さなテーブルが見える。ふと鼻をくすぐったのは、線香の匂いだった。湿った畳と、古くなった木と、花屋が大量に持ち込んだ生花の香りが、線香の甘い煙と一緒になって、薄い靄のように漂っている。受付係の若い社員に頭を下げ、香典を渡し、記帳する。故人の名前の下に、自分の名を殴り書きするように書いて、ペンを置いた。「野上さん、日本に戻ってたんですね。」背後からかけられた声に振り向くと、同じ部署の男がいた。グレーのコートの襟に、霧雨のような水滴がいくつか光っている。「まあ、一応本社勤めってことになってるからな。」そう答えながら、口元だけで笑みを作る。軽く肩を叩かれ、そのまま一緒にホールの中へ進んだ。式場に足を踏み入れると、空気が一段と重くなる。白い花で埋め尽くされた祭壇の中央に、故人の遺影が掲げられている。少し古臭いスーツ姿で笑っているその男を、浩人は何度も会議室で見てきた。上司ではあるが、プライベートで飲みに行ったことは、数えるほどしかない。「やっぱ急すぎたよな。」横で誰かが小声で呟く。「一週間前まで、普通に出社してたのにさ。」そうだ、一週間前まで。浩人は、香港の狭いサービスアパートの一室で、深夜に届いたメールを見て、ただ「マジか」と声に出しただけだった。急性心筋梗塞。単語だけ見れば、ニュースでいくらでも転がってい
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2.読経のはじまり、呼吸の終わり
斎場の空気が、音もなく張りつめた。参列者が一斉に立ち上がるその刹那、静寂の底から、重く深い鐘の音が響いた。ごぉん……と低く、空間を震わせるようなその音は、祭壇の奥から放たれたものだった。響きは、木と畳と布で囲まれた空間に反響し、目に見えない波紋となって全体に広がっていく。浩人は椅子に背をつけたまま、思わず息を飲んだ。扉が、開く。一瞬、冬の冷気が薄く流れ込み、花と線香の香りがわずかに乱れた。静かに足音が重なり、黒い僧衣に身を包んだ数人の僧侶が、慎重に、等間隔で入堂してくる。彼らは皆、剃髪の頭を伏せ、手に数珠を持ち、歩みに一切の無駄がない。丁寧な儀礼の所作。これが宗教的営みであることを強く印象づける、静かな威圧だった。その列の、二人目に。浩人の瞳が、かすかに揺れた。脳が、反応を拒否した。言葉にするよりも早く、身体がかたまる。――あれは、誰だ?その問いが、次の瞬間、完全に粉々に砕けた。隆寛だった。隆寛が、いた。だが、浩人の記憶にある男ではなかった。彼の前に現れたのは、剃髪し、真っ白な肌をさらけ出した、まるで彫刻のように凛とした僧侶だった。顔の骨格は変わっていない。頬の線も、鼻の高さも、唇の形も、まるでそのままだ。だが、すべての輪郭が、髪という柔らかな縁取りを失ったことで、異様なまでに鋭く見えた。隆寛は、前髪をよく指で払っていた。長めの黒髪が目にかかるたび、無意識にかき上げていた。あの癖を、浩人は何度も見ていた。だが今、その髪はない。肌の色と同じ頭皮が露出し、僧衣の襟元からは、しんとした気配だけが滲み出ていた。――あいつが、なんでここに?そんな単純な疑問が、浮かんだかと思う間もなく、視線は否応なく彼の耳元に釘付けになった。左耳に、空いたままのピアスホール。淡い影のようにぽつりと残る、わずかな痕跡。それは、かつて浩人が開けたものだった。あの夜、手を添えて、穴を穿たせた。爪の先で、耳朶をそっとなぞったのは自分だった。あの場所に、小さなシルバーのリングを通して笑った彼の顔を、今もはっきり覚えている。その孔が、今も残っている。髪のない耳に、何も飾られないまま、その痕跡だけがくっきりと露わになっている。何も変わっていないようで、すべてが違う。読経が始まった。導師を務める年配の僧が、低い声で唱え始めると、それに続いて、脇僧の声が幾
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3.揺れるまなざし、壊れる均衡
静寂というものには色がある。たとえば、本堂に満ちる静寂には、青墨のような色があった。冷たく、深く、ひとたび沈んだら戻れないような底を持つ。灯明の揺らぎが、僧衣の裾にかすかに影を落とす。読経のリズムは正確に、息の乱れひとつなく続いていた。隣に並ぶ脇僧の読経も、導師である父の声も、誤差なく響き、整った音の川を形成している。音と呼吸と意識がひとつの流れに乗る時、人の身体は無で満たされる。それは、僧としての理想的な状態だった。……けれど。その「無」のただなかで、|隆寛《りゅうかん》は自分の心の奥に、濁った渦が生まれつつあるのを感じていた。視界の端。そこに、彼がいる。浩人。まさか、今日ここで再会するとは思っていなかった。いや、再会など――望んでなど、いなかった。だが、知ってしまった以上、もう戻れない。なぜ来たのか。どういう縁で、この葬儀に。なぜ今になって姿を現すのか。いくつもの問いが胸に去来するたび、呼吸が浅くなる。読経の最中でなければ、背中を丸めて立っていられなかったかもしれない。視線を前に固定する。何も見ない。何も聞かない。ただ、唱える。けれど、どうしても……逸れた。それは一瞬だった。ほんの数呼吸の間、前方からわずかにずれた視線の軌道に、黒いスーツ姿の男が映った。浩人だった。五年ぶり。なのに、昨日会ったような顔をして、そこにいた。記憶の中の彼よりも少し大人びていた。頬の線は鋭くなり、背中には貫禄が滲んでいた。けれど、あの目だけは同じだった。何もかも見透かすような、強く、時に脆さすら含んだ眼差し。その目に、今の自分が映っている。剃髪した頭、僧衣、肩から下がる袈裟。すべてを捨てた後の自分が、彼の目の中にいた。その瞬間、耳の奥で、鼓膜が震えた。自分の声が一瞬だけ、わずかに遅れた。音の流れが、ほんの一拍だけ、揺らいだ。隆寛の身体がわずかに硬直する。足の裏が畳の感触を強く捉え、喉に詰まった読経の続きを無理やり押し出す。誰も気づかない。隣の僧も、導師も、参列者たちも。けれど、きっと、彼だけは気づいた。背筋を伸ばしたまま、再び読経に集中しようとする。だが、もう遅い。意識は乱れた水面のように揺れている。呼吸が深くなりすぎる。肩がわずかに上下する。数珠を持つ指が冷たくなっていく。(……ここで、乱れるな。自分を律しろ。もう僧侶
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4.退堂の刹那、心が呼び覚まされる
本堂に満ちていた読経の響きが静かに終わりを迎えた。最後の一音が天井へ吸い込まれるように消えていき、空気は途端にしんと凍りついたように感じられた。参列者たちの間に重たい沈黙が流れる。椅子の軋む音も、衣擦れの気配も、小さな呼吸すらも吸い込まれるような沈黙だった。導師を務めた住職がゆっくりと立ち上がる。その動きを合図に、脇僧たちが整然とした所作で続いた。黒い僧衣が一斉に揺れ、わずかに生まれる布の擦れが、静寂に沈んだ本堂に淡い波紋を落とす。光沢のない布地が上下に揺れるたび、ろうそくの光が反射し、僅かな明滅を生んだ。その列の中で、隆寛が立ち上がった。少しも乱れのない所作。背筋は真っすぐで、剃髪した頭に影が落ちる。冬の薄明かりが横から差し込み、彼の横顔をわずかに照らした。僧衣の襟元は静かに揺れ、それが彼の呼吸に合わせてかすかに上下するのが見えた。浩人は、思わず前屈みになりそうになるのを必死で抑えた。その姿が、今にも消えてしまいそうで――目を逸らせなかった。隆寛の表情は、読経のときとは違っていた。表面上は静かで、僧侶らしい落ち着きを保っている。だが、ほんの一瞬、その瞳の奥が揺れたように見えた。気のせいではない。浩人は、微かに震えた自分の指を握り込んだ。呼吸が浅くなっていく。胸の奥が、じわりと熱を帯びていく。(……あいつ、本当に…ここに…)現実なのかどうか分からなくなるほど、五年ぶりの再会は唐突だった。それでも、彼が立っている。ただそれだけで、全ての感情が暴れ出しそうになる。僧侶たちが、静かに、列を組んだまま退堂を始めた。隆寛は、その列の中ほどにいた。導師に続き、他の脇僧たちに合わせて足を運ぶ。その一歩一歩がやけに滑らかで、揺れがない。肩の高さも目線も乱れず、まるで一本の線のような動きだった。本堂の奥から前方へ、黒い列が流れていく。隆寛が、浩人の前を通る。息が止まった。僧衣の布が擦れる音が、浩人の耳にだけ異様に大きく響いた。僧衣の裾がふわりと揺れる。その揺れ方が、ゆっくりと時間を引き延ばす。隆寛の背が、目の前
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5.閉じた扉、凍った空気
冬の午後の光は弱く、控室の障子を透かしてわずかに滲み込んでいた。葬儀が終わったあとの空気は、どこか湿ったような静けさを纏っている。線香と抹香の匂いが、まだ肌の内側にまで染み入ってくるようだった。浩人は、案内された控室に足を踏み入れた。黒いスーツを着た人々が、思い思いの姿勢で椅子に腰かけたり、立って軽く会釈したりしている。低い声が幾重にも重なり、落ち着かないざわめきを生んでいたが、それですら葬儀の余韻を壊すほど大きくはない。「お疲れさまでした」「急なことで…」「香港から戻って来てくれたんだね」そんな声が耳に届くたび、浩人はゆっくりと頷いた。形式的な挨拶に、形式的な笑顔を返す。受け取る湯呑みの温かさの裏に、どこか虚しさのようなものがあった。胸の奥にざらつくような空白がある。ついさっきまで、あの本堂で奇跡のような再会をしてしまった影響か、それとも、五年という時間が急に押し寄せたせいか、感情の置き場がない。控室の窓辺に視線を向けると、冬枯れの庭が見えた。彩りはなく、風もなく、どこか時間だけが止まったように感じられる。その静けさが逆に胸に刺さる。そんな時だった。控室の扉が、ゆっくりと音を立てた。ぎ…と小さく鳴っただけなのに、なぜか部屋中の空気が一瞬止まったように感じる。浩人は無意識に扉の方へ視線を向けた。そこに、隆寛が立っていた。僧衣をまとい、整えられた襟元。袖口から覗く指は細く、しかし迷いのない仕草をしている。剃髪した頭がわずかに光を受け、落ち着いた影を作っていた。堂々としている。静かで、揺れがなく、僧侶としての端正な空気を纏っている。五年前に知っていた隆寛とは、似ているのにまるで違っていた。けれど、確かに――彼だった。その姿を目にした瞬間、浩人は心臓が強く跳ねるのを感じた。呼吸が苦しいほどに止まり、肺の奥が冷たくしびれる。どうして。どうしてそ
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6.敬語の壁
控室の隅は、他の参列者たちの小声とは隔てられた、わずかに陰の濃い場所だった。冬の光が障子を透けて、淡く白い影を床に落としている。聞こえてくるのは湯呑みの置かれる微かな音、誰かのため息、衣擦れの気配。そのどれもが、二人のあいだに渦巻く空気とはまるで別の世界の音だった。浩人は、壁際に立つ隆寛を見つめていた。僧衣の黒と、剃髪した頭の滑らかな線が、控室の薄い光に溶け込んでいる。話しかけるべきか、黙るべきか。五年という空白よりも、さっきの「野上さん」という呼び方の方が、胸に強く残っていた。一度深く息を吸い、浩人は無理に笑顔を作った。「元気…だったのか?」自分でも驚くほど、声は硬くなっていた。かつて名前を呼び合って、寝起きのかすれ声で笑い合っていたはずなのに、今はこんなにも距離がある。隆寛は、呼吸を整えるように静かに目を伏せ、僧侶の顔でゆっくりと口を開いた。「はい。おかげさまで。野上さんこそ、ご健勝そうで。」その声は澄んでいて、整っていて、表情の揺れがどこにもない。余計なものを削ぎ落としたような落ち着きだった。だが、浩人にはその穏やかさが、かえって胸を締め付けた。野上さん。そう呼ばれるのが、どうしようもなく苦しい。眉がわずかに寄る。視線が隆寛の口元に釘付けになる。「……お前さ。そんな喋り方すんなよ」声が低く、荒く濁った。抑え込んでいた感情が、ひっそり表面に浮かび上がる。その瞬間、隆寛の睫毛が一度だけ震えた。目線が動きかけて、しかしすぐに元の位置へ戻る。僧衣の下の肩が、ごくわずかに強張ったようにも見えた。「……ここでは、僧侶ですから」息のような声だった。誰にも気づかれないよう、最低限の音量だけで。けれど浩人の耳には、刃のように鋭く突き刺さった。ここでは。
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7.山門の前で止まる足
冬の空気は、刺すように澄んでいた。雲ひとつない青空なのに、日差しの温度はほとんど感じられず、風だけが頬をかすめていく。その冷たさが、むしろ頭の中のざわつきを際立たせていた。寺の山門が、視界の先に静かに佇んでいた。白い息を吐きながら、浩人はその前で足を止めた。深く息を吸い込めば、冬特有の乾いた冷気が肺の奥まで入り、痛みを伴うほどに胸が広がる。ここへ来た理由を胸の奥で反芻しながら、彼は片手に持った紙袋を見下ろした。供養の礼の品。会社として、礼を尽くすためのもの。「……仕事だろ。仕事」そう口にしても、胸の奥に残る重さは消えなかった。本当は違う。それは、自分が一番よく分かっている。供養の礼など、大義名分でしかない。自分がここに来た理由を説明するには、あまりにも軽すぎる。あの葬儀の日から、胸の内で燻り続ける熱の方が、理由としては正直だった。門の前に立つだけで、心拍がゆっくりと速くなっていく。寒さで震えているのではない。胸の奥が、ひどく騒がしい。「来るべきじゃないって…分かってたんだけどな」独り言のように呟くと、声が冬空に吸い込まれた。葬儀の日の隆寛の姿が、鮮明に蘇る。剃髪した頭。僧衣に包まれた姿。そして、透明に見えるほど小さく残ったピアスホール。読経の声が胸を震わせ、呼吸を奪った瞬間。あの時感じた衝撃は、今もまだ身体のどこかに刺さったままだった。「生きてるだろ、そりゃ。それでも…」それでも、会いたい。その事実を否認することは、もうできなかった。ここから先の踏み出す一歩が、何かを変える一歩になる。その予感が、足を重くする。気持ちを断ち切るように、浩人は一度強く目を閉じ、吐く息に力を込めた。冷気が口から洩れ、白く広がっていく。指先が冷たく、紙袋の持ち手が手袋越しに
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8.住職夫妻の温かさ
|庫裏《くり》(境内の住居)の引き戸が、乾いた木の音を立てて開いた。中から漏れ出した空気は、冬の境内とはまるで違う温度をしていた。ほんのりとした温かさと、煎った茶葉の匂いが混ざり合い、どこか家庭の匂いを運んでくる。浩人は、背筋がわずかに強張るのを感じながら、一歩足を踏み入れた。畳の匂い。湯気の立つ茶器。外の冷たさとはまるで別の世界。そんな空間の真ん中に、住職――隆寛の父が座していた。「遠いところを、わざわざご丁寧に」穏やかな声。深い眼差し。葬儀の場で導師として厳かな姿を見せていた人と同じとは思えないほど、柔らかい表情をしていた。落ち着いた仕草で、住職は湯飲みに茶を注ぐ。その指先さえも丁寧で、浩人は無意識に背筋を伸ばす。「いえ…こちらこそ突然お邪魔してすみません。 会社として、挨拶をと思いまして」そう答えながらも、声の奥に微かな緊張が混ざった。住職の前では、何か取り繕った言葉しか出てこない。すると住職が、まるで心を見透かすように微笑む。「野上さんは、息子が大学の時…よく支えてくださったと聞いております」湯飲みを手渡される瞬間、浩人の胸が一度ひっくり返ったように揺れた。息子。支えてくださった。その言葉は、表向きには何もおかしくない。だがその裏に、あの日々が一気に蘇る。レポートを一緒に仕上げた夜。家で食事を作り合った夜。互いの部屋を行き来し、朝まで抱きしめて眠った夜。親が知る“支え合っていた二人”は、おそらく健全そのものの友情だったのだろう。けれど実際は――もっと深かった。表には出せないほど、濃く、密接で、離れることを知らない関係だった。浩人は心の奥に沈む痛みを飲み込み、柔らかな笑みを作った。「…いえ。僕の方こそ、いろいろ助けてもらってました」
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9.すれ違う鼓動
庫裏の廊下には、人の気配が薄かった。静かで、凍った空気が張りつめている。外からの風は届かず、障子越しの冬の日差しだけが細く差し込み、床に淡い光の帯をつくっていた。その光の帯を踏まないように歩いていたときだった。角を曲がった先で、浩人は息を止めた。隆寛が、そこにいた。僧衣の襟元を整え、控えめに息を整えているような姿。穏やかな光が彼の頬を照らし、剃髪した頭に柔らかく反射していた。五年前、長い前髪を指で払って見せた男は、今、白い光の下で僧侶として立っている。距離は三歩。それなのに、手を伸ばしても届かないほど遠い。隆寛はこちらに気づき、ほんの一瞬だけ肩が揺れた。だがすぐに、僧侶の仮面を被り直すように姿勢を整えた。「……野上さん」低く、柔らかい声。けれど、その柔らかさは近づくためのものではなく、距離を守るためのものだった。隆寛は小さく頭を下げた。「今日はわざわざ……その……ありがとうございます」完全な敬語。呼吸は整っているはずなのに、言葉の端だけがかすかに震えていた。浩人はその震えを拾い上げてしまう。「……礼なんて、いいんだよ」一歩、足が前へ出た。隆寛の眼差しが、一瞬だけ揺れる。「話したい。少しだけでいい」その言葉に、隆寛の呼吸が静かに止まった。僧衣の袖が微かに揺れる。動揺が目ではなく、身体の端に浮かび上がった。「……今は、僧侶として……お答えできることは…あまり」その“今は”という言い方が、余計に浩人の胸を締めつける。俺と関わりを断とうとしている。なのに――心までは断ち切れていない。そう
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10.去り際に残る熱
寺の門を出ると、冬の光はすでに傾きはじめていた。境内にいたときより、外気は一段と冷たく、頬を刺す風が容赦なく吹きつける。けれど、浩人の胸の奥にある熱だけは、風に晒されてもまるで冷える気配がなかった。坂道はゆるやかに伸びている。足を踏み出すたび、靴底に伝わる硬いアスファルトの感触が、妙に鮮明だった。外の匂いは乾いていて、寺の庫裏で感じた温かい匂いが、まだどこか鼻の奥に残っている。隆寛と交わした言葉は、ほんの数分。それも、傷つかないための距離を置いた形式的なものばかり。昔のように名前を呼ぶことも、触れることもできなかった。それなのに――胸の奥の熱は、どういうわけか増していた。隆寛が言った「僧侶として」の言葉。僧衣の袖が震えた、あの一瞬。視線が泳いだときの、あのかすかな呼吸の乱れ。そして。耳に残った、あの小さな穴。浩人は歩く足を止めた。夕暮れ前の薄い光が、道の先をぼんやり照らしている。風が吹き抜け、コートの裾を揺らした。その冷たさに、思考が余計に冴える。(……残してたんだよな。あの穴)思い返すだけで、胸が熱くなる。隆寛が、自分で開けたピアスでもない。浩人が開けた穴だった。大学の部屋で。深夜、息を詰めながら、隆寛が痛みに眉を寄せて、「……痛い。でも……お前がやるならいい」そう言った声まで蘇る。その痕跡が、今も残っている。修行の一年で、あらゆる執着を断つはずの時期でさえ、隆寛はその穴を消さなかった。どういう理由であれ――消せなかった。あるいは、消したくなかった。その事実が、言葉よりも正直だ。坂道を再び歩きはじめると、風の音が耳に流れ込んでくる。冷たいはずの風なのに、胸の中心から熱がじわりと広がる感覚があった。(&hell
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