All Chapters of 髪を剃った君の左耳~ピアスホールに残った俺たちの十年: Chapter 31 - Chapter 40

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31.置き去りになる衣服

朝の光は、カーテンの隙間から細くこぼれ、床に淡い帯をつくっていた。冬に向かう前の、まだやわらかい陽射しだった。ワンルームの狭さは、その光を窮屈に跳ね返しながらも、どこか安心できる密度を持っている。隆寛は、シーツに頬を押しつけたまま、ゆっくりと目を開けた。枕に残った微かな匂いは、何度も嗅いだことのあるものだ。洗剤の残り香と、乾いた空気と、浩人の肌の匂いが混ざった、ここにしかない匂い。天井が見える。見慣れた白い板と、蛍光灯の細長い影。ここは自分の部屋じゃない、という認識はある。けれど、その事実に焦ることもなくなっていた。視線を横に向けると、空になったマグカップが机の端に置かれているのが見えた。昨日の夜、課題をやりながら飲んだコーヒーの名残りだ。その隣には、自分の教科書とノートが積み上がっている。ページの端には、浩人の字で書き込まれたメモが混ざっていた。布団の隙間から腕を伸ばし、枕元を探る。指先に、柔らかい布の感触が触れた。昨夜脱いだ自分のパーカーだった。タグの部分が、こちら側に向いている。袖をつまんだまま、隆寛はぼんやりと考える。これも、何日目か分からない「置きっぱなし」の一つだ。最初に置いていったのは、替えのシャツだった。徹夜明けにそのまま大学へ行くのがしんどくて、一枚だけ「忘れて」行った。翌週、取りに来るつもりだったのに、結局そのままになった。その次は、スウェットの下。それから、靴下の予備が一足。歯ブラシは二本立てておくほうが自然になった。机の端には、自分用のマグカップが増えた。一つ一つは些細なものだ。ここが自分の部屋ではないという前提を崩すほどの重さはない。けれど、気づけばこの空間のどこを見ても、自分のものが視界に入るようになっていた。忘れていった、というより、置いていかれてたものたち。布団から上半身を起こすと、肩にかけた毛布がずり落ちた。ひやりとした空気が肌に触れ、隆寛は無意識に腕をさする。キッチンのほうから、音がした。湯を沸かす
last updateLast Updated : 2025-12-18
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32.日常の隙間に落ちるキス

レポートの山が机の端に積まれ、浩人の部屋には紙の擦れる乾いた音と、夕方の光がゆっくりと伸びていた。窓の外では沈みかけた陽が淡い橙を散らし、街のざわめきが遠くに薄れていく。静けさはあるが、完全な無音ではない。冷蔵庫のモーターが低く唸り、エアコンが息を潜めるように風を送り出す。その些細な音の中に、二人の呼吸が混ざり合っていた。浩人は筆記用具を指先で転がしながらプリントに視線を落とし、隣に座る隆寛の横顔を盗み見る。光に透けた睫毛の影が頬に降り、長い指先が淡々と資料の行を追っている。口元は真面目な線を保っているのに、ほんの少しだけ、どこか緩んで見えた。さっき、玄関で軽く唇を触れた余韻が残っているのを、浩人は薄々感じていた。隆寛がページをめくる。紙が空気を切る小さな音とともに、沈黙がまた一段深くなる。喉を鳴らし、浩人は手元のペンを置く。「なあ」声をかけた瞬間、隆寛が横目でゆっくり振り向く。その動きだけで胸が軽く跳ねるような感覚が走る。光が揺れ、隆寛の瞳に夕日の欠片が映った。「ちょっとだけ、いいか」隆寛の眉が緩く動いた。問いの形をしているのに拒絶がまったくなく、むしろ待っていたと言わんばかりの柔らかさがあった。浩人はその反応に呆れるほど弱いと自覚しながら、指先でそっと隆寛の顎を持ち上げた。わずかに触れただけで、隆寛の呼吸が浅くなる。唇が触れ合うと、静かな部屋に微かな音が沈んだ。軽いキスのはずだった。だが触れた瞬間、隆寛がほんのわずかに目を閉じ、浩人の指に頬を預けてくる。その温度が、浩人の中の何かを簡単に壊す。唇を離した後も、隆寛はゆっくりと目を開けるだけで何の言葉も発さない。問いかけのようで、許しのようでもある沈黙。浩人は息を吐き、少し笑った。「すぐ触りたくなるんだよ、お前」隆寛は驚いたように瞬きし、それから視線を落とした。照れ隠しのように紙を整えようとするが、その指先がわずかに震えている。「……課題、終わらなくなるぞ」掠れた声が落ちる。責めているわけではない。むしろ、もっとしてもいいと言っているように聞こえてしまう。浩人の胸の奥がひどく熱くなる。
last updateLast Updated : 2025-12-19
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33.触れない日はない

深夜の空気は乾ききっていて、窓の外にはほとんど人の気配がなかった。街灯の光だけが細い筋となって部屋の壁を撫で、そこに散らばるプリントや参考書の影を淡く揺らしていた。試験前の追い込みでは、誰もが机にかじりつき、時間を惜しむように文字を追うはずだった。しかし浩人の部屋には、紙の音よりも、二人の呼吸のほうが濃く滞っていた。机の上にはノートが広がり、蛍光ペンのキャップがいくつも外されたまま転がっている。隆寛はページに視線を落としたまま、途切れるように文字を追い、鉛筆の先が紙の上を小さく震えていた。肩に落ちる影は疲れを隠しきれず、けれどその影の奥には、別の理由で乱れた呼吸が潜んでいた。浩人はソファ代わりのベッドに腰を下ろし、手元の教科書を開いていたが、ほとんど頭に入っていなかった。ページをめくる指先が紙を擦る音よりも、机に座る隆寛のかすかな息遣いのほうが気になって仕方がない。少しでも動けば、その気配は敏感に揺れる。まるで互いの呼吸が見えない糸で繋がれているようだった。「なあ、休憩しないか」浩人が低く声をかけると、隆寛は動きを止め、ゆっくり顔を上げた。目の下にうっすらと影が差し、集中していたはずなのに、そこには別の疲労が滲んでいた。「…いや、まだやらないと。今日は本当に時間がない」そう言いながらも、隆寛は筆を握る手に力を入れきれず、指先がわずかに震えていた。浩人はその揺れを見逃さない。「徹夜で乗り切る気か。お前、絶対途中で潰れるぞ」「潰れても、やるしかない」言葉は強いのに、声が弱かった。浩人は本を閉じ、ゆっくり立ち上がる。足音を立てぬよう隆寛の背後へ歩き、肩越しに覗き込むと、細かい文字が隙間なく並んだページに目が走っている。しかし、その目は活字ではなく、何か別のものに怯えるように揺れていた。そっと肩に触れると、隆寛は微かに震えた。「…今日はやめようって言っただろ」浩人が囁くと、隆寛は痛むように眉を寄せた。「言った。けど…」言葉は続かない。続けられない。肩に乗った浩人の手の熱が、隆寛の理性より先に
last updateLast Updated : 2025-12-20
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34.声に溶ける名前

夜の気配が、ゆっくりと天井から降りてくるようだった。部屋の灯りは弱く、ベッドの上には二人の乱れた呼吸だけが残されていた。掛け布団は半分ほど足元に落ち、体温だけが空気の隙間を満たしている。隆寛は仰向けのまま、深く息を吐いた。胸の上下がゆるやかで、全身の緊張が溶けていく。その横で浩人は、片腕を枕の下に差し込み、もう片方の手で隆寛の髪を指先で梳いていた。汗の残る髪は少し湿っていて、そのぬくもりが指先へゆっくり伝わる。窓の外ではわずかな風が木の枝を撫で、遠くで車が走る音が消えていく。それらのすべてが、二人の静けさを際立たせていた。興奮の余韻が完全には消えず、それでも身体の奥では安堵のような重さがじんわり沈んでいる。浩人は視線を横に落とし、布団の隙間から覗く隆寛の肩を見つめた。薄く汗を帯びた肌が、微かな光を受けて淡く光っている。そこに指を滑らせれば、どんな反応が返ってくるか分かっている。けれど今は、ただその存在を確かめるだけで胸が満ちるようだった。隆寛はゆっくり目を閉じ、呼吸を整えていた。少し開いた唇から漏れる熱が、夜の空気にやわらかく混ざる。まぶたの下で視線がわずかに揺れ、何かを言いかけるように唇が動く。沈黙が深まり、呼吸が揃いきったころ。「……浩人」囁いた声は、布の上に落ちるように弱く、しかし確実に響いた。音量は小さいのに、その名を呼ぶ声は、浩人の胸の奥に直接落ちた。浩人は一瞬、呼吸を忘れた。名前を呼ばれること。それ自体は日常の中でいくらでも起こり得るはずだったのに、この距離、この温度、この余韻の中では、まったく違う意味を持って響いた。名前という形をした熱が、胸の奥を内側から押し広げるようだった。「……もう一回呼んでみろ」冗談のように低い声で言ったが、その声の奥には期待が混じっていた。隆寛は戸惑うようにまつげを揺らし、ゆっくり視線を持ち上げた。「浩人」今度はさっきよりもはっきりした声だった。囁きというより、確かめるような呼び方。その響きが夜に広がり、浩人の喉の奥で息が詰まりそうになる。名前ひ
last updateLast Updated : 2025-12-21
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35.帰りたくない

深夜の空気は、まるで玄関の前だけ温度が違うように感じられた。照明は弱く、玄関の灯りはひとつだけ。その橙色の光が、靴箱の縁と壁の影をゆっくりと揺らしている。部屋の奥は暗く、ベッドの皺だけがかすかに残る温度を示していた。隆寛はゆっくりと上着に腕を通し、玄関の扉へ手を伸ばそうとしていた。指がドアノブの冷たさに触れた瞬間、胸の奥にひどく重いものが沈む。いつもの時間だ。もう帰らなければいけない。明日も、生活は続く。分かっているはずなのに、身体が言うことを聞かない。浩人は隆寛の背中を見つめながら、部屋の中央に立っていた。緩く乱れたシャツの襟元を整えることもせず、ただその細い背を目で追う。帰るいつもの姿。でも今夜だけは、何かが違って見えた。隆寛はノブを握る手に力を込めた。しかし開けられない。開けようとするたび、胸の奥がきしむ。喉が乾き、深呼吸をしようとしても肺に空気が入らないようだった。そして、ふいに。「……帰りたくない」その言葉は自分の声ではないように小さく、けれど決して取り消せない響きを持っていた。発した瞬間、隆寛は自分の心臓が跳ねるのを感じた。恐怖と、甘さと、どうしようもない欲の混ざった響き。扉に向けた手はそのまま動かず、ただ震えていた。浩人はその言葉を聞いた瞬間、迷いもためらいも一度も浮かばなかった。隆寛の背中へ静かに近づき、まるで当然のように言った。「帰らなくていい」隆寛の肩がびくりと揺れた。扉の方へ向いていた視線がゆっくりと落ち、指先から力が抜ける。玄関の灯りが、隆寛の頬に落ちた陰影を濃くした。帰らなくていい。その言葉は、想像以上に深く刺さった。甘く、怖いほどに。背中越しでも分かる。隆寛の身体が、その一言でほどけていくのが。隆寛は振り返れなかった。振り返ったら、もう本当に戻れなくなる。そんな確信が胸に降りてきた。それでも、心臓が望む方向はひとつしかなかった。浩人はゆっくりと手を伸ばし、隆寛の腕に触れた。冷えた指先を温めるように包み込む。その瞬間、隆寛はようやく顔を上げた。振り返るというより、吸い寄せ
last updateLast Updated : 2025-12-22
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36.二人の世界の密度

夜がふたりを包むように深くなったころ、部屋の灯りは柔らかく床に落ち、壁に寄り添う影が揺れていた。日々の暮らしが、知らぬ間にすべて「ふたりでいること」を中心に回り始めている。意識したわけではない。気づいたときには、他の何よりも優先されていた。朝の光が薄く差し込む時間。目を覚ますと、隆寛の視界にはいつも浩人の肩がある。シーツに残された体温、洗い立ての香りよりも強い、互いの肌の匂い。その全てが朝の空気に混ざり、ふたりだけの世界をつくる。隆寛はゆっくりと起き上がり、横で眠る浩人の額にかかる髪を指先で払った。触れた瞬間、浩人のまぶたが小さく震える。その反応に、胸の奥が静かに疼く。毎日見ているはずなのに、その小さな反応だけで心が満たされてしまう。「…起きたのか」低い声が布団の中からこぼれる。隆寛は頷き、髪に触れたまま囁くように言った。「まだ寝てていい」浩人はその言葉に、薄く笑みを浮かべて腕を伸ばす。迷いなく隆寛の腰を引き寄せ、額を胸元に押し付けた。朝の抱擁は必須の儀式になっていた。それがないと一日が始まらない。「……もう少しだけ」「浩人…」呼ばれただけで、浩人は腕を強くした。名前を呼ばれるたび、身体の奥が反射的に反応する。それは互いにきちんと噛み合った依存の歯車のようだった。朝のコーヒーの香りが立ち上るときも、視線は互いから離れない。カップの縁に指が触れる瞬間すら、どちらかのことを考えている。テレビの音も街の喧騒も、もう遠い世界のものだ。大学に向かう道。隆寛は講義が始まっても、ふとした拍子に浩人の横顔が頭をよぎる。授業の声が耳を通り抜けていくのに、心は別の場所に置き去りのままだった。ペンを握る指先に、昨夜触れてきた浩人の手の温度が蘇る。それだけで集中が崩れる。浩人も同じだった。資料を開き、教授の言葉をノートに写し取ろうとするたび、意識のどこかで隆寛の声が響く。あの呼び方、あの息遣い、あの温度。五感が記憶してしまっているから、簡単に忘れられるはずがない。(次に会うまで、どれだけ時間がある)そのことが
last updateLast Updated : 2025-12-23
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37.沈む未来の影

午後の光は乾いていて、大学の講義室の空気をわずかに白く見せていた。窓際の席に腰掛けた隆寛は、開いたノートの上に鉛筆を置いたまま、黒板を見つめているようで何も見ていなかった。教授の声は規則的に響いている。だがその声の意味は頭に入らず、ただ音として耳の奥を通り過ぎていくだけだった。ノートには途中まで整った文字が並んでいるのに、途中から筆跡が乱れ、それ以降は何も書かれていない。書こうとした単語は喉元でつかえ、手は空中で止まったまま動かなかった。紙の白さが、今だけ自分を責めているように思える。胸の奥が重い。今朝、浩人が自分の額に触れた感触がまだ残っていて、思い出すたびに息が乱れそうになる。あの温度のまま時間が止まればいい。そんな願いがよぎってしまうほど、幸福は身体に馴染んでいた。だが、だからこそ怖かった。このまま続ければ、いつか必ず壊れる。壊れるのは自分ではなく浩人だと、隆寛は悟ってしまっていた。講義室のざわめきが遠くに感じられる瞬間、隆寛はゆっくりと視線を落とした。ノートの端にある、浩人から借りたシャーペン。細かい傷のあるボディを指先で撫でるたび、胸の奥が疼いた。昨夜、浩人の部屋で触れ合った温度。呼吸が重なり、名前を呼べば身体が震えるほどの近さ。それは恋の形としては甘すぎて、幸福としては深すぎて、愛としては危うすぎた。あれは恋ではない。もうそういう段階を越えてしまっている。依存の形が互いを絡め取り、呼吸の仕方すら相手に左右されるほど、世界は狭く濃密になっていた。浩人は強い。いつもまっすぐで、自信があって、未来を選べる人間だった。その強さが、隆寛にはまぶしくて、羨ましくて、痛かった。自分は違う。家庭の事情も、精神の揺らぎも、未来への不安も、全部抱えている。その重さを、浩人に背負わせてしまっている。講義が進むにつれて、胸の奥に冷たいものが広がっていった。ペンを握る指が震え、黒板よりも自分の呼吸のほうが気になって仕方ない。(このままでは、いつか彼を壊す)それは直感に近く、しかし避けられない確信だった。横の席で
last updateLast Updated : 2025-12-24
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38.選ばれる未来、残される未来

夕方の光は橙に傾き、大学キャンパスの廊下には学生たちの声と足音が重なっていた。活気に満ちた空気の中で、スマホの通知音だけがひときわ軽く響く。その音に反応して立ち止まった浩人が画面を開き、瞬間、表情を変えた。眉がわずかに動き、次いで息を吸い込む。光を受けた瞳が喜びで揺れ、胸の奥に湧き上がる熱がそのまま顔に浮かび上がる。「……内定、出た」声は抑えていても震えていた。学生たちのざわめきの中で、その言葉だけが隆寛の耳に鮮明に届いた。隆寛は数歩離れた位置に立ち、浩人の横顔を見つめていた。光の中で輝くその表情は、成功の瞬間を掴んだ人間の強さに満ちている。未来が形を取り始めた人間特有のまぶしさがあった。浩人の周りにはすぐに仲間たちが集まり、祝福の声が飛び交う。「すげえじゃん!」「やっぱりだと思ってたよ」「エリートコース一直線だな」肩を叩かれ、笑い返す浩人。その中心には彼がいて、その輪から少し離れた場所に隆寛がいた。距離にすれば数メートル。だが感覚的には、触れられないほど遠かった。隆寛は笑おうとした。祝福の言葉を探そうとした。けれど口の中が乾き、舌が貼りついたように動かなかった。(喜ばなきゃいけない。心から祝ってあげたいのに)そう思っているのに、胸の奥に広がっているのは喜びではなく、重たい焦燥だった。浩人は仲間に囲まれながらも、隆寛を見つけて歩いてきた。視線が合った瞬間、隆寛は胸がざわつくのを感じて目をそらした。「隆寛」名を呼ばれ、無視はできず、顔だけ向ける。「……内定、出たんだ」「すごいな」言葉は出た。だが声は弱かった。浩人はすぐに違和感に気づいた。彼は鋭い。隆寛が嬉しいとき、無理して笑うとき、迷っているとき、それら全部を表情のわずかな動きから読み取ってしまう。「なんか、元気ない?」その問いに、胸が一瞬ぎゅっと縮んだ。「そんなことないよ。&helli
last updateLast Updated : 2025-12-25
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39.言えない理由、伝わらない想い

夜の始まりはいつもと同じだったはずだった。浩人の部屋には薄い灯りがひとつだけ灯っていて、天井からぶらさがるその光が机の上の資料と、ベッドの皺を柔らかく照らしていた。窓の外には街灯の白が滲み、カーテンの隙間からその光が線のように床へ落ちている。隆寛は机の前に座り、開いたテキストの上に視線を落としていた。頁の端にはマーカーで引かれた細い線がいくつも重なり、その下に控えめな字でメモが書かれている。だが今、その文字列は目に映っているだけで、意味としては何ひとつ入ってきていなかった。鉛筆を持つ指先が、紙の上で止まっている。耳に入るのはエアコンの微かな稼働音と、冷蔵庫の控えめな唸り。そして、部屋の奥でソファに腰掛けている浩人の、ページをめくる音。それらは何度も聞いてきたはずの生活の音で、今までは安らぎと結びついていた。だが今夜は、その音の一つひとつがどこか遠く、現実感を伴わない。(言わなきゃいけない)胸の奥で何度も繰り返した言葉は、喉を通る前に重く沈んでいく。言葉にした瞬間、すべてが壊れてしまう。それが分かりすぎるほど分かっていて、舌は動かなかった。実家の寺。父の顔。修行寺の冷たい空気。数珠の触れ合う音。それらが、今日に限ってやけに鮮明に思い出される。出家の話を家に伝えた日の電話の重さも、まだ耳に残っていた。父の長い沈黙と、最後に吐き出された短い言葉。――そうか。お前が決めたなら。あの低い声が、今も胸の奥で反響している。(俺は…戻るんだ)決意はすでに固まりつつある。けれど、それを目の前の人間に伝えることができない。鉛筆の芯が紙をかすめる音が一度だけ鳴り、また止まる。自分の呼吸が浅くなったことに気づき、意識して息を吸い直す。だが肺に入ってくる空気はやけに薄く、酸素が足りないように感じられた。そのとき、ページを閉じる音がした。浩人が本をソファの上に置き、伸びをした気配がする。布の軋みが鳴り、彼の足音がゆっくりと近づいてくる。その音だけで、隆寛の背筋がわずかに強張った。
last updateLast Updated : 2025-12-26
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40.依存の終点

外廊下の蛍光灯はところどころ切れていて、夜のマンションは昼間と別の場所のように静かだった。コンクリートの壁に冷えた空気が貼りついていて、足音を立てるたび、その冷たさが靴底からじわりと伝わる。隆寛は、自分の靴音がやけに大きく響いている気がして、一歩ごとに歩幅を小さくした。浩人の部屋の前に立つと、喉がひどく乾いていることに気づく。指先がかすかに震えていた。さっきまで何度も言葉を考えては消し、また浮かべては飲み込んだ。そのどれもが、扉一枚を前にすると途端に頼りなく感じられる。謝らなければならない。それだけは分かっていた。呼吸を整えようと深く息を吸う。冷たい空気が肺に入り、少し頭が冴える。そのまま拳を握り、扉を軽く叩いた。コン、と鈍い音が静まり返った廊下に落ちる。中から気配はすぐには返ってこなかった。数秒がやけに長い。断られたらどうしようという不安と、今はそのほうが楽かもしれないという弱さが、胸の奥でせめぎ合う。やがて、がちゃりとチェーンの音がして、ドアが少しだけ開いた。隙間から漏れた灯りが足元を照らす。その細い光の中に、浩人の影が浮かんだ。「……なんだ」低い声だった。いつもより平板で、感情の起伏が抑えられているように聞こえる。隙間から覗いた浩人の顔は、照明の位置のせいか、目の下に影を落としている。険しさとは違うが、柔らかさがどこかに置き去りにされたままの表情だった。隆寛は一度唇を噛み、視線を落としてから、小さな声で言った。「話が…したくて」浩人はしばらく何も言わなかった。冷気だけが隙間から流れ込んでくる。断られて当然だと思いながら、それでも心臓は期待と恐怖の両方で早鐘を打っていた。小さく舌打ちをするような、息の音が聞こえた。「……勝手にすれば」それだけ言って、ドアが開く。完全にではなく、半歩分の隙間。招き入れるでもなく、拒絶するでもない中途半端な開き方。それが逆に、彼の迷いと怒りの両方を物語っていた。隆寛は「失礼します」とも言えず、靴
last updateLast Updated : 2025-12-27
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