All Chapters of 夕風はもう吹かない: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

一方で、ホテルに泊まっていた真司は、一晩中、悪夢にうなされていた。夢の中では、由理恵がいなくなってしまった。彼は必死で探したけど、どうしても見つけられなかった。そんな絶望に苛まれて、真司は枕が濡れるほどの冷や汗をかいて、目を覚ました。しかし、悪夢はたとえ彼が目を覚ましても、止むことはなかったのだ。ついに耐えかねて、真司はベッドから起き上がると、タバコに火をつけた。すると、青白い朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでくる中、そのタバコの白い煙と混じり合い、どこかやるせなく息苦しい雰囲気を醸し出したのだった。真司はベッドにもたれかかり、なぜこんなことになってしまったのかと必死に考えを巡らせていた。事の始まりは一体どのタイミングでズレたのだろうか。8年前、蘭が翠を連れて海外へ行った。翠とは幼馴染だったから、もちろん寂しかった。だから、行かないでほしいと頼んだこともあった。でも、当時の翠は海外のすべてが新鮮に思えたのだろう、M国での生活に強く憧れていたのだった。そのことで、真司はしばらく落ち込んでいて、交換留学生としてやってきた由理恵に出会うまでなかなか立ち直れずにいたのだった。一方で、由理恵は性格が良くて、綺麗な子だった。話し方もいつも穏やかで、親しみやすかったので、何度も話すうちに、二人の距離は自然と縮まり、関係が深まってきたのだった。でも、当時は高校3年生で、みんな受験勉強に追われていた。お互いに惹かれあっているのは分かっていても、その一線を越えることはなかった。その後、大学受験の結果が出て、真司はこの地域でトップの成績を収めた。そして彼は出願する前に、由理恵が住む街へ向かった。その日はひどい雨が降っていた。真司はずぶ濡れになりながら、由理恵の家の前で待っていて、熱い視線で彼女を見つめた。「由理恵、遠距離恋愛になるけど、大丈夫か?」一方で、東都から実家に戻ったあと、由理恵はこの初恋も自然に終わってしまうんだろうと思っていたから、まさか真司が会いに来てくれるなんて、夢にも思わなかったのだ。だから、真司の姿を見た瞬間、彼女は今まで悩んでいた思いがすべて飛んでいったように感じたのだった。「大丈夫、遠距離でも平気だよ」「じゃあ、俺と付き合ってくれ、由理恵。好きなんだ」そこでついに、真司は想
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第12話

それを聞いて、娘の性格をよく知っている泉も由理恵が諦めようとする決断が固いことを察したのだった。だから、彼女は由理恵の頭をそっと撫でて、それ以上はもう何も言わなかったけど、心の中では残念でならなかった。8年という長い年月、娘が捧げたのは若い時間だけじゃない。そこには彼女の純粋で、直向きな気持ちが込められていたのだ。――一方で、東都中央病院。翠は母親のベッドのそばに座り、不機嫌そうな顔をしていた。「お母さん、あの女はいなくなったけど、真司さんはまだ諦めてないみたい。だから、もっと協力してくれないと」すると、蘭の濁った瞳が動いた。娘の表情はよく見えなかったけれど、か細い声で諭すように言った。「翠、もし真司がまだあなたのことを好きなら、由理恵と結婚なんてしなかったはずよ。もう諦めたらどうなの?」「何?」そう言われて、翠は声を荒げた。「もしあの時、あなたが私を海外に連れて行かなかったら、私はとっくに真司さんと結婚してた。全部あなたのせいなんだから。もうどうだっていい。死ぬと脅してでも、真司さんに私と入籍させるようにして。あんな意味のない結婚式だけじゃだめよ」「翠……」「お母さん」翠は今度は優しい口調になった。「どうせもう長くないんでしょ?一日や二日、死ぬのが早まったって同じじゃない。あなたが本気を見せれば、真司さんは絶対にあの女と離婚して、私と結婚してくれるわ」そう言うと、翠はそばにあった果物ナイフを蘭の手に握らせた。それからほどなくして、やつれた様子の真司が病室に入ってきた。翠は蘭に目配せすると、用事があるふりをして病室を出て行った。真司は病床のそばに腰を下ろすと、心配そうな表情を浮かべていた。「おばさん、今日の具合はどうですか?」真司がもう翠を愛していないことは、蘭にも分かっていたが彼女にもどうしようもなかった。たった一人の娘のために、自分に残された最後の力を振り絞っても、翠の将来の安定を勝ち取ってあげないといけないからだ。その思いを胸に蘭は口を開いた。「真司、翠と結婚式を挙げてくれたのは、私を安心させるためなんでしょ。本当は由理恵とはまだ離婚していないものね」実は今日、真司がここに来たのは、数日間、東都を離れることを蘭に伝えるためだった。でも、彼が口を開く前に、蘭がこの話を切り出してきた。
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第13話

ドアを開けたのは剛だった。彼はドアの前に立っている真司を見ても、少しも驚かない様子だった。「真司さん、よく来たね」「お父さん、ご無沙汰しています。由理恵を迎えに来ました」「まあ、入って」実は剛は、真司のことをずっと気に入っていた。学歴も高く、仕事もできて、真面目な人柄で、見た目も悪くない。娘にはお似合いの相手だと思っていたのだ。できることなら、剛は二人にうまくやっていってほしいと願っている。とはいえ、自分が与えられるのはきっかけだけだ。娘の心を取り戻せるかどうかは、真司自身の腕にかかっている。一方で、外の物音に気づいて、由理恵が自分の部屋から出てきたが、真司と顔を合わせても、彼女の心がときめくことはもうなかった。結局、彼の性格からすれば、自分を訪ねてくることは予想がついていたからだ。一方で、由理恵の顔色がずいぶん良くなっているのを見て、真司は2日間ずっと張り詰めていた気持ちが、ようやく少し和らぐのを感じた。彼は目元に、かつてのような優しさを宿して、微笑みを浮かべて言った。「由理恵、迎えに来たよ」「うん」「由理恵、ちゃんと話せるかな?」「いいわ。ちょっと待ってて。外で話そう」こうして、断られなかったことに、真司はまた希望があるように思えた。実は、ここに来る飛行機の中で、彼は謝罪の言葉をいくつも考えていたのだ。そして、二人の絆は深いのだから、誠心誠意あやまれば、きっと由理恵は許してくれるはずだと信じていた。そこで、剛に挨拶をしたあと、真司は由理恵と一緒に家を出たのだ。季節は晩秋。通りは風に吹かれた落ち葉で黄色く染まっていた。二人は肩を並べて歩いたが、どちらも先に口を開かなかった。そして、家の近くの広場まで来ると、二人はベンチに並んで座り、少し離れた場所のにぎわいを眺めていた。「ここ、覚えてる?」先に口を開いたのは由理恵だった。「覚えてる」真司が忘れるはずもない。大学1年だった年のお正月、真司は由理恵に会いたくてたまらなくなり、大晦日に飛行機で彼女のもとへ飛んできた。でも、飛行機のトラブルで、到着したのは年が明けてからだった。あの時、二人はこの広場で一緒にカウントダウンをしながら、これからは毎年、一緒に過ごそうと約束したのだった。今でも、あの頃の燃えるような恋を思い出す
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第14話

真司が電話を受けたとき、ちょうど由理恵にわたあめを買っているところだった。電話の向こうでは、翠が泣きじゃくっていて、まともに話せる状態ではなかった。そして、彼女はついさっき、蘭が病院で自殺したことを伝えてきたのだ。それを聞いて、真司はわたあめを手に持ったまま、どうしていいかわからなかった。まさか由理恵のところに駆け寄って、「蘭おばさんの葬儀があるから、今すぐ東都に戻らなきゃいけないんだ」なんて言えるだろうか?それに、もし今日、自分が由理恵に会いに来ていなければ。もしずっと病院にいさえすれば、蘭はこんな壮絶な最期を選ばなかったかもしれない。そう思うと、どうしようもない葛藤が、真司の心を激しく引き裂いた。彼はわたあめをそばにいた子供にあげると、まだそこに座っている由理恵を最後にちらっと見て、その場を立ち去った。由理恵にどう説明すればいいのか。そして、自分にどう向き合えばいいのか、真司には分からなかった。そんな想いを胸に真司はその夜のうちに東都へ戻った。そして、その頃蘭の遺体は、まだ病院の霊安室に安置されていた。翠は、真っ赤に泣きはらした目で駆けつけてきた真司を見つめながら、問いただした。「どうして、どうして嘘でもいいから優しくしてあげられなかったの?なんで追い詰めるようなことを言うのよ!母はもう長くないって、あなたも知ってたはずでしょ!」立て続けに投げつけられる言葉に、真司は何も言い返せなかった。冷たい波のように押し寄せてくる罪悪感に彼は胸を締めつけられた。呼吸さえ、ままならなかった。「これ、母からあなたへの手紙よ。あんな亡くなり方をしたんだから、きっと浮かばれない気持ちでいたのね!」翠はくしゃくしゃの紙切れを真司の手に握らせると、ふっと力が抜けたように、その場に崩れ落ちた。それから、お通夜までの3日間、真司がどうやって過ごしたのか、自分でもよく覚えていなかったほどぼうっとしていたのだった。そして、蘭が遺した手紙を、彼はどうしても開けることができなかった。だから、翠を落ち着かせた後、真司は一人で真っ暗な我が家へ帰った。そして、新しく買ったばかりのマットレスの上で、体を丸めて横になった。由理恵に会いたい。彼女に慰めてほしい。でも、由理恵は彼の連絡先をすべてブロックしてしまっていた。そのがらんとした何もない
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第15話

それから、夜7時からずっと真夜中まで待っていたせいで、テーブルの上の料理はすっかり冷めていた。特注のバースデーケーキも、クリームが溶けてしまったのだった。そして、夜11時15分、由理恵がちょうど料理とケーキを片付け終えたところに、真司が浮かない顔で帰宅した。由理恵が何かを言うより先に、彼がひどく落ち込んだ様子で話し始めた。蘭と翠が帰国したこと、そして蘭が癌を患っていることを。真司の悲しそうな顔を見て、由理恵はその日が自分の誕生日だとは言わなかった。彼女は真司を抱きしめ、長い間なぐさめていた。実は由理恵の誕生日の日、真司はわざわざ大学を2時間も早退していた。花を買い、ずっと前に注文していたダイヤモンドのブレスレットを受け取りに行ったんだ。しかし、翠からの電話を受けると、彼はすべきこと全てを投げ出してしまい、そのまま嬉しそうに空港へ直行し、花束もプレゼントも、8年ぶりに会う翠に渡してしまったのだった。今思い返すと、真司は、当時の自分はどうかしていたとしか思えなかった。映像を先に進めると、あれから家の中にはほとんど由理恵一人の姿しか映っていなかった。そして、7月8日。その日、真司は一度家に帰っていたのだった。そもそも家に帰ったのは、由理恵が体調を崩し、何度も電話をかけてきたからだった。ところが、家に着いたとたんに翠から連絡が入った。蘭の容態がよくないからって言って、彼女はひたすら泣きじゃくっていたのだった。だから、真司は由理恵に温かい飲み物を一杯淹れただけで、たいして話もせずにまた家を出てしまった。そこで、由理恵は胃が痛くて眠れなかったようで、明け方3時過ぎに、ようやく胃薬を探し出して飲んだのだった。そんなベッドに突っ伏して泣く由理恵の姿を見て、真司は思わず力任せに自分の頬を引っぱたいた。自分は本当にクズだ。大切にすると誓ったはずの女を、こんなふうに踏みにじっていたなんて。それから、何かを償うかのように、真司は眠ることもせず、由理恵が一人で過ごしていた頃の映像を見続けた。あの激しい雷雨の夜。彼女が生理痛で苦しんでいた夜も、本来なら自分がそばにいてあげるべきだったのに、いつも自分はいなかった。そこで、彼は自分が由理恵のことを気にかけていた証拠を必死で探した。しかし、目にするのは1ヶ月半前に自分が泥酔して帰宅
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第16話

それから1ヶ月後、由理恵は独立してインテリアデザインスタジオをオープンした。彼女にはすでに実績があったから、オープンするとすぐにたくさんの仕事が舞い込んできた。忙しい日々の中で、彼女の心の傷も癒されていったが、まだ正式に離婚が成立したわけじゃないから、由理恵は本当の自由を手に入れたわけではないように思えた。そんなある日の午後、スタジオに一人の若い男性が訪ねてきた。その男は身長が183センチはありそうで、顔立ちも整っている。そして、さっぱりとした短髪で、黒いウインドブレーカーを羽織っていた。もともと黒いウインドブレーカーは男性を格好良く見せる要素があるのだから、ましてやイケメンが着ていれば、見ているだけで目の保養になるのだった。それを新しく入った受付の菅原静香(すがわら しずか)は、すっかり彼に見惚れてしまったようだった。由理恵もまた、しばらくの間その男性をじっと見つめていた。でも、由理恵は見惚れていたわけじゃない。そのイケメンにどこか見覚えがあるような気がしたけど、どうしても思い出せなかったからだ。「野口さんですか?」「あ、はい。そうです」じっと見つめすぎていたのが失礼だったと気づき、由理恵は気まずそうに笑って頷いた。「菅原さん、コーヒーを二つお願い」由理恵は男性を応接スペースに案内した。コーヒーが運ばれてくる前に、男性の方から自己紹介を始めた。「どうも、野口さん。山田樹(やまだ いつき)と言います。27歳で、不動産の仕事をしています」その言葉を聞いて、由理恵はさらに気まずくなった。最近、叔母の松田真奈美(まつだ まなみ)がしきりにお見合いを勧めてきているのだ。まだ離婚も成立していないのに、お見合いなんてできるはずがないと思ったが、もしかして、目の前にいるこの人が、真奈美の言っていたお見合い相手なのだろうか。そう思いながら由理恵は尋ねた。「あの、山田さん、もしかして私の事情をよくご存知ないのでは?私、まだ離……」だが、由理恵が最後まで言い終わらないうちに、樹は服のポケットから一枚の間取り図を取り出し、彼女の前に置いた。「まだって、何がですか?穂積リフォームをまだ辞めてないってことですか?でも、もう独立してご自分のスタジオを構えてますよね?」「えっ!」由理恵は思わず噴き出した。
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第17話

「すごく綺麗ですね」「俺のセンス、悪くないでしょう」そう言って、樹は終始笑顔を崩さないでいた。そして、彼はドアを開けると、由理恵を中へ招き入れた。「山田さん、このお家はご自分で住まれるんですか?」「ええ、結婚してからの新居にするつもりなんです」「わあ!じゃあ、奥さんはすごく幸せですね」「まだ妻じゃないんですよ。でも、もうすぐそうなるはずです」そう言うと、樹は少し照れたのか、耳の先が赤くなっていた。一方で、由理恵は、樹の恥ずかしそうな様子を見て、思わず微笑んだ。新築の物件でまだ何も内装されていないけれど、インテリアデザイナーの目から見れば、この家はまさに宝の山だ。「山田さん、内装については何かご希望はありますか?」「お任せしますよ。俺は特にこだわりがないんです」「お任せ、ですか?」由理恵は意味が分からず、聞き返した。そう言われて、樹は由理恵を見下ろし、さらに笑いながら目を細めた。「あなたはデザイナーで、俺は違います。だから、あなたにお任せするんじゃないですか?」「そういうことじゃなくて、どんなスタイルがお好きかなと。例えば、和風とか、洋風とか……」「こだわりはないですよ。あなたの言う通りにします」実際、内装を決める時に、はっきりした意見を持っていない客は多い。ただ、もう一つ別の問題があった。由理恵は改めて確認する必要がある。「つまり、山田さん。この設計のお仕事を、私に任せてくださるということでよろしいでしょうか?」「もちろんです。今、契約書にサインしますか?」「いえ、それはまだ大丈夫です」こんなに話が早い人は、由理恵も初めてだった。それから、写真を撮り、部屋のデータをスキャンし、由理恵が作業を終える頃には、すっかり空は暗くなっていた。本来なら由理恵は自分でタクシーを拾って帰るつもりだった。しかし、樹がどうしても送ると言うので、彼女はまたあの派手な車に乗るしかなかった。乗ったのはまた助手席だ。後部座席にはお酒の箱がいくつも積んであり、とても人が座れる状態ではなかったから。その帰り道、由理恵はずっと窓の外を眺めていた。初冬の盛沢市は、どこか物悲しい美しさがある。いつ雪が降るかは分からないけど、初雪を待つ気持ちは心を弾ませてくれるものだ。一方、隣の樹は落ち着い
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第18話

そして、『夕凪の丘』の契約は、翌日に無事済ませた。ただ、由理恵としては、もう気持ちの整理がついたのだから一刻も早く東都へ行って、真司との離婚を成立させなければならないと思ったのだ。そこで、彼女は樹に3日間の休みをもらい、再び東都へ戻っていった。だが、彼女が今回戻ってきたのは、離婚のためだけじゃない。もっと大事なことがあった。凪が女の子を産んだのだ。由理恵はプレゼントと、分厚いお祝い金を封筒に詰めて、空港から直接マタニティ施設へと向かった。そして、そこで血色のいいぷにぷにした小さな女の子を見ていたら、由理恵はなんだか分からないけど、涙がこぼれてきた。由理恵が泣いているのを見て、凪はおかしくなった。「何であなたが泣くのよ?出産の痛みも経験せずに母親になれるんだから、むしろうらやましいくらいよ」でも、それを言った瞬間、凪は後悔した。由理恵だって辛い思いをしていないわけじゃない。ついこの間、子宮外妊娠で死にかけたばかりなのだ。まずいことを言ってしまったと思い、凪は慌てて話題を変えた。「由理恵、最近どうしてる?真司とは、まだ続けるつもりなの?」由理恵は気持ちを切り替えると、笑顔で首を横に振った。「もう別れたの。今回もその手続きをするために戻ってきたのよ」「決めたならそれでいいの。あなたは綺麗で優秀なんだから、男なんて腐るほどいるわ。真司があなたの価値が分からなかっただけ。せいぜい後悔させてやればいいんだから」凪は、あの日の病院でのことをまだ覚えていた。真司が翠に謝るよう、由理恵に無理強いした、あのひどい態度を。他の女を守るために自分の妻をないがしろにするような男なんて、最低よ。真司が今すごく落ち込んでいるって聞いたけど、それでも彼女は同情する気にはなれなかった。「彼が後悔するかは知らないけど、とにかく、私は後悔しない」それから、産後の凪と赤ちゃんの体を気遣って、由理恵は少し顔を見ただけで、すぐに施設を出た。ところが、施設の建物の外に出ると、そこに慌てて駆けつけてきた真司の姿を目にしたのだった。それで見送りに来てくれた凪の夫である岡本悠斗(おかもと ゆうと)が、少し気まずそうに由理恵に説明した。「由理恵さん、ごめん。二人はちゃんと話した方がいいと思って。それで、真司にあなたが戻ってきたことを
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第19話

由理恵はもともと楽しそうに食事をしていたが、真司の言葉を聞くと、箸でつまんだ肉を口に入れるのをためらった。そして、彼女は箸を置き、口元を拭うと、真剣な眼差しで真司を見つめた。「真司、今さらどっちが悪いなんて言っても意味がないわ。私はもともと東都を離れた日から、もう戻るつもりはなかったの。あなたも、もうこれから先のことを考えたほうがいいわ」「先のことなんて考えたくないんだ、由理恵」真司は突然、由理恵の手を握りしめ、だんだんと声を荒げて言った。「俺たち8年も一緒にいたじゃないか。本当に愛してるんだ。なのに、一時の過ちを犯しただけで、俺を捨てるつもりなの?確かに俺は悪かった。でも天に誓って、心変わりしたことはないし、お前を裏切るようなことは何もしていない。それなのに、どうしてやり直せないんだ」言葉の最後になるにつれて、真司の声は詰まらせ、目は赤くなり、まるで泣き出しそうだった。もし昔だったら、真司に裏切られたり、無視されたりする経験をしていなければ、今の彼の姿を見て、本当に心が痛んだだろう。でも、もう受けた傷は消えない。真司の涙数滴で洗い流せるようなものではないのだ。それに、彼は今になっても自分が本当は何を間違えたのか分かっていない。ただ、心変わりも浮気もしていないから、許されるべきだと考えているだけなのだ。だが、由理恵はぐっと力を込めて自分の手を引き抜き、バッグを手に立ち上がった。「明日の朝8時に、書類を持って役所で会おう。もし来ないなら、あなたと翠の結婚式の写真を持って、離婚訴訟を起こすしかないわ」そう言い残し、由理恵は振り返りもせずに立ち去った。真司は席に座ったまま動かなかった。まるで何かに押しつぶされてしまいそうになって、息苦しくてたまらなかった。その日の夜、真司はバーで泥酔し、代行運転でほとんど人が住めるような状態ではない空き家へ送られると、激しく吐き始めた。生理的な涙が出るほど吐いた後、彼は便器のそばに座り込み、虚ろな目で周りを見渡した。以前は、飲み過ぎて家に帰ると、いつも由理恵が優しく世話をしてくれた。酔い覚めの薬を作ってくれたり、胃薬をくれたり、顔を拭いてくれたり、服を脱がせてくれたり。もし喉が渇いて目を覚ませば、すぐに水を注いでくれた。あんなに素晴らしい妻を、どうして自分は失って
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第20話

その翠の言葉に、真司は背筋が凍る思いだった。「どういう意味だ?」「どういう意味だって?まだわからないの?大学の先生なのにね。私がサブアカであの女になりすまして、自分にメッセージを送っただけなのに、あなたはそれをまんまと信じて、彼女に私へ謝らせたじゃない。あはははは!本当に、どこまでバカなのかしら」その瞬間、ここ数週間の出来事が一つ一つ、真司の脳裏にはっきりと蘇った。病院で由理恵を問い詰めて、無理やり翠に謝らせたこと。彼女の会社まで追いかけて、失礼な態度をなじったこと。よく考えもせず、あのひどい言葉は全部由理恵が言ったものだと、一方的に決めつけていた。翠の言う通りだ。自分は本当に、バカだった。でもそれ以上に、彼は自分を騙した翠への怒りが込み上げてきた。「どうして君はこんな人間になってしまったんだ。天国のおばさんが見たら、どれだけ悲しむことか」「母の話なんてしないで。あなたは彼女との約束をまだ果たしてないじゃない。それにしても、母も本当に使えない人。死んでもあなたと私を結婚させられなかったんだから。生きてる時も死んだ後も、本当に役立たずだわ」今この瞬間、真司の目の前にいる翠は、ついにその本性を現した。意地悪で、口ぶりも辛辣で、その顔には悪意と軽蔑の色が浮かんでいた。「出ていけ」これまで真司は、由理恵への配慮が足りなかっただけで、決定的な過ちを犯したわけではないと思っていた。でも今ならわかる。彼女がなぜあれほどきっぱりと、離婚したいと言い出したのかが。一方で、翠は服を着終わると、得意げな笑みを浮かべた。「真司さん、由理恵があなたを許すことは二度とないわよ。あなたには、もう私しかいないんだから、絶対に逃がさない。一生あなたにまとわりついてやるから」翠が去った後、がらんとした部屋に静寂が戻った。真司は大きな窓の前に立ち、タバコに火をつけた。彼は静かに街の夜景を眺めていた。もうこの世界のどこにも、自分のために灯る明かりはないのだと悟った。そして、翌朝8時、由理恵が役所に到着すると、すでに真司が待っていた。真司は一睡もしていないようで顔は疲れていたが、ひげはきちんと剃られていて、身なりも整っていた。二人は特に言葉を交わすこともなく、淡々と書類に記入し、届けを提出した。それから30分もかから
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