Mag-log in慶林寺の副住職・隆寛(りゅうかん)は、剃り上げた頭と黒い僧衣の下に、ひとつだけ過去を残している。 左耳の、小さな穴。 大学時代、その耳に初めてピアスを通し、息を止めさせたのは、今や商社マンとなった浩人だった。 出家前夜まで激しく求め合いながら、「お前の未来の邪魔にはなれない」と笑って去った隆寛。 数年後、上司の葬儀で再会した二人は、僧侶と故人の部下という仮面を被ったまま、視線だけを交わす。 寺を継ぐ責務、空白の時間、修行で燃やそうとした恋情。 敬語と礼儀で固めた距離の内側で、まだ耳はあの頃と同じように震える。 いずれ、祈りと欲のどちらかを捨てなければならないのだろうか… 答えは、まだ雨音の向こうに隠れている。
view more部屋の中の時間が、ふっと緩んだ。さっきまで耳の裏側に落ちていたキスの感触は、もうほとんど熱だけになっている。それでも、左耳たぶの一点に、じわ、と凝ったようなぬくもりが残っていて、そこから、胸の奥へ向かって、遅れて波紋が広がっていく。布団の中で、隆寛は小さく息を吸った。胸の前で、浩人の腕が緩やかに回っている。肩と背中をまとめて抱き込むようにして、軽く身体を寄せてくる。その重みが、日ごろは僧衣の下に隠している筋肉の緊張を、少しずつほどいていった。耳の穴の縁を押さえていた自分の指は、知らないうちに力を抜いていた。かわりに、浩人の腕のほうへ、そのまま滑らせる。手の甲に触れると、風呂上がりの石鹸の匂いが、まだ微かに残っていた。「寝るか」浩人が、胸のほうで呟く。「……ああ」返事をしながら、わずかに顎を引く。彼の胸に額を押し当てると、体温と、心臓の音が近くなった。トン、トン、と一定のリズムで刻まれる音。寺の鐘と違って、誰かに聞かせるためのものではない。誰にも聞かせる必要のない、ただ生きているというだけの音だ。それを耳の奥で聞きながら、隆寛は目を閉じる。部屋の空気はほのかに暖かい。暖房を切ったあとに残る熱と、二人分の体温が混ざりあって、布団の中をゆっくりと満たしている。薄いカーテンごしに、外のビルの灯りが、ほんのわずかに網目の影を作っているのが分かった。マンションの外には、別の生活の灯りが点々と浮かんでいるのだろう。遅くまで起きている家のリビング。コンビニの看板。タクシーのヘッドライト。街全体の、そのどれもが、自分とは関わりの薄い明かりだ。けれど、この部屋の小さな暗闇と、スタンドライトの余韻と、耳の一点に残る熱だけは、はっきりと自分に繋がっている。「炎は燃やせ、と教えられてきたのにな」ぼんやりと、そんなことを思う。護摩行の堂で初めて火を見た夜を、身体はまだ覚えている。炎は、迷いも欲も執着も、全部飲み込むためのものだと、上座に座った老師が静かに言った。燃やしてしまえ。手放してしまえ。
暗闇に慣れた目には、天井の境目がぼんやりと浮かんでいた。スタンドライトはさきほど消した。代わりに、カーテンの隙間から、向かいのマンションの非常灯がかすかに差し込んでいる。その薄い光が、部屋の中の輪郭を、最低限だけ保っている。布団の中は、まだ温度の名残を抱えていた。さっきまで絡み合っていた体温が、少し落ち着いて、ぬるい湯に浸かっているような感覚だけが残る。隆寛は横向きになり、枕に頬を半分埋めていた。背中側には、浩人の胸の厚みと呼吸がある。ゆっくりと上下する胸板が、僧衣の下では絶対に感じない、生活のリズムを伝えてくる。耳たぶのあたりに、さきほどから同じ温度が留まり続けている。浩人の指が、左耳の縁をなぞり、ピアスホールの周りを細い円を描くように動くたび、つい肩が小さく跳ねた。「……っ」無意識のうめきが、喉の奥から漏れる。抑えようとしても、完全には抑えきれない。息を飲み込むたび、喉の奥が熱くなる。耳を触られているだけなのに、躯の奥のほうで、別の記憶が微かに目を覚ましてしまう。大学の頃の夜。護摩行堂の炎の前。山門の庇の下。色の違う夜が、全部この一点に重なっている。「まだ起きてるだろ」後ろから、低い声が落ちてきた。「……起きてる」「返事がえらい素直だな」「疲れてるんだよ」「耳だけ、元気そうだけどな」「うるさい」言葉ほどの力は、自分の声には乗っていない。自覚はある。だからこそ、余計に腹が立つ。指が、ピアスホールの縁を軽く押した。透明な樹脂ごしに、そこだけ少し固い感触がある。剃髪した頭皮を撫でられるのには慣れた。僧侶になってからずっと、親類や檀家の子どもたちに、面白がって触られることもあった。それはそれで恥ずかしいが、耐えられないものではない。けれど、左耳だけは違う。ここに触れていい手を、自分は一人分しか想定していない。「お前さ」浩人の指先が、いったん動きを止める。「こっち向
電子レンジの「チン」という軽い音が、ニュースキャスターの声にかぶった。リビングのテーブルの上には、買ってきた総菜を温め直した皿と、簡単に炒めた野菜、味噌汁代わりのスープ。食べ終わったあとに残るのは、箸を乗せたままの小皿と、半分ほど口をつけたグラスだけだった。テレビの画面では、週末恒例の経済ニュースが流れている。株価だとか為替だとか、難しい言葉が並んでいるのを、隆寛は横目で眺めながら、ソファの背にもたれて息を吐いた。「歩君、遠足どこ行くんだっけ」隣で缶ビールを持ち上げながら、浩人が何気なく問う。「市内の科学館と、自然公園。お弁当持って」「お、がっつりコースだな。バス酔いしないか」「乗り物には強いみたい。こないだの社会見学も平気だったって」「さすが寺の子。肝が据わってる」くす、と笑いがこぼれる。テーブルの上のグラスからは、ほのかにウイスキーの香りが立ちのぼっていた。氷はほとんど溶けて、薄くなった液体が喉の奥を温める。浩人は、ビール缶を指先でくるりと回しながら、テレビとグラスと隆寛の横顔を、順番に眺めているようだった。「で、その遠足の紙を、また寺務所の机の上に山積みにしてんだろ」「…よく知ってるな」「だってお前、プリント類すぐ溜めるじゃん。大学の頃から」「昔の話、掘り返すな」軽く肩でぶつかると、浩人の身体が、わざとらしくぐらりと傾いた。「いってー。暴力反対」「うるさい」二人の声の上を、キャスターの抑揚のない言葉が通り抜けていく。海外のニュース映像。どこかで暴動が起きているらしい。画面の中で、煙と人の影が揺れる。ここは、静かだ。エアコンの低い駆動音と、冷蔵庫の奥で何かが動く音と、ビル風が窓をなでる気配。マンションの上階からは、誰かの足音が遠くに響く。「会社は」隆寛が、グラスを指で回しながら尋ねる。「相変わらず。決算前でバタついてる」「部下の人たち、大変だな」
ランドセルの金具が鳴る、乾いた音がした。庫裏から廊下に出たところで、隆寛はふと足を止める。春から初夏へと移るこの時期、慶林寺の空気は少し湿りを帯びながらも軽く、その中を、小さなスニーカーの足音がせわしなく行き来していた。山門のほうへ向かっていく足音と、すぐに折り返してくる足音。それから、なぜか廊下の角で一度止まり、また走り出す気配。階段を数える小さな声も、風と一緒に聞こえてくる。「いち、に、さん……あれ、さっきと数違う…」声変わりにはまだ遠い、高い声だった。寺務所に戻る前に、と廊下の突き当たりから玄関のほうを覗くと、ランドセルを背負ったままの少年が、本堂の石段を上り下りしている。額にはうっすらと汗がにじみ、黒い髪がまだらに光を受けていた。段の数を数えるたびに、指が折られ、また伸ばされる。時々、何段目か分からなくなっては、ふう、と大げさなため息が落ちる。「歩」呼びかけると、その小さな背中がぴたりと止まった。振り返った顔が、ぱっと明るくなる。「隆寛兄ちゃん」ランドセルの肩ひもを直しながら、歩が駆け寄ってくる。靴底が石畳を叩く音が、以前よりもこの境内に馴染んで響いた。「おかえり。今日は、早いな」「うん。今日は委員会なくて。帰り道で桜のとこ寄ってきた」「川沿いのか」「そう。花びら、もうほとんど落ちてたけど…でも、なんか、全部散っちゃう前の匂いって感じした」言葉を探すように眉をひそめる姿が、どこか泰然に似ている。歩の肩から、ランドセルをそっと受け取る。ずしりとした重みが掌に移る。教科書とノートと、筆箱と、まだ何かこっそり詰め込んでいるような不揃いな重さ。「とりあえず、荷物置いてきなさい。宿題は」「九九のテスト返ってきた」「どうだった」「……八の段、まちがえた」語尾が少し小さくなる。ランドセルの中からしわくちゃになっ
「もう、お帰りください」言葉を口にした瞬間、自分の声が、雨の音よりもはっきりと耳に残った。土間と廊下の境目に立つ隆寛と、庇の下に半歩出た浩人。そのあいだに、見えない線が引かれたような気がする。その線を越えないための言葉が、今、口から出たはずだった。帰ってほしい。そう言わなければならない。これ以上ここにいるのは危ういから。僧侶としての自分が保てなくなるから。けれど、それは本心の全部ではない。そのことも、よく分かっていた。言葉を吐き出したあとの一瞬、雨音だけが周囲を満たした。庇の端
洗濯機の蓋を閉める音がして、少ししてから、フローリングを踏む足音が近づいてきた。隆寛はソファの端で、掌を膝の上に置いたまま、指を組んだりほどいたりしていた。濡れた僧衣の感触が消えたせいか、借り物のTシャツが妙に頼りなく感じられる。布地は柔らかいのに、肩から胸元にかけて、何も隠せていないような心許なさがあった。「回しといた。朝には乾くだろ」視線を上げると、浩人がリビングの入り口に立っていた。さっきまで見慣れていたスーツ姿ではない。白いTシャツにスウェットパンツというラフな服装は、葬儀場でも寺でも一度も見たことのない姿だ。肩の力
雨は、まだやまなかった。庇の下、外灯の白い光の輪の中で、耳を舐められ、名前を呼んでしまったばかりの隆寛は、自分の足が震えていることにようやく気づいた。柱に預けた背中から、じわじわと力が抜けていく。さきほどまでそこで支えていた「僧侶としての自分」という何かが、静かに剥がれ落ちていく感覚があった。額を外されると、冷えた夜気が一気に顔を撫でた。雨に濡れた空気の匂いと、土の湿り気。その中に、浩人の呼吸と、かすかな香水の残り香が混ざる。「…ここじゃ、駄目だな」低い声が耳の近くで落ちた。何が
額を押しつけ合ったまま、しばらく二人は動かなかった。雨音だけが途切れずに降り注いでいる。庇の先から落ちる水の筋が、石段に当たって細かな飛沫をあげる。その規則的な音が、胸の中で乱れている鼓動とは別のリズムで続いていた。浩人の息は、まだ近い。吐くたびに、湿った温かい空気が頬や唇のあたりをかすめる。さっきまで重なっていた場所が、そこにあった熱の記憶をじんじんと残している。隆寛は、額をぶつけられている感覚から目を逸らすように、まぶたを軽く閉じた。ここは寺の玄関だ。外灯の下、庇の下。土間と石段の境目。外から見れば、誰にでも見える場所。