Semua Bab 全てを失った私への富豪の愛: Bab 1 - Bab 10

10 Bab

第1話

病院に駆けつけたとき、神谷恒一(かみや こういち)の妹――神谷澪(かみや みお)は、すでに救命措置の真っ最中だった。救急室の扉の上で点灯する赤いランプが、やけに目に刺さる。息を整える間もなく、正面から恒一が突っ込んできた。次の瞬間、私は背中を強く押され、冷たい壁に叩きつけられる。衝撃が骨まで響いた。「知里……お前、どれだけ性格が腐ってるんだよ」吐き捨てるような声。そこに、隠しきれない憎しみが滲んでいた。私は血走った彼の目を見返す。何が起きているのか、頭が追いつかない。「……何の話?」「とぼけるな!」恒一は鼻で笑い、手にしていた小さな薬瓶を私の足元へ叩きつけた。「医者が言った。澪は薬のアレルギー反応で急性腎不全だ。原因はこれだってな。今朝お前が自分で澪に飲ませた薬だ」背後から、泣き声が近づいてくる。澪の親友、白石優花(しらいし ゆうか)が駆け寄り、恒一の腕にしがみついた。「恒一……お願い、知里を責めないで。きっと……ただの間違いだよ。澪が飲んでた輸入薬と、知里が持ってきたビタミン、見た目がすごく似てたし……」私が持ってきたのは、澪の体調を気遣って用意した、ただのビタミン剤だった。反論しようとした、その瞬間。恒一の母親・神谷静子(かみや しずこ)が、勢いよく私に平手を振り下ろしていた。じん、と焼けるような痛みが走る。「縁起でもない女!あんたに関わってから、ろくなことが起きない!金持ちの家の娘は腹黒いって言うけど、まさにその通りね!最初から澪を殺すつもりだったんでしょう!?神谷家が何をしたっていうのよ!」私は頬を押さえながら、彼女たちの顔を見た。そこには怒りよりも、どこか勝ち誇ったような色があった。胸の奥が、すっと冷えていく。恒一が、私の顔に当てた手を乱暴に振り払う。「演技はもういい。さっさと跪いて謝れ」両親に叩かれたことなんて、一度もなかった。三年前。私はパリ留学の話を断った。親の反対を押し切り、結婚前に買った家を売り、貯金もすべて出した。何も持っていなかった恒一の起業を支えるために。金を受け取ったあの日、恒一は泣きながら私を抱きしめた。「知里、ありがとう。必ず、一生幸せにする」あれを、愛だと信じていた。でも、今なら分かる。私は
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第2話

藤堂直哉(とうどう なおや)の弁護士を連れて病室に戻ると、そこには、神谷家の人間たちは楽しげに病室で夕食を取っている。優花が、気遣うような仕草で恒一にスープを飲ませていた。恒一は、それを当然のように受け入れている。静子は優花の手を握り、何度も「いい子よね」と頷いていた。「優花……あなたがいなかったら、澪は本当に危なかったわ」「そんなことないですよ。澪のことを看病するのは、当たり前ですから」「それに比べて……何の役にも立たないくせに、性根が腐ってる人もいるしね」その言葉は、私に向けて放たれたものだった。私は、何も感じなかった。ただ黙って、一通の書類を恒一の横のテーブルに置く。「恒一、これに署名して」恒一は書類に目を落とし、それからゆっくり私を見る。離婚協議書。彼の眉間に、はっきりと皺が寄った。「知里……今度は何を企んでる?」「あなたが望んでたことよ」私は静かに答える。「澪には、誰かがつきっきりで世話をする必要がある。優花のほうが、私より向いてる。だから、身を引くだけ」優花の顔が一瞬で強張り、慌てて立ち上がった。「知里、誤解しないで。私と恒一は、本当に何もないから。こんな形で、恒一の気持ちを試す必要なんてないよ」私は彼女を見なかった。恒一だけを見ている。「署名して。あなたにとっても、私にとっても、そのほうが楽よ」次のとき、静子が勢いよく立ち上がった。「離婚?冗談じゃないわ!澪をあんな目に遭わせておいて、逃げる気?神谷家は何も悪いことなんてしてない!あんたに渡すお金なんて、一円もないから!」背後にいた弁護士が一歩前に出る。「失礼ですが、法律によれば知里様には、婚姻中に形成された共有財産を分割する正当な権利があります。神谷様の会社の株式については、知里様が51%を保有しています。婚姻後に取得された不動産および車両についても、原則として折半となります。また、創業初期に拠出された一億円の資金は、知里様の婚前財産に該当し、全額返還対象となるでしょう」病室の空気が、一瞬で凍りついた。恒一が立ち上がり、協議書を乱暴にひったくる。そして、その場で引き裂いた。紙片が、床にばらばらと落ちる。「知里……俺を陥れるつもりか」その目は、怒りと
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第3話

翌朝、恒一が家に押し入ってきた。寝室のドアを蹴り開け、殺気だった目で私を睨みつける。「知里……会社の株を売るつもりか!」怒鳴りながら、彼は新聞を私の顔に叩きつけた。床に落ちた紙面の一面には、【クロスリンク・グループ、神谷社買収を検討】という大きな見出しが踊っている。私は新聞を拾い上げ、何も言わずに恒一を見つめた。「……あなたが、そうさせた」「俺が?」恒一は、信じられないものを見るように笑う。「こんなやり方で、俺に報復するつもりか?この会社が、俺の人生そのものだって分かってるのか!」「じゃあ聞くけど、その人生は、誰のお金で成り立ってきたの?」私は聞き返した。「最初に資金が足りないって、家を売ってでも助けてほしいって泣きついてきたのは誰?会社は、永遠に半分は私のものだって言ったのは?恒一……あなたの約束って、そんなに軽かった?」恒一は言葉に詰まり、顔色がさっと変わった。「金、金、金……!お前はそればっかりだ!知里、お前は本当に下品な女だな!」「ええ、そうよ」私は小さく頷く。「だから、そんな立派なあなたが、私のお金をきちんと返して。それで、私たちはもう、何の借りも貸しもない」「ふざけるな!」恒一は一歩踏み込み、私の手首を強く掴んだ。「株は売らせない!離婚もさせない!大人しく家にいろ!どこにも行くな!」吐き捨てるように言い残し、彼は私をベッドに突き倒して部屋を出ていった。直後、鍵のかかる音がはっきりと響く。監禁。彼は私を、正気を失った厄介な存在のように扱った。私は、人として扱われていなかった。ドアに駆け寄り、力の限り叩く。「恒一!開けて!これは違法よ!」返事はない。聞こえるのは、遠ざかっていく足音だけ。私は、その場に崩れ落ちた。スマホは奪われ、固定電話の線も切られている。この家は、静かで、きれいな牢獄になった。それから二日間、恒一は戻ってこなかった。初日は、家政婦が食事を運んできた。私を見る目には、露骨な蔑みと、ほんの少しの同情。「奥様……社長が、ご自身の過ちをよく考えるようにと」翌日も、同じように食事が運ばれる。今度は、正気を失った女を見るような目だった。「奥様……考え直したら、頭を下げに行けばいいって」その二
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第4話

直哉のマンションで、私はそのまま暮らすことになった。それからの一週間、恒一からの連絡は一切なかった。まるで、私という存在が、最初から彼の世界になかったかのように。……それでいい。直哉は、毎日顔を出した。美味しいものを差し入れてくれたり、どうでもいい話をしたり、気分転換だと言って、外へ連れ出してくれたり。彼の手配で、私は正式に彼の会社へ入社し、チーフデザイナーとして働き始めた。「この日を、ずっと待ってた」そう言って向けられた視線が、あまりに真っ直ぐで、私は少しだけ居心地の悪さを覚える。視線を逸らし、窓の外を見た。「……期待に応えられるよう、ちゃんとやる」「信じてるよ」昼時、社員食堂に入ったときだった。直哉は自分で配膳口に並び、私の分までトレーを受け取る。周囲が、一斉にざわついた。遠慮のない視線が、あちこちから突き刺さってくる。私は思わず声を落とした。「藤堂さん……こういうの、あまり良くないんじゃ……」「何が?」彼は気にも留めず、軽く笑う。「知里は、うちのチーフデザイナーだ。それに……大切な、友人でもある」そのとき、食堂のテレビに速報が割り込んだ。経済ニュースだった。【神谷グループ、中核技術の情報流出により主要プロジェクトが中断。株価は急落……】画面には、記者に囲まれた恒一の姿が映し出されている。頬はこけ、かつての余裕は、影も形もなかった。箸を持つ手が、止まる。中核技術の流出。あの技術は、私が何度も徹夜して完成させたものだ。彼に渡した、いわば「持参金」だった。私は箸を置き、それ以上、食べる気になれなかった。直哉が何も言わずにリモコンを取り、テレビを消す。「見なくていい。知里のせいじゃない」私は小さく頷いた。それでも、胸の奥に引っかかるものが残る。午後、一本の電話がかかってきた。相手は、静子だった。「知里!このくそ女!会社の機密を売ったんでしょ!恒一をあそこまで追い詰めて、まだ足りないっていうの!?いい?恒一が破産でもしたら、私は、死んでもあんたを許さないから!」最後まで聞かず、私は通話を切った。胸の奥が、重く塞がる。仕事を終え、直哉が車で送ってくれた。マンションの前で、見覚えのある姿が目に入る。恒一だった
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第5話

マンションに戻ると、私はそのまま部屋に閉じこもった。直哉は何も言わず、ただ静かにリビングで私を待っていた。床に座ったまま、結局、一睡もできないまま夜が明ける。空が白み始めた頃、私はようやく部屋を出た。ソファにもたれて、直哉が眠っている。薄手のコートを一枚、体にかけただけの姿だった。私は毛布を持ってきて、そっと掛け直す。その気配に、彼が目を覚ました。「……考えは、まとまった?」私は、小さく頷いた。「今日からこの世界に、神谷の妻である知里はいない。いるのは、クロスリンク・グループのチーフデザイナー、知里だけ」直哉は、ふっと笑った。それは胸の奥を少し軽くしてくれる笑顔だった。それからの日々、私はすべての時間と注意力を、仕事に注いだ。チームを率いて、いくつもの重要なデザイン案件を勝ち取る。私の名前は、少しずつ、業界の中で聞かれるようになっていった。誰かの妻ではない。誰かに守られる存在でもない。私は、私だ。知里という、一人の人間。……その日、私は会議の真っ最中だった。秘書がノックをして、来客があると告げる。応接室へ向かうと、そこにいたのは、静子だった。以前より、ひどくやつれている。あの尊大さは、もうどこにもなかった。私を見るなり、彼女は床に膝をついた。「知里……お願い。恒一を、助けてあげて」私は驚いて、思わず一歩後ずさる。「……何をしているんですか」「恒一が……警察に連れて行かれたの。商業詐欺だって……このままじゃ、刑務所に入ることになる!全部、あの白石優花のせいよ!会社の機密を盗んで、競合に売り飛ばしたのは、あの女!今はお金を持って逃げて、全部の罪を恒一に押しつけた……!」彼女は泣き崩れ、私の脚にすがりつく。「知里……私たち、間違ってた。あの女の言葉を信じて、あなたにあんなことをするべきじゃなかった。あなたは、いい子でしょう?見殺しになんて、できないはずよね?」私は、彼女を見下ろした。不思議なほど、心は静かだった。今さら、何を言っているだろう。私は彼女の懐から脚を引く。「すみません。私は、恒一とは、もう離婚しています。彼のことは、私には関係ありません」そう言って、背を向けた。背後から、金切り声が追いかけてくる。
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第6話

恒一は、無罪で釈放された。送ったメールが、彼の無実を証明する決定的な証拠になった。中核技術は恒一自身が流出させたものではなく、優花が外部の人間と結託し、盗み出していたのだ。釈放されたその日、私は恒一に会いに行った。街中の、静かなカフェだった。恒一は、ひどく痩せていた。頬は落ち、無精ひげが伸びている。目の下には、疲労の跡がはっきりと残っていた。かつての、意気揚々とした経営者の面影はない。視線が、ふと合う。そこにあったのは、罪悪感と後悔、そして縋るような弱さだった。「……ありがとう」掠れた声だった。「君がいなかったら……」「あなたを救ったのは、私じゃない」私は、彼の言葉を遮る。「法律よ」そう言って、メールを印刷した紙をテーブルに置いた。「それと……これ」恒一は紙に目を落とし、読み進めるにつれ、顔から血の気が引いていく。最後には、指先が小さく震え始めていた。「……これは……」「ええ」私は、淡々と続ける。「あなたが一番大切にしていた妹と、婚約するつもりだった女が、二人で仕組んだこと。恒一……今、どんな気分?」恒一は、勢いよく顔を上げた。そこにあったのは、痛みと信じられない気持ちだった。「……そんな……あり得ない……澪が、そんなことをするはずが……」「するはずがない?」私は、思わず小さく笑ってしまう。「じゃあ、どうしてあの時、私が澪を害したって、迷いもなく決めつけたの?どうして、あの二人の言葉は信じて、私の話は一度も聞こうとしなかったの?」恒一は、何か言おうとして口を開いた。けれど、結局、言葉は出てこなかった。私は席を立とうとした。「知里……」恒一の声が追ってくる。「……ごめん。俺は……」「もういい」振り返らずに、私はそう言った。「謝る必要はない。あの契約書を突きつけた時から、私たちの間に残ったのは憎しみだけ。神谷恒一。あなたと、あなたの家族が末永く、お幸せでありますように」カフェを出ると、昼の光が目に刺さった。私は顔を上げ、胸に込み上げるものを押し戻す。もう、終わった。私と恒一は、完全に終わった。数日後、神谷家が崩壊したと聞いた。恒一は、妹の澪を家から追い出し、縁を切った。人脈を使い、この街では二度と仕事ができないように
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第7話

恒一の登場は、まるで茶番だった。直哉が通報し、警察は取り乱した恒一を連れて行った。私と直哉のパリ行きも、そのせいで水を差された。帰りの機内で、私はずっと黙っていた。直哉が私の手を握った。「怖がらなくていい。俺がいる」私は小さく頷き、直哉の肩にもたれた。けれど、胸の中はぐちゃぐちゃだった。もう吹っ切れたと思っていた。それなのに、恒一が現れただけで心はあっさりかき乱される。会社に戻ると、私はさらに忙しく仕事に没頭した。仕事で自分を麻痺させようとしたのだ。恒一は、それきり私を探しに来なかった。私は、もう諦めたのだと思った。半月後まで。仕事を終えて帰宅すると、マンションの下にまた恒一がいた。近づいてはこない。少し離れたところで立ち尽くしているだけだ。手には、保温ポットを提げていた。私に気づくと、恒一はどこか気まずそうに、それを軽く持ち上げた。「……君、胃が弱いだろ。スープ、煮てきた」声は低く、どこか媚びるようだった。その姿を見て、私はひどく滑稽だと思った。「神谷さん、忘れたんですか。私たち、もう離婚してます。今さらそんなことをしても、無駄だと思いませんか?」恒一の顔から、さっと血の気が引いた。「お、俺は……ただ、君に償いたくて」「償う?」私は笑った。「何で償うんですか?あなたに閉じ込められていた日々を?あなたと、あなたの家族に踏みにじられた尊厳を?恒一。あなたが私にしたことはこの先一生かけても、償いきれない」私は彼を避け、建物に入ろうとした。その瞬間、背後から恒一に抱きしめられた。「知里、行くな。もう一度だけチャンスをくれ。俺が悪かった。本当に、悪かったんだ……」恒一の体は震えていた。声には泣きそうな響きが混じっている。「愛してる、知里。ずっと愛してたのは君だけだ。俺は……目が曇ってた。あいつらの戯言を信じて……頼む、戻ってきてくれ……!」私は必死に暴れたが、振りほどけない。力が、想像以上に強かった。「放して!」「放さない!この先ずっと、もう二度と放さない!」引き剥がそうともがいているところへ、直哉の車が入ってきた。直哉が降りてくる。表情は氷のように冷たい。「恒一、放せ」恒一が直哉を見たとき、
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第8話

南大橋に駆けつけたとき、そこはすでに人の波で埋め尽くされていた。警察が必死に秩序を保ち、消防は橋の下に救命用のエアマットを広げている。恒一は、橋の縁に立っていた。情緒は激しく不安定で、誰一人、近づくことを許さない。「そいつを行かせろ!」恒一は群衆の中にいる直哉を指さし、警察に向かって怒鳴り散らした。「その男を追い払え!俺はあいつを見たくない!知里を呼べ!一人で来させろ!」警察も打つ手がなく、直哉にその場を離れるよう求めた。直哉は不安そうに私を見たが、私は分かっていた。――今、恒一を落ち着かせられるのは、私しかいない。「私が行く」そう告げると、直哉は短く頷いた。「気をつけろ」私は歩調を落とし、恒一のほうへ向かった。十メートルほど手前で、足を止める。「恒一、降りて。話なら、ちゃんとできる」恒一は私を見るなり、一瞬、目を見開いた。だが、その光はすぐに翳った。「……もう、俺を愛してないんだろ……あの男を、愛してるんだろ」私は、その問いに答えなかった。「まず降りて。危ないから」「答えろ!」恒一は、感情を抑えきれない声で叫んだ。「お前、あいつと結婚するつもりなのか!」私は大きく息を吸い、恒一をまっすぐ見据えた。「……そう。彼のプロポーズを、受けるつもり。恒一、私たちはもう終わってる。私を放して、あなた自身のためにも」その言葉は、刃のように、彼の最後の拠り所を断ち切った。恒一は、絶望したように笑った。「終わった……?知里……お前は、本当に冷たい。俺は、すべてをお前に捧げたのに、それでも行くんだな」そして、声を荒らげる。「だったら――俺が手に入れられないなら、誰にも渡さない!」そう言い切ると同時に、恒一は両腕を広げ、後ろへ身を投げた。「やめて!」私は叫び、必死に駆け出した。だが、間に合わなかった。私が掴めたのは、彼の服の端だけだった。恒一は、私の目の前で、濁流へと消えていった。――ドン、という鈍い音。川面に、大きな水しぶきが立つ。やがて、すべてが静まり返った。頭の中が、真っ白になる。手の中には、彼の服から引き裂かれた布切れが残っていた。まだ温もりがあり、まるで体温がそこに留まっているようだった。警察と消防は、
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第9話

恒一の遺体を見て、私はその顔がひどく歪んでいることに気づいた。その姿を前にして、子どもの頃、近所で流れていた不気味な言い伝えを思い出した。愛のために死んだ人間は、怨霊となって、かつて愛した相手に取り憑く。だから私は、幻覚を見るようになったのだと思った。気づけばいつも、恒一がすぐそばにいる気がしていた。恒一の死は、巨大な石のように、私の胸に重くのしかかっていた。私は家に閉じこもり、外へ出ることがほとんどなくなった。直哉はひどく心配して、毎日のように私の様子を見に来た。そして私は、クロスリンク・グループの仕事を辞めることになった。しばらくして体調を崩し、医師からは重度のうつ状態だと言われた。夜はほとんど眠れず、髪の毛も目に見えて抜け落ちていった。記憶力も落ち、ときには鏡の前に立って、そこに映る自分が誰なのか分からなくなることもあった。直哉は仕事をすべて家に持ち込み、一日二十四時間、私を見守っていた。心理カウンセリングにも連れて行き、外へ連れ出しては、少しでも気分が変わるよう気を配ってくれた。考え得る限りの方法で、私を暗闇から引き上げようとしてくれていた。それでも私は、さらに深く沈んでいった。幻覚を見る回数は、増える一方だった。私は、何度も恒一を見る。白いシャツを着て、陽の光の中に立ち、私に向かって微笑んでいる。それは、私たちが初めて出会ったときと同じ姿だ。「知里、こっちへ」恒一はそう言って、私に手を伸ばす。私は自分を制御できないまま、そのほうへ歩いていってしまう。そのたびに、現実へ引き戻される。直哉が私を危険な場所から引き戻した。一度は道路の真ん中で、もう一度はビルの屋上、手すりの上だった。直哉は私を抱きしめ、崩れ落ちるように泣いた。「知里、目を覚ませ!彼はもう死んだ!二度と戻ってこない!俺を見ろ!俺は、ここにいる!自分のためじゃなくていい。俺のことも、考えてくれ!」血走った彼の目を見た瞬間、胸が針で刺されたように痛んだ。私はもう、このままではいけないと思った。これ以上、彼に負担をかけるわけにはいかなかった。私は治療に積極的に向き合うことにし、薬を飲んで心理的なケアを受けた。状態は、少しずつ良くなっていった。一年後。私は、ほぼ普
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第10話

私の結婚式は、予定どおり執り行われた。青い空と白い雲の下、芝生の上で。真っ白なウェディングドレスに身を包み、私は直哉の腕に手を添え、一歩ずつ、彼のもとへと歩いていく。彼は陽の光の中に立ち、こちらを見つめて、穏やかに微笑んでいる。それは、私が夢の中で何度も見てきた光景と、驚くほどよく似ていた。指輪を交換する段になって、私の手がわずかに震える。直哉はそれに気づいたのか、私の手を包み込み、落ち着かせるような視線を向けてくれる。「……はい。誓います」その言葉を口にした途端、長いあいだ背負ってきたものが、静かに下りる。私はようやく、過去と別れることができたのだと感じていた。結婚式のあと、私たちはモルディブへ新婚旅行に出かけた。そこは、以前から一度は行ってみたいと思っていた場所だった。水上コテージに泊まり、朝は日の出を、夜は水平線に沈む夕日を眺める。ダイビングやサーフィンを楽しみ、ただ二人だけの時間を過ごしている。直哉は、良き伴侶だ。細やかな気配りを忘れず、穏やかで、忍耐強い人だった。私が悪夢で目を覚ますと、彼は何も言わずに抱き寄せてくれる。冗談を交えながら、自然と笑わせてくれることもある。まるで、何も知らない小さな子どもを扱うように、私を大切にしてくれる。その腕の中で、私は少しずつ癒されていった。あの傷は、ゆっくりとかさぶたになり、新しい血肉へと変わっていった。帰国後、私は「知里デザイン」を本格的に軌道に乗せた。やがて業界でも名の知られるデザイン会社となり、直哉の率いるクロスリンク・グループも、彼の指揮のもとで業界の上位に名を連ねるようになった。私たちは、いつの間にか周囲から理想の夫婦だと言われる存在になっていた。結婚二年目、私は妊娠した。男の子だった。直哉は子どものように喜び、仕事を後回しにして、家で私に付き添っている。お腹の中の赤ん坊に物語を読み聞かせ、音楽を流しながら、何度も声をかけている。「世界で一番、幸せな子に育てよう」そう言って、照れたように笑う。出産の日、直哉は分娩室の外を落ち着かない様子で行き来していた。看護師が赤ん坊を抱いて現れた瞬間、身長一八〇センチを超える大の大人が、涙で顔をぐしゃぐしゃにした。彼は、子どもに名前をつけた。藤堂恒一郎(と
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