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第二章:侵食

Penulis: 佐薙真琴
last update Terakhir Diperbarui: 2025-11-30 16:21:55

 朝、目覚めたとき、エレナは昨夜のことを夢だったと信じようとした。

 しかし机の引き出しを開けると、青い日記帳はまだそこにあった。現実だったのだ。

 日記帳を手に取る。今朝は不思議と手の震えがなかった。抗不安薬が効いているのか、それとも心のどこかで、真実を知る覚悟ができたのか。

 ページを開く。

 『2015年10月28日

 今日、リリーが死んだ。

 交通事故だった。私の不注意だった。

 彼女は七歳だった。

 私は二度と、この日のことを思い出さないと誓う』

 それ以降のページは全て白紙だった。

 エレナは日記帳を閉じ、深く息を吸った。

 リリー。七歳の女の子。交通事故。

 しかし記憶のどこを探っても、その出来事は見つからなかった。まるで誰か他人のことのように感じられた。

 いや、これは——

 ノックの音が思考を中断させた。

「コーエン博士、朝食の準備ができています」

 イングリッドの声だ。

「すぐに行きます」

 エレナは日記帳を引き出しの奥深くにしまい込んだ。


 ダイニングルームでは、アクセルが一人、新聞を読んでいた。

「おはようございます。よく眠れましたか?」

「ええ、ありがとうございます」

 嘘だった。しかし治療者として、私生活の問題を表に出すわけにはいかない。

 マグヌスが持ってきた朝食は、オートミール、ベリージャム、チーズ、それにコーヒー。エレナは機械的に食べた。味がよく分からなかった。

「今朝、ソフィアに会っていただけます」アクセルが新聞から顔を上げて言った。「彼女の部屋は三階です。イングリッドが案内します」

「わかりました。事前に知っておくべきことは?」

「彼女は……気分の浮き沈みが激しい。優しいときもあれば、突然攻撃的になることもあります。人格交代の予兆は、瞳孔の変化と声のトーンです。注意深く観察してください」

「了解しました」

 朝食を終え、イングリッドに案内されて三階へ上がる。

 三階の廊下は二階よりも狭く、天井も低かった。かつて重症患者を隔離していた区画だろう。壁の塗装は剥げかけ、ところどころに染みが浮いていた。

 廊下の突き当たりの部屋の前で、イングリッドが足を止めた。

「ここです。何かあったら、すぐに呼んでください。私は階下にいます」

「大丈夫です」

 エレナは深呼吸をし、ドアをノックした。

「ソフィア? エレナ・コーエンです。入ってもいいですか?」

 しばらく沈黙が続いた。それから、か細い声が聞こえた。

「……どうぞ」

 ドアを開けると、予想外に明るい部屋だった。大きな窓から朝日が差し込み、壁は白く塗られ、本棚には色とりどりの本が並んでいる。ベッドの上には、手作りのキルトがかけられていた。

 窓辺の椅子に、一人の少女が座っていた。

 長い金髪、青い瞳、華奢な体つき。白いワンピースを着て、膝の上で本を開いている。

「ソフィア?」

「はい」

 少女が顔を上げた。その瞳は澄んでいて、まるで北欧の湖のようだった。

「エレナ先生ですね。父から聞いています」

「お会いできて嬉しいわ」

 エレナは柔らかく微笑み、部屋に入った。ドアは開けたままにしておく。

「座ってもいいかしら?」

「どうぞ」

 ソフィアが向かいの椅子を指差した。

 二人は向かい合って座った。エレナは穏やかな表情を保ちながら、少女を観察した。

 表面的には、ソフィアは健康的な十六歳の少女に見えた。しかし目の奥に、何か——計り知れない深さがあった。古い魂を宿しているような、そんな印象を受けた。

「今日は初日だから、ゆっくり話しましょう。あなたのことを教えてくれる? 好きなこと、嫌いなこと、何でもいいわ」

 ソフィアは少し考えてから、口を開いた。

「私は……本を読むのが好きです。特に詩が好き」

「どんな詩人?」

「シルヴィア・プラス。アンネ・セクストン。告白詩人たちです」

 エレナの眉が微かに上がった。十六歳にしては、随分と重いテーマの詩人だ。

「なぜ彼女たちが好きなの?」

 ソフィアの瞳が、一瞬暗くなった。

「彼女たちは正直だから。自分の暗闇を隠さない。私も……暗闇があるんです、先生」

「暗闇?」

「私の中には、たくさんの声がいるんです。私じゃない声が。時々、私が誰なのか分からなくなる」

 ソフィアの声は穏やかだったが、その言葉には重みがあった。

「その声について、もっと話してくれる?」

 少女は窓の外を見た。海が光っていた。

「一番大きな声はカタリーナ。彼女は怒っている。いつも怒っている。父に、世界に、そして私自身に」

「カタリーナは、いつ出てくるの?」

「私が怖いとき。誰かが私を傷つけようとするとき。彼女は私を守ってくれる」

「他には?」

「リーセ。小さな子。五歳くらい。彼女は泣いてばかりいる。ママを呼んでいる」

 ママ。

 エレナの胸が締め付けられた。

「あなたのお母さんは……五年前に亡くなったと聞いています」

「はい。癌でした。最期は、とても苦しそうだった」

 ソフィアの声に感情の波はなかった。まるで他人のことを語るような、淡々とした口調だった。

「それは辛かったでしょうね」

「……私、覚えていないんです。お葬式のこと。母の最期のこと。断片しか思い出せない」

 少女の目に、初めて涙が浮かんだ。

「先生、私……壊れているんでしょうか?」

 エレナは立ち上がり、ソフィアの隣に膝をついた。少女の手を優しく握った。

「いいえ。あなたは壊れていない。ただ、心が自分を守ろうとしているだけ。それは間違ったことじゃないわ」

「でも、私は正常じゃない。普通の女の子じゃない」

「『普通』なんて誰が決めるの? ソフィア、あなたは十分に強い。ここまで生き延びてきたんだから」

 ソフィアが泣き始めた。小さく、静かに。

 エレナは彼女を抱きしめた。

 そのとき——

 廊下で足音が聞こえた。

 誰かが走っている。子供の足音だ。

 エレナは抱擁を解き、ドアの方を見た。

「今の……」

「何も聞こえませんでしたよ」

 ソフィアが言った。彼女の声は、急に冷たくなっていた。

 エレナが少女を見ると、その表情が変わっていた。涙の跡は残っているのに、目は乾いていた。そして——瞳孔が開いていた。

「先生」

 ソフィアの声が低くなった。

「あなた、リリーのこと、覚えていないんですね」

 エレナの血が凍った。

「何……何を言っているの?」

「リリー。あなたの娘。七歳で死んだ。十年前の今日」

 違う。これは——

「あなたは誰? ソフィア?」

「私はカタリーナ」少女が笑った。冷たい、嘲るような笑い。「そしてあなたは、自分が誰なのかも分かっていない哀れな女」

「ソフィア、落ち着いて——」

「私はソフィアじゃない!」

 少女が立ち上がり、エレナを睨みつけた。

「あなたは治療者のふりをしている。でも本当は、あなたこそが一番壊れている」

 エレナは後ずさった。心臓が激しく打っている。

「ソフィア、深呼吸して。私はあなたを傷つけない——」

「嘘つき」カタリーナが囁いた。「あなたは娘を傷つけた。娘を殺した」

「やめて……」

 エレナの声が震えた。

 そのとき、ドアが開き、イングリッドが入ってきた。

「何があったんです?」

 ソフィア——いや、カタリーナが振り返った。

「何もないわ。ただのお喋りよ、ねえ先生?」

 そして再び、少女の表情が変わった。瞳孔が収縮し、顔から緊張が抜けた。

「先生……? 私、また……」

 ソフィアの声が戻っていた。彼女は混乱した様子で周囲を見回した。

「大丈夫よ」イングリッドが近づき、少女の肩を抱いた。「コーエン博士、今日はこれで終わりにしましょう。ソフィアは疲れています」

 エレナは頷いた。声が出なかった。

 部屋を出て、階段を降りる。足が震えていた。

 リリー。

 なぜソフィアがその名前を知っているのか?

 そして、なぜ私は覚えていないのか?


 その日の午後、エレナは図書室に籠もった。

 自分の著書『記憶の宮殿——解離と自己の再構築』を読み返した。自分で書いたはずの本なのに、初めて読むような奇妙な感覚があった。

 特に第七章「トラウマ記憶の抑圧と解離性健忘」の箇所。

 『極度のトラウマ体験は、心の防衛機制として記憶の解離を引き起こすことがある。当事者は出来事を完全に忘れ、まるで自分ではない誰かの体験のように感じる。これは自己保存のメカニズムであり……』

 まるで、自分自身のことを書いているようだった。

 いや、違う。

 これはただの学術書だ。私は研究者だ。治療者だ。

 でも——

 本を閉じ、窓の外を見た。雲が厚くなってきていた。天気予報では、明日から数日間、大きな低気圧が接近するという。

 嵐が来る。

 そして嵐が来れば、この島は完全に孤立する。

 ポケットから薬瓶を取り出そうとして——手が止まった。

 瓶が空だった。

 いつの間にか、全部飲んでしまったのだ。

 パニックが襲ってくる。薬がなければ、感情を制御できない。私は——

「コーエン博士」

 アクセルの声に振り返った。彼は図書室の入り口に立っていた。

「ソフィアとのセッションはどうでしたか?」

「……彼女は、私の個人情報を知っていました」

 エレナの声は硬かった。

「何を?」

「私の過去について。私が話したことのない、私自身も覚えていないことを」

 アクセルの表情が曇った。

「それは……おそらく、彼女の症状の一部です。解離性障害の患者は時に、他者の心を読むような発言をします。実際には、微細な表情や仕草から情報を読み取っているだけなのですが」

「でも——」

「コーエン博士」アクセルが近づいてきた。「あなたは疲れています。この仕事は、精神的に過酷です。今夜はゆっくり休んでください。明日、また新しい気持ちで始めましょう」

 エレナは頷いた。

 しかし心の奥で、小さな声が囁いていた。

 何かがおかしい。

 この施設が。

 ソフィアが。

 そして、私自身が。


 その夜、エレナは再び悪夢を見た。

 今度ははっきりと見えた。

 小さな女の子。栗色の髪、茶色の瞳。笑顔で手を振っている。

「ママ、見て! 見て!」

 道路を横断しようとしている。

 そして——

 車のブレーキ音。

 悲鳴。

 エレナは叫びながら目を覚ました。

 部屋は暗かった。しかし——

 鏡があった。

 昨日まではなかった場所に、姿見が一つ。

 エレナは立ち上がり、鏡に近づいた。

 鏡の中の自分を見る。青白い顔、乱れた髪、怯えた目。

 そして——

 鏡の向こうに、誰かが立っていた。

 小さな女の子。

 エレナは悲鳴を上げようとして——

 鏡を見直した。

 誰もいなかった。

 ただの幻覚だ。疲労とストレスによる幻覚だ。

 しかし、鏡がここにあることは幻覚ではなかった。

 誰が運んできたのか?

 なぜ?

 エレナは部屋のドアを開け、廊下を見た。

 誰もいない。

 しかし廊下の奥、階段の手前に——

 もう一つ、鏡があった。

 エレナは廊下に出た。鏡に近づく。

 そして、その鏡にも——

 小さな女の子の姿が映っていた。

 今度ははっきりと見えた。

 栗色の髪。茶色の瞳。

 リリー。

「ママ」

 少女が囁いた。

 エレナの膝から力が抜けた。

 床に崩れ落ちる。

 そして、全てが暗転した。

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