All Chapters of 氷解の灯台、記憶の孤島: Chapter 1 - Chapter 8

8 Chapters

第一章:到着

 フェリーが島に近づくにつれて、海の色が変わった。深い藍色から鈍い鉛色へ。エレナ・コーエンは甲板の手すりにもたれ、冷たい風に髪を乱されながら、眼前に浮かび上がる島の輪郭を見つめていた。 スカンディナヴィア半島北部、ノルウェー本土から約四十キロ。地図上では小さな点にすぎないこの島に、彼女はこれから六ヶ月間滞在することになる。「コーエン博士」 背後から声がかかった。振り返ると、紺色のピーコートを着た五十代の女性が立っていた。引き締まった顔立ち、灰色の瞳。看護師長のイングリッド・ハンセンだ。「もうすぐ到着です。荷物の準備はよろしいですか?」「ええ、問題ありません」 エレナは小さく微笑んだ。職業的な、完璧に制御された微笑み。三十八年の人生で磨き上げてきた、他者を安心させるための表情だ。 イングリッドの視線が一瞬、エレナの顔に留まった。何かを測るような、あるいは確かめるような眼差し。しかしすぐに視線を外し、島を指差した。「あれがセント・オラフ療養所です」 島の中央、小高い丘の上に建つ石造りの建物。十九世紀末に建てられた旧精神病院を改装した私設療養施設だという。三階建ての重厚な構造、尖塔アーチの窓、周囲を囲む高い石壁。まるで中世の修道院のような佇まいだった。「歴史を感じますね」「ええ。一八八七年の建造です。当時は王立精神病院として使われていました。今では……まあ、富裕層のための特別な場所、とでも言いましょうか」 イングリッドの声には微かな皮肉が混じっていた。 フェリーが桟橋に接岸する。波が岩壁に砕ける音が、太鼓のように響いた。十月末のこの地域は既に冬の気配が濃厚で、空気には塩と海藻と、何か古い石の匂いが混ざっていた。 桟橋に降り立つと、一台の黒いランドローバーが待っていた。運転席から降りてきたのは、四十代後半と思われる痩身の男性。茶色のツイードジャケット、丸眼鏡。どこか学者然とした雰囲気を漂わせている。「ようこそ、コーエン博士。施設長のアクセル・ベルグルンドです」 握手を交わす。男の手は驚くほど温かかった。「お会いできて光栄です、ベルグルンド先生。メールでのやり取りだけでしたから」「こちらこそ。あなたの論文は全て読ませていただきました。特に解離性障害における認知行動療法の統合アプローチについての研究は素晴らしかった」 アクセルの褒め言葉に
last updateLast Updated : 2025-11-30
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第二章:侵食

 朝、目覚めたとき、エレナは昨夜のことを夢だったと信じようとした。 しかし机の引き出しを開けると、青い日記帳はまだそこにあった。現実だったのだ。 日記帳を手に取る。今朝は不思議と手の震えがなかった。抗不安薬が効いているのか、それとも心のどこかで、真実を知る覚悟ができたのか。 ページを開く。 『2015年10月28日 今日、リリーが死んだ。 交通事故だった。私の不注意だった。 彼女は七歳だった。 私は二度と、この日のことを思い出さないと誓う』 それ以降のページは全て白紙だった。 エレナは日記帳を閉じ、深く息を吸った。 リリー。七歳の女の子。交通事故。 しかし記憶のどこを探っても、その出来事は見つからなかった。まるで誰か他人のことのように感じられた。 いや、これは—— ノックの音が思考を中断させた。「コーエン博士、朝食の準備ができています」 イングリッドの声だ。「すぐに行きます」 エレナは日記帳を引き出しの奥深くにしまい込んだ。 ダイニングルームでは、アクセルが一人、新聞を読んでいた。「おはようございます。よく眠れましたか?」「ええ、ありがとうございます」 嘘だった。しかし治療者として、私生活の問題を表に出すわけにはいかない。 マグヌスが持ってきた朝食は、オートミール、ベリージャム、チーズ、それにコーヒー。エレナは機械的に食べた。味がよく分からなかった。「今朝、ソフィアに会っていただけます」アクセルが新聞から顔を上げて言った。「彼女の部屋は三階です。イングリッドが案内します」「わかりました。事前に知っておくべきことは?」「彼女は……気分の浮き沈みが激しい。優しいときもあれば、突然攻撃的になることもあります。人格交代の予兆は、瞳孔の変化と声のトーンです。注意深く観察してください」「了解しました」 朝食を終え、イングリッドに案内されて三階へ上がる。 三階の廊下は二階よりも狭く、天井も低かった。かつて重症患者を隔離していた区画だろう。壁の塗装は剥げかけ、ところどころに染みが浮いていた。 廊下の突き当たりの部屋の前で、イングリッドが足を止めた。「ここです。何かあったら、すぐに呼んでください。私は階下にいます」「大丈夫です」 エレナは深呼吸をし、ドアをノックした。「ソフィア? エレナ・コーエンです。入ってもいい
last updateLast Updated : 2025-11-30
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第三章:鏡像

 目を覚ますと、エレナは自分の部屋のベッドに寝かされていた。 窓から差し込む灰色の光。曇り空だ。 体を起こそうとすると、頭痛が走った。こめかみがズキズキと痛む。「気がつきましたか」 イングリッドの声だった。彼女は椅子に座り、エレナを見守っていた。「何が……」「廊下で倒れていたんです。マグヌスが見つけて、部屋まで運びました」 エレナは額を押さえた。記憶が断片的だった。鏡、少女、リリー……「鏡は……」「鏡?」 イングリッドが首を傾げた。「廊下にあった鏡です。それから、私の部屋にも……」「コーエン博士、廊下に鏡などありませんよ。あなたの部屋にも」 エレナは立ち上がり、部屋を見回した。 昨夜確かにあった姿見は、なくなっていた。「でも、確かに……」「悪夢を見たのでしょう」イングリッドが優しく言った。「この仕事は神経をすり減らします。特に初日は」 エレナは混乱していた。あれは夢だったのか? でも、あまりにもリアルだった。「今、何時ですか?」「午前十時です。朝食の時間は過ぎてしまいましたが、マグヌスに頼んで何か持ってこさせましょう」「いえ、大丈夫です。少し散歩したいと思います」「外は風が強いですよ。嵐が近づいています」「構いません。新鮮な空気が必要なんです」 エレナは服を着替え、コートを羽織った。 外に出ると、風が容赦なく吹きつけてきた。空は厚い雲に覆われ、海は荒れ始めていた。 エレナは療養所の敷地を歩き始めた。石壁に囲まれた庭園、枯れかけた花壇、古い井戸。 そして、敷地の隅に小さな墓地があることに気づいた。 近づいてみると、十数基の墓石が並んでいた。一八九〇年代から一九二〇年代の日付が刻まれている
last updateLast Updated : 2025-12-01
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第四章:反転

 朝、目覚めたとき、エレナは再び自分の部屋にいた。 しかし今回は、何が現実で何が幻覚なのか、もはや区別がつかなくなっていた。 体を起こすと、手のひらに痛みを感じた。見ると、小さな切り傷がいくつかあった。 ガラスの破片だ。 つまり、昨夜のことは—— ドアが開き、イングリッドが入ってきた。彼女の表情は厳しかった。「コーエン博士、お話があります」「何でしょう?」「昨夜、階段の鏡を割ったのはあなたですね」 エレナは黙った。「あの鏡は十九世紀のアンティークでした。施設の貴重な備品です」「申し訳ありません。しかし、あの鏡は——」「どうしてそこにあったのか、とお聞きになりたいのでしょう?」 イングリッドが遮った。「あの鏡はずっとそこにありました。あなたが来る前から」「でも、初日にはなかった——」「ありました」イングリッドの声は断固としていた。「コーエン博士、率直に申し上げます。あなたは疲れています。この仕事を続けられる状態ではないかもしれません」 エレナは立ち上がった。「私は大丈夫です」「本当に? では、なぜ毎晩悪夢を見るのですか? なぜ幻覚を見るのですか? なぜあなたの部屋から、空の薬瓶が三つも見つかったのですか?」 エレナは答えられなかった。「ベルグルンド先生と相談しました。あなたには休養が必要です。嵐が過ぎたら、本土に戻っていただくことになるかもしれません」「待ってください」エレナは懇願した。「ソフィアの治療はまだ始まったばかりです。私が今投げ出したら——」「あなた自身が治療を必要としているのです」 イングリッドは部屋を出て行った。 エレナは窓辺に崩れ込んだ。 外では、嵐が本格的に到来していた。雨が激しく窓を叩き、風が建物全体を揺らしていた。 もう、
last updateLast Updated : 2025-12-02
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第五章:深淵

 療養所に戻ると、イングリッドとアクセルが玄関で待っていた。「無事で良かった」アクセルが安堵の表情を浮かべた。「心配しました」「申し訳ありませんでした」 エレナは頭を下げた。「私は……混乱していました。でも、今は少し落ち着いています」「温かいお茶を飲んで、体を温めてください」イングリッドが毛布を持ってきた。「それから、話をしましょう」 四人は図書室に集まった。暖炉には火が入っていて、部屋は心地よい温かさだった。 エレナはソファに座り、温かいハーブティーを両手で包んだ。「全て、話してください」 エレナは静かに言った。「私について。リリーについて。本当のことを」 アクセルとイングリッドは顔を見合わせた。そして、アクセルが口を開いた。「コーエン博士——いえ、エレナ。あなたは十年前、娘のリリーを交通事故で亡くしました。ここ、この島で」 エレナは頷いた。もう否定する力はなかった。「事故の詳細は?」「あなたとリリーは、マリア——あなたの妹を訪ねてきていました。マリアはすでに癌を患っていましたが、家族との時間を大切にしたいと言って、この島の別荘で療養していました」 アクセルは続けた。「ある午後、あなたとリリーは島の西側を散歩していました。そこには、島で唯一の舗装道路があります。灯台に続く道です」 エレナの手が震え始めた。「リリーは……蝶を追いかけて、道路に飛び出しました。そこに、定期便のトラックが——」「もういいわ」 エレナは目を閉じた。「思い出したくない部分もあるでしょう」イングリッドが優しく言った。「でも、知らなければならないこともあります」「何を?」「事故の後、あなたは完全な精神崩壊を起こしました。夫のアダムが付き添い、本土の病院に入院しましたが、あなたは現実を受け
last updateLast Updated : 2025-12-03
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第六章:酷嵐

 翌朝、エレナが目覚めると、ソフィアは彼女の隣で眠っていた。 穏やかな寝顔。まだ子供のような、でも何か達観したような表情。 エレナはそっとベッドを離れ、窓の外を見た。 嵐は完全に去り、空は透き通るような青さだった。海も穏やかになっていた。 しかし—— エレナの心の中には、まだ嵐が残っていた。 真実を知った今、次は何をすべきか。 リリーの死を受け入れただけでは、終わらない。 アダムのこと、失われた十年のこと、そして—— 自分が誰なのか、という問い。 私は治療者か? それとも、癒されるべき者か? いや、その二分法自体が間違っているのかもしれない。 人は誰もが、癒す者であり癒される者だ。「先生?」 ソフィアが目を覚ました。「おはよう。よく眠れた?」「はい。久しぶりに悪夢を見ませんでした」 少女は起き上がり、窓辺に来た。「綺麗……」「ええ。嵐の後は、いつも空が澄んでいるわね」 二人はしばらく、無言で景色を眺めていた。「先生、これから……どうしますか?」 ソフィアが聞いた。「私は……まだ分からない。でも一つだけ確かなことがある」「何ですか?」「あなたと、ここにいる皆さんに感謝しているということ。私を諦めなかったことに」 ソフィアは微笑んだ。「私こそ、感謝しています。先生が来てくれて、私も変われた気がします」「どういうこと?」「私はずっと、母の死を受け入れられませんでした。解離的な症状も、おそらくそれが原因です。でも先生を助けることで、私も自分自身と向き合えた」 エレナはソフィアを抱きしめた。「ありがとう、ソフィア。あなたは本当に強い子ね」
last updateLast Updated : 2025-12-04
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第七章:灯台

 その夜、エレナは一つの決断をした。 アダムに電話をする、と。 しかし、いざ電話を手に取ると、手が震えた。 十年ぶりに声を聞く。何を話せばいいのか。「大丈夫ですよ」 ソフィアが励ました。彼女はエレナの部屋にいた。「先生なら、きっと適切な言葉が見つかります」「適切な言葉……」エレナは苦笑した。「私は他者には適切な言葉を見つけられるのに、自分のこととなると……」「それが人間です」 エレナは深呼吸をし、番号を押した。 呼び出し音が鳴る。一回、二回、三回——「もしもし?」 男性の声。少し掠れているが、確かにアダムの声だった。「アダム……?」 沈黙。 そして——「エレナ……?」 声が震えていた。「十年ぶりね」 エレナの目に涙が浮かんだ。「ああ……君の声……」 アダムが息を呑む音が聞こえた。「君は……思い出したのか?」「ええ。全てを」「リリーのことも?」「ええ」 二人とも、しばらく何も言えなかった。電話越しに、互いの呼吸だけが聞こえた。「エレナ、僕は——」「私こそ、ごめんなさい」 エレナが遮った。「あなたを拒絶して。離婚を求めて。全てから逃げて」「いや、君は悪くない。あれは——」「私の選択だったわ。弱い選択だった」 エレナは窓の外を見た。灯台の光が規則正しく明滅していた。「でも、今は……今は向き合える気がする。痛みと。喪失と
last updateLast Updated : 2025-12-05
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第八章:氷解

  三日後、フェリーが島に到着した。 そして、一人の男が降りてきた。 アダムだった。 エレナは桟橋で待っていた。心臓が激しく打っていた。 アダムは少し白髪が増えていた。しかし、その優しい瞳は変わっていなかった。 二人は数メートルの距離で立ち止まった。「エレナ……」「アダム……」 そして—— エレナが先に歩み寄った。 アダムの腕の中に飛び込んだ。「ごめんなさい……ごめんなさい……」 何度も謝った。「いいんだ」アダムが彼女の頭を撫でた。「君は戻ってきてくれた。それだけで十分だ」 二人は長い間、抱き合っていた。 波の音と、海鳥の鳴き声だけが聞こえていた。 エレナはアダムを療養所に案内した。 アクセル、イングリッド、マグヌス、アストリッド、そしてソフィアが迎えた。「ようこそ」アクセルが握手を求めた。「あなたの手紙、エレナに届けました」「ありがとうございます」アダムが頭を下げた。「皆さんがエレナを支えてくださったこと、心から感謝します」 昼食の後、エレナとアダムは二人で島を歩いた。 療養所の庭園、墓地、そして——事故が起きた道路。 エレナは足を止めた。「ここよ」 アダムも立ち止まった。「ここで……」「ええ。リリーは、あそこの草むらから蝶を追いかけて、道路に飛び出した」 エレナは道路を指差した。「そして、トラックが——」 言葉が詰まった。 アダムが彼女の手を握った。「エレナ、君は最善を尽くした。あの日、君はリリーの手をずっと握っていた。で
last updateLast Updated : 2025-12-06
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