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全てを失った私への富豪の愛

全てを失った私への富豪の愛

By:  陽Completed
Language: Japanese
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夫・神谷恒一(かみや こういち)との結婚三周年の記念日は、夫の妹が入院している病室で過ごした。 そこで、離婚届を差し出された。 「これにサインしろ。優花の居場所を空けるんだ」 白石優花(しらいし・ゆうか)。夫の妹の親友で、かつて彼の耳元で私は「不吉な女」だと囁いていた。 私は、夫を見つめ返した。 「恒一。あなたの起業資金を用意したのは、誰? 妹さんの腎臓の提供先を探したのは? 今さら成功したからって、私を追い出すつもり?」 そして顎を掴まれ、低い声で告げられる。 「知里、調子に乗るな。 知ってるぞ。優花がお前が俺の妹の薬を勝手に止めて、死なせようとしたことを見たさ」 私は、笑った。 そしてその場で、一本の電話をかける。 「藤堂さん。私、今すぐ離婚する。 あなたが言ってくれた条件はまだ、有効?」

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Chapter 1

第1話

病院に駆けつけたとき、神谷恒一(かみや こういち)の妹――神谷澪(かみや みお)は、すでに救命措置の真っ最中だった。

救急室の扉の上で点灯する赤いランプが、やけに目に刺さる。

息を整える間もなく、正面から恒一が突っ込んできた。

次の瞬間、私は背中を強く押され、冷たい壁に叩きつけられる。衝撃が骨まで響いた。

「知里……お前、どれだけ性格が腐ってるんだよ」

吐き捨てるような声。そこに、隠しきれない憎しみが滲んでいた。

私は血走った彼の目を見返す。何が起きているのか、頭が追いつかない。

「……何の話?」

「とぼけるな!」

恒一は鼻で笑い、手にしていた小さな薬瓶を私の足元へ叩きつけた。

「医者が言った。澪は薬のアレルギー反応で急性腎不全だ。原因はこれだってな。

今朝お前が自分で澪に飲ませた薬だ」

背後から、泣き声が近づいてくる。

澪の親友、白石優花(しらいし ゆうか)が駆け寄り、恒一の腕にしがみついた。

「恒一……お願い、知里を責めないで。

きっと……ただの間違いだよ。

澪が飲んでた輸入薬と、知里が持ってきたビタミン、見た目がすごく似てたし……」

私が持ってきたのは、澪の体調を気遣って用意した、ただのビタミン剤だった。

反論しようとした、その瞬間。

恒一の母親・神谷静子(かみや しずこ)が、勢いよく私に平手を振り下ろしていた。

じん、と焼けるような痛みが走る。

「縁起でもない女!あんたに関わってから、ろくなことが起きない!

金持ちの家の娘は腹黒いって言うけど、まさにその通りね!最初から澪を殺すつもりだったんでしょう!?

神谷家が何をしたっていうのよ!」

私は頬を押さえながら、彼女たちの顔を見た。そこには怒りよりも、どこか勝ち誇ったような色があった。

胸の奥が、すっと冷えていく。

恒一が、私の顔に当てた手を乱暴に振り払う。

「演技はもういい。さっさと跪いて謝れ」

両親に叩かれたことなんて、一度もなかった。

三年前。私はパリ留学の話を断った。

親の反対を押し切り、結婚前に買った家を売り、貯金もすべて出した。

何も持っていなかった恒一の起業を支えるために。

金を受け取ったあの日、恒一は泣きながら私を抱きしめた。

「知里、ありがとう。

必ず、一生幸せにする」

あれを、愛だと信じていた。

でも、今なら分かる。私はただ、自分から血を差し出していただけだった。

私は静かに息を吸い、恒一を見据える。

「……私じゃない。

監視カメラを見れば分かるはず」

一瞬、恒一が眉をひそめた。

「監視カメラ?

優花が言ってたぞ。お前はカメラを避けて、階段の踊り場で澪に飲ませたって。

知里……そこまでして、俺を苦しめたいのか」

五年間、愛した人。

よそ者の言葉は信じるのに、私の説明は、最初から聞く気もない。

優花が現れる前は、何があっても、最後まで私の話を聞いて信じてくれたのに。

私が反論しようとするとき、救急室の扉が開いた。

疲れ切った様子の医師が、廊下へ出てくる。

「ひとまず、命の危険は回避できました。ただ……状態はかなり厳しいです。

できるだけ早く、適合する腎臓が見つからないと」

静子は、その場に崩れ落ち、泣き叫んだ。

恒一は拳を強く握り、ゆっくりと私の前にやってきた。

歯を食いしばり、一言一句を噛みしめるように言った。

「知里。澪に何かあったら、お前も、ただじゃ済まさない」

そう言い捨てると、恒一は母親を支え、優花と一緒に病室へ向かった。

一度も、振り返らずに。

私は、がらんとした廊下に取り残される。

冷たい風が吹き抜け、胸の奥がじわじわと冷えていった。

ポケットのスマホが震える。

メッセージが届いた。

【神谷様、ご依頼いただいていた腎臓ドナーが見つかりました。適合率は非常に高いです】

私は画面を見つめ、そのままメッセージを消した。

そして廊下の突き当たりの窓辺へ行き、一本の電話をかける。

「藤堂さん……私、知里」

電話の向こうはちょっと驚いたが、すぐに落ち着いた声が返ってきた。

「……知里さん、どうした」

「前に言ってたよね。私を、あなたの会社のチーフデザイナーに迎えたいって。

条件は、私の言い値でいいって。

……あの話、今も効いてる?」

数秒の沈黙。それから、短く答えが落ちる。

「もちろん。

でも……君は、神谷さんの会社を出る気はないって」

私は窓の外の、灰色の空を見上げた。

「すぐに、神谷の姓じゃなくなる。

条件は一つだけ」

「何だ?」

「離婚協議書、用意して」

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第1話
病院に駆けつけたとき、神谷恒一(かみや こういち)の妹――神谷澪(かみや みお)は、すでに救命措置の真っ最中だった。救急室の扉の上で点灯する赤いランプが、やけに目に刺さる。息を整える間もなく、正面から恒一が突っ込んできた。次の瞬間、私は背中を強く押され、冷たい壁に叩きつけられる。衝撃が骨まで響いた。「知里……お前、どれだけ性格が腐ってるんだよ」吐き捨てるような声。そこに、隠しきれない憎しみが滲んでいた。私は血走った彼の目を見返す。何が起きているのか、頭が追いつかない。「……何の話?」「とぼけるな!」恒一は鼻で笑い、手にしていた小さな薬瓶を私の足元へ叩きつけた。「医者が言った。澪は薬のアレルギー反応で急性腎不全だ。原因はこれだってな。今朝お前が自分で澪に飲ませた薬だ」背後から、泣き声が近づいてくる。澪の親友、白石優花(しらいし ゆうか)が駆け寄り、恒一の腕にしがみついた。「恒一……お願い、知里を責めないで。きっと……ただの間違いだよ。澪が飲んでた輸入薬と、知里が持ってきたビタミン、見た目がすごく似てたし……」私が持ってきたのは、澪の体調を気遣って用意した、ただのビタミン剤だった。反論しようとした、その瞬間。恒一の母親・神谷静子(かみや しずこ)が、勢いよく私に平手を振り下ろしていた。じん、と焼けるような痛みが走る。「縁起でもない女!あんたに関わってから、ろくなことが起きない!金持ちの家の娘は腹黒いって言うけど、まさにその通りね!最初から澪を殺すつもりだったんでしょう!?神谷家が何をしたっていうのよ!」私は頬を押さえながら、彼女たちの顔を見た。そこには怒りよりも、どこか勝ち誇ったような色があった。胸の奥が、すっと冷えていく。恒一が、私の顔に当てた手を乱暴に振り払う。「演技はもういい。さっさと跪いて謝れ」両親に叩かれたことなんて、一度もなかった。三年前。私はパリ留学の話を断った。親の反対を押し切り、結婚前に買った家を売り、貯金もすべて出した。何も持っていなかった恒一の起業を支えるために。金を受け取ったあの日、恒一は泣きながら私を抱きしめた。「知里、ありがとう。必ず、一生幸せにする」あれを、愛だと信じていた。でも、今なら分かる。私は
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第2話
藤堂直哉(とうどう なおや)の弁護士を連れて病室に戻ると、そこには、神谷家の人間たちは楽しげに病室で夕食を取っている。優花が、気遣うような仕草で恒一にスープを飲ませていた。恒一は、それを当然のように受け入れている。静子は優花の手を握り、何度も「いい子よね」と頷いていた。「優花……あなたがいなかったら、澪は本当に危なかったわ」「そんなことないですよ。澪のことを看病するのは、当たり前ですから」「それに比べて……何の役にも立たないくせに、性根が腐ってる人もいるしね」その言葉は、私に向けて放たれたものだった。私は、何も感じなかった。ただ黙って、一通の書類を恒一の横のテーブルに置く。「恒一、これに署名して」恒一は書類に目を落とし、それからゆっくり私を見る。離婚協議書。彼の眉間に、はっきりと皺が寄った。「知里……今度は何を企んでる?」「あなたが望んでたことよ」私は静かに答える。「澪には、誰かがつきっきりで世話をする必要がある。優花のほうが、私より向いてる。だから、身を引くだけ」優花の顔が一瞬で強張り、慌てて立ち上がった。「知里、誤解しないで。私と恒一は、本当に何もないから。こんな形で、恒一の気持ちを試す必要なんてないよ」私は彼女を見なかった。恒一だけを見ている。「署名して。あなたにとっても、私にとっても、そのほうが楽よ」次のとき、静子が勢いよく立ち上がった。「離婚?冗談じゃないわ!澪をあんな目に遭わせておいて、逃げる気?神谷家は何も悪いことなんてしてない!あんたに渡すお金なんて、一円もないから!」背後にいた弁護士が一歩前に出る。「失礼ですが、法律によれば知里様には、婚姻中に形成された共有財産を分割する正当な権利があります。神谷様の会社の株式については、知里様が51%を保有しています。婚姻後に取得された不動産および車両についても、原則として折半となります。また、創業初期に拠出された一億円の資金は、知里様の婚前財産に該当し、全額返還対象となるでしょう」病室の空気が、一瞬で凍りついた。恒一が立ち上がり、協議書を乱暴にひったくる。そして、その場で引き裂いた。紙片が、床にばらばらと落ちる。「知里……俺を陥れるつもりか」その目は、怒りと
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第3話
翌朝、恒一が家に押し入ってきた。寝室のドアを蹴り開け、殺気だった目で私を睨みつける。「知里……会社の株を売るつもりか!」怒鳴りながら、彼は新聞を私の顔に叩きつけた。床に落ちた紙面の一面には、【クロスリンク・グループ、神谷社買収を検討】という大きな見出しが踊っている。私は新聞を拾い上げ、何も言わずに恒一を見つめた。「……あなたが、そうさせた」「俺が?」恒一は、信じられないものを見るように笑う。「こんなやり方で、俺に報復するつもりか?この会社が、俺の人生そのものだって分かってるのか!」「じゃあ聞くけど、その人生は、誰のお金で成り立ってきたの?」私は聞き返した。「最初に資金が足りないって、家を売ってでも助けてほしいって泣きついてきたのは誰?会社は、永遠に半分は私のものだって言ったのは?恒一……あなたの約束って、そんなに軽かった?」恒一は言葉に詰まり、顔色がさっと変わった。「金、金、金……!お前はそればっかりだ!知里、お前は本当に下品な女だな!」「ええ、そうよ」私は小さく頷く。「だから、そんな立派なあなたが、私のお金をきちんと返して。それで、私たちはもう、何の借りも貸しもない」「ふざけるな!」恒一は一歩踏み込み、私の手首を強く掴んだ。「株は売らせない!離婚もさせない!大人しく家にいろ!どこにも行くな!」吐き捨てるように言い残し、彼は私をベッドに突き倒して部屋を出ていった。直後、鍵のかかる音がはっきりと響く。監禁。彼は私を、正気を失った厄介な存在のように扱った。私は、人として扱われていなかった。ドアに駆け寄り、力の限り叩く。「恒一!開けて!これは違法よ!」返事はない。聞こえるのは、遠ざかっていく足音だけ。私は、その場に崩れ落ちた。スマホは奪われ、固定電話の線も切られている。この家は、静かで、きれいな牢獄になった。それから二日間、恒一は戻ってこなかった。初日は、家政婦が食事を運んできた。私を見る目には、露骨な蔑みと、ほんの少しの同情。「奥様……社長が、ご自身の過ちをよく考えるようにと」翌日も、同じように食事が運ばれる。今度は、正気を失った女を見るような目だった。「奥様……考え直したら、頭を下げに行けばいいって」その二
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第4話
直哉のマンションで、私はそのまま暮らすことになった。それからの一週間、恒一からの連絡は一切なかった。まるで、私という存在が、最初から彼の世界になかったかのように。……それでいい。直哉は、毎日顔を出した。美味しいものを差し入れてくれたり、どうでもいい話をしたり、気分転換だと言って、外へ連れ出してくれたり。彼の手配で、私は正式に彼の会社へ入社し、チーフデザイナーとして働き始めた。「この日を、ずっと待ってた」そう言って向けられた視線が、あまりに真っ直ぐで、私は少しだけ居心地の悪さを覚える。視線を逸らし、窓の外を見た。「……期待に応えられるよう、ちゃんとやる」「信じてるよ」昼時、社員食堂に入ったときだった。直哉は自分で配膳口に並び、私の分までトレーを受け取る。周囲が、一斉にざわついた。遠慮のない視線が、あちこちから突き刺さってくる。私は思わず声を落とした。「藤堂さん……こういうの、あまり良くないんじゃ……」「何が?」彼は気にも留めず、軽く笑う。「知里は、うちのチーフデザイナーだ。それに……大切な、友人でもある」そのとき、食堂のテレビに速報が割り込んだ。経済ニュースだった。【神谷グループ、中核技術の情報流出により主要プロジェクトが中断。株価は急落……】画面には、記者に囲まれた恒一の姿が映し出されている。頬はこけ、かつての余裕は、影も形もなかった。箸を持つ手が、止まる。中核技術の流出。あの技術は、私が何度も徹夜して完成させたものだ。彼に渡した、いわば「持参金」だった。私は箸を置き、それ以上、食べる気になれなかった。直哉が何も言わずにリモコンを取り、テレビを消す。「見なくていい。知里のせいじゃない」私は小さく頷いた。それでも、胸の奥に引っかかるものが残る。午後、一本の電話がかかってきた。相手は、静子だった。「知里!このくそ女!会社の機密を売ったんでしょ!恒一をあそこまで追い詰めて、まだ足りないっていうの!?いい?恒一が破産でもしたら、私は、死んでもあんたを許さないから!」最後まで聞かず、私は通話を切った。胸の奥が、重く塞がる。仕事を終え、直哉が車で送ってくれた。マンションの前で、見覚えのある姿が目に入る。恒一だった
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第5話
マンションに戻ると、私はそのまま部屋に閉じこもった。直哉は何も言わず、ただ静かにリビングで私を待っていた。床に座ったまま、結局、一睡もできないまま夜が明ける。空が白み始めた頃、私はようやく部屋を出た。ソファにもたれて、直哉が眠っている。薄手のコートを一枚、体にかけただけの姿だった。私は毛布を持ってきて、そっと掛け直す。その気配に、彼が目を覚ました。「……考えは、まとまった?」私は、小さく頷いた。「今日からこの世界に、神谷の妻である知里はいない。いるのは、クロスリンク・グループのチーフデザイナー、知里だけ」直哉は、ふっと笑った。それは胸の奥を少し軽くしてくれる笑顔だった。それからの日々、私はすべての時間と注意力を、仕事に注いだ。チームを率いて、いくつもの重要なデザイン案件を勝ち取る。私の名前は、少しずつ、業界の中で聞かれるようになっていった。誰かの妻ではない。誰かに守られる存在でもない。私は、私だ。知里という、一人の人間。……その日、私は会議の真っ最中だった。秘書がノックをして、来客があると告げる。応接室へ向かうと、そこにいたのは、静子だった。以前より、ひどくやつれている。あの尊大さは、もうどこにもなかった。私を見るなり、彼女は床に膝をついた。「知里……お願い。恒一を、助けてあげて」私は驚いて、思わず一歩後ずさる。「……何をしているんですか」「恒一が……警察に連れて行かれたの。商業詐欺だって……このままじゃ、刑務所に入ることになる!全部、あの白石優花のせいよ!会社の機密を盗んで、競合に売り飛ばしたのは、あの女!今はお金を持って逃げて、全部の罪を恒一に押しつけた……!」彼女は泣き崩れ、私の脚にすがりつく。「知里……私たち、間違ってた。あの女の言葉を信じて、あなたにあんなことをするべきじゃなかった。あなたは、いい子でしょう?見殺しになんて、できないはずよね?」私は、彼女を見下ろした。不思議なほど、心は静かだった。今さら、何を言っているだろう。私は彼女の懐から脚を引く。「すみません。私は、恒一とは、もう離婚しています。彼のことは、私には関係ありません」そう言って、背を向けた。背後から、金切り声が追いかけてくる。
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第6話
恒一は、無罪で釈放された。送ったメールが、彼の無実を証明する決定的な証拠になった。中核技術は恒一自身が流出させたものではなく、優花が外部の人間と結託し、盗み出していたのだ。釈放されたその日、私は恒一に会いに行った。街中の、静かなカフェだった。恒一は、ひどく痩せていた。頬は落ち、無精ひげが伸びている。目の下には、疲労の跡がはっきりと残っていた。かつての、意気揚々とした経営者の面影はない。視線が、ふと合う。そこにあったのは、罪悪感と後悔、そして縋るような弱さだった。「……ありがとう」掠れた声だった。「君がいなかったら……」「あなたを救ったのは、私じゃない」私は、彼の言葉を遮る。「法律よ」そう言って、メールを印刷した紙をテーブルに置いた。「それと……これ」恒一は紙に目を落とし、読み進めるにつれ、顔から血の気が引いていく。最後には、指先が小さく震え始めていた。「……これは……」「ええ」私は、淡々と続ける。「あなたが一番大切にしていた妹と、婚約するつもりだった女が、二人で仕組んだこと。恒一……今、どんな気分?」恒一は、勢いよく顔を上げた。そこにあったのは、痛みと信じられない気持ちだった。「……そんな……あり得ない……澪が、そんなことをするはずが……」「するはずがない?」私は、思わず小さく笑ってしまう。「じゃあ、どうしてあの時、私が澪を害したって、迷いもなく決めつけたの?どうして、あの二人の言葉は信じて、私の話は一度も聞こうとしなかったの?」恒一は、何か言おうとして口を開いた。けれど、結局、言葉は出てこなかった。私は席を立とうとした。「知里……」恒一の声が追ってくる。「……ごめん。俺は……」「もういい」振り返らずに、私はそう言った。「謝る必要はない。あの契約書を突きつけた時から、私たちの間に残ったのは憎しみだけ。神谷恒一。あなたと、あなたの家族が末永く、お幸せでありますように」カフェを出ると、昼の光が目に刺さった。私は顔を上げ、胸に込み上げるものを押し戻す。もう、終わった。私と恒一は、完全に終わった。数日後、神谷家が崩壊したと聞いた。恒一は、妹の澪を家から追い出し、縁を切った。人脈を使い、この街では二度と仕事ができないように
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第7話
恒一の登場は、まるで茶番だった。直哉が通報し、警察は取り乱した恒一を連れて行った。私と直哉のパリ行きも、そのせいで水を差された。帰りの機内で、私はずっと黙っていた。直哉が私の手を握った。「怖がらなくていい。俺がいる」私は小さく頷き、直哉の肩にもたれた。けれど、胸の中はぐちゃぐちゃだった。もう吹っ切れたと思っていた。それなのに、恒一が現れただけで心はあっさりかき乱される。会社に戻ると、私はさらに忙しく仕事に没頭した。仕事で自分を麻痺させようとしたのだ。恒一は、それきり私を探しに来なかった。私は、もう諦めたのだと思った。半月後まで。仕事を終えて帰宅すると、マンションの下にまた恒一がいた。近づいてはこない。少し離れたところで立ち尽くしているだけだ。手には、保温ポットを提げていた。私に気づくと、恒一はどこか気まずそうに、それを軽く持ち上げた。「……君、胃が弱いだろ。スープ、煮てきた」声は低く、どこか媚びるようだった。その姿を見て、私はひどく滑稽だと思った。「神谷さん、忘れたんですか。私たち、もう離婚してます。今さらそんなことをしても、無駄だと思いませんか?」恒一の顔から、さっと血の気が引いた。「お、俺は……ただ、君に償いたくて」「償う?」私は笑った。「何で償うんですか?あなたに閉じ込められていた日々を?あなたと、あなたの家族に踏みにじられた尊厳を?恒一。あなたが私にしたことはこの先一生かけても、償いきれない」私は彼を避け、建物に入ろうとした。その瞬間、背後から恒一に抱きしめられた。「知里、行くな。もう一度だけチャンスをくれ。俺が悪かった。本当に、悪かったんだ……」恒一の体は震えていた。声には泣きそうな響きが混じっている。「愛してる、知里。ずっと愛してたのは君だけだ。俺は……目が曇ってた。あいつらの戯言を信じて……頼む、戻ってきてくれ……!」私は必死に暴れたが、振りほどけない。力が、想像以上に強かった。「放して!」「放さない!この先ずっと、もう二度と放さない!」引き剥がそうともがいているところへ、直哉の車が入ってきた。直哉が降りてくる。表情は氷のように冷たい。「恒一、放せ」恒一が直哉を見たとき、
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第8話
南大橋に駆けつけたとき、そこはすでに人の波で埋め尽くされていた。警察が必死に秩序を保ち、消防は橋の下に救命用のエアマットを広げている。恒一は、橋の縁に立っていた。情緒は激しく不安定で、誰一人、近づくことを許さない。「そいつを行かせろ!」恒一は群衆の中にいる直哉を指さし、警察に向かって怒鳴り散らした。「その男を追い払え!俺はあいつを見たくない!知里を呼べ!一人で来させろ!」警察も打つ手がなく、直哉にその場を離れるよう求めた。直哉は不安そうに私を見たが、私は分かっていた。――今、恒一を落ち着かせられるのは、私しかいない。「私が行く」そう告げると、直哉は短く頷いた。「気をつけろ」私は歩調を落とし、恒一のほうへ向かった。十メートルほど手前で、足を止める。「恒一、降りて。話なら、ちゃんとできる」恒一は私を見るなり、一瞬、目を見開いた。だが、その光はすぐに翳った。「……もう、俺を愛してないんだろ……あの男を、愛してるんだろ」私は、その問いに答えなかった。「まず降りて。危ないから」「答えろ!」恒一は、感情を抑えきれない声で叫んだ。「お前、あいつと結婚するつもりなのか!」私は大きく息を吸い、恒一をまっすぐ見据えた。「……そう。彼のプロポーズを、受けるつもり。恒一、私たちはもう終わってる。私を放して、あなた自身のためにも」その言葉は、刃のように、彼の最後の拠り所を断ち切った。恒一は、絶望したように笑った。「終わった……?知里……お前は、本当に冷たい。俺は、すべてをお前に捧げたのに、それでも行くんだな」そして、声を荒らげる。「だったら――俺が手に入れられないなら、誰にも渡さない!」そう言い切ると同時に、恒一は両腕を広げ、後ろへ身を投げた。「やめて!」私は叫び、必死に駆け出した。だが、間に合わなかった。私が掴めたのは、彼の服の端だけだった。恒一は、私の目の前で、濁流へと消えていった。――ドン、という鈍い音。川面に、大きな水しぶきが立つ。やがて、すべてが静まり返った。頭の中が、真っ白になる。手の中には、彼の服から引き裂かれた布切れが残っていた。まだ温もりがあり、まるで体温がそこに留まっているようだった。警察と消防は、
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第9話
恒一の遺体を見て、私はその顔がひどく歪んでいることに気づいた。その姿を前にして、子どもの頃、近所で流れていた不気味な言い伝えを思い出した。愛のために死んだ人間は、怨霊となって、かつて愛した相手に取り憑く。だから私は、幻覚を見るようになったのだと思った。気づけばいつも、恒一がすぐそばにいる気がしていた。恒一の死は、巨大な石のように、私の胸に重くのしかかっていた。私は家に閉じこもり、外へ出ることがほとんどなくなった。直哉はひどく心配して、毎日のように私の様子を見に来た。そして私は、クロスリンク・グループの仕事を辞めることになった。しばらくして体調を崩し、医師からは重度のうつ状態だと言われた。夜はほとんど眠れず、髪の毛も目に見えて抜け落ちていった。記憶力も落ち、ときには鏡の前に立って、そこに映る自分が誰なのか分からなくなることもあった。直哉は仕事をすべて家に持ち込み、一日二十四時間、私を見守っていた。心理カウンセリングにも連れて行き、外へ連れ出しては、少しでも気分が変わるよう気を配ってくれた。考え得る限りの方法で、私を暗闇から引き上げようとしてくれていた。それでも私は、さらに深く沈んでいった。幻覚を見る回数は、増える一方だった。私は、何度も恒一を見る。白いシャツを着て、陽の光の中に立ち、私に向かって微笑んでいる。それは、私たちが初めて出会ったときと同じ姿だ。「知里、こっちへ」恒一はそう言って、私に手を伸ばす。私は自分を制御できないまま、そのほうへ歩いていってしまう。そのたびに、現実へ引き戻される。直哉が私を危険な場所から引き戻した。一度は道路の真ん中で、もう一度はビルの屋上、手すりの上だった。直哉は私を抱きしめ、崩れ落ちるように泣いた。「知里、目を覚ませ!彼はもう死んだ!二度と戻ってこない!俺を見ろ!俺は、ここにいる!自分のためじゃなくていい。俺のことも、考えてくれ!」血走った彼の目を見た瞬間、胸が針で刺されたように痛んだ。私はもう、このままではいけないと思った。これ以上、彼に負担をかけるわけにはいかなかった。私は治療に積極的に向き合うことにし、薬を飲んで心理的なケアを受けた。状態は、少しずつ良くなっていった。一年後。私は、ほぼ普
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第10話
私の結婚式は、予定どおり執り行われた。青い空と白い雲の下、芝生の上で。真っ白なウェディングドレスに身を包み、私は直哉の腕に手を添え、一歩ずつ、彼のもとへと歩いていく。彼は陽の光の中に立ち、こちらを見つめて、穏やかに微笑んでいる。それは、私が夢の中で何度も見てきた光景と、驚くほどよく似ていた。指輪を交換する段になって、私の手がわずかに震える。直哉はそれに気づいたのか、私の手を包み込み、落ち着かせるような視線を向けてくれる。「……はい。誓います」その言葉を口にした途端、長いあいだ背負ってきたものが、静かに下りる。私はようやく、過去と別れることができたのだと感じていた。結婚式のあと、私たちはモルディブへ新婚旅行に出かけた。そこは、以前から一度は行ってみたいと思っていた場所だった。水上コテージに泊まり、朝は日の出を、夜は水平線に沈む夕日を眺める。ダイビングやサーフィンを楽しみ、ただ二人だけの時間を過ごしている。直哉は、良き伴侶だ。細やかな気配りを忘れず、穏やかで、忍耐強い人だった。私が悪夢で目を覚ますと、彼は何も言わずに抱き寄せてくれる。冗談を交えながら、自然と笑わせてくれることもある。まるで、何も知らない小さな子どもを扱うように、私を大切にしてくれる。その腕の中で、私は少しずつ癒されていった。あの傷は、ゆっくりとかさぶたになり、新しい血肉へと変わっていった。帰国後、私は「知里デザイン」を本格的に軌道に乗せた。やがて業界でも名の知られるデザイン会社となり、直哉の率いるクロスリンク・グループも、彼の指揮のもとで業界の上位に名を連ねるようになった。私たちは、いつの間にか周囲から理想の夫婦だと言われる存在になっていた。結婚二年目、私は妊娠した。男の子だった。直哉は子どものように喜び、仕事を後回しにして、家で私に付き添っている。お腹の中の赤ん坊に物語を読み聞かせ、音楽を流しながら、何度も声をかけている。「世界で一番、幸せな子に育てよう」そう言って、照れたように笑う。出産の日、直哉は分娩室の外を落ち着かない様子で行き来していた。看護師が赤ん坊を抱いて現れた瞬間、身長一八〇センチを超える大の大人が、涙で顔をぐしゃぐしゃにした。彼は、子どもに名前をつけた。藤堂恒一郎(と
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