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偽りの従順

偽りの従順

Par:  青柳春香Complété
Langue: Japanese
goodnovel4goodnovel
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私・冬月遥香 (ふゆつき はるか)、桐島湊斗 (きりしま みなと)と結婚して七年目。彼の「忘れられない人」が戻ってきた。 彼女はSNSに、こんな投稿をアップした。 【若気の至りで逃しちゃったけど、今は勇敢に愛を追いかけるつもり!】 その夜、湊斗は火のついた煙草を指に挟んだまま、ベランダで一晩中、虚空を見つめていた。 私のスマホもまた、一晩中通知音を鳴らし続けていた。 彼の青春時代をすべて目撃してきた悪友たちは、彼と彼女のすれ違いを嘆き、そしてこの再会を祝っているようだ。 そのグループLINEに、妻である私が混ざっていることなど、完全に頭から抜け落ちているらしい。 湊斗は知らない。 私が時折、彼に夢中でなりふり構わず追いかけ回したあの数年間を、ぼんやりと思い返していることを。 そして長い月日を経て、私がもう、とっくに疲れ果ててしまっていることを……

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ますたあゾンビ
ますたあゾンビ
書き方が綺麗で面白かった。
2025-12-07 02:33:11
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ノンスケ
ノンスケ
愛していても何年も無関心な態度を貫かれたら、心が壊れてしまうのも頷ける。せめて少しでも優しくしたり、声をかけたりしていれば、蓮司や若い子との時間を持ったりしなかっただろうし、結婚してるのに友人たちやお母さんが初恋の人が帰ってきたから、とまたくっつけようとするのは理解に苦しむ。
2025-12-05 13:35:19
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松坂 美枝
松坂 美枝
登場人物全員ヤバい奴だった 主人公が去った後の蓮司のことも知りたかった 誰にも認められない妻の座を七年してるとどこか壊れていくかもな いい大人が寄って集っていつまでも女ひとりをいじめるのも幼稚だわ
2025-12-05 11:42:31
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第1話
私・冬月遥香 (ふゆつき はるか)、桐島湊斗 (きりしま みなと)と結婚して七年目。彼の「忘れられない人」が戻ってきた。彼女はSNSに、こんな投稿をアップした。【若気の至りで逃しちゃったけど、今は勇敢に愛を追いかけるつもり!】その夜、湊斗は火のついた煙草を指に挟んだまま、ベランダで一晩中、虚空を見つめていた。私のスマホもまた、一晩中通知音を鳴らし続けていた。彼の青春時代をすべて目撃してきた悪友たちは、彼と彼女のすれ違いを嘆き、そしてこの再会を祝っているようだ。そのグループLINEに、妻である私が混ざっていることなど、完全に頭から抜け落ちているらしい。湊斗は知らない。私が時折、彼に夢中でなりふり構わず追いかけ回したあの数年間を、ぼんやりと思い返していることを。そして長い月日を経て、私がもう、とっくに疲れ果ててしまっていることを…………【遥香は汚い手を使って今の座に納まったんだ。学生時代ずっと一緒だった「本命」に勝てるわけないだろ?】十七歳の私なら、きっとすぐにこのグループを脱退していただろう。湊斗のスマホを奪い取って「本命」の連絡先を消去し、一生私だけを愛すると誓わせたに違いない。でも、今の私はもう二十七歳だ。高嶺愛理 (たかみね あいり)が帰国したと知った時、私はキッチンに立っていた。フライ返しを握る手がわずかに震える。私は目玉焼きを裏返し、淡々とつぶやいた。「……よかったじゃない」二人の恋がどれほど情熱的で劇的なものだったか、仲間内では誰もが知っている。そして、私と愛理の差がどれほど残酷なものかも、周知の事実だ。だから、愛理の帰国を聞きつけた親友は、すぐに我が家へ乗り込んできた。私の味方をするために、ものすごい剣幕で。「もし湊斗があの女を連れ込んだりしたら、私が二人まとめてひねり潰してやるから」私は出来上がった朝食を皿に盛り、彼女の前に差し出す。そして、呆れたように笑った。「あの人はプライドが高いもの。そんな下品な真似はしないわよ」家に乗り込んで妻の座を脅かす。そんなのは、マウントの取り方としては最低ランクだ。事実はもっと残酷。彼女が指一本動かさなくとも、湊斗の心は勝手に彼女の方を向くのだから。だからこそ、卑怯なのは私の方だ。私はやったのだから。二人が喧嘩して拗
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第2話
二人はお似合いだなんて言葉じゃ足りない。最高の組み合わせ、まさに天が巡り合わせた運命の二人だ。私だって、大学時代に二人の恋愛をこの目で見てきた証人の一人。あの冷淡で、誰よりも輝いていた湊斗が、ただ一人、彼女の前でだけは傅くような姿を見せていたのだから。手編みのマフラーを贈り、女子寮の下で待ち続け、徹夜で勉強に付き合う……学内掲示板では、二人の後ろ姿の写真がアップされるだけで大学中がが盛り上がり、スレッドが乱立するほどだった。私はどうしても愛理の写真を取り出しては、歯ぎしりするほど羨まずにはいられなかった。神様がすべての美点を、たった一人の人間に注ぎ込んだことを呪ったものだ。噂され、比較される。そんなことは、愛理が戻ってくるずっと前から日常茶飯事だ。だからこそ、彼女が帰国した今、私への風当たりがどれほど強くなっているか想像に難くない。いや、違うか。そもそも話題にすら上らないかもしれない。比較する価値すらないのだから。会場には穏やかな音楽が流れていた。私は華奢なヒールで歩を進め、湊斗の腕にそっと手を添えた。愛理は登場するなり会場中の視線を独り占めにし、そして旧友を懐かしむような足取りで、湊斗の目の前に立った。彼女は手を差し出し、微笑む。「久しぶりね」湊斗は無表情のまま、何の反応も示さない。けれど私にはわかった。彼が一瞬、全身を強張らせたのが。湊斗が動こうとしないため、差し出された彼女の手は宙で止まったままだ。空気が気まずく澱み始める。私は助け船を出そうと、自分の手を伸ばした。「お久しぶりです。高嶺さん、いつ帰国されたんですか?」胸の奥に、淡く非現実的な期待が芽生える。もしかしたら。もしかしたら湊斗は、共に過ごしたこの数年で私に情を抱き、心の中に少しは私の居場所を作ってくれたのかもしれない。だが、それと同時だった。湊斗の親友・神崎蓮司 (かんざき れんじ)が割って入り、彼女の手を握りしめたのは。私の手は空を切り、行き場をなくして宙を彷徨った。周囲からの嘲るような視線が、私と彼女の間を行き来する。それは音もなく、私の淡い期待を粉々に打ち砕いた。夫の頬の筋肉がピクリと動く。彼は私の目の前で、静かに言った。「俺は、結婚した」それは、彼女との未来がもう閉ざされてしまったこと
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第3話
騒ぎに気づいたのか、義母・桐島静江 (きりしま しずえ)が奥から慌てて駆け寄ってきた。……もちろん、私のためではない。静江は私を押しのけるようにして二人の間に入り込む。談笑する三人の輪から弾き出された私は、まるで空気の読めない部外者のようだ。感極まったのか、静江は目尻の涙を指で拭う。「愛理ちゃんが湊斗と結婚するって、家ではしゃいでいたあの光景……今でもはっきりと覚えているわ」愛理の瞳が潤む。「おば様……」私は唇を噛み締め、ただ俯くことしかできない。振り返るまでもない。周囲からの嘲笑を含んだ視線が、どれほど熱烈に私へ降り注いでいるか肌で感じる。玉の輿。湊斗の心の隙間に、ただ運良く滑り込んだだけの格下の女。いくら機嫌を取って尽くしたところで、何の意味もない。私の献身など、あまりに安っぽい。そして、私の夫である湊斗。彼もまた過去の記憶に心を揺さぶられているのだろう。無表情を装ってはいるが、その拳は強く握り締められている。……やっぱり、彼は私を愛してなどいなかったのだ。居心地の悪さに耐えながら、じっと立ち尽くす。その時だった。愛理が顔を上げ、悔しさを滲ませた瞳で私を見据える。「……その人が、今の奥さん?」平気を装ってはいるが、その声の震えこそが、彼女の精一杯の強がりなのだろう。ついに、私と彼女が並び立つ時が来た。その差は歴然としている。あまりの惨めさに、自分自身が恥ずかしくなってくるほどだ。私は愛理に向かって、能面のような笑みを浮かべてみせた。湊斗はそんな私を冷ややかに一瞥するだけだ。弁解もなければ、労りの言葉もない。ただ一言、こう告げた。「蓮司たちが、お前のために歓迎会を用意してるそうだ」蓮司をはじめとする、彼の悪友たち。私を徹底的に見下し、玩具のように扱って笑い物にする連中だ。彼らにされた酷い仕打ちを思い出すだけで、目眩がしてくる。湊斗はそれを知ろうともしないし、知ったところで止めることもない。私は彼らに拒絶反応を起こし、一瞬、呼吸が詰まる。それでも引きつった笑みを浮かべ、必死に言葉を紡いだ。「じゃあ、皆さんで楽しんできて。私はこれで……」「お前も行くんだ」湊斗の冷徹な遮りに、私は言葉を失う。彼は私をじっと見据え、冷ややかな表情のま
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第4話
湊斗がなぜ、頑なに私を連れて行こうとしたのか理解できない。彼を想い続け、七年も尽くしてきた私が、今に現れた「正真正銘の本命」と比較され、惨めな思いをするのを見せつけるためだろうか?それに、彼のあの……悪友たち。「やっと帰ってきたな、『奥さん』――」蓮司は間延びした声でそう言いながら、私を横目で一瞥し、言葉の先を愛理に向けた。「この男好きの薄情者め!帰国して真っ先に連絡したのが湊斗だけで、飛行機降りて休憩もなしに、このパーティーで湊斗との初対面を果たすとはな」「海外での活躍ぶりはこっちにも届いてるぜ。相変わらずすげえな!」その言葉の裏には、「お前なんかが夢を見るな」という私への警告が透けて見える。愛理こそが私たちの結婚に割り込もうとしている張本人なのに、まるで私の方が部外者のようだ。居たたまれなさに、私はただ目の前の、薄く結露したグラスを見つめることしかできない。指に力を込め、また緩める動作を繰り返す。愛理は頬を微かに染め、少し離れた場所にいる湊斗へ思わせぶりな視線を送っている。場の空気は熱を帯び、曖昧な色気を孕み始めた。招かれざる客である私以外は、気心の知れた仲間同士なのだ。私は隣にいる湊斗を見上げた。くっきりとした顎のライン、高い眉骨。相変わらず冷ややかで禁欲的なその横顔は、心臓が跳ねるほど美しい。私が湊斗と結ばれるずっと前、彼の少し未熟で無鉄砲だった青春のすべては、惜しみなく愛理に捧げられていたのだ。呆然としている間に、誰かが王様ゲームを始めようと言い出した。指定された番号を引いた人は、 絶対に「王様」の命令に従わなければならない。「それじゃあ……4番と7番が、十秒間キスをする」該当したのは、愛理と湊斗だった。私は耐えきれず、勢いよく立ち上がった。目の奥が熱く、酸味がこみ上げる。周囲が静まり返り、面白がるような、それでいて鬱陶しそうな視線が一斉に私に向けられる。「名ばかりの正妻」である私に。照明を落とした薄暗い空間のおかげで、私の惨めな表情があらわにならずに済んだのが救いだ。私は震える声を必死に抑え込んだ。「ごめんなさい、皆さんで続けて。私……お手洗いに」私は逃げるようにその場を後にした。扉を閉めた瞬間、ようやくあの嘲笑と喧騒が遮断される。「……ッ」冷たい
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第5話
最初から言っている通り、卑怯なのは私の方だ。でも、見方を変えてみてほしい。私はただの、ちょっとばかり意気地のない女に過ぎない。湊斗と過ごした七年間、毎日あの冷たい顔を眺めるだけでなく、彼の母親や友人たちに苛められる日々を送ってきた。本当に、心の底からうんざりだ。そのいじめの筆頭が、蓮司だった。昔は私を見下し、人前で散々馬鹿にして、嫌がらせをしてきた男。だから私は意図的に近づき、従順なふりをして蓮司に復讐したのだ。彼を誘惑し、ゆっくりと私という沼に沈めていった。湊斗と離婚するその日に、彼を徹底的に捨て去るつもりで。……彼にバレるまでは。私が湊斗より若い、苦学生の身代わりを見つけて、プラトニックな恋愛を楽しんでいることを。彼は私を品定めし、冷笑しながら罵った。「お前はただ猫被ってるだけの悪女だ。そんな奴が愛理と張り合えるわけねえだろ?湊斗がお前と結婚したのは、見る目がなかったからだな!」私は肯定も否定もしない。そもそも、策を弄して湊斗の妻の座に納まった女が、善人なわけがないのだ。惨めさも、従順さも、弱さも、争わない姿勢も、全部演技なのだから。てっきり湊斗にバラされると思ったが、意外にも彼はこれをネタに私を脅し、支配することを選んだ。蓮司は憎々しげに私を睨み、歯噛みしながら言った。「バラされたくなかったら連絡を絶って、俺のそばで大人しくしてろ。お前みたいな女は、遊び道具にされて、身体でわからせられなきゃ懲りないらしいな!愛理が戻ってきたら、お前なんかどうせ捨てられるんだ。あと、あの若い間男のどこがいいんだ?そんなに好きなのか?ああ?」私はここぞとばかりに悪女の本性を晒し、一歩下がって腕を組み、笑ってみせた。「いいわよ。あなたが愛理を連れ戻してきて。湊斗が離婚するって言ったら、私も判を押すわ」彼は言葉を詰まらせた。そして長い沈黙の後、興奮で声を上ずらせて言った。「……乗った!」あの日、グループLINEで蓮司たちが愛理の話題で盛り上がり、湊斗がベランダで一晩中煙草を吸っていた時、私はとっくに覚悟を決めていたのだ。湊斗のことは、どうしようもないほど愛している。けれど、七年も媚びへつらって尽くしても彼が心を許すことはなく、相変わらず愛理を深く愛しているのを見て、私は本当
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第6話
「『桐島夫人の座にいつまでも居座れるなんて夢見んな。さっさと愛理に場所を空けろ』って……そう言い聞かせてたんだよ」蓮司は悪びれもせず言い放った。そして姿勢を正し、入り口で相変わらず隙がなく、冷淡なほど禁欲的な空気を纏う湊斗をじっと見据えた。だが、笑みを浮かべたその瞳の奥には、深く隠された嫉妬が渦巻いている。湊斗が口を開くより早く、私は屈辱の涙で眼窩を満たし、わざとらしく肩をぶつけるようにしてその場から駆け出した。湊斗は眉を寄せて蓮司を一瞥すると、すぐにきびすを返して私を追ってくる。私の手首を強く掴んだのは、会場の出口あたりだった。彼は私を見下ろし、堪えきれずに溢れた涙の跡を見て、ハッと息を飲んだ。「俺と愛理は、そんな……」彼が言いかけた瞬間、スマホの着信音が空気を切り裂いた。彼は切るが、また鳴る。切っても、また鳴る。画面には「愛理」の文字。彼が出るまで、何度でもかけ続けるという執念を感じさせる。再度着信を拒否した直後、今度は背後から、悲痛な本人の声が響いた。彼女は酔っているらしく、頬を赤らめ、涙で潤んだ瞳で少し先に立っていた。「湊斗、じゃあ今の私って、あなたにとって何なの?」囁くような声が、重い衝撃となって降り注ぐ。湊斗の背中が一瞬で強張り、呼吸が乱れた。黒く長い髪が空中に美しい弧を描く。瞬きする間に、愛理は私の目の前で、湊斗の胸にその顔を深く埋めていた。実に絵になる光景だ。……抱きつかれているのが、私の夫でさえなければ。私は湊斗の手から強引に自分の手を引き抜き、背を向けて歩き出した。彼は我に返ったようで、苛立たしげにこめかみを押さえると、慌てて彼女を引き剥がし、再び困惑したように告げた。「愛理、俺はもう結婚してるんだ」愛理は泣きながら走り去っていった。その言葉は、私の耳にもはっきりと届いた。なんて一途で、忍耐強い愛なのだろう。私はなんだか、無性に胸が苦しくなった。実のところ、愛理が現れたことを恨んではいない。それよりも、二人の間に存在するすべての繋がりが妬ましいのだ。私が春夏秋冬を駆けずり回り、あらゆる策を弄して隙を突き、ようやく手に入れた愛する人。なのに彼女は、ただ一度、淡い視線を送るだけで十分なのだから。ましてや今の愛理は、なりふり構
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第7話
まさか、彼の方から別れを匂わせてくるとは思わなかった。彼に言わせるより、私が物分かりよく切り出した方がいい。私は彼を見つめ、もう一度、静かに繰り返した。「湊斗……離婚、しよう」ずっと胸につかえていた澱を吐き出せたようで、かつてないほどの開放感に包まれる。車内の空気は、急激に重く張り詰めた。湊斗はハンドルを強く握り締めたまま、長い間、口を開こうとしない。私はもう片方の手の人差し指で、薬指に残る指輪の跡をそっと撫でながら、うつむき加減に語りかけた。「高嶺さん、大学の頃と変わらず綺麗だったね。二人が並んでいるのを見て、思い出しちゃった。入学式の時、新入生代表として二人で檀上に上がった時のこと。お互いを見る目が、信頼し合ってるって感じで……」湊斗の伏せた瞳の色が濃くなり、ハンドルを握る手にさらに力がこもる。最初の一言さえ出てしまえば、あとは勇気が湧いてくる。二の句、三の句と、言葉は次々に溢れ出した。私は続ける。「覚えてる?私がずっと湊斗を追いかけてたこと。でも結局、高嶺さんに新しい彼氏ができて、あなたが自棄になってお酒に逃げて……駆けつけた私を見て、冷笑しながら結婚するって言った日のこと。結婚してすぐ、あなたは言ったわよね。『うちは仮面夫婦だ』って。お義母さんにはキャッシュカードを投げつけられて『出て行け』って言われたし……多恵(たえ)さんなんて、クビ覚悟で私を階段から突き落としたりもした。わかってるの。この家の誰も、私を奥さんだなんて認めてなかったって。ただ、もう少し時間が経てば……もう少し待てばって、淡い期待を抱いてただけ。でも結局、待っていたのは高嶺さんの帰国だけだった。家政婦を雇うの、嫌いでしょう?私たち別れたら、また多恵さんを呼び戻せばいいわ。小さい頃からあなたの世話をしてくれてたんだし。あと、胃薬はベッドサイドの引き出しに入れてある。あなたの好きな料理のレシピも、書いて残しておいたから。これからは、高嶺さんと二人で幸せになって。私たちはここでおしまい。あなたはあなたの人生を、私は私の人生を。お互い、もう関わらずに生きていこう」事前に頭の中で何度もリハーサルした通りの台詞を、完璧に演じきった。十分に健気で、虐げられながらも気丈に振る舞う妻を。実のところ、私が彼を好きで、彼が私を好きじゃない
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第8話
湊斗の放った「今度は何を企んでる?」という言葉。それは冷たい棘のように、私が必死に保っていた虚勢と、最後に残っていたわずかな期待を正確に突き刺した。車内の空気は凍りつき、息をするのも苦しいほど重くのしかかる。彼の冷徹な横顔を見つめ返すと、急にどうしようもない疲労感が押し寄せてきた。言い返す気力すら湧いてこない。七年だ。私が何をしても、彼の目にはすべて「下心」として映るのだろう。私の愛情は「執着」に、献身は「当たり前」に。そして今、身を引こうとする決意さえも、「気を引くための駆け引き」へと変換されてしまう。私は顔を背け、窓の外を猛スピードで流れていくネオンの光を見つめた。ため息のように、小さな声が漏れる。「……好きに思えばいいわ」それからの数日間、日常は奇妙な静けさに包まれた。あの日の争いについて、お互いに一言も触れようとしない。愛理は、湊斗が現れそうな場所には必ずと言っていいほど顔を出し、SNSには匂わせ投稿を連投している。悪友たちのグループLINEでは、相変わらず「元サヤ」の美談で盛り上がっているようだ。たまに私の話題が出ても、そこにあるのは軽蔑を含んだ揶揄だけ。私は相変わらず「桐島夫人」を演じ続けている。朝食を用意し、家事をこなし……ただ、以前よりも口数は減った。湊斗はさらに忙しくなったようで、帰宅時間は遅くなる一方だ。その身には、薄い酒の匂いがまとわりついていることもあれば、愛理が好む香水の香りが漂っていることもある。彼は離婚の話題を口にしなくなった。あの一件は、彼の中で私の「企み」として処理されたのだろう。私が自らボロを出して、仮面を剥がすのを待っているようだ。あるいは、もっと単純な無関心かもしれない。私が何をしようと、彼の心は何ひとつ動かないのだ。首を絞められるような息苦しい日々。その中で、唯一息をつけるのが、あの若い男の子――春日翔太 (かすが しょうた)からの連絡だった。翔太はボランティア活動で知り合った貧しい大学生だ。目元には学生時代の湊斗に似た清廉な面影があるが、その瞳はずっと怯えていて、必死に何かを掴もうとする渇望に満ちている。私は彼を援助している。彼から送られてくる控えめな感謝や挨拶に、時折短い返信を返す。そこに色恋めいた感情はなく、むしろ精神的な「拠り
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第9話
どうやって、あの広くて冷え切った家に帰り着いたのか覚えていない。胃の中で暴れるアルコールと、こみ上げる屈辱感が吐き気となって押し寄せ、私はトイレで視界が暗くなるほど嘔吐を繰り返した。涙が前触れもなく頬を伝う。それは湊斗が去ってしまったからではない。骨の髄まで染み込むような羞恥と、絶望のせいだ。彼は見たはずだ。あのメッセージを見たのなら、私を問い詰めるなり、怒鳴りつけるなりできたはずなのに。彼は最も残酷な方法を選んだ。「無視」だ。そして行動をもって、誰が彼にとって本当に大切な人なのかを突きつけてきた。スマホが鳴る。翔太からだ。勇気を振り絞ってかけてきたのだろう。「遥香さん……大丈夫ですか?さっきのメッセージ……」「大丈夫よ」私は彼の言葉を遮った。声が酷く掠れている。「これからは……もう連絡しないで」彼が何か言う前に通話を切り、そのまま電源も落とした。この世界の何もかもが、どうしようもなく疎ましかった。ソファに身体を丸めてどれくらい経っただろう。玄関からドアが開く音がした。湊斗が帰ってきたのだ。濃密な酒の匂いを漂わせて。足元をふらつかせながらリビングへ入ってきた彼は、ネクタイを緩め、その瞳は珍しく焦点が合わず、混乱の色を宿していた。一歩、また一歩と私に近づいてくる。長身の影が私を覆い隠し、威圧感がのしかかる。「あいつは誰だ」と、彼が問う。低くしゃがれた声には、酒気と、言葉にできない焦燥が滲んでいた。私は顔を上げ、死人のような目で彼を見つめた。「誰って?」「『遥香さん』なんて呼んでた男だ」突然、手首を掴まれた。骨が軋むほどの力だ。「遥香。お前、そんなに寂しかったのか?ああ?」痛みに息を飲むが、その痛みがかえって私の心底にある、自暴自棄な反抗心に火をつけた。私は彼を見据え、ふっと笑った。涙は堰を切ったように溢れ出し、止まらない。「湊斗、どういう立場で私を問い詰めるつもり?夫として?みんなの前で妻を置き去りにして、元カノを送っていった夫として?」私の言葉が突き刺さったのか、彼の瞳が一瞬揺らいだ。だがそれはすぐに、より深い酔いと怒りに塗りつぶされる。彼はもう一方の手を上げ、乱暴に私の涙を拭った。その動作には、彼自身さえ気づいていない不器用な焦りが混じっていた。
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第10話
あの夜を境に、私と湊斗は完全な冷戦状態に陥った。いや、正確には私が一方的にコミュニケーションの回路を遮断したのだ。彼は相変わらず朝早くに出て行き、夜遅くに帰ってくる。時折、何か話しかけようとしてくる気配はあるが、私はただ無心で家事をこなし、すぐに部屋へと引き籠もるようにしていた。彼が纏う香水の匂いが強かろうが弱かろうが、もはやどうでもよかった。蓮司からは何度か連絡があった。その口調は回を重ねるごとに焦燥と苛立ちを募らせていた。「遥香、お前俺を遊んでんのか?湊斗と愛理はもう秒読みだぞ。なんでまだ動きがねえんだよ。あのガキ、またお前に連絡してきてんじゃねえだろうな?そろそろ退学に追い込んでやってもいいんだぞ!はっきり言えよ、いつ離婚すんだ!」彼が私を自分の所有物か何かのように勘違いし、欲求不満をぶつけてくるその浅ましさが、今となっては滑稽でしかなかった。私はもう、彼のご機嫌取りをする気力すらなく、ただ冷ややかに言い返した。「蓮司、そんなに自信があるなら、愛理にもっと頑張らせなさいよ。湊斗の口から私に『離婚しよう』って言わせてみて……そうじゃなきゃ、話にならないわ」彼ら全員に振り回されるのは、もううんざりだ。転機は、ある週末の早朝に訪れた。私は部屋の整理をし、使わなくなった物をまとめようとしていた。古い段ボール箱の底に、一冊の硬い表紙のノートがあるのを見つけたのだ。魔が差したのか、あるいは吸い寄せられるようにして、私はそれを開いた。湊斗の筆跡だ。日付は私たちが結婚して間もない頃から始まっており、断片的な思考が書き殴られている。【彼女は今日もあの料理を作った。嫌いなはずなのに、全部食べてしまった】【胃痛。彼女が一晩中看病してくれた……何のために?】【蓮司たちの言葉は酷すぎる。彼女の目が赤くなっていた。泣きはしなかった。意外と芯が強い】【愛理が婚約した。そんなに海外がいいのか?ハッ】【彼女の寝顔は、そこまで憎たらしくない】【七年か……】最後の数ページ、最近の日付の文字は、明らかに乱れ、重苦しい筆圧で刻まれていた。【彼女のスマホの通知……あの呼び名……】【泣かれた。愛しているのかと聞かれた。俺も自問している】【愛理が帰ってきた。彼女が離婚を切り出してきた……あいつ、前から逃げ
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