Masuk朝、目覚めたとき、エレナは昨夜のことを夢だったと信じようとした。
しかし机の引き出しを開けると、青い日記帳はまだそこにあった。現実だったのだ。
日記帳を手に取る。今朝は不思議と手の震えがなかった。抗不安薬が効いているのか、それとも心のどこかで、真実を知る覚悟ができたのか。
ページを開く。
『2015年10月28日
今日、リリーが死んだ。
交通事故だった。私の不注意だった。
彼女は七歳だった。
私は二度と、この日のことを思い出さないと誓う』
それ以降のページは全て白紙だった。
エレナは日記帳を閉じ、深く息を吸った。
リリー。七歳の女の子。交通事故。
しかし記憶のどこを探っても、その出来事は見つからなかった。まるで誰か他人のことのように感じられた。
いや、これは——
ノックの音が思考を中断させた。
「コーエン博士、朝食の準備ができています」
イングリッドの声だ。
「すぐに行きます」
エレナは日記帳を引き出しの奥深くにしまい込んだ。
ダイニングルームでは、アクセルが一人、新聞を読んでいた。
「おはようございます。よく眠れましたか?」
「ええ、ありがとうございます」
嘘だった。しかし治療者として、私生活の問題を表に出すわけにはいかない。
マグヌスが持ってきた朝食は、オートミール、ベリージャム、チーズ、それにコーヒー。エレナは機械的に食べた。味がよく分からなかった。
「今朝、ソフィアに会っていただけます」アクセルが新聞から顔を上げて言った。「彼女の部屋は三階です。イングリッドが案内します」
「わかりました。事前に知っておくべきことは?」
「彼女は……気分の浮き沈みが激しい。優しいときもあれば、突然攻撃的になることもあります。人格交代の予兆は、瞳孔の変化と声のトーンです。注意深く観察してください」
「了解しました」
朝食を終え、イングリッドに案内されて三階へ上がる。
三階の廊下は二階よりも狭く、天井も低かった。かつて重症患者を隔離していた区画だろう。壁の塗装は剥げかけ、ところどころに染みが浮いていた。
廊下の突き当たりの部屋の前で、イングリッドが足を止めた。
「ここです。何かあったら、すぐに呼んでください。私は階下にいます」
「大丈夫です」
エレナは深呼吸をし、ドアをノックした。
「ソフィア? エレナ・コーエンです。入ってもいいですか?」
しばらく沈黙が続いた。それから、か細い声が聞こえた。
「……どうぞ」
ドアを開けると、予想外に明るい部屋だった。大きな窓から朝日が差し込み、壁は白く塗られ、本棚には色とりどりの本が並んでいる。ベッドの上には、手作りのキルトがかけられていた。
窓辺の椅子に、一人の少女が座っていた。
長い金髪、青い瞳、華奢な体つき。白いワンピースを着て、膝の上で本を開いている。
「ソフィア?」
「はい」
少女が顔を上げた。その瞳は澄んでいて、まるで北欧の湖のようだった。
「エレナ先生ですね。父から聞いています」
「お会いできて嬉しいわ」
エレナは柔らかく微笑み、部屋に入った。ドアは開けたままにしておく。
「座ってもいいかしら?」
「どうぞ」
ソフィアが向かいの椅子を指差した。
二人は向かい合って座った。エレナは穏やかな表情を保ちながら、少女を観察した。
表面的には、ソフィアは健康的な十六歳の少女に見えた。しかし目の奥に、何か——計り知れない深さがあった。古い魂を宿しているような、そんな印象を受けた。
「今日は初日だから、ゆっくり話しましょう。あなたのことを教えてくれる? 好きなこと、嫌いなこと、何でもいいわ」
ソフィアは少し考えてから、口を開いた。
「私は……本を読むのが好きです。特に詩が好き」
「どんな詩人?」
「シルヴィア・プラス。アンネ・セクストン。告白詩人たちです」
エレナの眉が微かに上がった。十六歳にしては、随分と重いテーマの詩人だ。
「なぜ彼女たちが好きなの?」
ソフィアの瞳が、一瞬暗くなった。
「彼女たちは正直だから。自分の暗闇を隠さない。私も……暗闇があるんです、先生」
「暗闇?」
「私の中には、たくさんの声がいるんです。私じゃない声が。時々、私が誰なのか分からなくなる」
ソフィアの声は穏やかだったが、その言葉には重みがあった。
「その声について、もっと話してくれる?」
少女は窓の外を見た。海が光っていた。
「一番大きな声はカタリーナ。彼女は怒っている。いつも怒っている。父に、世界に、そして私自身に」
「カタリーナは、いつ出てくるの?」
「私が怖いとき。誰かが私を傷つけようとするとき。彼女は私を守ってくれる」
「他には?」
「リーセ。小さな子。五歳くらい。彼女は泣いてばかりいる。ママを呼んでいる」
ママ。
エレナの胸が締め付けられた。
「あなたのお母さんは……五年前に亡くなったと聞いています」
「はい。癌でした。最期は、とても苦しそうだった」
ソフィアの声に感情の波はなかった。まるで他人のことを語るような、淡々とした口調だった。
「それは辛かったでしょうね」
「……私、覚えていないんです。お葬式のこと。母の最期のこと。断片しか思い出せない」
少女の目に、初めて涙が浮かんだ。
「先生、私……壊れているんでしょうか?」
エレナは立ち上がり、ソフィアの隣に膝をついた。少女の手を優しく握った。
「いいえ。あなたは壊れていない。ただ、心が自分を守ろうとしているだけ。それは間違ったことじゃないわ」
「でも、私は正常じゃない。普通の女の子じゃない」
「『普通』なんて誰が決めるの? ソフィア、あなたは十分に強い。ここまで生き延びてきたんだから」
ソフィアが泣き始めた。小さく、静かに。
エレナは彼女を抱きしめた。
そのとき——
廊下で足音が聞こえた。
誰かが走っている。子供の足音だ。
エレナは抱擁を解き、ドアの方を見た。
「今の……」
「何も聞こえませんでしたよ」
ソフィアが言った。彼女の声は、急に冷たくなっていた。
エレナが少女を見ると、その表情が変わっていた。涙の跡は残っているのに、目は乾いていた。そして——瞳孔が開いていた。
「先生」
ソフィアの声が低くなった。
「あなた、リリーのこと、覚えていないんですね」
エレナの血が凍った。
「何……何を言っているの?」
「リリー。あなたの娘。七歳で死んだ。十年前の今日」
違う。これは——
「あなたは誰? ソフィア?」
「私はカタリーナ」少女が笑った。冷たい、嘲るような笑い。「そしてあなたは、自分が誰なのかも分かっていない哀れな女」
「ソフィア、落ち着いて——」
「私はソフィアじゃない!」
少女が立ち上がり、エレナを睨みつけた。
「あなたは治療者のふりをしている。でも本当は、あなたこそが一番壊れている」
エレナは後ずさった。心臓が激しく打っている。
「ソフィア、深呼吸して。私はあなたを傷つけない——」
「嘘つき」カタリーナが囁いた。「あなたは娘を傷つけた。娘を殺した」
「やめて……」
エレナの声が震えた。
そのとき、ドアが開き、イングリッドが入ってきた。
「何があったんです?」
ソフィア——いや、カタリーナが振り返った。
「何もないわ。ただのお喋りよ、ねえ先生?」
そして再び、少女の表情が変わった。瞳孔が収縮し、顔から緊張が抜けた。
「先生……? 私、また……」
ソフィアの声が戻っていた。彼女は混乱した様子で周囲を見回した。
「大丈夫よ」イングリッドが近づき、少女の肩を抱いた。「コーエン博士、今日はこれで終わりにしましょう。ソフィアは疲れています」
エレナは頷いた。声が出なかった。
部屋を出て、階段を降りる。足が震えていた。
リリー。
なぜソフィアがその名前を知っているのか?
そして、なぜ私は覚えていないのか?
その日の午後、エレナは図書室に籠もった。
自分の著書『記憶の宮殿——解離と自己の再構築』を読み返した。自分で書いたはずの本なのに、初めて読むような奇妙な感覚があった。
特に第七章「トラウマ記憶の抑圧と解離性健忘」の箇所。
『極度のトラウマ体験は、心の防衛機制として記憶の解離を引き起こすことがある。当事者は出来事を完全に忘れ、まるで自分ではない誰かの体験のように感じる。これは自己保存のメカニズムであり……』
まるで、自分自身のことを書いているようだった。
いや、違う。
これはただの学術書だ。私は研究者だ。治療者だ。
でも——
本を閉じ、窓の外を見た。雲が厚くなってきていた。天気予報では、明日から数日間、大きな低気圧が接近するという。
嵐が来る。
そして嵐が来れば、この島は完全に孤立する。
ポケットから薬瓶を取り出そうとして——手が止まった。
瓶が空だった。
いつの間にか、全部飲んでしまったのだ。
パニックが襲ってくる。薬がなければ、感情を制御できない。私は——
「コーエン博士」
アクセルの声に振り返った。彼は図書室の入り口に立っていた。
「ソフィアとのセッションはどうでしたか?」
「……彼女は、私の個人情報を知っていました」
エレナの声は硬かった。
「何を?」
「私の過去について。私が話したことのない、私自身も覚えていないことを」
アクセルの表情が曇った。
「それは……おそらく、彼女の症状の一部です。解離性障害の患者は時に、他者の心を読むような発言をします。実際には、微細な表情や仕草から情報を読み取っているだけなのですが」
「でも——」
「コーエン博士」アクセルが近づいてきた。「あなたは疲れています。この仕事は、精神的に過酷です。今夜はゆっくり休んでください。明日、また新しい気持ちで始めましょう」
エレナは頷いた。
しかし心の奥で、小さな声が囁いていた。
何かがおかしい。
この施設が。
ソフィアが。
そして、私自身が。
その夜、エレナは再び悪夢を見た。
今度ははっきりと見えた。
小さな女の子。栗色の髪、茶色の瞳。笑顔で手を振っている。
「ママ、見て! 見て!」
道路を横断しようとしている。
そして——
車のブレーキ音。
悲鳴。
エレナは叫びながら目を覚ました。
部屋は暗かった。しかし——
鏡があった。
昨日まではなかった場所に、姿見が一つ。
エレナは立ち上がり、鏡に近づいた。
鏡の中の自分を見る。青白い顔、乱れた髪、怯えた目。
そして——
鏡の向こうに、誰かが立っていた。
小さな女の子。
エレナは悲鳴を上げようとして——
鏡を見直した。
誰もいなかった。
ただの幻覚だ。疲労とストレスによる幻覚だ。
しかし、鏡がここにあることは幻覚ではなかった。
誰が運んできたのか?
なぜ?
エレナは部屋のドアを開け、廊下を見た。
誰もいない。
しかし廊下の奥、階段の手前に——
もう一つ、鏡があった。
エレナは廊下に出た。鏡に近づく。
そして、その鏡にも——
小さな女の子の姿が映っていた。
今度ははっきりと見えた。
栗色の髪。茶色の瞳。
リリー。
「ママ」
少女が囁いた。
エレナの膝から力が抜けた。
床に崩れ落ちる。
そして、全てが暗転した。
三日後、フェリーが島に到着した。 そして、一人の男が降りてきた。 アダムだった。 エレナは桟橋で待っていた。心臓が激しく打っていた。 アダムは少し白髪が増えていた。しかし、その優しい瞳は変わっていなかった。 二人は数メートルの距離で立ち止まった。「エレナ……」「アダム……」 そして—— エレナが先に歩み寄った。 アダムの腕の中に飛び込んだ。「ごめんなさい……ごめんなさい……」 何度も謝った。「いいんだ」アダムが彼女の頭を撫でた。「君は戻ってきてくれた。それだけで十分だ」 二人は長い間、抱き合っていた。 波の音と、海鳥の鳴き声だけが聞こえていた。 エレナはアダムを療養所に案内した。 アクセル、イングリッド、マグヌス、アストリッド、そしてソフィアが迎えた。「ようこそ」アクセルが握手を求めた。「あなたの手紙、エレナに届けました」「ありがとうございます」アダムが頭を下げた。「皆さんがエレナを支えてくださったこと、心から感謝します」 昼食の後、エレナとアダムは二人で島を歩いた。 療養所の庭園、墓地、そして——事故が起きた道路。 エレナは足を止めた。「ここよ」 アダムも立ち止まった。「ここで……」「ええ。リリーは、あそこの草むらから蝶を追いかけて、道路に飛び出した」 エレナは道路を指差した。「そして、トラックが——」 言葉が詰まった。 アダムが彼女の手を握った。「エレナ、君は最善を尽くした。あの日、君はリリーの手をずっと握っていた。で
その夜、エレナは一つの決断をした。 アダムに電話をする、と。 しかし、いざ電話を手に取ると、手が震えた。 十年ぶりに声を聞く。何を話せばいいのか。「大丈夫ですよ」 ソフィアが励ました。彼女はエレナの部屋にいた。「先生なら、きっと適切な言葉が見つかります」「適切な言葉……」エレナは苦笑した。「私は他者には適切な言葉を見つけられるのに、自分のこととなると……」「それが人間です」 エレナは深呼吸をし、番号を押した。 呼び出し音が鳴る。一回、二回、三回——「もしもし?」 男性の声。少し掠れているが、確かにアダムの声だった。「アダム……?」 沈黙。 そして——「エレナ……?」 声が震えていた。「十年ぶりね」 エレナの目に涙が浮かんだ。「ああ……君の声……」 アダムが息を呑む音が聞こえた。「君は……思い出したのか?」「ええ。全てを」「リリーのことも?」「ええ」 二人とも、しばらく何も言えなかった。電話越しに、互いの呼吸だけが聞こえた。「エレナ、僕は——」「私こそ、ごめんなさい」 エレナが遮った。「あなたを拒絶して。離婚を求めて。全てから逃げて」「いや、君は悪くない。あれは——」「私の選択だったわ。弱い選択だった」 エレナは窓の外を見た。灯台の光が規則正しく明滅していた。「でも、今は……今は向き合える気がする。痛みと。喪失と
翌朝、エレナが目覚めると、ソフィアは彼女の隣で眠っていた。 穏やかな寝顔。まだ子供のような、でも何か達観したような表情。 エレナはそっとベッドを離れ、窓の外を見た。 嵐は完全に去り、空は透き通るような青さだった。海も穏やかになっていた。 しかし—— エレナの心の中には、まだ嵐が残っていた。 真実を知った今、次は何をすべきか。 リリーの死を受け入れただけでは、終わらない。 アダムのこと、失われた十年のこと、そして—— 自分が誰なのか、という問い。 私は治療者か? それとも、癒されるべき者か? いや、その二分法自体が間違っているのかもしれない。 人は誰もが、癒す者であり癒される者だ。「先生?」 ソフィアが目を覚ました。「おはよう。よく眠れた?」「はい。久しぶりに悪夢を見ませんでした」 少女は起き上がり、窓辺に来た。「綺麗……」「ええ。嵐の後は、いつも空が澄んでいるわね」 二人はしばらく、無言で景色を眺めていた。「先生、これから……どうしますか?」 ソフィアが聞いた。「私は……まだ分からない。でも一つだけ確かなことがある」「何ですか?」「あなたと、ここにいる皆さんに感謝しているということ。私を諦めなかったことに」 ソフィアは微笑んだ。「私こそ、感謝しています。先生が来てくれて、私も変われた気がします」「どういうこと?」「私はずっと、母の死を受け入れられませんでした。解離的な症状も、おそらくそれが原因です。でも先生を助けることで、私も自分自身と向き合えた」 エレナはソフィアを抱きしめた。「ありがとう、ソフィア。あなたは本当に強い子ね」
療養所に戻ると、イングリッドとアクセルが玄関で待っていた。「無事で良かった」アクセルが安堵の表情を浮かべた。「心配しました」「申し訳ありませんでした」 エレナは頭を下げた。「私は……混乱していました。でも、今は少し落ち着いています」「温かいお茶を飲んで、体を温めてください」イングリッドが毛布を持ってきた。「それから、話をしましょう」 四人は図書室に集まった。暖炉には火が入っていて、部屋は心地よい温かさだった。 エレナはソファに座り、温かいハーブティーを両手で包んだ。「全て、話してください」 エレナは静かに言った。「私について。リリーについて。本当のことを」 アクセルとイングリッドは顔を見合わせた。そして、アクセルが口を開いた。「コーエン博士——いえ、エレナ。あなたは十年前、娘のリリーを交通事故で亡くしました。ここ、この島で」 エレナは頷いた。もう否定する力はなかった。「事故の詳細は?」「あなたとリリーは、マリア——あなたの妹を訪ねてきていました。マリアはすでに癌を患っていましたが、家族との時間を大切にしたいと言って、この島の別荘で療養していました」 アクセルは続けた。「ある午後、あなたとリリーは島の西側を散歩していました。そこには、島で唯一の舗装道路があります。灯台に続く道です」 エレナの手が震え始めた。「リリーは……蝶を追いかけて、道路に飛び出しました。そこに、定期便のトラックが——」「もういいわ」 エレナは目を閉じた。「思い出したくない部分もあるでしょう」イングリッドが優しく言った。「でも、知らなければならないこともあります」「何を?」「事故の後、あなたは完全な精神崩壊を起こしました。夫のアダムが付き添い、本土の病院に入院しましたが、あなたは現実を受け
朝、目覚めたとき、エレナは再び自分の部屋にいた。 しかし今回は、何が現実で何が幻覚なのか、もはや区別がつかなくなっていた。 体を起こすと、手のひらに痛みを感じた。見ると、小さな切り傷がいくつかあった。 ガラスの破片だ。 つまり、昨夜のことは—— ドアが開き、イングリッドが入ってきた。彼女の表情は厳しかった。「コーエン博士、お話があります」「何でしょう?」「昨夜、階段の鏡を割ったのはあなたですね」 エレナは黙った。「あの鏡は十九世紀のアンティークでした。施設の貴重な備品です」「申し訳ありません。しかし、あの鏡は——」「どうしてそこにあったのか、とお聞きになりたいのでしょう?」 イングリッドが遮った。「あの鏡はずっとそこにありました。あなたが来る前から」「でも、初日にはなかった——」「ありました」イングリッドの声は断固としていた。「コーエン博士、率直に申し上げます。あなたは疲れています。この仕事を続けられる状態ではないかもしれません」 エレナは立ち上がった。「私は大丈夫です」「本当に? では、なぜ毎晩悪夢を見るのですか? なぜ幻覚を見るのですか? なぜあなたの部屋から、空の薬瓶が三つも見つかったのですか?」 エレナは答えられなかった。「ベルグルンド先生と相談しました。あなたには休養が必要です。嵐が過ぎたら、本土に戻っていただくことになるかもしれません」「待ってください」エレナは懇願した。「ソフィアの治療はまだ始まったばかりです。私が今投げ出したら——」「あなた自身が治療を必要としているのです」 イングリッドは部屋を出て行った。 エレナは窓辺に崩れ込んだ。 外では、嵐が本格的に到来していた。雨が激しく窓を叩き、風が建物全体を揺らしていた。 もう、
目を覚ますと、エレナは自分の部屋のベッドに寝かされていた。 窓から差し込む灰色の光。曇り空だ。 体を起こそうとすると、頭痛が走った。こめかみがズキズキと痛む。「気がつきましたか」 イングリッドの声だった。彼女は椅子に座り、エレナを見守っていた。「何が……」「廊下で倒れていたんです。マグヌスが見つけて、部屋まで運びました」 エレナは額を押さえた。記憶が断片的だった。鏡、少女、リリー……「鏡は……」「鏡?」 イングリッドが首を傾げた。「廊下にあった鏡です。それから、私の部屋にも……」「コーエン博士、廊下に鏡などありませんよ。あなたの部屋にも」 エレナは立ち上がり、部屋を見回した。 昨夜確かにあった姿見は、なくなっていた。「でも、確かに……」「悪夢を見たのでしょう」イングリッドが優しく言った。「この仕事は神経をすり減らします。特に初日は」 エレナは混乱していた。あれは夢だったのか? でも、あまりにもリアルだった。「今、何時ですか?」「午前十時です。朝食の時間は過ぎてしまいましたが、マグヌスに頼んで何か持ってこさせましょう」「いえ、大丈夫です。少し散歩したいと思います」「外は風が強いですよ。嵐が近づいています」「構いません。新鮮な空気が必要なんです」 エレナは服を着替え、コートを羽織った。 外に出ると、風が容赦なく吹きつけてきた。空は厚い雲に覆われ、海は荒れ始めていた。 エレナは療養所の敷地を歩き始めた。石壁に囲まれた庭園、枯れかけた花壇、古い井戸。 そして、敷地の隅に小さな墓地があることに気づいた。 近づいてみると、十数基の墓石が並んでいた。一八九〇年代から一九二〇年代の日付が刻まれている