All Chapters of 死んでも別れない: Chapter 11 - Chapter 20

21 Chapters

第11話

「真司、見てよ!」晴子は興奮した声で叫び、カーテンの端をつかんだ。彼女の動きにつられるように、重厚な黒いベルベットの布がゆるやかに左右へと引きずられていく。仕掛けられたスポットライトが一瞬で幕の後ろのガラスケースを照らし出した。ガラスケースの中には、一人の女性の全身標本が、まるで生きて立っているかのような自然な姿勢で据えられていた。展示ホール全体が、一瞬にして静まり返った。次の瞬間、あちこちから息を呑む音が響いた。その標本は、あまりにも衝撃的だ。彼女の全身の皮膚は剥がされ、筋肉、神経、骨格が完全な形で残されていた。鮮やかな紅の筋繊維が、白い骨格を包み込むようにして、まるで精密に彫り上げられた芸術品のように見える。それは悲しげで美しい、ふと振り返るような姿に形作られていた。かすかに体を前に傾け、今にも去りゆこうとしつつ、それでもまだ何かを求めて振り返るような姿だ。片方の手は自然に垂れ、もう一方の手は胸の前に置かれ、祈りにも似た仕草を形づくっている。顔の表面に表情筋がわずかに残され、完全に表情を失ってはいない。むしろ、悲しみから解放されるその瞬間を、かすかに捉えているかのようだった。眼窩の空洞が光に浮かび上がり、深く沈んだその窪みは、無言のまま何かを訴えかけているかのような切なさをたたえている。真司はその標本を見た途端、胸の奥で心臓がぎゅっと締めつけられるのを感じた。息が詰まるほどの、圧倒的な既視感が、一気に彼を呑み込んでいった。「ちっちっ、この体つき、なかなか悪くないじゃない」晴子の声が静寂を破った。彼女は標本を上から下まで眺め、軽く挑発するように言う。「このくびれのはっきりしたスタイル、あの橙子にちょっと似てるわね。惜しいことに、いくらスタイルが良くたって、結局は皮を剥がれて筋を抜かれ、ここで展示品になるだけなんだから。もしあのクソ女も同じように死んで、標本にされたら、私、毎日見に来るわ」悪気のないふりをした言葉ながら、一つ一つが心を抉る。真司の顔色が、さっと血の気を失ったように真っ白になった。胸の奥で膨れ上がる異様な感覚を必死に押し殺し、彼は勢いよく振り返って、かすれた声で言った。「言っただろ、俺はもう帰る」彼はもう、その標本を直視することができない。もう一度でも見てしまえ
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第12話

化学処理せいで、指輪の表面は酸化して黒ずみ、かつての輝きをすっかり失っていた。それでも真司は、一目でそれを見分けた。あの指輪――それは彼が大学の裏通りの露店で、千円で買ったものだ。それを橙子に渡したとき、彼女はまるで子どものように笑い、真司の首に腕を回して、何度も頬にキスをした。彼女は言った。これは今までにもらった中で、いちばん貴重な贈り物だと。「い……いや……」真司は獣のような唸り声をあげ、晴子の手を振りほどくと、狂ったようにガラスの展示ケースへと突進した。ドン!拳を振り下ろし、冷たいガラスを力任せに叩きつけた。鈍く響く衝撃音が、空気を震わせた。「開けてくれ!この扉を開けろ!」彼は狂ったように怒鳴りながら、両手でガラスをむやみにこすりながら、もっとよく見ようとした。その瞬間、真司の理性の糸は、ぷつりと切れた。晴子は彼の狂気じみた様子に怯え、どもりながら言った。「し、真司……な、何してるの?ただのボロい指輪じゃない。そんなに取り乱すことないでしょ……ていうか、この指輪、あの橙子って女がつけてたのとそっくり。見てるだけで縁起悪いわ……」「黙れ!」真司は勢いよく振り返り、血走った目で彼女を睨みつけた。その目に宿る殺気に、晴子は思わず一歩後ずさり、口をつぐんだ。突然の出来事に、展示ホール全体が凍りついたような静寂に覆われ、その中に混乱が渦巻いた。真司は震える手でポケットからスマホを取り出した。指先が思うように動かず、何度も失敗してようやく画面をアンロックした。彼は、何度も着信拒否に設定しては、また解除してしまうあの番号を、ふと探し出した。あの、頭の中に焼き付いて離れない橙子の番号。真司は発信ボタンを押し、スマホを耳に当てた。展示ホールの中は、死んだように静まり返っている。誰もが息を呑み、崩れ落ちそうな男を見つめている。スマホの向こうからは、プー……プー……プー……という無機質な呼び出し音だけが響く。一回、また一回。誰も出ない。もう二度と、誰も出ることはない。「ああっ!」真司は絶望の叫びをあげた。もう自分を抑えられず、全身の力を振り絞って、防弾ガラスに拳を叩きつけた。ドン!ドン!ドン!ガラスにはたちまち蜘蛛の巣状のひびが走り、真司の指はすでに爛れ、鮮血
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第13話

真司は両足から力が抜け、冷たい床にずしりと膝を突いた。彼は展示ケースの前で跪き、頭を上げて、見慣れたはずの、それでいて見知らぬ「彼女」を仰ぎ見た。全身の力が、抜けていくのを感じた。口を開き、名前を呼ぼうとしたが、こみ上げてきたのは果てしない後悔と絶望の嗚咽だけだ。「……橙……子……」そのときになって、傍らで呆然としていた晴子がようやく状況を理解した。彼女は恐怖に顔を引きつらせ、口を押さえながら後ずさった。目の前の光景が現実だとは思えない。あの、ずっと嘲り、罵ってきた標本が……まさか……橙子だったなんて?現場の騒ぎはすぐに博物館の上層部にも伝わった。キュレーターの木下ドクターが急いで駆けつけ、展示ケースの前跪いて放心した様子の真司と、真っ青な顔で立ち尽くす晴子を見るなり、ほぼ察しがついた。「藤原さん、どうか落ち着いてください」木下ドクターは事態を収めようとし、アシスタントに合図して密封された書類袋を持ってこさせた。「この展示品――つまり江口橙子さんの人体提供に関する資料は、すべてここにあります」「江口橙子」という名前が耳に入った瞬間、真司はまるでその言葉に刺されたかのように顔を上げ、勢いよく書類袋を奪い取った。震える手で封を破り、中から数枚の紙を取り出す。一目で見た瞬間、彼の息が止まった。そこには、彼が夢の中で幾度となく呪った――あの「プラスティネーション用人体提供同意書」があった。提供者署名欄に記された、骨の髄まで覚えているあの文字が、焼き付くように彼の視界を覆った。手の震えはいっそう激しくなり、薄い書類の束を今にもばら撒いてしまいそうだった。彼は彼女の死亡診断書を目にした。死亡時刻は、彼が彼女の失踪を知らされた、まさにあの夜だった。死亡原因:末期がん、多臓器不全。がん……末期?いつ彼女がそんな病気に?どうして自分はまったく知らなかった?真司の頭の中は真っ白になり、無意識のまま最後のページをめくった。そこには資料の添付書類があり、今回の人体提供で前払いされた資金の唯一の用途が、はっきりと記されていた。たった一行だけだった。「人体提供による報酬全額、計十億円は、既にX年X月X日付にて藤原グループ指定口座へ振り込み済みです。本件の金額は、藤原真司氏が私の父親に代わり、家族の債務返済に
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第14話

鮮血が噴き出し、真司の視界を真っ赤に染めた。「真司!真司、大丈夫!?お願い、怖がらせないでよ!」晴子は慌てて彼を支えようとしたが、その口元の血痕に嫌悪感を覚え、差し出した手が空中で止まった。「真司、こ、これは本当に私には関係ないわ!」彼女は真司の虚ろで恐ろしいほどの瞳を見つめ、必死に自分を無関係だと主張しようとしていた。「彼女が自ら提供したのよ!同意書にもちゃんと書いてあった!それに、まさか彼女が……」晴子は声を呑んだ。真司の目つきが変わったからだ。彼は徐々に、血だまりに映る己の姿から視線をそらし、顔を上げた。「今……なんて言った?」その視線に射抜かれるように、晴子は頭皮が粟立ち、思わず一歩後ずさった。「わ……私が言ったのは、彼女自身の選択だってこと。彼女は体が弱くて病気だったんだから、ちゃんと治療を受けるべきだったのに、それなのにあなたにしがみつこうとして……」罪を逃れようと、晴子は口走ってしまい、自分が何を言ったのかすら気づいていなかった。「病気だと?」真司がその言葉を鋭く捉えた。彼の真っ赤な目が、晴子を釘付けにした。「どうして彼女が病気だって知ってる?」「わ、私……」晴子の顔から一瞬で血の気が引き、唇がふるふると震えた。声さえ出なくなった。真司は猛然と床から起き上がると、片手で晴子の喉を押さえつけ、冷たい壁にぐいと押し当てた。ドンッ!鈍い衝撃音が響き、晴子の後頭部に激痛が走った。視界がぐらりと揺らぎ、無数の光が飛び散った。息の詰まるような圧迫感が、一瞬にして彼女を襲った。「言え!ほかに、何を知ってる!?」真司の手が彼女の首を絞めつけ、その指の力は今にも気管を押し潰さんばかりだ。「うっ……し、真司……やめ……」酸素を奪われ、晴子の顔が真っ赤に染まっていった。両手で必死に真司の腕をつかみ、爪で引っかいたが、ただ血痕を残すだけだ。死への恐怖が、潮のように彼女を飲み込もうとしている。真司が本気で自分を殺そうとしている――それがはっきりと分かった。「そ……そうよ……彼女が……彼女が言ったの……」死の恐怖に心のバリアが完全に崩れ去り、晴子の顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった。「彼女は病気なの……もうすぐ死ぬって……あなたには言わないでって、頼まれたの……」
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第15話

時間の感覚が消え失せた。どれほど立ち尽くしていたのか、彼にはわからなかった。彼はただ、彼女を見つめている。あらゆる血肉、皮膚、温もりを剥ぎ取られ、筋膜と脈絡だけが残された展示物を、彼は見つめていた。かつてそれは、彼の橙子だった。喉仏が上下し、名前を呼ぼうとしたが、声は一音も出なかった。遅れた恐怖が、心臓を突き刺すように湧き上がってきた。彼はようやく悟った。晴子の口から語られたあの残酷な真実――実は、橙子を殺したのは自分だったことを。「……いや……」かすれた嗚咽が喉の奥から絞り出される。次の瞬間、彼はガラスケースに向かって突進した。ドンッ!拳がガラスに叩きつけられる。破壊防止用に特注されたそのガラスは微動だにせず、代わりに彼自身の指の骨に焼けつくような痛みが走った。血が指の隙間から滴り、磨かれた床にしたたり落ちていく。その痛みが、むしろ彼の中の狂気すべてに火をつけた。「うあああっ!」真司は咆哮を上げ、埃と血にまみれた高価なスーツを乱暴に脱ぎ捨て、床に叩きつけた。数歩後ずさると、全身の力を込めて、肩からあの冷たいガラスの壁に突っ込んだ!ドンッ!!鈍い衝撃音が広い展示ホールに響き渡り、鼓膜が痺れるほどの震動が走る。ガラスは、それでも微動だにしなかった。だが真司は、まるで鉄壁にぶつかったかのように、強烈な反動で弾き飛ばされ、数歩よろめいた末、みっともなく床に倒れ込んだ。肩から、骨が裂けそうな痛みが走る。彼は床に手をついて再び立ち上がろうとしたが、全身の力が抜け、虚しく崩れ落ちるしかなかった。彼は冷たい床に倒れ込み、荒い息を何度も吐き出していた。胸が激しく上下する。汗と涙が混ざり合い、こめかみを伝って落ちていく。生まれて初めて、骨の髄まで染み込むような、どうしようもない絶望を味わった。この博物館を買うことも、この街を買うこともできる。だが、目の前の薄いガラス一枚を打ち砕くことはできない。彼には、何もできない。ただ、橙子がこの狭い空間に閉じ込められ、他人の目に晒されるのを見ているしかない。ゆっくりと、彼はポケットから自分のスマホを取り出した。さっきの衝突で、画面は細かな蜘蛛の巣のようにひび割れている。血の滲む指で、彼は必死に画面をなぞった。アルバム
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第16話

一夜を独りで過ごした後、真司の目には狂気の片鱗も見えなくなった。彼は精鋭ぞろいの弁護士チームを率いて、直接人体博物館館長の木下ドクターのオフィスに乗り込んだ。「木下ドクター、私は依頼人である藤原真司氏を代理し、貴館に対して正式に訴訟を提起いたします」先頭に立つエース弁護士が金縁の眼鏡を押し上げ、専門的かつ冷然とした口調で述べた。「本訴訟の理由は、遺体の直系親族の同意を得ずに、死者の遺体を標本化して公開展示したことにより、死者の尊厳および遺族の法的権利を重大に侵害したことにあります」彼は分厚い書類の束を机上に置き、その態度は極めて強硬であった。「我々の要求は、貴館が直ちに侵害行為を停止し、江口橙子氏の遺体――標本を遺族に返還することであります」木下ドクターは、真司の血の気を引いた顔を見つめ、深くため息をついた。彼はこの展開を予期していた。彼は引き出しから、すでに用意してあった一冊のファイルを取り出して差し出した。「藤原さん、そして弁護士の皆さん、こちらをご覧ください」真司の弁護士は訝しげにファイルを開き、一瞥しただけで、全員の表情が一変した。それは一通の遺体提供同意書である。契約書には、橙子の署名が鮮明に記され、その筆跡は端正で、彼女の品格をそのまま映し出すようなものだ。さらに決定的だったのは、契約書に公証役場で公証された法的声明書が添付されていたことである。声明書の中には、太字で強調された一項があった。「本人は、将来発生し得る親族による追索権を自発的に放棄し、本契約への干渉を意図するいかなる親族に対しても、私の最終的意思を尊重するよう求める」弁護士チームは互いに顔を見合わせ、しばし言葉を失った。この協議書は、すべての法的手段を完全に封じていた。木下ドクターは倫理的にも法的にも正しい立場から、重々しくも確固たる口調で述べた。「藤原さん、江口さんは偉大なるドナーです。彼女のご意思は法的に有効であり、尊重されるべきものです。ご遺族の深い悲しみは理解いたしますが、何よりもまず、ご本人の選択を尊重しなければなりません」「選択だと?」真司の声はかすれていた。「それが彼女の選択だと、あなたたちは何を根拠に言うのですか?」その後数日間、ビジネス界の情勢は激変した。藤原グループは、自滅的ともいえる形で
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第17話

橙子を家に迎えるその日、空はどんよりと曇り、雲の奥で低い雷鳴がうねるように響いている。真司は部下全員を下がらせ、自ら恒温恒湿の特別輸送車を運転し、ゆっくりと山腹の別荘へと車を進めた。彼は自らが所有する最も豪華で眺めの良いこの別荘を、すべてを撤去して、彼女一人のための宮殿へと造り替えた。最高峰の警備システム、24時間稼働の紫外線消毒装置、そして小数点以下2桁まで精密に制御可能な恒温恒湿設備が備えられている。車のドアが開くと、真司は一人で展示ケースの片端を持ち上げ、ゆっくりと一歩一歩、別荘の玄関へと引きずっていった。その動きは不器用だったが、ひたむきだった。まるで自分の体重の百倍もある餌を運ぶ蟻のように。突然、青白い閃光が空を引き裂いた。その光が走った瞬間、たまたま白布の隙間から覗いた、皮膚のない手が浮かび上がった。カシャッ。遠くの茂みの中で、雷鳴にかき消されるほどの小さなシャッター音が響いた。長く潜んでいたパパラッチが、街全体を騒がせるほどの決定的な一枚を撮ったのだ。真司はそれにまったく気づかなかった。ただ、閃光の眩しさに思わず足を止め、自分の体でその漏れ出した一角を覆った。そして再び黙ったまま、一歩、また一歩と、彼女をふたりだけの家へと運び入れていく。展示ケースは最終的に、かつてふたりの新居として設計された主寝室の中央に据えられた。巨大な掃き出し窓の外では、風と雨が荒れ狂っていた。真司は、これまでにないほどの安堵を感じていた。ガラスケースの中に静かに佇む彼女を見つめながら、彼の顔に久しぶりに、祈るような満ち足りたような表情が浮かんだ。そして、彼はガラスケースの密閉扉を開けた。ホルマリンと特殊な樹脂が混ざり合った匂いが広がるが、彼はそれをまるで感じていないようだ。彼の手には、トップデザイナーに特注した純白のウェディングドレスが抱えている。彼は、自分の花嫁にそのドレスを着せようとしている。「橙子……」彼はそっと囁く。「怖がらないで。もう、家に帰ってきたんだ」その作業は、彼の想像をはるかに超えて困難だった。プラスチック化された人体標本は、すべての柔らかさと弾力を失い、関節は特定の角度に固定され、冷たく、硬直していた。彼はウェディングドレスの袖を彼女の腕に通そうとしたが、角度が合わず
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第18話

だが今、彼が自ら選んだオーダーメイドのウエディングドレスは、あの雑誌の写真とそっくりだ。無意識のうちに、彼はとっくに彼女のためのすべてを準備していたのだ。胸を押さえ、真司は激しく咳き込んだ。押し寄せる悲しみと虚しさが、彼を丸ごと呑み込もうとしている。ドン――!主寝室の扉が乱暴に蹴り開けられる。正雄が数人のボディーガードを連れて踏み込んできた。目の前の光景を見た瞬間、怒りで震えが止まらなくなった。「正気か!お前は本当に正気を失ってる!」​正雄は真司を指さし、怒りに声を震わせた。「自分が何をしているのか分かっているのか!死者を……このような姿で家に安置するとは!藤原家の名誉を、お前はすべて地に落とすつもりなのか!」真司はゆっくりと床から立ち上がり、ガラスケースの前に立ちはだかった。その守るような姿勢が、正雄の怒りを完全に爆発させた。「どけ!」正雄は怒鳴り、真司を引き離そうと突進した。「今日中にこの不吉なものを片付けろ!」だが真司は微動だにせず、全身で彼女をかばい続けた。「たかが死人のために会社をつぶし、名誉を汚し、今度は親子の縁まで断ち切るつもりなのか!」正雄の手が勢いよく振りかざし、真司の頬を打ちつけた。乾いた音が響き、部屋の空気が凍りつく。真司の顔は横に弾かれ、口元から血がにじんだ。彼はゆっくりと顔を戻し、正雄をまっすぐに見つめた。「彼女は死んだ人間じゃない」真司は一語一語を噛みしめるように言った。声はかすれていたが、はっきりと響いた。「俺の妻だ」そう言い終えると、彼はそばの内線電話を取り、警備室の番号を押した。「藤原さんを……見送ってくれ」正雄は信じられないというように彼を見つめた。自らの手で育て、誇りに思っていた息子が、今はまるで仇でも見るような冷たい目を向けている。「ああ、もういい……」正雄の唇が怒りで紫に染まり、声を震わせた。「真司、お前は今日から、俺の息子じゃない!」すぐに警備員たちが駆けつけたが、藤原家の当主を前にして、どう動くべきか迷っていた。「俺の言葉、聞こえなかったのか?」真司の声が低く、冷たく響く。警備員たちは逆らうことができず、覚悟を決めて、激昂する正雄を別荘の外へと連れ出した。巨大な鉄の扉が背後でゆっくりと閉まり、外の世界を完全に遮
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第19話

藤原グループの株価は、後継者のスキャンダルで急落。正雄は一夜にして白髪が増え、世間を敵に回すと決意したように見える息子・真司とは、もはや音信不通となった。真司はそんなことなど知る由もなく、そして気にも留めなかった。彼は新婚生活に、儀式めいた趣を次第に増やしていった。夕方、彼は蓄音機を回し、流れるクラシックの調べに合わせて、ガラスケースの中の彼女をダンスに誘う。手を差し出し、完璧な招きのポーズを取る。それから、冷たいガラスケースを抱きしめ、広いリビングをゆっくりと歩き出す。彼はガラスに頬を寄せ、今日あった出来事を彼女に語りかける。「今日はいい天気だったよ。庭のバラが咲いたんだ。猫を見かけたよ。お前が昔飼っていたあの子に、よく似ている」彼はひとりで、まるで二人分の会話を演じている。その奇妙な行動は、近所の目を逃れなかった。隣の別荘に新しく越してきた夫婦は、昼夜を問わずカーテンを閉め切ったまま、時折不気味な音楽が流れるその豪邸に強い好奇心を抱いていた。夫は空撮マニアで、ドローンを操縦して、その真相を確かめようとした。ドローンは真司の別荘二階の掃き出し窓の外で静かにホバリングし、そのレンズは室内の光景を鮮明に捉えた。その映像を見た隣人夫婦は、血の気が引くほど驚愕した。まるで恐ろしい拉致虐待事件が起きているかのように思い込み、すぐに警察へ通報した。パトカーのサイレンが、長らく続いていた別荘の静けさを破った。真司は踊る足を止め、外界との隔たりを断っていた扉をゆっくりと開けた。ドアの外には、数人の警官が厳しい表情で立っていた。「通報を受けまして、安否確認のためお邪魔します」先頭の警官が警察手帳を示す。真司の反応は、彼らの予想を大きく裏切った。彼は身体を横にずらし、「どうぞ」という仕草をした。「お入りください。妻は二階におります」あまりにも落ち着いた口調が、逆に警官たちの疑念を深めた。彼らは真司の後に続き、二階へと上がっていく。主寝室のドアが押し開けられた瞬間、全員が息を呑んだ。部屋の中央には、純白のウェディングドレスをまとった女性の人体標本が、静かにガラスケースの中に立っている。壁一面には写真が飾られており、どれも真司とその標本が一緒に写った日常生活のスナップショットだ。一緒に朝日を眺め、
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第20話

あの夜、彼女は痛みに耐えきれず、彼の目の前で体を丸めていた。しかし彼は、それを芝居だと思い込んでいた。「そのお酒……すごく辛い……」それは、晴子がわざと彼女に強い酒を飲ませた宴の夜のことだった。そして彼はそれを見て見ぬふりをしていた。「私の薬は?どこに隠したの?」晴子が彼女の胃薬をすり替えた。彼は、その共犯者だった。彼は両耳をしっかりと押さえ、苦しさのあまり地面に膝をついた。しかし、その声は頭の中に直接響き続け、逃げ場はどこにもない。「もうやめてくれ……橙子……もうやめて……」よろめきながらガラスケースの前にたどり着き、額を冷たいガラスに押し当てる。そこには、もう何も語らない花嫁がいる。「ごめん……ごめん……」果てしない懺悔が、彼を包み込んだ。長く続く精神的な圧迫と、極端に不規則な食生活が重なり、真司の体調は急速に悪化していく。彼は目に見えて痩せ細り、頬はこけ、顔色は土気色に変わり、生気が日に日に失われていった。医者は重度の精神障害と重いうつ病を診断し、すぐに治療を受けるよう勧めた。だが、彼はそれを拒んだ。彼にとって、死こそが唯一の救いなのかもしれない。その夜、彼はとても長い夢を見た。夢の中で、彼は橙子とまだ大学に通っていたあの夏へと戻っていた。午後の日差しが図書館の窓から差し込み、彼女の横顔を照らして金色の輪を作っていた。彼女はポニーテールにし、白いワンピースを着て、机にうつ伏せてうたた寝をしていた。長いまつげがまぶたの下に淡い影を落としている。真司はそっと近づき、彼女の隣に腰を下ろし、静かにその姿を見つめた。彼女は何かを感じ取ったのか、ぼんやりと目を開け、彼を見るなりぱっと花が咲いたような笑顔を浮かべた。「真司、来てくれたのね」その声は柔らかく、甘い香りを感じさせるようだった。彼女はまだ生きていて、温もりがあって、自分に笑いかけてくれる橙子だった。滑らかな肌の感触、温もりを宿した掌、そして確かに生きていると告げる心臓の鼓動。この夢の中にずっといたい、もう二度と目覚めないでいたい――彼はそう強く願った。けれど、夢は所詮夢だ。朝の最初の光が部屋に差し込んだ瞬間、真司ははっとして夢から飛び起きた。彼が顔を上げると、そこには、あのウエディングドレスをまとい、顔を歪め、ガラ
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