フェリーが島に近づくにつれて、海の色が変わった。深い藍色から鈍い鉛色へ。エレナ・コーエンは甲板の手すりにもたれ、冷たい風に髪を乱されながら、眼前に浮かび上がる島の輪郭を見つめていた。 スカンディナヴィア半島北部、ノルウェー本土から約四十キロ。地図上では小さな点にすぎないこの島に、彼女はこれから六ヶ月間滞在することになる。「コーエン博士」 背後から声がかかった。振り返ると、紺色のピーコートを着た五十代の女性が立っていた。引き締まった顔立ち、灰色の瞳。看護師長のイングリッド・ハンセンだ。「もうすぐ到着です。荷物の準備はよろしいですか?」「ええ、問題ありません」 エレナは小さく微笑んだ。職業的な、完璧に制御された微笑み。三十八年の人生で磨き上げてきた、他者を安心させるための表情だ。 イングリッドの視線が一瞬、エレナの顔に留まった。何かを測るような、あるいは確かめるような眼差し。しかしすぐに視線を外し、島を指差した。「あれがセント・オラフ療養所です」 島の中央、小高い丘の上に建つ石造りの建物。十九世紀末に建てられた旧精神病院を改装した私設療養施設だという。三階建ての重厚な構造、尖塔アーチの窓、周囲を囲む高い石壁。まるで中世の修道院のような佇まいだった。「歴史を感じますね」「ええ。一八八七年の建造です。当時は王立精神病院として使われていました。今では……まあ、富裕層のための特別な場所、とでも言いましょうか」 イングリッドの声には微かな皮肉が混じっていた。 フェリーが桟橋に接岸する。波が岩壁に砕ける音が、太鼓のように響いた。十月末のこの地域は既に冬の気配が濃厚で、空気には塩と海藻と、何か古い石の匂いが混ざっていた。 桟橋に降り立つと、一台の黒いランドローバーが待っていた。運転席から降りてきたのは、四十代後半と思われる痩身の男性。茶色のツイードジャケット、丸眼鏡。どこか学者然とした雰囲気を漂わせている。「ようこそ、コーエン博士。施設長のアクセル・ベルグルンドです」 握手を交わす。男の手は驚くほど温かかった。「お会いできて光栄です、ベルグルンド先生。メールでのやり取りだけでしたから」「こちらこそ。あなたの論文は全て読ませていただきました。特に解離性障害における認知行動療法の統合アプローチについての研究は素晴らしかった」 アクセルの褒め言葉に
Last Updated : 2025-11-30 Read more