All Chapters of 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く: Chapter 131 - Chapter 140

196 Chapters

132

「小夜子……」(お前はどうなんだ。大事にしてもらったというが、俺はお前に報いているのか? お前がくれた温かさを、俺は返せているだろうか) 相手を思う心。今までの隼人になかった視点だった。(俺は形ばかりを模倣しようとしていたのか。中身のない箱に、いくら綺麗な包装紙を貼り付けたところで、それはゴミと変わらない) 隼人は茶を一口すすり、深く息を吐いた。◇ グランドオープンを目前に控えた夜。ロビーには静けさが満ちていた。 深夜のミーティングで集められたスタッフたちは、疲労の色を隠せないでいる。無理な笑顔を作り続けた代償だ。 隼人は彼らを見回し、短く告げた。「昨日のマニュアルは破棄する」「え?」 スタッフたちが顔を見合わせた。「装飾品もすべて撤去だ。元の『聖域』に戻す」「し、しかし社長。それではまたM氏に酷評されてしまうのでは……」「いや、全てを元に戻すわけではない。少しだけ変える」 隼人は言葉を切り、小夜子へと視線を移した。彼女は壁際で静かに微笑んでいる。「無理に笑わなくていい。話しかける必要もない。ただ、目の前の客を観察しろ」 隼人の声は以前のような張り詰めた冷たさではなく、地に足の着いた重みがあった。「今、その客が寒がっていないか。喉が渇いていないか。誰かと話したがっているか、あるいは放っておいてほしいのか。それだけを見ろ。Mが言った『中身』とは、そういうことのはずだ」 数値を追うな。人を見ろ。それはかつて効率至上主義だった隼人が出した、精一杯の「人間宣言」だった。 スタッフたちの肩から力が抜けていく。安堵と、新たな使命感を含んだ空気が広がった。「解散。明日はヴァレンティン氏が来る。過度な演出は不要だ。ただの人間として迎え入れろ」「かしこまりました」 スタッフたちが持ち場へと散っていく。残された広大なロビーに、隼人と小夜子だけが残った。
last updateLast Updated : 2026-01-26
Read more

133:開業前夜

 アーク・リゾーツが経営するホテル『サンクチュアリ』。その名の通り、そこは都市の騒々しさから切り離された聖域だった。 明日はいよいよグランドオープンを控えている。メインバンケットホールでは、最終的な音響チェックが行われていら。 高い天井に、クリスタルのシャンデリアがきらめく光を放った。ステージの中央には堂々としたグランドピアノ。世界最高峰のフルコンサートピアノが、主(あるじ)の指が触れるのを待っていた。「……完璧だ」 ホールの残響を確認し、隼人が満足げに頷いた。 さんざんに悩み、迷走した彼だったが、今できうる最高の力を注いだと実感がある。「これなら、世界中のVIPを唸らせることができる。音響、照明、空調。すべて計算通りだ。あとは人員配置と……」「お花の手配も万全です」 傍らに控える小夜子が、タブレットの画面を示した。「ゲストの巨匠ピアニスト・ヴァレンティン様は、匂いに敏感な方です。香りの強いカサブランカなどの百合は避け、色味を抑えた蘭と季節の枝物だけで構成いたしました」「さすがだな。俺が指示する前に、そこまで考えていたとは」 隼人は小夜子を見つめた。小夜子も微笑みを返す。 そこにいるのは、かつて怯えていた「買われた花嫁」ではない。この巨大プロジェクトの細部を掌握し、影から支える「女将」の姿だった。 だが2人の満ち足りた時間は、無粋な報告によって破られた。「社長、緊急事態です」 秘書が血相を変えて駆け寄ってきた。「招待客のリストに、『追加』の依頼が入りました。……拒否できない相手からです」 差し出されたタブレットを見た瞬間、隼人の表情が強張った。 追加された名前は、郷田重造。財界の重鎮であり、古い体質を好む保守派の筆頭だ。 新興企業であるアーク・リゾーツを「成り上がり」と毛嫌いしている男でもある。だが問題は彼だけではない。その同伴者の欄だった。『白河麗華』 小夜子の義姉
last updateLast Updated : 2026-01-27
Read more

134

 数時間後、ホテル。サンクチュアリのエントランスロビーにて。 視察と称して郷田会長が現れた。 その腕にまとわりつくようにして、1人の女が立っていた。白河麗華である。 ショッキングピンクのドレスを着込んでいる。洗練されたベージュとゴールドで統一されたロビーにおいて、それはあまりに品性を欠いた色彩だった。完全に浮いている。「まあ! ここが新しいホテル? なんだか地味ねえ。もっとお金をかければいいのに」 麗華は甲高い声を上げて、ヒールを鳴らして歩き回った。その視線が出迎えに立った隼人と、その斜め後ろに控える小夜子を捉えた。「……っ!」 麗華の目が大きく見開かれた。彼女の予想では、小夜子は隼人に虐げられて家政婦としてやつれているはずだった。 以前の溺愛騒ぎでホテルに乗り込んだ時は、小夜子は隼人に背後に庇われていた。よく見えなかったのだ。 だが、目の前の小夜子はどうだ。仕立ての良いネイビーのスーツを着こなし、髪は艶やかに結い上げられ、凛とした美しさを放っている。かつての「灰かぶり」の面影はどこにもない。(なによあれ……! 家政婦のくせに! 私よりいい服を着て、幸せそうな顔をして!) 麗華の顔が嫉妬で歪んだ。彼女は郷田の腕をぎゅっと抱きしめ、勝ち誇ったように顎を上げた。前回追い出された屈辱を、「権力者の女」というポジションで上書きしに来たのだ。「ごきげんよう、黒崎社長。……それに、小夜子」 麗華は小夜子の前まで歩み寄ると、粘りつくような視線を送った。「あら、まだ捨てられてなかったの? しぶといわね」「……お久しぶりです、お義姉様」 小夜子は表情を変えず、静かに一礼した。その反応の薄さが、麗華の神経を逆撫でする。麗華は小夜子の耳元に顔を寄せ、毒を含んだ声でささやいた。「でも、明日が最後よ」「どういう意味でしょうか」「明日のメインゲスト、ピアニストのヴァレンティン。…&
last updateLast Updated : 2026-01-28
Read more

135

「でもね、郷田会長は芸術支援の顔役なの。ヴァレンティンとも親交があるわ。彼に『あることないこと』……たとえば、このホテルの音響が最悪だとか、客層が悪いとか吹き込むくらい、簡単なことよ?」 麗華はニヤリと笑った。自分の力ではない権力を振りかざし、他人の努力を踏みにじることに、彼女は無上の喜びを感じているようだ。虎の威を借る狐そのものだった。「……帰れ」 隼人が割って入った。抑えた声だが、その瞳には殺気が宿っている。「営業妨害だ。つまみ出すぞ」「キャッ! 怖い!」 麗華は大げさに身をすくめて、郷田の背後に隠れた。「会長ぉ、黒崎社長に脅されましたわ! 私、ただ挨拶をしただけなのに!」「黒崎君。私の連れに随分な態度だな」 郷田が不快そうに鼻を鳴らした。「客を選ぶのは結構だが、礼節を欠いてはいかんよ。……明日のパーティー、楽しみにしている」 郷田は隼人を睨みつけると、麗華を連れて奥のエレベーターへと消えていった。残された空間に、香水のきつい残り香だけが漂っていた。◇ 夜、静まり返ったホテルのメインホールにて。隼人は、誰もいないステージを見上げていた。傍らには小夜子が控えている。「……すまない」 彼は悔しさをにじませて言った。「ビジネスのしがらみのせいで、妻を侮辱した女一人、叩き出せないとはな」「旦那様……」「明日は、お前を裏方に回す。厨房かバックヤードにいればいい。あいつと顔を合わせないほうがいい」 それは隼人なりの配慮だった。麗華の悪意から小夜子を遠ざける。それが彼女を守る唯一の方法だと考えていた。 だが。「いいえ、旦那様」 小夜子の声は、ホールの静寂に凛と響いた。「私は逃げません」「なに?」「ここは、貴方が心血を注い
last updateLast Updated : 2026-01-29
Read more

136:ピンクの悪魔

 ホテル『サンクチュアリ』のメインホールは、計算され尽くした色彩の調和に満たされていた。 ドレスコードはシック&エレガンス。ゲストたちが着込むのは、深海のようなネイビーや濡れたカラスの羽のような黒、そして上品なシャンパンゴールド。 その洗練された空間で、小夜子はミッドナイトブルーのドレスを身につけて、隼人の隣に佇んでいた。 華美な装飾はない。けれど彼女の凛とした姿勢と所作は、どんな宝石よりも美しい品格を示していた。(実に美しい……。誰もこいつが元家政婦だとは思うまい) 隼人は一瞬、小夜子の気品ある美しさに目を奪われる。 しかしすぐに内心で頭を振った。今は妻の美しさに浸っている場合ではない。 だが同時に、安堵していた。クランドオープン・パーティは完璧な滑り出しだ。空間、音楽、香り。すべてが予定した通りにある。 隼人もグラスを傾けながら、賓客たちに挨拶をする。 だが空間の調和は、たった一色の絵の具によってでたらめに塗りつぶされた。 入り口がざわめいた。現れたのは郷田会長と、その腕にぶら下がった白河麗華である。 彼女が選んだドレスの色は、またもやショッキングピンク。静かで落ち着いた夜の海に、蛍光塗料をぶちまけたような異物感だった。それはもはや装いではなく、視覚的な騒音になっている。「あら小夜子、頑張ってるじゃない」 麗華は人波を割り、一直線に小夜子へ向かってきた。甘ったるくて安っぽい薔薇の香水の匂いが鼻をついて、小夜子は内心で顔をしかめた。「馬子にも衣装ね。でも、家政婦の汚れきった手には似合わないわ」 麗華はあざわらう。小夜子に近づいて、すれ違いざまに大きくよろめいたふりをした。手にした赤ワインのグラスが、小夜子のドレスを目掛けて傾く。「――あっ!」 声を上げたのは誰だっただろうか。 誰の目にも、足元のじゅうたんと青いドレスが赤く染まる有り様が予想された。 しかし小夜子の体は、まるで風に揺れる柳のように音もなく半歩下がっていた。最小限の動きである。着物の裾さばきに
last updateLast Updated : 2026-01-30
Read more

137

「失礼いたします」 けれど小夜子が膝を折るより早く、黒服のボーイが滑り込んできて手際よく汚れを処理した。隼人が無言で合図を送ったのだ。「……フン、つまらない男」 麗華は鼻を鳴らした。彼女の獲物を探す視線が、ふと会場の奥へ向く。 そこには演奏前の集中を高めるため、スタッフ用通路付近を神経質そうに歩き回る老紳士の姿があった。メインゲスト、巨匠ピアニストのヴァレンティンだ。「あっ! マエストロだわ!」 麗華は金切り声を上げると、ピンクのドレスをひるがえして突進した。警備のSPが制止しようとするが、背後にいる郷田会長が「私の連れだ」と威圧して、道をこじ開ける。「ファンなんですぅ! 握手してください!」 麗華は無遠慮にヴァレンティンの目前に躍り出た。 極度の集中状態にあった芸術家にとって、それは妨害どころかテロリズムに等しかった。 まず強烈な香水の匂いが、彼の繊細な嗅覚を殴りつけた。次い、至近距離で焚かれたスマートフォンのフラッシュが、彼の網膜を焼いた。「No……!?」 ヴァレンティンが顔をしかめて後ずさる。だが、麗華という名の悪意は止まらない。「こんな成金ホテルで弾くなんて、先生も落ちぶれましたわね? やっぱりギャラがいいから?」 下品な笑い声と共に放たれた言葉。日本語と英語、言葉の壁はあれどニュアンスは伝わったのだろう。それが決定打だった。「NO!! Getout!!(出ていけ!)」 ヴァレンティンは顔を真っ赤にして叫んだ。彼は耳を塞ぐと、その場にうずくまる。顔色が紙のように白い。過呼吸のような状態になってしまっていた。 駆けつけたマネージャーに支えられて、控え室へと逃げ去っていく。「おい、どうなっている」「ヴァレンティン氏が体調を崩したようだが……」 会場がざわめき始める。数分後、青ざめた顔のマネージャーが隼人の元へやってきた。「申し訳ありません、社長。公演は中止です
last updateLast Updated : 2026-01-31
Read more

138

「あらあら、大変」 麗華は勝ち誇った目で小夜子を見下ろした。 口元を手で隠しているが、意地悪な笑みは隠しきれていない。「やっぱり成金のホテルには、芸術の神様も降りてこないのね。お寒いパーティーだこと」「おい黒崎君、これはどういうことかね?」 郷田会長がニヤニヤしながら隼人に近づいてくる。 絶体絶命の窮地。 隼人が対応に追われて一瞬だけ意識を逸らした隙に、小夜子の姿がフッと消えた。◇ ホールのざわめきから離れた、ホテルのバックヤード。パニックになるスタッフの波を縫い、小夜子は一人で歩いていた。 向かった先は、厨房の奥にある専用の棚。彼女はそこから古びたが手入れの行き届いた、漆塗りのカップを取り出した。実家から持参した、唯一の私物だった。(お義姉様が壊した時間を、私が繋ぎ合わせます)「ハーブはありますか? レモンバームとミントです」 小夜子の声に、厨房にいた料理人が返事をする。「はい、ございます。ここに」 小夜子はハーブを受け取った。レモンバームとミントは、かつて心を閉ざしていたある欧州貴族を救った魔法の鍵。 2種類のハーブを手に取って、小夜子は湯を沸かし始めた。 もう一度、傷ついた賓客の心を癒やすために。 ◇  ホテル『サンクチュアリ』のメインホールは、先程までの華やかな空気を失いつつあった。 今日の主役は巨匠ピアニストのヴァレンティン。ところが彼は予定時刻を過ぎても姿を現さないのだ。 主役不在のステージは、BGMのジャズが虚しく響くだけ。期待が大きかっただけに、ゲストたちの忍耐が限界に達しつつある。「いつまで待たせるんだ。彼の演奏を楽しみに来たというのに」 初老の紳士が、不快そうに腕時計を確認した。「メインの演奏がないなら、帰らせてもらうよ。時間が無駄だ」「所詮は成り上がりのホテルね。金をかければいいと思っている」
last updateLast Updated : 2026-02-01
Read more

139

 ホテル最上階、ロイヤルスイート前。そこはひどく刺々しい空気に包まれていた。「帰れ! 誰も入れるな! 全てが騒音(ノイズ)だ!」 分厚いドアの向こうから、悲鳴のような怒声と、ガラスが砕ける音が響いてくる。 廊下には、顔色が真っ青になったマネージャーとホテルスタッフが立ち尽くしていた。 スタッフが震えそうになりながら、マネージャーに報告している。「……駄目です。ドアをノックしただけで発狂されそうです。完全にパニック状態で、手がつけられません」 そこへ小夜子が静かに現れた。手には、湯気の立つトレイを持っている。「奥様! 今は誰も入れるなと厳命されています。ヴァレンティン氏はかなり興奮していて、危険が……」 スタッフが制止しようとする声を、小夜子は人差し指を唇に当てて封じた。シーッ。 彼女はトレイを床に置くと、迷うことなくハイヒールを脱ぎ捨てた。ストッキングだけの足になる。「カードキーを」 声を出さず、口の動きだけで告げる。圧倒されたマネージャーが、震える手でキーを渡した。 小夜子はセンサーにかざす。電子ロックが解除される「ピッ」という小さな音でさえ、彼女は素早く手で覆って最小限に殺した。 重いドアが音もなく開く。小夜子は影のように、その隙間へと滑り込んだ。◇ スイートルームのリビングは、照明が落とされて薄暗くなっていた。 カーテンの隙間から漏れる月の光が、散乱した楽譜と割れた花瓶の破片を照らし出している。 部屋の隅にあるソファに、ヴァレンティンはうずくまっていた。クッションを頭から被って耳を塞いで震えている。 あのピンクのドレスの女が撒き散らした香水の悪臭とフラッシュの残像、さらには「金のために弾くのか」という暴言が、彼の繊細な神経を粉々に砕いていたのだ。(うるさい、うるさい、うるさい……!) 彼の頭の中では、まだあの甲高い笑い声が反響している。世界は騒音に満ちている。誰
last updateLast Updated : 2026-02-01
Read more

140

 音はしなかった。気配さえ感じなかった。「……いつの間に?」 ヴァレンティンがかすれた声で問う。小夜子は微笑まなかった。ただ、静かにカップを勧める仕草をした。 それは陶磁器のティーカップではなかった。艶やかな黒。漆塗りの器だった。 ヴァレンティンは吸い寄せられるように手を伸ばす。指先に触れたのは、冷たい陶器ではなく木の温もりだった。 持ち上げる。カチャリ、というソーサーとぶつかる金属音はしない。 今の彼にはそんな音すら苦痛で、だから飲み物を飲むことすらできなかったのに。 そっと口をつける。硬質な接触音もしない。漆器の柔らかさが、唇に優しく吸い付くようだった。 一口、液体を喉に流し込む。温かいハーブティーが凝ってしまった神経を内側から溶かしていく。 レモンバームとミントの爽やかな香りが、喉に落ちていった。「……世界は、少しうるさすぎますね」 小夜子が呟いた。滑らかな英語だった。 その声は葉に落ちる雨粒のように静かで、心地よく彼の耳に染み込む。(不思議だ。この女性は、まるで音というものを発しない) ヴァレンティンが目線で彼女の佇まいの不思議さを問えば、小夜子は答えた。「音を立てては、いけませんでしたので。静かに動くのは得意です」 それは彼女の悲しい習性だった。 白河家の屋敷で足音を立てれば折檻され、気配を感じさせれば「そこにいるだけで不快だ」と罵倒された日々。 彼女は生きるために気配を殺し、影になるすべを身につけた。 呪いのようなスキルが今、傷ついた芸術家を救っている。 何が役に立つのか分からないものだと、小夜子は内心で少しだけ苦笑した。「……静かだ」 ヴァレンティンは、空になった漆の器を愛おしそうに撫でた。「あのピンクの悪魔の叫び声が、頭から離れなかったんだ。……でも今は消えた。君の静寂が、洗い流し
last updateLast Updated : 2026-02-02
Read more

141:聖域

 ホールの空気は失望に染まっていた。主役不在のステージと虚しく響くBGMに、ゲストたちの忍耐は限界を超えている。 彼らの表情は、失望を通り越してすでに諦めへと変わっていた。「……もう潮時だ。帰ろう」「期待外れだったな。やはり新興企業には、文化を担う力などなかったということか」 有力者たちが次々と席を立ち、クロークへ向かおうとする。 その背中を見送りながら、隼人は奥歯を噛み締めていた。 止める言葉がない。メインゲストのドタキャンという失態は、どんな言い訳も通用しない致命的な失敗だ。「あらあら、皆様お帰り? 当然よねえ」 白河麗華が勝ち誇った声を上げた。彼女の隣で、郷田会長がニヤニヤと笑っている。「黒崎君、残念だったね。君の『聖域』とやらは、どうやら開店休業のようだ」 隼人が何かを言い返そうとした、その時。 会場の重厚な扉が開いた。 一陣の風が吹き抜けたような気がした。入り口付近にいたボーイが立ち尽くしている。 そこに立っていたのは、一人の老紳士だった。背筋を真っ直ぐに伸ばし、黒の燕尾服を完璧に着こなしている。 その顔には神経質さも、不機嫌な癇癪(かんしゃく)もない。あるのは音楽の神に選ばれた者だけが持つ、崇高な威厳だけだった。 巨匠、ヴァレンティンである。 そして、その一歩後ろ。影のように音もなく付き従っているのは、ミッドナイトブルーのドレスを纏った小夜子だった。「あっ……!」 誰かが声を上げた。「マエストロだ! ヴァレンティンが戻ってきた!」 その声は、さざ波のように会場全体へと広がった。帰ろうとしていたゲストたちが、一斉に足を止めて振り返る。「戻ってきてくれたのか?」「まさか、演奏してくれるのか? 今から?」「ああ、やはり黒崎社長だ! やってくれると信じていたよ!」「ここまで待っていた甲斐があった!」 失望のため息は、瞬く間に
last updateLast Updated : 2026-02-02
Read more
PREV
1
...
1213141516
...
20
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status