ログイン慶林寺の副住職・隆寛(りゅうかん)は、剃り上げた頭と黒い僧衣の下に、ひとつだけ過去を残している。 左耳の、小さな穴。 大学時代、その耳に初めてピアスを通し、息を止めさせたのは、今や商社マンとなった浩人だった。 出家前夜まで激しく求め合いながら、「お前の未来の邪魔にはなれない」と笑って去った隆寛。 数年後、上司の葬儀で再会した二人は、僧侶と故人の部下という仮面を被ったまま、視線だけを交わす。 寺を継ぐ責務、空白の時間、修行で燃やそうとした恋情。 敬語と礼儀で固めた距離の内側で、まだ耳はあの頃と同じように震える。 いずれ、祈りと欲のどちらかを捨てなければならないのだろうか… 答えは、まだ雨音の向こうに隠れている。
もっと見る冬の空は、どこまでも薄い灰色だった。雲が低く垂れ込めているのに、雪になるほどの冷え込みではなく、ただじっとりとした冷気だけが肌にまとわりつく。
斎場の前に黒い車が次々と横付けされては、人を吐き出し、また動き出していく。黒いコートと黒いスーツが、そのたびにどこかから現れては、入口へ吸い込まれていく。野上浩人もその一人だった。
革靴の底が、敷き詰められた薄い砂利を踏んで、しゃり、と乾いた音を立てる。マフラーを外しながら、彼は見慣れた日本語の看板をぼんやりと眺めた。「◯◯セレモニーホール」と書かれた白い看板が、冬空の下でやけに浮いて見える。
香港の喧騒から、つい数日前に戻ってきたばかりだという実感は、まだ身体のどこかに残っていた。ビルの隙間を縫う湿った熱気と、早口の英語と中国語が飛び交う空気。その反動なのか、今目の前にあるこの静けさは、妙に現実味がない。
受付に進む列が、ゆっくりと流れている。浩人もその最後尾に並んだ。前に立つ男の背中越しに、香典を収める小さなテーブルが見える。ふと鼻をくすぐったのは、線香の匂いだった。湿った畳と、古くなった木と、花屋が大量に持ち込んだ生花の香りが、線香の甘い煙と一緒になって、薄い靄のように漂っている。
受付係の若い社員に頭を下げ、香典を渡し、記帳する。故人の名前の下に、自分の名を殴り書きするように書いて、ペンを置いた。
「野上さん、日本に戻ってたんですね。」
背後からかけられた声に振り向くと、同じ部署の男がいた。グレーのコートの襟に、霧雨のような水滴がいくつか光っている。
「まあ、一応本社勤めってことになってるからな。」
そう答えながら、口元だけで笑みを作る。軽く肩を叩かれ、そのまま一緒にホールの中へ進んだ。
式場に足を踏み入れると、空気が一段と重くなる。白い花で埋め尽くされた祭壇の中央に、故人の遺影が掲げられている。少し古臭いスーツ姿で笑っているその男を、浩人は何度も会議室で見てきた。上司ではあるが、プライベートで飲みに行ったことは、数えるほどしかない。
「やっぱ急すぎたよな。」
横で誰かが小声で呟く。
「一週間前まで、普通に出社してたのにさ。」
そうだ、一週間前まで。浩人は、香港の狭いサービスアパートの一室で、深夜に届いたメールを見て、ただ「マジか」と声に出しただけだった。急性心筋梗塞。単語だけ見れば、ニュースでいくらでも転がっているような死因だ。
にもかかわらず、今こうして遺影として笑っている顔と、その単語がうまく結びつかない。
席に案内され、浩人は前から三列目あたりに腰を下ろした。黒いスーツの肩がぎっしりと並び、ざわめきはしばらく続いたが、スタッフが静かに会釈をして回り始めると、自然と声は小さくなっていく。
「香港の生活どうだ?」
左隣から、不意に声がした。振り向くと、出張で何度か現地に来たことのある先輩社員が、目を細めている。
「暑いですよ。湿気もえぐいし。」
浩人は、条件反射のように笑ってみせる。
「でもまあ、飯はうまいし、景色も悪くないです。暮らしてみれば、案外どうにかなりますよ。」
「女は?」
「……まあ、それなりに。」
期待どおりの答えを返すと、先輩は小さく笑って前を向いた。彼らの会話は、葬儀の場には似つかわしくない軽さを帯びているけれど、誰もとがめはしない。その軽さが、重たすぎる空気を中和しているのだとしたら、それもまた一種の役割なのかもしれない。
しばらく会場を見渡していると、会社の顔ぶれが自然と目に入る。管理職が並ぶ席、若手社員が固まる場所、取引先からの花輪。どれも見慣れた光景だ。仕事の延長線上にある、形式的な別れ。
「仕事だから。」そう頭のどこかで繰り返しながら、浩人は自分の膝に置いた手を組み直した。
胸の奥に、小さなざらつきがある。悲しくないわけではない。だが、号泣するほどの感情も湧いてこない。海外赴任という距離が、そのまま心の距離になってしまったような感覚だった。
「人生、こんな風に突然終わるんだよな。」
ふいに、そんな言葉が頭をよぎる。自分でも驚くほど、平坦な思考だった。
今朝、スーツに腕を通しながら、ネクタイの色を何度か変えてみた。それでも、鏡に映る自分の顔は、どれを合わせてもあまり変わらない。二十代半ばの男としては、そこそこ整った方だと自覚してはいる。だが、そこに「悲しみ」だとか「喪失」だとかいった感情がはっきりと浮かんでいるかと問われれば、答えに窮する。
仕事で評価され、海外にも出され、周囲から見れば「順調」だろう。それでも、ときどき胸の奥にぽっかりと穴が空いているような感覚に襲われることがある。充実していると言いながら、どこか充たされていない。そんな矛盾が、香港でも、そして今この斎場でも、変わらずそこにある。
受付近くから、誰かが小走りで入ってくる音がした。スタッフのささやき声と、弔電の確認。細かな動きがいくつも積み重なり、やがて全体が静けさの方へ傾いていく。
ふと、祭壇の前に置かれた香炉から、細い煙がまっすぐ立ち上っているのが見えた。空調の流れに揺らされながらも、芯の部分だけは途切れずに伸びている。目で追っていると、それが天井近くの白い空間で溶けて消えていくのが分かった。
生まれて、働いて、ある日突然こうして煙になる。そう思うと、胸のざらつきが、少しだけ重さを増した。
「……」
言葉にならないため息が喉の奥でほどけていく。誰かが咳払いをし、別の誰かがハンカチで目を押さえた。
浩人は、自分の内側を一度確かめるように、胸にそっと手を当てた。鼓動はいつもどおり規則正しく鳴っている。興奮も、高揚も、激しい悲しみもない。ただ、鈍い空虚さだけが、冬の曇天と同じ色をして、胸の底で静かに横たわっている。
その空虚が、何かを呼び込もうとしているような感覚に、彼はまだ気づいていなかった。
そのとき、前方でスタッフの一人が立ち上がり、小さく一礼した。会場全体に視線が走る。そろそろ式が始まる合図だ。
静かに立ち上がる人々の気配。席の隙間をすり抜けるようにして、黒い衣をまとった人物たちが祭壇の側面に現れ始める。僧侶たちだと理解するのに、時間はかからなかった。だが、この場が「葬儀」であり、今まさに何かが始まろうとしていることを、ようやく感覚として理解した瞬間、浩人の背筋に、かすかな不穏さが走った。
それは、死の儀式が始まることへの畏れではなかった。もっと違う、別の何かの始まりを、かすかに予感させる冷たさだった。
一周忌という言葉を、今年に入って何度耳にしただろうと、隆寛はふと思った。檀家の誰それ、遠縁の誰それ。寺に生まれ育った以上、年忌法要は日常の一部であり、特別な響きを持たないはずだった。それでも「そういえば、四葉商事か。あの会社の部長さんの一周忌でね」と父が口にしたとき、胸の奥で何かが小さく跳ねた。「去年のお葬式に来てくれた、あの野上さん。また来られるそうだ。会社としてのご相談だと」寺務所で帳簿を見ていた手が、紙の上で止まる。「…そうですか」自分でも驚くほど、声は平板に出た。抑揚を削ったのは、意識的な操作というより、身体の防衛反応に近い。父・泰然は、息子の内側に起こった反応など知る由もなく、いつもの穏やかな口調で続ける。「応接間の方、整えておいてくれ。母さんは台所で手一杯だろうし、茶はお前に頼む」「分かりました」いつもどおりに返事をすると、泰然は満足げに頷き、別の用事に向かった。季節は初冬。山門から見える山肌の木々は、赤や黄をとうに手放していて、枝先だけが細く空に伸びている。風はもう冬の冷たさを含んでいるが、まだ刺すほどではない。昼下がりの陽射しは弱く、しかし、障子を透かすと部屋の中に柔らかな光の帯を落とした。応接間に入ると、紙と畳と古い木の匂いが鼻に満ちる。低い座卓の位置を少し整え、座布団を四枚、きちんと並べる。来客用の座布団は、新しい藍のカバーがかかっており、自分が普段使うものよりもいくぶんふかふかしている。隆寛は、窓際の障子を半分だけ開けた。西日の角度が、ちょうど座卓の端にかかるくらいになる。眩しすぎず、暗すぎず。客の顔がよく見えるようにという、寺の応接間で自然に身についた癖だった。「…会社としてのご相談、か」口の中で繰り返してみる。現実味のない言葉に、少しずつ輪郭が与えられていく。野上浩人。その名前を、意図的に思い浮かべないようにしてきた時間は長い。六年前、大学を卒業する前夜に別れてから、意識の表層に上がってくるたび、座禅の呼吸で押し戻してきた。それなのに、去年
護摩堂の戸が閉じられたとき、外の空気がこんなにも冷たいものだったかと、隆寛は思った。さっきまで肌を刺していた火の熱が、急激に奪われていく。頬に当たる夜風は鋭くはないが、火照った皮膚には十分すぎるほど冷たく感じられた。吐いた息が白くなり、すぐに闇に溶けて消える。足元は暗い。石畳の上に落ちた影が、ぼやけて揺れている。護摩行を終えた修行僧たちは、皆、言葉少なに寮へと戻っていく。袂が擦れる音と、草履が石を踏む音だけが、小さく続いた。隆寛は、列の少し後ろを歩いていた。頭の芯がまだ熱い。額には薄く汗が浮かんでいるのに、首筋には冷たい風が入り込み、ぞくりと身震いさせる。火の熱が身体の外側を焼き、今は冷気がその上を撫でている。温度だけで言えば、体は疲れきっているのに、胸のあたりは異様に冴えていた。護摩壇の前で見ていた炎の残像が、まだ目の奥にこびりついている。まぶたを閉じても、赤い光がちらつく。開けても、暗い境内の隅に、揺らめく影が見える気がした。「…寒」隣で誰かが小さく呟いた。声の主は慈遠だった。彼もまた護摩行に参加していた一人だ。息を白くしながら、肩をすくめている。「焚き火ってさ、離れた瞬間が一番寒いよな」ぽつりと落とされた言葉は、冗談のようでいて、どこか自分の今の状態を言い当てられたようにも感じられた。隆寛は、返事をしなかった。声を出す余裕が、うまく見つからない。ただ、少しだけ顎を引き、前を歩く背中を追う。寮の灯りが見えてきた。窓から漏れる柔らかな光が、雪も霜もない夜の庭をぼんやりと照らしている。建物の輪郭が浮かび上がると、不思議と肩が重くなった。ここに戻れば、今日一日は終わる。終わるはずなのに、終わりがどこにも見えない。玄関で草履を脱ぎ、板張りの廊下に足を乗せる。火照った足裏に、冷たい木の感触が伝わってきた。さきほどまで炎の前で感じていた熱を、木の床がすうっと吸い取っていくようだった。廊下も静かだ。護摩行を終えた他の僧たちが、それぞれの部屋に戻っていく足音が、遠くでしている。どこかの扉が開いて閉じる音。水の流れる音。短い咳払い。
護摩堂の中は、まだひんやりとしていた。外は冬の夕暮れで、日もすでに落ちている。堂の扉をくぐると、空気は外気よりわずかに暖かいが、それはまだ「火の熱」ではなく、人と木の匂いが溜まった温度だった。薄暗い空間の中央に、黒々とした護摩壇がある。四角く積まれた薪の上に、まだ火はない。油を含ませた薪の表面が、うっすらと照りを帯びている。その周りを囲むように、修行僧たちの座る位置が決められていた。隆寛は、定められた場所に膝をついた。僧衣の裾が畳に落ちる。膝に伝わる感覚は冷たくもあり、どこか湿り気も含んでいる。堂の中は、どこかしっとりとした空気に満ちていた。天井の梁には、過去の護摩行でついた煤がうっすらと残っている。薄暗がりのなかで、黒い影の筋が幾重にも重なって見えた。そこに、何度も何度も積み重ねられてきた炎の歴史が刻まれているようだった。正面に座る桂木俊心の姿は、炎のない壇の前でも、なぜか光をまとっているように見えた。彼は膝をつき、ゆっくりと合掌する。その動きに合わせて、堂の空気までもが静まり返る。導師の読経が始まり、小さな火が点された。油を含んだ薪に火が移されると、最初は細く頼りない炎が、薪の表面を舐めるように揺れた。ぱち、と小さな音がした。火種は、最初はただの赤い点に見える。その点が、呼吸をするようにじわりと膨らみ、やがて細い舌となって立ち上がる。読経の声が、それに重なる。低い声、高い声、複数の声が重なって、堂の壁を震わせる。木と土でできた空間は、音を吸い込むのではなく、柔らかく反響させていた。経文の言葉は、意味を持つ前に、塊になって胸にぶつかってくる。隆寛も、その一部として声を出していた。口が経をなぞるたび、昨日まで何度も唱えてきた言葉が唇から零れ落ちていく。今日だけ特別な文句ではないはずなのに、音のひとつひとつが、普段よりも深く身体に残る。火は、少しずつ大きくなる。細い舌が数本に増え、薪の隙間から顔を出す。黄色と橙のグラデーション。時折、青い芯のような色が一瞬だけ浮かんでは消える。空気の流れに合わせて、炎は揺れ、形を変え続ける。熱が、顔に届き始めた。
消灯の合図が鳴ってから、どれくらい時間が経ったのか分からなかった。寮の天井は、明かりを落とすとすぐにただの暗がりになる。昼間は木目や小さな傷まで見えていた白い天井板も、今は輪郭だけがぼんやりと浮かんでいる。窓の外から差し込む月の光が、薄い四角い影を床に落としていた。部屋には、布団が二枚。壁際に一枚、自分の布団。真ん中寄りに、慈遠の布団。横になっているはずの彼の姿は、暗闇に溶けて見えない。ただ、規則正しい寝息だけが、一定のリズムで空気を揺らしていた。すう…はあ…と静かに繰り返される音は、耳を澄ませばすぐにでも数えられるほど穏やかだ。それがかえって、自分の呼吸がどれだけ乱れているかを意識させる。胸の奥で、細かく震えるような息が、喉を行き来している。目を閉じても、眠りは全く近づいてこない。まぶたの裏に浮かんでくるのは、今日一日の断片ばかりだった。朝の座禅での、痺れる足の痛み。講義で桂木の言葉を聞いたときの、胸の奥を刺されたような感覚。作務で雑巾を握りしめた手の、赤くなった指の節。それらがばらばらに浮かんでは消え、消えてはまた戻ってくる。その隙間を埋めるように、別の記憶が滑り込んでくるのを、必死で押し返していた。ここに来てから、ずっと同じことを繰り返している気がする。座禅のときも、授業のときも、作務のときも。何かに集中しようとするほど、別の何かが顔を出す。忘れたい。忘れなくてはいけない。そう言い聞かせれば言い聞かせるほど、その輪郭は鮮明になっていく。隆寛は、布団の中で静かに息を吸った。鼻の奥に、古い木と布団の微かな匂いがしみ込んでくる。昼間に干された布団の、残り香のような日なたの匂いと、床板から立ち上る乾いた木の香り。それらが混じり合って、独特の寮の匂いになっている。耳を澄ますと、隣の部屋からも、かすかな寝息が重なって聞こえた。誰かが寝返りを打ったのか、板張りの床がきし、と小さく鳴る。その音がひとつひとつ、この場所が「修行の場」であり、「生活の場」でもあるのだと告げている。こんな静かな夜に、自分だけが眠れずにいる。目を開けると、天井と暗