LOGIN五年前、藤原真司(ふじわら しんじ)の母親が交通事故で亡くなり、江口橙子(えぐち とうこ)がその罪をかぶった。 出所したとき、婚約者の真司の姿はどこにもなかった。 彼女はぼんやりと、五年前に二人で暮らしていた家へ向かった。 だが、玄関の扉には【江口橙子と犬、立ち入り禁止】と書かれた紙が貼られていた。 一瞬、呆然と立ち尽くし、壊れた身体を引きずりながらその場にしゃがみ込んだ。 真夜中、真司が一人の女と親しげに並んで歩く姿が彼女の視界に入った。 「おや、遠くから見るとどこの大人しい飼い犬かと思ったよ」 真司はうんざりしたように橙子を一瞥し、「よくも来られたものだな!扉に書いてある文字が見えないのか?さっさと失せろ!」と吐き捨てた。 追い出された橙子は、みすぼらしい姿で街をさまよい、電柱に貼られたチラシに目を留めた。【人体提供、年齢問わず!ごまかしなし!お値段は超お得!】
View Moreその後、彼はまた一通の遺言状を残した。その遺言の内容は、数々の事件を扱ってきた弁護士でさえ、背筋が凍りつく思いをした。彼の望みは――自らの死後、自分の遺体をもプラスティネーション標本として保存すること。しかも、橙子の標本を強く抱きしめる姿のまま、永遠に固定してほしいというものだった。【この皮を剥ぎ取り、彼女と骨肉を重ね合わせ、もう何ものにも隔てられることのないように】と、彼は遺言状にそう書き残していた。生きていたとき、彼女に数えきれないほどの苦しみと屈辱を与えてしまった。死後こそ、一切の隔てなく永遠に彼女を抱きしめ、寄り添っていたい。彼はさらに、これから百年間分に相当する、この個人博物館の維持運営費を前払いしていた。彼は、自分と彼女のこの墓が永遠に存在し続けることを確保しようとしていた。二人が永遠に一緒にいられるよう、彼は最後の準備を整えていた。残されたのは、死の訪れを静かに待つことだけだ。時は流れる。真司はあの孤独な別荘で、花嫁を守りながら、幾つもの春と秋を過ごしていった。彼の体は日に日に弱っていった。そしてついに、小雨の降るある朝、彼は穏やかに、永遠の眠りについた。彼は冷たいガラスケースのそばに横たわり、息を引き取った。片方の手はそっとガラスケースに当てていて、まるで最後にもう一度、愛する人の頬を撫でようとしているかのようだ。その顔には、解放されたような、満ち足りた微笑みが浮かんでいた。プラスティネーション機関のスタッフたちは、遺言状の指示に従い、時間通りに姿を現した。彼らは真司の遺体も冷たい地下作業室へ運び戻し、技術によって二人を抱き合わせる姿勢へと固定する、長く緻密な作業に着手した。一年後。かつての藤原家の山腹の別荘は、外部に公開された私設博物館へと改装されていた。館内には、たったひとつの展示室しかない。その中央にあるのも、ひとつの展示物だけだ。それは巨大で特注のガラスケース。その中には、皮膚を剥がれた二体のプラスティネーション標本が、抱き合う姿のまま、永遠に固定されている。男性の標本は、背後から女性の標本をしっかりと抱きしめ、その頭を深く彼女の首筋に埋めている。まるで最後の慰めを求めるように。一方、女性の標本は振り返るような姿勢のままで、彼の抱擁に静かに
あの夜、彼女は痛みに耐えきれず、彼の目の前で体を丸めていた。しかし彼は、それを芝居だと思い込んでいた。「そのお酒……すごく辛い……」それは、晴子がわざと彼女に強い酒を飲ませた宴の夜のことだった。そして彼はそれを見て見ぬふりをしていた。「私の薬は?どこに隠したの?」晴子が彼女の胃薬をすり替えた。彼は、その共犯者だった。彼は両耳をしっかりと押さえ、苦しさのあまり地面に膝をついた。しかし、その声は頭の中に直接響き続け、逃げ場はどこにもない。「もうやめてくれ……橙子……もうやめて……」よろめきながらガラスケースの前にたどり着き、額を冷たいガラスに押し当てる。そこには、もう何も語らない花嫁がいる。「ごめん……ごめん……」果てしない懺悔が、彼を包み込んだ。長く続く精神的な圧迫と、極端に不規則な食生活が重なり、真司の体調は急速に悪化していく。彼は目に見えて痩せ細り、頬はこけ、顔色は土気色に変わり、生気が日に日に失われていった。医者は重度の精神障害と重いうつ病を診断し、すぐに治療を受けるよう勧めた。だが、彼はそれを拒んだ。彼にとって、死こそが唯一の救いなのかもしれない。その夜、彼はとても長い夢を見た。夢の中で、彼は橙子とまだ大学に通っていたあの夏へと戻っていた。午後の日差しが図書館の窓から差し込み、彼女の横顔を照らして金色の輪を作っていた。彼女はポニーテールにし、白いワンピースを着て、机にうつ伏せてうたた寝をしていた。長いまつげがまぶたの下に淡い影を落としている。真司はそっと近づき、彼女の隣に腰を下ろし、静かにその姿を見つめた。彼女は何かを感じ取ったのか、ぼんやりと目を開け、彼を見るなりぱっと花が咲いたような笑顔を浮かべた。「真司、来てくれたのね」その声は柔らかく、甘い香りを感じさせるようだった。彼女はまだ生きていて、温もりがあって、自分に笑いかけてくれる橙子だった。滑らかな肌の感触、温もりを宿した掌、そして確かに生きていると告げる心臓の鼓動。この夢の中にずっといたい、もう二度と目覚めないでいたい――彼はそう強く願った。けれど、夢は所詮夢だ。朝の最初の光が部屋に差し込んだ瞬間、真司ははっとして夢から飛び起きた。彼が顔を上げると、そこには、あのウエディングドレスをまとい、顔を歪め、ガラ
藤原グループの株価は、後継者のスキャンダルで急落。正雄は一夜にして白髪が増え、世間を敵に回すと決意したように見える息子・真司とは、もはや音信不通となった。真司はそんなことなど知る由もなく、そして気にも留めなかった。彼は新婚生活に、儀式めいた趣を次第に増やしていった。夕方、彼は蓄音機を回し、流れるクラシックの調べに合わせて、ガラスケースの中の彼女をダンスに誘う。手を差し出し、完璧な招きのポーズを取る。それから、冷たいガラスケースを抱きしめ、広いリビングをゆっくりと歩き出す。彼はガラスに頬を寄せ、今日あった出来事を彼女に語りかける。「今日はいい天気だったよ。庭のバラが咲いたんだ。猫を見かけたよ。お前が昔飼っていたあの子に、よく似ている」彼はひとりで、まるで二人分の会話を演じている。その奇妙な行動は、近所の目を逃れなかった。隣の別荘に新しく越してきた夫婦は、昼夜を問わずカーテンを閉め切ったまま、時折不気味な音楽が流れるその豪邸に強い好奇心を抱いていた。夫は空撮マニアで、ドローンを操縦して、その真相を確かめようとした。ドローンは真司の別荘二階の掃き出し窓の外で静かにホバリングし、そのレンズは室内の光景を鮮明に捉えた。その映像を見た隣人夫婦は、血の気が引くほど驚愕した。まるで恐ろしい拉致虐待事件が起きているかのように思い込み、すぐに警察へ通報した。パトカーのサイレンが、長らく続いていた別荘の静けさを破った。真司は踊る足を止め、外界との隔たりを断っていた扉をゆっくりと開けた。ドアの外には、数人の警官が厳しい表情で立っていた。「通報を受けまして、安否確認のためお邪魔します」先頭の警官が警察手帳を示す。真司の反応は、彼らの予想を大きく裏切った。彼は身体を横にずらし、「どうぞ」という仕草をした。「お入りください。妻は二階におります」あまりにも落ち着いた口調が、逆に警官たちの疑念を深めた。彼らは真司の後に続き、二階へと上がっていく。主寝室のドアが押し開けられた瞬間、全員が息を呑んだ。部屋の中央には、純白のウェディングドレスをまとった女性の人体標本が、静かにガラスケースの中に立っている。壁一面には写真が飾られており、どれも真司とその標本が一緒に写った日常生活のスナップショットだ。一緒に朝日を眺め、
だが今、彼が自ら選んだオーダーメイドのウエディングドレスは、あの雑誌の写真とそっくりだ。無意識のうちに、彼はとっくに彼女のためのすべてを準備していたのだ。胸を押さえ、真司は激しく咳き込んだ。押し寄せる悲しみと虚しさが、彼を丸ごと呑み込もうとしている。ドン――!主寝室の扉が乱暴に蹴り開けられる。正雄が数人のボディーガードを連れて踏み込んできた。目の前の光景を見た瞬間、怒りで震えが止まらなくなった。「正気か!お前は本当に正気を失ってる!」正雄は真司を指さし、怒りに声を震わせた。「自分が何をしているのか分かっているのか!死者を……このような姿で家に安置するとは!藤原家の名誉を、お前はすべて地に落とすつもりなのか!」真司はゆっくりと床から立ち上がり、ガラスケースの前に立ちはだかった。その守るような姿勢が、正雄の怒りを完全に爆発させた。「どけ!」正雄は怒鳴り、真司を引き離そうと突進した。「今日中にこの不吉なものを片付けろ!」だが真司は微動だにせず、全身で彼女をかばい続けた。「たかが死人のために会社をつぶし、名誉を汚し、今度は親子の縁まで断ち切るつもりなのか!」正雄の手が勢いよく振りかざし、真司の頬を打ちつけた。乾いた音が響き、部屋の空気が凍りつく。真司の顔は横に弾かれ、口元から血がにじんだ。彼はゆっくりと顔を戻し、正雄をまっすぐに見つめた。「彼女は死んだ人間じゃない」真司は一語一語を噛みしめるように言った。声はかすれていたが、はっきりと響いた。「俺の妻だ」そう言い終えると、彼はそばの内線電話を取り、警備室の番号を押した。「藤原さんを……見送ってくれ」正雄は信じられないというように彼を見つめた。自らの手で育て、誇りに思っていた息子が、今はまるで仇でも見るような冷たい目を向けている。「ああ、もういい……」正雄の唇が怒りで紫に染まり、声を震わせた。「真司、お前は今日から、俺の息子じゃない!」すぐに警備員たちが駆けつけたが、藤原家の当主を前にして、どう動くべきか迷っていた。「俺の言葉、聞こえなかったのか?」真司の声が低く、冷たく響く。警備員たちは逆らうことができず、覚悟を決めて、激昂する正雄を別荘の外へと連れ出した。巨大な鉄の扉が背後でゆっくりと閉まり、外の世界を完全に遮