LOGIN夫・神谷恒一(かみや こういち)との結婚三周年の記念日は、夫の妹が入院している病室で過ごした。 そこで、離婚届を差し出された。 「これにサインしろ。優花の居場所を空けるんだ」 白石優花(しらいし・ゆうか)。夫の妹の親友で、かつて彼の耳元で私は「不吉な女」だと囁いていた。 私は、夫を見つめ返した。 「恒一。あなたの起業資金を用意したのは、誰? 妹さんの腎臓の提供先を探したのは? 今さら成功したからって、私を追い出すつもり?」 そして顎を掴まれ、低い声で告げられる。 「知里、調子に乗るな。 知ってるぞ。優花がお前が俺の妹の薬を勝手に止めて、死なせようとしたことを見たさ」 私は、笑った。 そしてその場で、一本の電話をかける。 「藤堂さん。私、今すぐ離婚する。 あなたが言ってくれた条件はまだ、有効?」
View More私の結婚式は、予定どおり執り行われた。青い空と白い雲の下、芝生の上で。真っ白なウェディングドレスに身を包み、私は直哉の腕に手を添え、一歩ずつ、彼のもとへと歩いていく。彼は陽の光の中に立ち、こちらを見つめて、穏やかに微笑んでいる。それは、私が夢の中で何度も見てきた光景と、驚くほどよく似ていた。指輪を交換する段になって、私の手がわずかに震える。直哉はそれに気づいたのか、私の手を包み込み、落ち着かせるような視線を向けてくれる。「……はい。誓います」その言葉を口にした途端、長いあいだ背負ってきたものが、静かに下りる。私はようやく、過去と別れることができたのだと感じていた。結婚式のあと、私たちはモルディブへ新婚旅行に出かけた。そこは、以前から一度は行ってみたいと思っていた場所だった。水上コテージに泊まり、朝は日の出を、夜は水平線に沈む夕日を眺める。ダイビングやサーフィンを楽しみ、ただ二人だけの時間を過ごしている。直哉は、良き伴侶だ。細やかな気配りを忘れず、穏やかで、忍耐強い人だった。私が悪夢で目を覚ますと、彼は何も言わずに抱き寄せてくれる。冗談を交えながら、自然と笑わせてくれることもある。まるで、何も知らない小さな子どもを扱うように、私を大切にしてくれる。その腕の中で、私は少しずつ癒されていった。あの傷は、ゆっくりとかさぶたになり、新しい血肉へと変わっていった。帰国後、私は「知里デザイン」を本格的に軌道に乗せた。やがて業界でも名の知られるデザイン会社となり、直哉の率いるクロスリンク・グループも、彼の指揮のもとで業界の上位に名を連ねるようになった。私たちは、いつの間にか周囲から理想の夫婦だと言われる存在になっていた。結婚二年目、私は妊娠した。男の子だった。直哉は子どものように喜び、仕事を後回しにして、家で私に付き添っている。お腹の中の赤ん坊に物語を読み聞かせ、音楽を流しながら、何度も声をかけている。「世界で一番、幸せな子に育てよう」そう言って、照れたように笑う。出産の日、直哉は分娩室の外を落ち着かない様子で行き来していた。看護師が赤ん坊を抱いて現れた瞬間、身長一八〇センチを超える大の大人が、涙で顔をぐしゃぐしゃにした。彼は、子どもに名前をつけた。藤堂恒一郎(と
恒一の遺体を見て、私はその顔がひどく歪んでいることに気づいた。その姿を前にして、子どもの頃、近所で流れていた不気味な言い伝えを思い出した。愛のために死んだ人間は、怨霊となって、かつて愛した相手に取り憑く。だから私は、幻覚を見るようになったのだと思った。気づけばいつも、恒一がすぐそばにいる気がしていた。恒一の死は、巨大な石のように、私の胸に重くのしかかっていた。私は家に閉じこもり、外へ出ることがほとんどなくなった。直哉はひどく心配して、毎日のように私の様子を見に来た。そして私は、クロスリンク・グループの仕事を辞めることになった。しばらくして体調を崩し、医師からは重度のうつ状態だと言われた。夜はほとんど眠れず、髪の毛も目に見えて抜け落ちていった。記憶力も落ち、ときには鏡の前に立って、そこに映る自分が誰なのか分からなくなることもあった。直哉は仕事をすべて家に持ち込み、一日二十四時間、私を見守っていた。心理カウンセリングにも連れて行き、外へ連れ出しては、少しでも気分が変わるよう気を配ってくれた。考え得る限りの方法で、私を暗闇から引き上げようとしてくれていた。それでも私は、さらに深く沈んでいった。幻覚を見る回数は、増える一方だった。私は、何度も恒一を見る。白いシャツを着て、陽の光の中に立ち、私に向かって微笑んでいる。それは、私たちが初めて出会ったときと同じ姿だ。「知里、こっちへ」恒一はそう言って、私に手を伸ばす。私は自分を制御できないまま、そのほうへ歩いていってしまう。そのたびに、現実へ引き戻される。直哉が私を危険な場所から引き戻した。一度は道路の真ん中で、もう一度はビルの屋上、手すりの上だった。直哉は私を抱きしめ、崩れ落ちるように泣いた。「知里、目を覚ませ!彼はもう死んだ!二度と戻ってこない!俺を見ろ!俺は、ここにいる!自分のためじゃなくていい。俺のことも、考えてくれ!」血走った彼の目を見た瞬間、胸が針で刺されたように痛んだ。私はもう、このままではいけないと思った。これ以上、彼に負担をかけるわけにはいかなかった。私は治療に積極的に向き合うことにし、薬を飲んで心理的なケアを受けた。状態は、少しずつ良くなっていった。一年後。私は、ほぼ普
南大橋に駆けつけたとき、そこはすでに人の波で埋め尽くされていた。警察が必死に秩序を保ち、消防は橋の下に救命用のエアマットを広げている。恒一は、橋の縁に立っていた。情緒は激しく不安定で、誰一人、近づくことを許さない。「そいつを行かせろ!」恒一は群衆の中にいる直哉を指さし、警察に向かって怒鳴り散らした。「その男を追い払え!俺はあいつを見たくない!知里を呼べ!一人で来させろ!」警察も打つ手がなく、直哉にその場を離れるよう求めた。直哉は不安そうに私を見たが、私は分かっていた。――今、恒一を落ち着かせられるのは、私しかいない。「私が行く」そう告げると、直哉は短く頷いた。「気をつけろ」私は歩調を落とし、恒一のほうへ向かった。十メートルほど手前で、足を止める。「恒一、降りて。話なら、ちゃんとできる」恒一は私を見るなり、一瞬、目を見開いた。だが、その光はすぐに翳った。「……もう、俺を愛してないんだろ……あの男を、愛してるんだろ」私は、その問いに答えなかった。「まず降りて。危ないから」「答えろ!」恒一は、感情を抑えきれない声で叫んだ。「お前、あいつと結婚するつもりなのか!」私は大きく息を吸い、恒一をまっすぐ見据えた。「……そう。彼のプロポーズを、受けるつもり。恒一、私たちはもう終わってる。私を放して、あなた自身のためにも」その言葉は、刃のように、彼の最後の拠り所を断ち切った。恒一は、絶望したように笑った。「終わった……?知里……お前は、本当に冷たい。俺は、すべてをお前に捧げたのに、それでも行くんだな」そして、声を荒らげる。「だったら――俺が手に入れられないなら、誰にも渡さない!」そう言い切ると同時に、恒一は両腕を広げ、後ろへ身を投げた。「やめて!」私は叫び、必死に駆け出した。だが、間に合わなかった。私が掴めたのは、彼の服の端だけだった。恒一は、私の目の前で、濁流へと消えていった。――ドン、という鈍い音。川面に、大きな水しぶきが立つ。やがて、すべてが静まり返った。頭の中が、真っ白になる。手の中には、彼の服から引き裂かれた布切れが残っていた。まだ温もりがあり、まるで体温がそこに留まっているようだった。警察と消防は、
恒一の登場は、まるで茶番だった。直哉が通報し、警察は取り乱した恒一を連れて行った。私と直哉のパリ行きも、そのせいで水を差された。帰りの機内で、私はずっと黙っていた。直哉が私の手を握った。「怖がらなくていい。俺がいる」私は小さく頷き、直哉の肩にもたれた。けれど、胸の中はぐちゃぐちゃだった。もう吹っ切れたと思っていた。それなのに、恒一が現れただけで心はあっさりかき乱される。会社に戻ると、私はさらに忙しく仕事に没頭した。仕事で自分を麻痺させようとしたのだ。恒一は、それきり私を探しに来なかった。私は、もう諦めたのだと思った。半月後まで。仕事を終えて帰宅すると、マンションの下にまた恒一がいた。近づいてはこない。少し離れたところで立ち尽くしているだけだ。手には、保温ポットを提げていた。私に気づくと、恒一はどこか気まずそうに、それを軽く持ち上げた。「……君、胃が弱いだろ。スープ、煮てきた」声は低く、どこか媚びるようだった。その姿を見て、私はひどく滑稽だと思った。「神谷さん、忘れたんですか。私たち、もう離婚してます。今さらそんなことをしても、無駄だと思いませんか?」恒一の顔から、さっと血の気が引いた。「お、俺は……ただ、君に償いたくて」「償う?」私は笑った。「何で償うんですか?あなたに閉じ込められていた日々を?あなたと、あなたの家族に踏みにじられた尊厳を?恒一。あなたが私にしたことはこの先一生かけても、償いきれない」私は彼を避け、建物に入ろうとした。その瞬間、背後から恒一に抱きしめられた。「知里、行くな。もう一度だけチャンスをくれ。俺が悪かった。本当に、悪かったんだ……」恒一の体は震えていた。声には泣きそうな響きが混じっている。「愛してる、知里。ずっと愛してたのは君だけだ。俺は……目が曇ってた。あいつらの戯言を信じて……頼む、戻ってきてくれ……!」私は必死に暴れたが、振りほどけない。力が、想像以上に強かった。「放して!」「放さない!この先ずっと、もう二度と放さない!」引き剥がそうともがいているところへ、直哉の車が入ってきた。直哉が降りてくる。表情は氷のように冷たい。「恒一、放せ」恒一が直哉を見たとき、