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第三章:鏡像

Author: 佐薙真琴
last update Last Updated: 2025-12-01 16:37:37

 目を覚ますと、エレナは自分の部屋のベッドに寝かされていた。

 窓から差し込む灰色の光。曇り空だ。

 体を起こそうとすると、頭痛が走った。こめかみがズキズキと痛む。

「気がつきましたか」

 イングリッドの声だった。彼女は椅子に座り、エレナを見守っていた。

「何が……」

「廊下で倒れていたんです。マグヌスが見つけて、部屋まで運びました」

 エレナは額を押さえた。記憶が断片的だった。鏡、少女、リリー……

「鏡は……」

「鏡?」

 イングリッドが首を傾げた。

「廊下にあった鏡です。それから、私の部屋にも……」

「コーエン博士、廊下に鏡などありませんよ。あなたの部屋にも」

 エレナは立ち上がり、部屋を見回した。

 昨夜確かにあった姿見は、なくなっていた。

「でも、確かに……」

「悪夢を見たのでしょう」イングリッドが優しく言った。「この仕事は神経をすり減らします。特に初日は」

 エレナは混乱していた。あれは夢だったのか? でも、あまりにもリアルだった。

「今、何時ですか?」

「午前十時です。朝食の時間は過ぎてしまいましたが、マグヌスに頼んで何か持ってこさせましょう」

「いえ、大丈夫です。少し散歩したいと思います」

「外は風が強いですよ。嵐が近づいています」

「構いません。新鮮な空気が必要なんです」

 エレナは服を着替え、コートを羽織った。


 外に出ると、風が容赦なく吹きつけてきた。空は厚い雲に覆われ、海は荒れ始めていた。

 エレナは療養所の敷地を歩き始めた。石壁に囲まれた庭園、枯れかけた花壇、古い井戸。

 そして、敷地の隅に小さな墓地があることに気づいた。

 近づいてみると、十数基の墓石が並んでいた。一八九〇年代から一九二〇年代の日付が刻まれている。かつてこの病院で亡くなった患者たちだろう。

 墓石の一つに、新しい花が供えられていた。

 エレナは屈み込んで墓碑銘を読んだ。

 『マリア・ヴェステルゴード 1978-2020 愛する母、妻として』

 ソフィアの母だ。

 なぜここに? ヴェステルゴード家の墓地は別にあるはずでは?

 足音が近づいてきた。振り返ると、アクセルが傘を差して立っていた。

「コーエン博士。こんなところで何を?」

「この墓……ソフィアのお母さんですね」

 アクセルの表情が硬くなった。

「ええ。マリアはこの島を愛していました。亡くなる前、ここに埋葬してほしいと遺言を残したのです」

「ソフィアは、お母さんの墓参りを?」

「週に一度。イングリッドと一緒に」

 エレナは立ち上がり、アクセルを見た。

「先生、一つお聞きしたいことがあります」

「何でしょう?」

「なぜ私なんですか? 解離性障害の専門家は他にもいる。なぜわざわざ、この孤島に私を呼んだのですか?」

 アクセルは少しの間、黙っていた。風が彼のコートを揺らした。

「あなたの研究を読んだとき……あなたなら、ソフィアを救えると思ったからです」

「それだけですか?」

「……コーエン博士、あなたは自分の過去について、どれだけ覚えていますか?」

 エレナの心臓が高鳴った。

「何が言いたいんですか?」

「ただの質問です。記憶というものは脆い。特にトラウマを経験した人の記憶は」

「私はトラウマなど——」

「本当に?」

 アクセルの眼鏡が光を反射した。

「では、なぜあなたはソフィアと初めて会ったとき、動揺したのですか? なぜ彼女が『リリー』という名前を口にしたとき、そんなに怯えたのですか?」

 エレナは答えられなかった。

「帰りましょう。雨が降り始めます」

 アクセルは踵を返し、療養所に向かって歩き始めた。

 エレナは墓石をもう一度見てから、彼の後を追った。


 午後、エレナは自室で青い日記帳と向き合っていた。

 最初のページを何度も読み返す。

 『今日、リリーが死んだ』

 次のページをめくる。白紙。

 その次も白紙。

 しかし——

 ページの端に、かすかな文字の跡があった。まるで何かが書かれていて、後から消されたような……

 エレナは日記帳を窓の光にかざした。

 うっすらと、文字が浮かび上がった。

 『私は二度と思い出さない』

 『私は治療者だ』

 『私は壊れていない』

 何度も何度も、同じ言葉が繰り返し書かれていた。

 そして最後のページ。

 『エレナ、もし君がこれを読んでいるなら、君はまだ戦っているということだ。諦めないでくれ。リリーは君を愛していた。そして私も——アダム』

 アダム。

 その名前を見た瞬間、エレナの中で何かが崩れた。

 男の顔が浮かんだ。優しい笑顔、茶色の髪、温かい手。

 夫だ。

 私には夫がいた。

 そして娘が——

 ノックの音が記憶を断ち切った。

「コーエン博士、お客様です」

 イングリッドの声だった。

 エレナは日記帳を隠し、ドアを開けた。

「客?」

「ソフィアのお父様、ラース・ヴェステルゴードです」


 一階の応接室で、エレナは初めてソフィアの父と対面した。

 五十代半ば、がっしりとした体格、厳しい顔つき。しかし娘の話になると、その表情は和らいだ。

「コーエン博士、娘をよろしくお願いします」

 ラースは深く頭を下げた。

「私は……娘を救いたい。それだけです」

「最善を尽くします」

 エレナは職業的な微笑みを浮かべた。

「ソフィアは良い子です。ただ、母親の死が……彼女を変えてしまった」

「どのように?」

「以前は明るく、社交的でした。しかし母が亡くなってから、閉じこもるようになった。そして……別の人格が現れ始めたんです」

 ラースの目に涙が浮かんだ。

「私の育て方が悪かったのでしょうか。私が……もっと早く気づいていれば」

「自分を責めないでください。これは誰のせいでもありません」

 エレナは彼の手を握った。

「ソフィアは強い子です。きっと回復できます」

「ありがとうございます、先生」

 ラースは立ち上がった。

「明日、嵐が来る前に本土に戻ります。しばらくソフィアに会えなくなりますが……先生を信じています」

 彼が部屋を出て行った後、エレナは窓の外を見た。

 雨が降り始めていた。

 そして灯台の光が、規則正しく明滅していた。


 夕食の時間、ダイニングルームに珍しくソフィアが現れた。

「今日は気分が良いのよ」

 少女は微笑みながら席についた。

 食事中、ソフィアは普通の十六歳の少女のように振る舞った。学校のこと、友達のこと、好きな音楽のこと。まるで昨日の出来事などなかったかのように。

 しかしエレナは注意深く観察していた。ソフィアの手の動き、視線の配り方、言葉の選び方。

 そして気づいた。

 ソフィアは、時々エレナの方を見るとき、まるで何かを確かめるような目をしていた。

 食後、二人は図書室で話をした。

「先生、質問があります」

 ソフィアが本棚の前で立ち止まった。

「何かしら?」

「先生は、自分の過去を全て覚えていますか?」

 エレナの心臓が跳ねた。

「なぜそんなことを聞くの?」

「私は自分の過去が曖昧なんです。母の死も、その前のことも。断片しか思い出せない」ソフィアは振り返った。「でも時々、ふっと何かを思い出すんです。まるで誰かが私の頭の中に記憶を投げ込むように」

「それは……フラッシュバックかもしれないわ」

「フラッシュバック……」ソフィアは呟いた。「先生は、フラッシュバックを経験したことがありますか?」

「私は治療者よ。患者じゃない」

「でも、治療者も人間です。傷つくこともある」

 ソフィアが近づいてきた。

「先生、あなたも何かから逃げているんじゃないですか?」

 エレナは後ずさった。

「ソフィア、これは治療のセッションよ。私のことを話す場ではないわ」

「ごめんなさい」少女は微笑んだ。「でも、先生が私を理解するなら、私も先生を理解したいんです」

 その夜、エレナは眠れなかった。

 ベッドに横たわり、天井を見つめていた。

 リリー、アダム、事故……

 記憶の欠片が頭の中で渦巻いていた。

 そして——

 廊下から、再び足音が聞こえた。

 子供の足音。

 エレナは立ち上がり、ドアを開けた。

 廊下には誰もいなかった。

 しかし——

 階段の踊り場に、鏡が立てかけられていた。

 また鏡だ。

 エレナは鏡に近づいた。

 そして鏡の中に——

 小さな女の子が立っていた。

 リリーだ。

 少女は微笑んでいた。そして口を動かした。

 音は聞こえなかったが、唇の動きで分かった。

「ママ、私を忘れないで」

 エレナは鏡に手を伸ばした。

 指先が鏡面に触れた瞬間——

 鏡が割れた。

 ガラスの破片が床に散らばる。

 そして破片の一つ一つに、リリーの顔が映っていた。

 エレナは悲鳴を上げた。

 廊下の電気が消え、全てが暗闇に包まれた。

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