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偽りの従順 のすべてのチャプター: チャプター 1 - チャプター 10

13 チャプター

第1話

私・冬月遥香 (ふゆつき はるか)、桐島湊斗 (きりしま みなと)と結婚して七年目。彼の「忘れられない人」が戻ってきた。彼女はSNSに、こんな投稿をアップした。【若気の至りで逃しちゃったけど、今は勇敢に愛を追いかけるつもり!】その夜、湊斗は火のついた煙草を指に挟んだまま、ベランダで一晩中、虚空を見つめていた。私のスマホもまた、一晩中通知音を鳴らし続けていた。彼の青春時代をすべて目撃してきた悪友たちは、彼と彼女のすれ違いを嘆き、そしてこの再会を祝っているようだ。そのグループLINEに、妻である私が混ざっていることなど、完全に頭から抜け落ちているらしい。湊斗は知らない。私が時折、彼に夢中でなりふり構わず追いかけ回したあの数年間を、ぼんやりと思い返していることを。そして長い月日を経て、私がもう、とっくに疲れ果ててしまっていることを…………【遥香は汚い手を使って今の座に納まったんだ。学生時代ずっと一緒だった「本命」に勝てるわけないだろ?】十七歳の私なら、きっとすぐにこのグループを脱退していただろう。湊斗のスマホを奪い取って「本命」の連絡先を消去し、一生私だけを愛すると誓わせたに違いない。でも、今の私はもう二十七歳だ。高嶺愛理 (たかみね あいり)が帰国したと知った時、私はキッチンに立っていた。フライ返しを握る手がわずかに震える。私は目玉焼きを裏返し、淡々とつぶやいた。「……よかったじゃない」二人の恋がどれほど情熱的で劇的なものだったか、仲間内では誰もが知っている。そして、私と愛理の差がどれほど残酷なものかも、周知の事実だ。だから、愛理の帰国を聞きつけた親友は、すぐに我が家へ乗り込んできた。私の味方をするために、ものすごい剣幕で。「もし湊斗があの女を連れ込んだりしたら、私が二人まとめてひねり潰してやるから」私は出来上がった朝食を皿に盛り、彼女の前に差し出す。そして、呆れたように笑った。「あの人はプライドが高いもの。そんな下品な真似はしないわよ」家に乗り込んで妻の座を脅かす。そんなのは、マウントの取り方としては最低ランクだ。事実はもっと残酷。彼女が指一本動かさなくとも、湊斗の心は勝手に彼女の方を向くのだから。だからこそ、卑怯なのは私の方だ。私はやったのだから。二人が喧嘩して拗
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第2話

二人はお似合いだなんて言葉じゃ足りない。最高の組み合わせ、まさに天が巡り合わせた運命の二人だ。私だって、大学時代に二人の恋愛をこの目で見てきた証人の一人。あの冷淡で、誰よりも輝いていた湊斗が、ただ一人、彼女の前でだけは傅くような姿を見せていたのだから。手編みのマフラーを贈り、女子寮の下で待ち続け、徹夜で勉強に付き合う……学内掲示板では、二人の後ろ姿の写真がアップされるだけで大学中がが盛り上がり、スレッドが乱立するほどだった。私はどうしても愛理の写真を取り出しては、歯ぎしりするほど羨まずにはいられなかった。神様がすべての美点を、たった一人の人間に注ぎ込んだことを呪ったものだ。噂され、比較される。そんなことは、愛理が戻ってくるずっと前から日常茶飯事だ。だからこそ、彼女が帰国した今、私への風当たりがどれほど強くなっているか想像に難くない。いや、違うか。そもそも話題にすら上らないかもしれない。比較する価値すらないのだから。会場には穏やかな音楽が流れていた。私は華奢なヒールで歩を進め、湊斗の腕にそっと手を添えた。愛理は登場するなり会場中の視線を独り占めにし、そして旧友を懐かしむような足取りで、湊斗の目の前に立った。彼女は手を差し出し、微笑む。「久しぶりね」湊斗は無表情のまま、何の反応も示さない。けれど私にはわかった。彼が一瞬、全身を強張らせたのが。湊斗が動こうとしないため、差し出された彼女の手は宙で止まったままだ。空気が気まずく澱み始める。私は助け船を出そうと、自分の手を伸ばした。「お久しぶりです。高嶺さん、いつ帰国されたんですか?」胸の奥に、淡く非現実的な期待が芽生える。もしかしたら。もしかしたら湊斗は、共に過ごしたこの数年で私に情を抱き、心の中に少しは私の居場所を作ってくれたのかもしれない。だが、それと同時だった。湊斗の親友・神崎蓮司 (かんざき れんじ)が割って入り、彼女の手を握りしめたのは。私の手は空を切り、行き場をなくして宙を彷徨った。周囲からの嘲るような視線が、私と彼女の間を行き来する。それは音もなく、私の淡い期待を粉々に打ち砕いた。夫の頬の筋肉がピクリと動く。彼は私の目の前で、静かに言った。「俺は、結婚した」それは、彼女との未来がもう閉ざされてしまったこと
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第3話

騒ぎに気づいたのか、義母・桐島静江 (きりしま しずえ)が奥から慌てて駆け寄ってきた。……もちろん、私のためではない。静江は私を押しのけるようにして二人の間に入り込む。談笑する三人の輪から弾き出された私は、まるで空気の読めない部外者のようだ。感極まったのか、静江は目尻の涙を指で拭う。「愛理ちゃんが湊斗と結婚するって、家ではしゃいでいたあの光景……今でもはっきりと覚えているわ」愛理の瞳が潤む。「おば様……」私は唇を噛み締め、ただ俯くことしかできない。振り返るまでもない。周囲からの嘲笑を含んだ視線が、どれほど熱烈に私へ降り注いでいるか肌で感じる。玉の輿。湊斗の心の隙間に、ただ運良く滑り込んだだけの格下の女。いくら機嫌を取って尽くしたところで、何の意味もない。私の献身など、あまりに安っぽい。そして、私の夫である湊斗。彼もまた過去の記憶に心を揺さぶられているのだろう。無表情を装ってはいるが、その拳は強く握り締められている。……やっぱり、彼は私を愛してなどいなかったのだ。居心地の悪さに耐えながら、じっと立ち尽くす。その時だった。愛理が顔を上げ、悔しさを滲ませた瞳で私を見据える。「……その人が、今の奥さん?」平気を装ってはいるが、その声の震えこそが、彼女の精一杯の強がりなのだろう。ついに、私と彼女が並び立つ時が来た。その差は歴然としている。あまりの惨めさに、自分自身が恥ずかしくなってくるほどだ。私は愛理に向かって、能面のような笑みを浮かべてみせた。湊斗はそんな私を冷ややかに一瞥するだけだ。弁解もなければ、労りの言葉もない。ただ一言、こう告げた。「蓮司たちが、お前のために歓迎会を用意してるそうだ」蓮司をはじめとする、彼の悪友たち。私を徹底的に見下し、玩具のように扱って笑い物にする連中だ。彼らにされた酷い仕打ちを思い出すだけで、目眩がしてくる。湊斗はそれを知ろうともしないし、知ったところで止めることもない。私は彼らに拒絶反応を起こし、一瞬、呼吸が詰まる。それでも引きつった笑みを浮かべ、必死に言葉を紡いだ。「じゃあ、皆さんで楽しんできて。私はこれで……」「お前も行くんだ」湊斗の冷徹な遮りに、私は言葉を失う。彼は私をじっと見据え、冷ややかな表情のま
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第4話

湊斗がなぜ、頑なに私を連れて行こうとしたのか理解できない。彼を想い続け、七年も尽くしてきた私が、今に現れた「正真正銘の本命」と比較され、惨めな思いをするのを見せつけるためだろうか?それに、彼のあの……悪友たち。「やっと帰ってきたな、『奥さん』――」蓮司は間延びした声でそう言いながら、私を横目で一瞥し、言葉の先を愛理に向けた。「この男好きの薄情者め!帰国して真っ先に連絡したのが湊斗だけで、飛行機降りて休憩もなしに、このパーティーで湊斗との初対面を果たすとはな」「海外での活躍ぶりはこっちにも届いてるぜ。相変わらずすげえな!」その言葉の裏には、「お前なんかが夢を見るな」という私への警告が透けて見える。愛理こそが私たちの結婚に割り込もうとしている張本人なのに、まるで私の方が部外者のようだ。居たたまれなさに、私はただ目の前の、薄く結露したグラスを見つめることしかできない。指に力を込め、また緩める動作を繰り返す。愛理は頬を微かに染め、少し離れた場所にいる湊斗へ思わせぶりな視線を送っている。場の空気は熱を帯び、曖昧な色気を孕み始めた。招かれざる客である私以外は、気心の知れた仲間同士なのだ。私は隣にいる湊斗を見上げた。くっきりとした顎のライン、高い眉骨。相変わらず冷ややかで禁欲的なその横顔は、心臓が跳ねるほど美しい。私が湊斗と結ばれるずっと前、彼の少し未熟で無鉄砲だった青春のすべては、惜しみなく愛理に捧げられていたのだ。呆然としている間に、誰かが王様ゲームを始めようと言い出した。指定された番号を引いた人は、 絶対に「王様」の命令に従わなければならない。「それじゃあ……4番と7番が、十秒間キスをする」該当したのは、愛理と湊斗だった。私は耐えきれず、勢いよく立ち上がった。目の奥が熱く、酸味がこみ上げる。周囲が静まり返り、面白がるような、それでいて鬱陶しそうな視線が一斉に私に向けられる。「名ばかりの正妻」である私に。照明を落とした薄暗い空間のおかげで、私の惨めな表情があらわにならずに済んだのが救いだ。私は震える声を必死に抑え込んだ。「ごめんなさい、皆さんで続けて。私……お手洗いに」私は逃げるようにその場を後にした。扉を閉めた瞬間、ようやくあの嘲笑と喧騒が遮断される。「……ッ」冷たい
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第5話

最初から言っている通り、卑怯なのは私の方だ。でも、見方を変えてみてほしい。私はただの、ちょっとばかり意気地のない女に過ぎない。湊斗と過ごした七年間、毎日あの冷たい顔を眺めるだけでなく、彼の母親や友人たちに苛められる日々を送ってきた。本当に、心の底からうんざりだ。そのいじめの筆頭が、蓮司だった。昔は私を見下し、人前で散々馬鹿にして、嫌がらせをしてきた男。だから私は意図的に近づき、従順なふりをして蓮司に復讐したのだ。彼を誘惑し、ゆっくりと私という沼に沈めていった。湊斗と離婚するその日に、彼を徹底的に捨て去るつもりで。……彼にバレるまでは。私が湊斗より若い、苦学生の身代わりを見つけて、プラトニックな恋愛を楽しんでいることを。彼は私を品定めし、冷笑しながら罵った。「お前はただ猫被ってるだけの悪女だ。そんな奴が愛理と張り合えるわけねえだろ?湊斗がお前と結婚したのは、見る目がなかったからだな!」私は肯定も否定もしない。そもそも、策を弄して湊斗の妻の座に納まった女が、善人なわけがないのだ。惨めさも、従順さも、弱さも、争わない姿勢も、全部演技なのだから。てっきり湊斗にバラされると思ったが、意外にも彼はこれをネタに私を脅し、支配することを選んだ。蓮司は憎々しげに私を睨み、歯噛みしながら言った。「バラされたくなかったら連絡を絶って、俺のそばで大人しくしてろ。お前みたいな女は、遊び道具にされて、身体でわからせられなきゃ懲りないらしいな!愛理が戻ってきたら、お前なんかどうせ捨てられるんだ。あと、あの若い間男のどこがいいんだ?そんなに好きなのか?ああ?」私はここぞとばかりに悪女の本性を晒し、一歩下がって腕を組み、笑ってみせた。「いいわよ。あなたが愛理を連れ戻してきて。湊斗が離婚するって言ったら、私も判を押すわ」彼は言葉を詰まらせた。そして長い沈黙の後、興奮で声を上ずらせて言った。「……乗った!」あの日、グループLINEで蓮司たちが愛理の話題で盛り上がり、湊斗がベランダで一晩中煙草を吸っていた時、私はとっくに覚悟を決めていたのだ。湊斗のことは、どうしようもないほど愛している。けれど、七年も媚びへつらって尽くしても彼が心を許すことはなく、相変わらず愛理を深く愛しているのを見て、私は本当
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第6話

「『桐島夫人の座にいつまでも居座れるなんて夢見んな。さっさと愛理に場所を空けろ』って……そう言い聞かせてたんだよ」蓮司は悪びれもせず言い放った。そして姿勢を正し、入り口で相変わらず隙がなく、冷淡なほど禁欲的な空気を纏う湊斗をじっと見据えた。だが、笑みを浮かべたその瞳の奥には、深く隠された嫉妬が渦巻いている。湊斗が口を開くより早く、私は屈辱の涙で眼窩を満たし、わざとらしく肩をぶつけるようにしてその場から駆け出した。湊斗は眉を寄せて蓮司を一瞥すると、すぐにきびすを返して私を追ってくる。私の手首を強く掴んだのは、会場の出口あたりだった。彼は私を見下ろし、堪えきれずに溢れた涙の跡を見て、ハッと息を飲んだ。「俺と愛理は、そんな……」彼が言いかけた瞬間、スマホの着信音が空気を切り裂いた。彼は切るが、また鳴る。切っても、また鳴る。画面には「愛理」の文字。彼が出るまで、何度でもかけ続けるという執念を感じさせる。再度着信を拒否した直後、今度は背後から、悲痛な本人の声が響いた。彼女は酔っているらしく、頬を赤らめ、涙で潤んだ瞳で少し先に立っていた。「湊斗、じゃあ今の私って、あなたにとって何なの?」囁くような声が、重い衝撃となって降り注ぐ。湊斗の背中が一瞬で強張り、呼吸が乱れた。黒く長い髪が空中に美しい弧を描く。瞬きする間に、愛理は私の目の前で、湊斗の胸にその顔を深く埋めていた。実に絵になる光景だ。……抱きつかれているのが、私の夫でさえなければ。私は湊斗の手から強引に自分の手を引き抜き、背を向けて歩き出した。彼は我に返ったようで、苛立たしげにこめかみを押さえると、慌てて彼女を引き剥がし、再び困惑したように告げた。「愛理、俺はもう結婚してるんだ」愛理は泣きながら走り去っていった。その言葉は、私の耳にもはっきりと届いた。なんて一途で、忍耐強い愛なのだろう。私はなんだか、無性に胸が苦しくなった。実のところ、愛理が現れたことを恨んではいない。それよりも、二人の間に存在するすべての繋がりが妬ましいのだ。私が春夏秋冬を駆けずり回り、あらゆる策を弄して隙を突き、ようやく手に入れた愛する人。なのに彼女は、ただ一度、淡い視線を送るだけで十分なのだから。ましてや今の愛理は、なりふり構
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第7話

まさか、彼の方から別れを匂わせてくるとは思わなかった。彼に言わせるより、私が物分かりよく切り出した方がいい。私は彼を見つめ、もう一度、静かに繰り返した。「湊斗……離婚、しよう」ずっと胸につかえていた澱を吐き出せたようで、かつてないほどの開放感に包まれる。車内の空気は、急激に重く張り詰めた。湊斗はハンドルを強く握り締めたまま、長い間、口を開こうとしない。私はもう片方の手の人差し指で、薬指に残る指輪の跡をそっと撫でながら、うつむき加減に語りかけた。「高嶺さん、大学の頃と変わらず綺麗だったね。二人が並んでいるのを見て、思い出しちゃった。入学式の時、新入生代表として二人で檀上に上がった時のこと。お互いを見る目が、信頼し合ってるって感じで……」湊斗の伏せた瞳の色が濃くなり、ハンドルを握る手にさらに力がこもる。最初の一言さえ出てしまえば、あとは勇気が湧いてくる。二の句、三の句と、言葉は次々に溢れ出した。私は続ける。「覚えてる?私がずっと湊斗を追いかけてたこと。でも結局、高嶺さんに新しい彼氏ができて、あなたが自棄になってお酒に逃げて……駆けつけた私を見て、冷笑しながら結婚するって言った日のこと。結婚してすぐ、あなたは言ったわよね。『うちは仮面夫婦だ』って。お義母さんにはキャッシュカードを投げつけられて『出て行け』って言われたし……多恵(たえ)さんなんて、クビ覚悟で私を階段から突き落としたりもした。わかってるの。この家の誰も、私を奥さんだなんて認めてなかったって。ただ、もう少し時間が経てば……もう少し待てばって、淡い期待を抱いてただけ。でも結局、待っていたのは高嶺さんの帰国だけだった。家政婦を雇うの、嫌いでしょう?私たち別れたら、また多恵さんを呼び戻せばいいわ。小さい頃からあなたの世話をしてくれてたんだし。あと、胃薬はベッドサイドの引き出しに入れてある。あなたの好きな料理のレシピも、書いて残しておいたから。これからは、高嶺さんと二人で幸せになって。私たちはここでおしまい。あなたはあなたの人生を、私は私の人生を。お互い、もう関わらずに生きていこう」事前に頭の中で何度もリハーサルした通りの台詞を、完璧に演じきった。十分に健気で、虐げられながらも気丈に振る舞う妻を。実のところ、私が彼を好きで、彼が私を好きじゃない
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第8話

湊斗の放った「今度は何を企んでる?」という言葉。それは冷たい棘のように、私が必死に保っていた虚勢と、最後に残っていたわずかな期待を正確に突き刺した。車内の空気は凍りつき、息をするのも苦しいほど重くのしかかる。彼の冷徹な横顔を見つめ返すと、急にどうしようもない疲労感が押し寄せてきた。言い返す気力すら湧いてこない。七年だ。私が何をしても、彼の目にはすべて「下心」として映るのだろう。私の愛情は「執着」に、献身は「当たり前」に。そして今、身を引こうとする決意さえも、「気を引くための駆け引き」へと変換されてしまう。私は顔を背け、窓の外を猛スピードで流れていくネオンの光を見つめた。ため息のように、小さな声が漏れる。「……好きに思えばいいわ」それからの数日間、日常は奇妙な静けさに包まれた。あの日の争いについて、お互いに一言も触れようとしない。愛理は、湊斗が現れそうな場所には必ずと言っていいほど顔を出し、SNSには匂わせ投稿を連投している。悪友たちのグループLINEでは、相変わらず「元サヤ」の美談で盛り上がっているようだ。たまに私の話題が出ても、そこにあるのは軽蔑を含んだ揶揄だけ。私は相変わらず「桐島夫人」を演じ続けている。朝食を用意し、家事をこなし……ただ、以前よりも口数は減った。湊斗はさらに忙しくなったようで、帰宅時間は遅くなる一方だ。その身には、薄い酒の匂いがまとわりついていることもあれば、愛理が好む香水の香りが漂っていることもある。彼は離婚の話題を口にしなくなった。あの一件は、彼の中で私の「企み」として処理されたのだろう。私が自らボロを出して、仮面を剥がすのを待っているようだ。あるいは、もっと単純な無関心かもしれない。私が何をしようと、彼の心は何ひとつ動かないのだ。首を絞められるような息苦しい日々。その中で、唯一息をつけるのが、あの若い男の子――春日翔太 (かすが しょうた)からの連絡だった。翔太はボランティア活動で知り合った貧しい大学生だ。目元には学生時代の湊斗に似た清廉な面影があるが、その瞳はずっと怯えていて、必死に何かを掴もうとする渇望に満ちている。私は彼を援助している。彼から送られてくる控えめな感謝や挨拶に、時折短い返信を返す。そこに色恋めいた感情はなく、むしろ精神的な「拠り
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第9話

どうやって、あの広くて冷え切った家に帰り着いたのか覚えていない。胃の中で暴れるアルコールと、こみ上げる屈辱感が吐き気となって押し寄せ、私はトイレで視界が暗くなるほど嘔吐を繰り返した。涙が前触れもなく頬を伝う。それは湊斗が去ってしまったからではない。骨の髄まで染み込むような羞恥と、絶望のせいだ。彼は見たはずだ。あのメッセージを見たのなら、私を問い詰めるなり、怒鳴りつけるなりできたはずなのに。彼は最も残酷な方法を選んだ。「無視」だ。そして行動をもって、誰が彼にとって本当に大切な人なのかを突きつけてきた。スマホが鳴る。翔太からだ。勇気を振り絞ってかけてきたのだろう。「遥香さん……大丈夫ですか?さっきのメッセージ……」「大丈夫よ」私は彼の言葉を遮った。声が酷く掠れている。「これからは……もう連絡しないで」彼が何か言う前に通話を切り、そのまま電源も落とした。この世界の何もかもが、どうしようもなく疎ましかった。ソファに身体を丸めてどれくらい経っただろう。玄関からドアが開く音がした。湊斗が帰ってきたのだ。濃密な酒の匂いを漂わせて。足元をふらつかせながらリビングへ入ってきた彼は、ネクタイを緩め、その瞳は珍しく焦点が合わず、混乱の色を宿していた。一歩、また一歩と私に近づいてくる。長身の影が私を覆い隠し、威圧感がのしかかる。「あいつは誰だ」と、彼が問う。低くしゃがれた声には、酒気と、言葉にできない焦燥が滲んでいた。私は顔を上げ、死人のような目で彼を見つめた。「誰って?」「『遥香さん』なんて呼んでた男だ」突然、手首を掴まれた。骨が軋むほどの力だ。「遥香。お前、そんなに寂しかったのか?ああ?」痛みに息を飲むが、その痛みがかえって私の心底にある、自暴自棄な反抗心に火をつけた。私は彼を見据え、ふっと笑った。涙は堰を切ったように溢れ出し、止まらない。「湊斗、どういう立場で私を問い詰めるつもり?夫として?みんなの前で妻を置き去りにして、元カノを送っていった夫として?」私の言葉が突き刺さったのか、彼の瞳が一瞬揺らいだ。だがそれはすぐに、より深い酔いと怒りに塗りつぶされる。彼はもう一方の手を上げ、乱暴に私の涙を拭った。その動作には、彼自身さえ気づいていない不器用な焦りが混じっていた。
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第10話

あの夜を境に、私と湊斗は完全な冷戦状態に陥った。いや、正確には私が一方的にコミュニケーションの回路を遮断したのだ。彼は相変わらず朝早くに出て行き、夜遅くに帰ってくる。時折、何か話しかけようとしてくる気配はあるが、私はただ無心で家事をこなし、すぐに部屋へと引き籠もるようにしていた。彼が纏う香水の匂いが強かろうが弱かろうが、もはやどうでもよかった。蓮司からは何度か連絡があった。その口調は回を重ねるごとに焦燥と苛立ちを募らせていた。「遥香、お前俺を遊んでんのか?湊斗と愛理はもう秒読みだぞ。なんでまだ動きがねえんだよ。あのガキ、またお前に連絡してきてんじゃねえだろうな?そろそろ退学に追い込んでやってもいいんだぞ!はっきり言えよ、いつ離婚すんだ!」彼が私を自分の所有物か何かのように勘違いし、欲求不満をぶつけてくるその浅ましさが、今となっては滑稽でしかなかった。私はもう、彼のご機嫌取りをする気力すらなく、ただ冷ややかに言い返した。「蓮司、そんなに自信があるなら、愛理にもっと頑張らせなさいよ。湊斗の口から私に『離婚しよう』って言わせてみて……そうじゃなきゃ、話にならないわ」彼ら全員に振り回されるのは、もううんざりだ。転機は、ある週末の早朝に訪れた。私は部屋の整理をし、使わなくなった物をまとめようとしていた。古い段ボール箱の底に、一冊の硬い表紙のノートがあるのを見つけたのだ。魔が差したのか、あるいは吸い寄せられるようにして、私はそれを開いた。湊斗の筆跡だ。日付は私たちが結婚して間もない頃から始まっており、断片的な思考が書き殴られている。【彼女は今日もあの料理を作った。嫌いなはずなのに、全部食べてしまった】【胃痛。彼女が一晩中看病してくれた……何のために?】【蓮司たちの言葉は酷すぎる。彼女の目が赤くなっていた。泣きはしなかった。意外と芯が強い】【愛理が婚約した。そんなに海外がいいのか?ハッ】【彼女の寝顔は、そこまで憎たらしくない】【七年か……】最後の数ページ、最近の日付の文字は、明らかに乱れ、重苦しい筆圧で刻まれていた。【彼女のスマホの通知……あの呼び名……】【泣かれた。愛しているのかと聞かれた。俺も自問している】【愛理が帰ってきた。彼女が離婚を切り出してきた……あいつ、前から逃げ
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