All Chapters of ディリアン公爵様、奥様が離婚を望んでいます!: Chapter 511 - Chapter 520

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第511話

夜の帳が完全に下り、静かで重々しい闇が空を覆い尽くした。待ち望んでいた赤い月は姿を見せない。以前モルウェンナが言っていた通り、そこにはただ一つの巨大な月が空に懸かっているだけだった――不自然なほど大きく、あまりにも近くに迫り、銀色の蒼白い光を放って静寂に沈む湖面を優しく照らしていた。水面は静まり返り、空と、周囲をほぼ三百六十度にわたって取り囲む山々や丘のシルエットを鏡のように映し出していた。息を呑むほど美しく、同時にどこかひどく異質な光景であり、まるでこの世界そのものが息を潜めているかのように感じられた。湖の畔で、ディリアンは小さく燃える焚き火の前に座っていた。乾いた薪が微かな音を立てて爆ぜ、小さな火の粉を散らしては、すぐに夜の空気の中へ消えていった。オレンジ色の揺らめく光が顔を照らし出し、決して完全に消え去ることのない疲労と緊張の皺を浮き上がらせる。夕暮れ時からそこに座り、ほとんど身動き一つしなかった。まるで、絶え間なく脳裏を巡る思考によって、全身が縛り付けられてしまったかのように。炎を見つめているが、その実、何も見てはいなかった。思考は宙を彷徨い、幾多の方向へと分岐していく――歩んできた長い旅路へ、果たされるべき約束へ、そして、決して表面に浮かび上がることを許さないまま、絶えず胸につきまとう「何か」へと。湖の方角から吹き付ける夜風は冷たく、骨の髄まで刺し貫くようで、水と湿った土の匂いを運んでくる。それでも微動だにしない。まるで、寒さなど気にするに値しないものであるとでも言うように。そこからそう遠くない場所。しっかりと張られた小さなテントの傍らで、モルウェンナが背筋を伸ばして座っている。月光の下で、その姿ははっきりと見て取れた――落ち着き払い、優雅で、絶対の確信に満ちている。赤髪が解かれ、微かな艶を帯びながら夜風に揺れていた。彼女は先ほどからずっとディリアンを観察していた。強張った背中、決して力の抜けることのない肩、そして夜がどれほど更けようとも決して薄れることのない、その警戒しきった態度を。やがてゆっくりと体勢を崩し、手を地面について体を支えながら、少しだけ上体を前に乗り出した。ディリアンを見つめるその眼差しは深く、彼が常に張り巡らせている防壁の層を突き透かそうとしているかのようだった。そこには興味があり、渇望があ
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第512話

その場所、湖を直接見下ろすことができる小高い丘の裏側に、彼らは全員で腹這いになり、息を潜めていた。冷え切った土に体を密着させ、丘の稜線から覗き込むようにして、目の前に広がる光景を注視していた。湖は静まり返り、巨大で蒼白い月を水面に映し出していた。その畔で、ディリアンは目を閉じたまま何かに寄りかかって座っていた。本当に眠っているのか、ただ目を休めているだけなのかは定かではなかった。そして彼からそう遠くない場所に、一つのテントがしっかりと張られていた――モルウェンナがいるテントだ。極限まで抑えた声で、ジェイが沈黙を破った。「この距離で、安全なのか?」ラミアに問う。ラミアは周囲を慎重に観察してから答えた。「どうやら、そのようね。別の丘にはマテオたち、最初からディリアンを尾行していた連中がいる。だから、私たちの位置もまだ安全なはず」彼女は再び湖の方へと視線を戻した。「モルウェンナも落ち着いているように見える。警戒している素振りはない」ルナとアイレは顔を見合わせた。この場所の空気は、骨の髄まで刺し貫くように冷たい。湖の周辺は北との国境地帯――一年中氷と雪に覆われている雪山と山脈の入り口なのだ。息を吐くたびに白く曇る。それでも、焚き火を起こすことはできなかった。どんなに小さな光や煙であっても注意を惹きつけてしまう可能性があり、それは絶対に冒してはならないリスクだったからだ。彼らにできる唯一の寒さ対策は、今のように互いの体を密着させることだけだった。彼らの中央にはセレーネとラミアがいた。片側にはシグとエリックが身を寄せ合って横たわり、その後ろにはウルフ、ピーター、エドワード、ジェイが続いていた。誰も多くを語ろうとはしなかった。体を少し動かすことでさえ、ゆっくりと忍び寄ってくる寒さのせいで億劫に感じられた。やがてセレーネが囁いた。夜風に掻き消されそうなほど微弱な声だった。「私たちがここにいると知ったら、モルウェンナは本当に邪魔に思うのかしら?」ラミアが少しだけ顔を向けた。「確かなことは言えないわね」彼女は正直に答えた。「でも、あの女は初めからディリアンに、誰にも邪魔されたくないと言っていたんじゃないの?二人きりで旅に出たくらいだわ。つまりモルウェンナも、そしてディリアンも分かっているのよ。あの女の望みを
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第513話

セレーネの微かな声は、丘を吹き抜ける冷たい夜風と共に吸い込まれ、完全に掻き消されてしまった。答えはない。時折水面が立てる微かな波音と、遠くで焚き火の薪が爆ぜる低い音だけが響いていた。セレーネは、湖の畔で未だ目を閉じたまま座っているディリアンの姿をじっと見つめ続けた。押し黙るディリアンは、手を伸ばせば届きそうなほど近くにいるのに、絶望的なまでに遠く感じられた。既に決断を下したはずなのに、未だ苦痛に満ちた岐路に立ち尽くしているかのように見えた。胸の奥が、鋭く痛む。セレーネはマントの布地をきつく握り締めた。忍び寄る寒さを防ぐためであり、同時に胸を支配しようとする脆い感情をどうにか抑え込むためだ。ディリアンの記憶が、防ぐ間もなく次々と脳裏にフラッシュバックしてくる――彼がいつも自分の傍らに立っていてくれたあの頃のこと。決して言葉にはされなかったが、自分が心の底から信じ切っていたあの誓いのこと。だが今夜、それら全てがあまりにも脆く感じられた。セレーネはほんの一瞬目を閉じ、その答えの出ない問いを宙に吊るしたままにしておく。自分の祈りがまだ彼の心に居場所を持っているのか、それとも、やがて訪れる夜明けと共に完全に砕け散ってしまうのか、彼女には分からなかった。セレーネは再び目を閉じた。呼吸がゆっくりと規則正しいものに変わり、冷たく、それでいて焦燥に満ちた眠りの中へと沈んでいく。覚醒と夢の狭間で、あの幻影が再び姿を現した。ディリアンが、彼女の目の前に立っている。それはセレーネの記憶にある最後の姿と全く同じだった。感情の読めない表情と、静まり返った眼差し。まるでこの世界のどんな事象であっても、彼を真に揺るがすことなどできないとでも言うように。しかし今度ばかりは、湖も、焚き火も、モルウェンナも、肌を刺すような寒さも存在しない。ただ二人きりで、広大で静まり返った空間に立ち尽くしている。まるでこのたった一度の会話のためだけに創り出された世界のように。セレーネは瞬きをすれば消えてしまうのではないかと恐れるように、彼を長く見つめた。「ディリアン……」震える声だったが、柔らかく、あまりにも多くの感情を帯びていた。「私のこと、愛している?」ディリアンは真っ直ぐに彼女を見据えた。微笑みもせず、視線を逸らすこともない。常に変わらないあの平
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第514話

その問いは、見えない刃となってディリアンを深く打ち据えた。現実の世界で、彼の肉体が硬直した。雪上の敷き布を握り締める手にさらに力がこもり、胸が激しく締め付けられ、呼吸が喉の奥で詰まった。答えたいという衝動が突き上げる。「俺は崩れ落ちてしまうだろう。完全に壊れて、到底生きてなどいけない」と、そう叫びたかった。だが夢の中では、その言葉を口にする時間さえ与えられなかった。セレーネの顔が濃霧に呑み込まれるようにゆっくりと薄れていき、ディリアンはただ一人、広大で静まり返った空間に取り残されてしまったのだ。――ハッ。氷のように冷え切った湖の畔で、ディリアンは鋭く息を吸い込みながら目を開けた。激しく息を乱し、胸を激しく上下させながら跳ね起きる。彼の手は未だ敷き布をきつく握り締めたままであり、まるであの夢が再び自分から何かを奪い去ってしまうのを恐れているかのようだった。目の前の焚き火は低く燃え続け、静寂に包まれた湖面にオレンジ色の光を投げかけていた。もう少しあの空間に留まりたかったというのに、誰かに乱暴に引きずり出されてしまったかのように、夢は唐突に断ち切られてしまった。胸につっかえていた息が、やがて重く、そして深く吐き出される。頭痛ではなく、胸の奥に――彼自身でさえ名前をつけられない感情の残滓が、鈍い痛みとしてこびりついていた。視線をずらす。モルウェンナが、そう遠くない場所に立っていた。赤髪は濡れそぼり、首や肩に張り付いている。毛先からは未だ水滴が滴り落ち、裸足の足元の土を濡らしていた。薄暗い焚き火の光の下で、彼女の肌は蒼白く輝き、まるで完全に人間とは呼べない別の生き物のようにも見えた。その顔には薄い笑みが刻まれている――満足げな笑みであり、たとえそれが自身の望む形ではなかったとしても、今自分が何者かに見つめられていることを自覚している人間の笑みだった。「もう少し早く目を覚ましていればよかったのに」モルウェンナは軽やかに言う。その声は優しく、だが挑発的だった。「私が水浴びする姿を、見られたかもしれないわよ」ディリアンは答えなかった。その眼差しは平坦で、ほとんど虚ろだった。興味も、感嘆も、驚きの色すらも浮かんでいない。ただ感情を交えずに見つめる両目があるだけで、まるで目の前の光景が、ただ通り過ぎるべき風景の一部に過
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第515話

その問いは宙に浮いたままだった。すぐに応える者は誰もいない。焚き火が微かに爆ぜ、まるで全てを決定づけるその答えを共に待っているかのようだ。ラミアは長く、あまりにも長くセレーネを見つめていた。最も誠実で、かつ最も傷つけない言葉を慎重に探り当てようとしているかのように。セレーネの顔は平坦だったが、その平静の裏側には、希望、恐怖、そして疲労が渾然一体となって渦巻いていた。その問いが単なる時期についてのものではなく、彼女があまりにも長く背負い続けてきた「何か」の終焉を意味していることを、誰もが感じ取っていた。ラミアは深く息を吸い込んだ。やがて、彼女は口を開いた。「赤い月は、確かに今夜昇るわ」視線をセレーネから外すことなく、彼女は静かに告げた。「だから聞いたのね……覚悟はできているのかと」セレーネは伏し目がちになった。膝の上でマントを握り締めるその指先は、胸の奥で震える何かを必死に抑え込もうとしているかのようだ。微かな声で彼女は言った。「最初から、私には、ディリアンが何を考えているのか全く分からなかった」声が荒らげられることも、激しく震えることもなかった。だがその静けさこそが、彼女の言葉をより一層痛切なものとして響かせていた。ラミアは長く息を吐き出す。「私も、完全には分かっていないのよ」顔を上げたセレーネは、真摯でありながらも脆い眼差しでラミアを見つめた。「ラミア……あの日、ディリアンの身に何が起きたのか、本当に知らなかったの?」彼女は尋ねた。「それとも、私の身に起きたことだけしか見ていなかったの?」その問いに、ラミアは一瞬だけ言葉を詰まらせた。彼女は小さくなり始めた焚き火を見つめ、そこに答えを探しているかのようだった。「ディリアンの呪いは強力なの」やがて彼女は口を開いた。「私はただ、あいつが何をすべきかを探り当てるための道標にしかなれなかった。それ以上のことはできなかったのよ」ラミアは再びセレーネへと顔を向けた。「あなたは違うわ、セレーネ。あなたと彼の絆は違う。あなたが見たもの、感じたもの――それこそが、私たちを結びつけているのよ」セレーネは生唾を飲み込んだ。何かが胸を刺す。「それはつまり」静かな声で彼女は言った。「これら全てが終わった後……あなたと私の関係も、終
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第516話

モルウェンナの声は水に呑み込まれた。それは完全な悲鳴ではなく、叫び声になる前に砕け散って消え去る、くぐもったくめき声だった。湖水が彼女の口を塞ぎ、言い残したかったであろう言葉の全てを奪い去る。水面下で激しく藻掻く体が小さな波紋を生み出すが、それすらも湖の静寂に即座に呑み込まれていく。まるで、大自然そのものがこれ以上証人になることを拒絶しているかのようだ。ディリアンはモルウェンナの体を水中に押さえつけていた。その圧力は力強く、確実で、微塵の躊躇いもない。手で肩と首を掴み、決して揺らぐことのない力で水底へと押し沈める。モルウェンナの指がディリアンへ、水面に反射する月光へ、そしてもはや決して手の届かない何かへと必死に伸ばされる。しかし、水が全てを掻き乱した。その動きは次第に方向を失い、呼吸は奪われ、意識も濁っていく。遠く離れた場所で、セレーネが動こうとした。思考したわけでも、選択したわけでもない。恐怖よりもさらに古い本能に突き動かされ、肉体が先に反応したのだ。だが、ジェイが即座に彼女を押さえつけた。「奥様――!」声が裏返りそうになるのを必死に殺し、彼は鋭く囁いた。その場の全員が、一斉に凍りついた。誰も一歩たりとも動けない。誰も声を出すことすらできない。全員の視線がただ一点――湖の中央に立つディリアンの姿に縫い付けられていた。容赦なく押し沈め続けるその手に。そして、自ら世界への扉を完全に閉ざしてしまったかのような、全てが欠落したその顔に。ラミアは瞬き一つせずにそれを見据えていた。セレーネは彼女へと顔を向け、途切れ途切れに息を吐き出した。「ラミア……」声は震え、ほとんど音になっていない。「ディリアンは……本当に、彼女を殺すつもりなの……?」ラミアは答えない。ただ、一本の指を唇に当てた――沈黙の合図。その仕草は、セレーネにとって鋭い刃のように突き刺さった。胸の圧迫感がさらに増し、心臓が早鐘を打つ。ディリアンは怒っているようには見えない。躊躇いも、後悔の色も見当たらない。その顔は冷たい石のように静まり返り、決して揺るがない。いかなる激怒よりも、その光景はセレーネをひどく怯えさせた。セレーネは再び動こうと身を捩る。しかし今度はルナとアイレも加勢し、それぞれが彼女の両腕をきつく掴んで押さえ込んだ。
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第517話

城の敷地内にある人里離れた小屋の夜は、いつも以上に深い闇に包まれていた。オイルランプが微かな光を放っているが、木の壁の隙間から忍び込む冷たい風に煽られ、その明かりは絶えず揺らめいている。狭い部屋の中央で、ヴィヴィエンヌは床に固定された鉄枠にきつく縛り付けられていた。彼女が暴れるたびに鉄が甲高い軋み声を上げ、その長く引き伸ばされた悲鳴のような音が、ただでさえ息の詰まる空気にさらなる重圧を加えている。ヴィヴィエンヌは絶え間なく身を捩っていた。その体にはどす黒く隆起した血管が浮かび上がり、まるで皮膚の下で何かが生きて這い出そうとしているかのように全身へと広がっている。胸は不規則に激しく上下し、呼吸は荒く途切れ途切れだった。目は完全に漆黒に染まり、人間性の欠片も残されてはいないが、そこには明確な意識を持った憎悪が満ち溢れている。青ざめた唇から、絶え間なく言葉が溢れ出していた。罵詈雑言。呪い。そして、見下すような憎悪に満ちた口調で呼ばれる、彼らの名前。最も近くに立っているジェイレスは、自分の名前が呼ばれるたびに顎の筋肉を硬直させていた。少し離れた場所に立つルシアンは背筋を伸ばしているが、その瞳には隠しきれない焦燥がはっきりと浮かんでいる。ビョルンは冷や汗を流し、一方のサイラーはヴィヴィエンヌの僅かな変化も見逃すまいと、それが全てを決定づける兆候であるかのように彼女を注視し続けていた。ビョルンはすでに、ラミアが調合した全ての薬をヴィヴィエンヌの口の中に一滴残らず流し込んでいた。しかし、結果は完全に裏目に出た。症状が和らぐどころか、ヴィヴィエンヌはさらに狂暴化したのだ。体が強張り、血管はよりくっきりと浮き上がり、声は一段と低く重苦しいものに変わり、まるで彼女のものではない別の場所から響いてくるように聞こえた。小屋の空気は耐え難いほどに張り詰め、空気そのものが流動することを拒絶しているかのようだ。「理屈に合わない……」ビョルンが微かな声で呟くが、その声はヴィヴィエンヌの絶叫にかき消されてしまう。サイラーがついに、その脆い沈黙を破った。「殿下」ルシアンへと顔を向け、慎重に言葉を選ぶ。「他にお知り合いの魔女は、いらっしゃらないのですか?」ルシアンはゆっくりと首を横に振った。「いない」短く、しかし
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第518話

部屋の空気が、一瞬にしてさらに冷え込んだように感じられた。オデットは再びダグニーとディヴリオを見つめ、ベッドの端の毛布をゆっくりと握り締める。彼女の瞳の中で、単なる不安が嫌な予感へと変わっていった――孫たちの身に起きていることが、決して単純なものではないという確信へと。オデットはゆっくりと医師の方へ顔を向けた。「息をしているかどうかも分からない状態って……どういうことなの?」彼女は再び尋ねた。あまりにも大きな声で口にすれば、その言葉が現実になってしまうのを恐れるかのように、先ほどよりも微かな声だった。医師は躊躇っているようだった。診察器具を握る手が小刻みに震え、やがて力なく下ろされる。彼は深く息を吸い込んだ。この後に口にする言葉が、決して安らぎをもたらさないことを自覚している人間の呼吸だった。「確かなことは分かりません、大奥様」やがて彼が口を開く。「ですが、一つだけ断言できるとすれば……これは、医学的な『病気』ではありません」その言葉が、宙に重く吊るされた。サイラーの体が即座に強張る。顔面から血の気が引き、目を大きく見開いた後、あまりにも巨大すぎて受け止めきれない事実をどうにか消化しようとするかのようにうつむいた。オデット自身はすぐには反応しなかった。彼女の視線はダグニーとディヴリオへと戻っていく。その年の子供にしては、あまりにも静かすぎる。彼らの胸は、ひどくゆっくりと上下している。あまりにも、遅すぎる。「病気ではない……」ほとんど自分自身に言い聞かせるように、オデットが微かな声で呟いた。医師はゆっくりと頷いた。「発熱しているのは事実です。しかし、意識の失い方、呼吸の微弱さ……そのどれもが、私の知るいかなる病気のパターンにも当てはまらないのです」恐怖はもはや、曖昧なものではなくなっていた。それはゆっくりと這い上がり、確かな実体を持って心臓を鷲掴みにする。オデットは喉が干からびるのを感じた。彼女が滅多に表に出すことのない恐怖――孫たちのベッドの傍らに立ち、自分の権力も、地位も、これまでの人生経験も、この状況を前には何の意味も持たないのだと悟った祖母の恐怖だった。「私たちは、どうすればいいの?」やがて彼女が尋ねた。その声の響きは穏やかだったが、ひどく脆い――どうにか気丈に振る舞お
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第519話

セレーネは自身を取り押さえる腕の中で嗚咽を漏らしていた。その視線はただ一点、ディリアンのいる方向だけを絶えず探し求めている。まるで、彼女の魂そのものがそこへと引き寄せられているかのように。水は、ディリアンが予想していたよりも遥かに重く感じられた。寒さのせいでも、二人の肉体を圧迫し続ける水圧のせいでもない。水の中に潜む「何か」が彼の意識を圧迫し、世界をただ二つの選択肢――生き残るか、共に沈むかへと極端に狭めていく。モルウェンナは未だに抗い続けている。その動きは、もはや人間のそれとは到底呼べない代物だった。不規則で、狂暴で、その小柄な体のどこにそんな力が隠されているのかと疑うほどの異常な膂力に満ちている。彼女の足が水を蹴るたびに小さな波が生じ、水面に映る赤い月の反射を砕いて、揺らめく赤い光の破片に変えていく。肺が屈伏を拒絶しているかのように、モルウェンナの口から激しく荒々しい気泡が連続して吐き出される。見開かれた目は完全な漆黒に染まり、白目など微塵も残されていなかった。そこに、かつてのモルウェンナの姿はない。残されているのはただ執念深い生存本能と、彼女を支配している「何か」だけだ。彼女の手が、狂ったように掻き毟る。伸びた爪がディリアンの腕に深く突き刺さり、肉を裂いた。冷たい湖水に鮮血が混ざり合い、ゆっくりと赤い染みが広がっていく。それは彼女自身の儀式によって封じられたモルウェンナの血などではなく、紛れもない人間の血――生者の血だった。それでも、ディリアンは一切のうめき声すら上げなかった。彼は容赦なく、さらに深く彼女を押し沈めていった。モルウェンナの肩を渾身の力で掴み、その体を水面下に強制的に留め置く。激しく、パニックに陥り、憎悪に満ちた彼女の肉体の振動が、その手を通してはっきりと伝わってきた。「離して――」その声が、彼の耳に届くことはない。言葉は水に砕かれて無意味なくぐもった音へと変わり果てる。だが、モルウェンナが今何を感じているかなど、声を聞くまでもなくディリアンには分かっていた。恐怖だ。死に対する恐怖などではない。失うことへの恐怖。永遠の命。それこそが、モルウェンナが初めから追い求めていたものだ。ディリアンでもなく、愛でもなく、絆でもなく。永遠の命。その事実への確信が、どんな爪痕よりも深くデ
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第520話

湖水が、何度目か分からないほどモルウェンナの顔を覆い隠した。ディリアンは手でその体を固定し、微塵の躊躇いも容赦もなく、水底へと押し沈め続ける。湖水が激しく波打ち、限界を超えて狂暴化していく女の抵抗によって激しく振動していた。モルウェンナの動きは、もはや人間のそれではない。脊椎が不自然な角度に反り返り、筋肉は無理やり引き伸ばされた鋼線のように強張っている。気泡が口から吐き出され、水面で次々と弾け飛ぶが、その勢いが衰える気配はなかった。彼女はまだ、呼吸をしている。生きている。抗い続けている。そしてまさにその瞬間――まるで世界全体がディリアンの決断に縛り付けられていたかのように、夜の闇が四方八方から悲鳴を上げ始めた。城の敷地内にある人里離れた小屋で、ディリアンの腕の圧力が強まるのと完全に同調するように、ヴィヴィエンヌが絶叫した。その体が藁の敷き布団から半分宙に浮き上がり、手足を縛る鎖が甲高い軋み声を上げる。大きく膨らんだ腹が突如として石のように硬直した。まるで、腹の中の何かが同じように引っ張られる力を感知したかのように。「ああああああっ――!」腹部に浮き出たどす黒い血管が、彼女自身の心拍とは全く別の異常なリズムで激しく脈打つ。口からは絶え間なく罵詈雑言が吐き出され、その言葉は単なる呪いではなく、明確な抵抗の意志を帯びていた。「あいつは……死んではいけないのよ……!」漆黒に染まった目を剥き出しにして、ヴィヴィエンヌが荒い息を吐き出す。「まだ……今じゃないのよ……!」ヴィヴィエンヌの体が再び藁の敷き布団に激しく叩きつけられ、ビョルンは反射的に後ずさった。油灯が激しく揺れ動く。小屋の空気は胸を激しく圧迫し、まるで彼ら自身の呼吸までが別の何かに吸い取られてしまったかのようだ。「何かがおかしい」ヴィヴィエンヌの絶叫にかき消されそうなほどの微かな声で、ビョルンが呟く。「これは、ただ憑りつかれているだけの状態じゃない」ルシアンは答えない。再び硬く強張ったヴィヴィエンヌの腹を凝視し、無意識のうちに拳をきつく握り締めた。今まさにディリアンの身に起きている何らかの力が……この場所にも強制的に引き寄せられているのだと、本能が叫んでいた。時を同じくして、城の内部ではダグニーとディヴリオが同時に体を震わせていた。ダグニ
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