底辺助手、上場企業の頂点に立つ のすべてのチャプター: チャプター 1 - チャプター 9

9 チャプター

第1話

控え室にあるモニター越しに、私、浅井和花(あさい わか)は夫・松本智也(まつもと ともや)の授賞式を最後まで見届けた。眩いスポットライトが彼を照らし出し、司会者の華やかな声が響く。「今、この瞬間、最も感謝を伝えたい方はどなたですか?」彼は指先で金縁の眼鏡をそっと押し上げ、カメラに向かって、非の打ちどころのない温和な微笑みを浮かべた。「俺が最も感謝すべきなのは、元妻の森下遥香(もりした はるか)です。彼女があの時、俺の元を去ってくれたからこそ、今の自分へと生まれ変わることができたのです」その言葉に私の手首が震え、彼のために持っていたトロフィーが指先から滑り落ちそうになった。五年だ。私は彼の法律事務所で二十四時間待機する助手の「浅井さん」であり、親族の集まりでは台所仕事に追われる「手伝いに来た遠縁の親戚」であり、彼の息子の松本健太(まつもと けんた)の作文の中では「週末にやってくるお手伝いさん」だった。これまでの私の献身は、とうの昔に冷たくなった愛情という名の骸を弔う、孤独な通夜に過ぎなかったのだ。そして今、彼が公衆の前で放った「元妻」という言葉が、この婚姻の最も残酷な真実を、容赦なく全員の前にさらけ出した。私は朦朧とした意識のままトロフィーを抱え、司会者の手に渡した。智也が颯爽と席に戻ると、二人の実習生がすぐに甲斐甲斐しく立ち上がった。一人が椅子を引き、もう一人が温かい飲み物を差し出す。「松本先生は本当に一途ですね。奥様が国を離れて長いというのに、今もあの方を待っていらっしゃるなんて」「これほど事業を成功させ、健太くんも立派に育て上げるなんて、本当に感心します」智也は称賛の嵐の中で、あのトレードマークである穏やかな笑みを浮かべていた。「浅井さん」一人の実習生が振り返って私を呼んだ。「早く松本先生に熱いお茶を淹れてきてください。あ、ついでにティッシュもお願いしますね」私は硬直したまま、動かなかった。「浅井さん?」あの実習生がもう一度私を呼ぶ。智也は相変わらず微笑みながら周囲と談笑しており、私には一瞥もくれない。そう、彼らが知っているのは、学生時代から一途に愛を育み、そのまま結ばれた元妻のことだけなのだ。けれど、ここに立っている私が、智也と結婚して五年になることは、誰も知らない。私は麻
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第2話

手の甲の水ぶくれが腫れ上がり、濡れたティッシュが机の隅に積み重なっている。私のこの五年間は何だったのだろう。二十四時間待機する助手。智也の家の雑事をすべて引き受ける遠縁の親戚。週末になると健太のために肉じゃがを作ってあげるお手伝いさん。どんなに尽くしたところで、華々しく羽ばたいていった遥香には到底及ばない。遥香が贈ったあの腕時計を、彼はまるで壊れ物を扱うように慈しみながら拭いているが、私の火傷した手には気づきもしない。心の靄がこの瞬間、綺麗に晴れ渡った。もう、どうにでもなればいい。助手なんて、やりたい奴がやればいいわ。こんな生活、もうまっぴらごめんよ。私はバッグを掴み、事務所を後にした。行くあてなんて、どこにもなかった。帰る?五年間住み続けて、一度も自分を馴染ませることができなかったあの「家」に?あそこは遥香がいた頃のまま時が止まっている。唯一の違いといえば、主寝室にあるバスルームの入り口脇に、私のシングルベッドがぽつんと置かれていることくらい。主寝室の隣にある鍵のかかった貯蔵室には、遥香が残していった品々が眠っている。智也は、私を一度も中に入れなかった。そこは彼と健太が想い出に浸るための聖域であり、私のような女が踏み入る資格などない場所なのだ。私は近くのビジネスホテルにチェックインした。ベッドに横たわると、過去の記憶が走馬灯のように脳裏を駆け巡る。初めて智也に会ったのは、苦学生だった私がアルバイトの面接で事務所を訪れた時だった。昼休み、持参したお弁当を食べようと人目を避けて非常階段へ向かうと、そこには既に彼が座り、煙草をくゆらせていた。気まずくて場所を変えようとした私を、彼は呼び止めた。「その弁当を俺にくれ。代金は出すから、君はもう一つ買ってきなさい。これから急ぎで客と会わなきゃいけないんだ」彼は私の手に千円札を握らせると、私の弁当箱を持って去っていった。後に知ったことだが、彼は事務所で期待される新人であり、離婚して二年経っても元妻を想い続ける一途な男として有名だった。それからというもの、彼は毎月の昼食代を私に預けるようになった。私の手料理が、いつの間にか彼のデスクから味気ないコンビニ弁当やデリバリーを追い出していった。アルバイトだった私は実習生になり、仕事
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第3話

病気の健太を、どうしても放っておくことはできなかった。一時間後、健太の熱がようやく下がり、彼はうっすらと目を開けた。「ここ、どこ?」「病院よ。熱が出たの」「パパがいい……」彼は泣き出した。「あなたなんて嫌だ!くさい!あっち行ってよ!」「松本健太くんのご家族の方、検査結果が出ました。受け取って先生に渡してください」検査窓口から声がかかる。「この人、僕のママじゃないもん!」健太は顔を上げて叫んだ。「僕のママは森下遥香だよ!僕は松本健太!パパはママのことが大好きなんだ!」背筋が凍りつき、冷たい刃が心臓を貫いたような感覚に陥った。「健太の父親です。その書類をこちらに」穏やかな男の声が響いた。智也は金縁の眼鏡を押し上げ、仕立てのいいスーツ姿で悠然と歩み寄ってきた。彼は健太を背負うと、そのまま診察室へと向かった。五十メートルほど進んだところで、不機嫌そうに振り返る。「何をしている、早く来い!」私は健太のランドセルを拾い上げると、智也の胸元にそれを押し付け、出口へと背を向けた。「待て!」彼の声が鋭く響く。「いい加減にしろ、わがままにも程があるぞ!健太がこんな状態なのに、自分だけ帰るつもりか?健太は間違ったことは言っていない。君は彼の母親じゃない。遥香なら、こんな時に健太を置いていったりはしない!」私は冷笑を浮かべて振り返った。「だったら、遥香を連れ戻せばいいじゃない」智也は一瞬、呆然として立ち尽くした。「君は、本当に話にならないな」彼の言葉を遮り、私は足早に病院を後にした。夜の闇は、まるで墨を流したように濃く、肌に触れる空気さえも黒く染まっているかのようだった。けれど、私の心はこれまでの人生のどの瞬間よりも、清々しく澄み渡っていた。翌日、私は事務所に辞表を出し、荷物をまとめるために智也の家へと戻った。淀みない手つきで、この家から私の痕跡を次々と消し去っていった。洗練されたインテリアに、至る所に漂う気品ある趣。その完璧に整えられた空間は、どこを切り取っても高い審美眼が感じられる。けれど、この家のどこを探しても、「松本夫人」である私自身の居場所など、最初から何処にもなかったのだ。寝室を出ようとした時、ふと、貯蔵室のドアに目が留まった。鍵穴に鍵が差し込まれたままになっている。今朝、智也が
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第4話

智也は結局、役所には現れなかった。私はそのまま足を向け、裁判所で離婚の提訴手続きを済ませた。裁判所の門を出たところで、智也からの着信が入る。「いい加減にしろ。昨夜はなぜ帰ってこなかった。健太が八時までに登校しなきゃいけないことも伝えておかないから、彼は遅刻したじゃないか!」「もう裁判所に離婚訴訟を提起したわ」「本気なんだな、和花。どうせそのうち、泣きついてきて『やり直してくれ』と縋ってくるのがオチだぞ」これ以上言葉を交わす気にもなれず、私は通話を切った。あてもなく街を彷徨っていると、「居抜き募集」の貼り紙が出された小さなラーメン屋の前で足が止まった。店主は老夫婦で、高齢を理由に引退を考えているが、子供たちはこんな小さな商売を継ぎたがらないのだという。こじんまりとした店だが内装は悪くない。奥の物置部屋は寝泊まりもできそうだ。月十万円という家賃は今の私には決して安くはなかったが、大家さんがいい人で、敷金一ヶ月、礼金なしという破格の条件で折り合いをつけてくれた。これまでの貯金を計算すると、この店を譲り受けるにはちょうどいい金額だった。思い立ったらすぐに行動に移した。店内をさっと片付けると、すぐさま仕込みに取り掛かった。かつて、智也と健太に美味しいものを食べさせたい一心で磨き上げた料理の腕が、皮肉にも今、私を支える武器となっている。日の出前から市場へ足を運び、新鮮なゲンコツや鶏ガラを仕入れ、何時間もかけて寸胴鍋でスープを煮出す。店を掃除し、麺を打ち、秘伝のタレを丹念に仕込む……その地道な努力が実を結び、客足は日に日に増えていった。客が増えすぎて一人では回らなくなり、アルバイトを二人雇うまでになった。忙しい毎日だが、これまでにない確かな手応えと喜びを感じていた。月末に帳簿を締めると、手元には二十万円を超える純利益が残っていた。人事との引き継ぎの日。私は事務所へ向かい、荷物をまとめて手続きを終えた。受付で皆に手を振って別れを告げようとした時、智也に腕を掴まれ、強引に角へと引きずり込まれた。かつての颯爽とした姿はどこにもない。顔には隠しきれない憔悴が滲んでいる。目は充血し、しわくちゃのグレースーツの中には、油染みのついた淡いブルーのシャツ。「いい加減にしろ、早く家に帰ってこい。先生から、健
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第5話

その時、受付の山田さんがこちらに向かって声を張り上げた。「松本先生、あちらで女性の方が訪ねていらしています。森下遥香と名乗っていますが……」私と智也が同時に振り向くと、そこには、ゆったりとした黒のワンピースでも隠しきれないほど、だらしなく太った女が立っていた。彼女が振り返ったその顔は土気色にくすみ、生活の疲れが滲んでいた。艶を失いパサついた長い髪には、数本の白髪が痛々しく混じっている。唇を震わせ、潤んだ瞳で彼女が言った。「智也、帰ってきたわよ!」言い終わるか否か、彼女は重そうな体を揺らしながら、なりふり構わずこちらへ駆け寄ってきた。智也はただ呆然と立ち尽くし、指一本動かすことができない。そこへ彼女の肉厚な体がしがみつくように彼の胸に飛び込み、その腰を力任せに抱き寄せた。彼女は顔を上げ、すがるような瞳で智也を見つめた。「あなたと健太に、本当に会いたかった。あなたたちもそうでしょ?ずっと私を待っていてくれたのよね?」智也の瞳がカッと見開かれたかと思うと、次の瞬間には力が抜け、焦点が合わないまま虚空を彷徨った。女はさらに言葉を重ねる。「もうどこへも行かないわ。ずっと、あなたと健太のそばにいるわ」先に我に返ったのは私だった。「あら、松本さん。待ちに待った復縁相手のご帰還ね」智也は魂が抜けたように呆然と首を回すと、震える手で自分の髪をかき上げた。私は込み上げる感情を押し殺して出口へ向かっていると、向こうからやってきた竹内弁護士に呼び止められた。抱き合ったままの二人を顎で指しながら、彼は怪訝そうに尋ねる。「あの方は、どなたですか?」「松本さんの奥様よ」顎が外れそうなほど驚いている彼の表情を見て、私は笑みを浮かべて事務所を後にした。もう、このくだらない茶番に付き合う必要はない。私には、私の成し遂げるべき事業があるのだから。二ヶ月後のある日、智也が本当に私の店に現れた。ちょうどランチ時で、店内は満席。店の前には数人の客が列を作っていた。私は清潔なエプロンを締め、新人のスタッフに美味しいラーメンの仕上げ方を手取り足取り教えていた。ガラス越しの智也は、この活気溢れる空間にひどく不釣り合いだった。ひどく疲れ果てた顔、充血した目、剃り残した無精髭。今回は茶色のスーツを纏っていたが、手入れもされずしわくちゃになっ
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第6話

智也は絶句し、まるで初めて見る人間を値踏みするかのように、私の顔をまじまじと見つめた。私の言葉が、鋭い棘となって彼のプライドに突き刺さったようだ。「そんな……そんなひどい言い方をするな。これでも一時は、連れ添った夫婦だったじゃないか!」彼の声は上ずり、隠しきれない狼狽が滲んでいた。「あら、そう?」私は鼻で笑った。声は決して大きくなかったが、野次馬と化した客たちの耳にははっきりと届いたはずだ。「夫婦?自分の妻を事務所の助手に仕立て上げて、結婚の事実を全社員に隠し続ける、そんなのが夫婦だっていうの?継子の看病で病院中を必死に走り回る妻に向かって、『やっぱり実の母親には敵わない』なんて残酷な言葉を吐き捨てるのが夫婦なの?妻が家事でボロボロになるまで尽くしている傍らで、元妻が残していった私物を後生大事に眺めて『純愛』に浸っている、そんな男が夫だっていうの?もうその元妻が帰ってきたんでしょ。私の前で今さら、一途なヒーローを演じるのはやめて。反吐が出るわ」一言一言が鋭い平手打ちとなって、智也の頬を容赦なく打ち据えた。胸のすくような解放感は、ラーメンが百杯売れるよりもずっと心地よかった。智也は逃げるように車に飛び乗り、自宅へと急いだ。駐車した車内で煙草を取り出すが、指先が震えて三回目でようやく火がついた。脳裏に焼き付いているのは、私のあの清らかで、そして氷のように冷たい瞳だ。かつてあったはずの媚びも、盲目的な愛も、そこにはもう欠片も残っていない。ただ、人を寄せ付けない絶対的な拒絶と、絶望的なまでの隔たりがあるだけだった。彼は不意に悟り、戦慄した。かつては自分を世界のすべてのように見つめていた私が、もう二度と手の届かないほど遠くへ行ってしまったのだということを。その静かなパニックを切り裂くように、スマホが無機質に震えた。画面に躍る【遥香】の二文字が、今の彼には鋭い刺のように目に痛かった。「どこほっつき歩いてるのよ!」スマホから漏れ聞こえる尖った金切声が、鼓膜を突き刺した。「デリバリーなんて飽きたわ。早く帰ってきて、何か作ってよ!健太もまたあの女の名前を呼んで泣き叫んでるし……どういう教育をしたわけ?母親の私を差し置いて、他人のことばっかり!」智也は指関節が白くなるほどスマホを握りしめ、喉の奥が引き攣るのを感じた。私
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第7話

「学費だけで年間四百万以上もかかるのよ。勉強しながらバイトもして、私がどれだけ苦労したか分かってるの?」この数日間の忍耐が、智也の心の中でついに限界を迎えた。「俺たちのために帰ってきたなんて、よくそんな嘘が言えるな。本当はA国で行き場がなくなっただけだろ。今の鏡に映る自分を見てみろ。そんな姿の女を、どこの誰が相手にするっていうんだ!」遥香は数秒間呆然とした後、狂ったように叫び出した。「健太を産んだのは誰だと思ってるのよ!それにA国で安いジャンクフードしか買えなかったんだから、こんな姿になったのは私のせいじゃないわよ!白々しいわね、夜遅くにどこに行ってたかバレてないとでも?またあの女のところに行ってたんでしょ!離婚したくせに未練たらたらなんて、恥を知りなさいよ!」「話にならない!お前はただのヒステリックな女だ!」智也は逃げるように物置部屋に駆け込み、乱暴に扉を閉めた。ドアにもたれかかり、遥香の罵声と健太の泣き声を必死に遮断する。この部屋のしつらえを目にした時の、私のあの絶望に満ちた表情。それを思い出した瞬間、言いようのない後悔がどろりと智也の胸の奥に広がっていった。壁に飾られた結婚写真の中で、幸せそうに微笑む二人の姿が今の惨状をあざ笑うかのように鋭く目に刺さる。彼は大股で歩み寄ると、それを一気に引き剥がした。……「では、このプランで進めましょう」ラーメン屋の評判は日増しに高まり、今や加盟を希望する者が後を絶たない。ちょうど五十店舗目となる加盟店オーナーとの、内装プランを固めたところだ。この二年間、私は至高の一杯を追求するために、スープの配合から麺の食感まで「黄金比」を研究し尽くした。そして、セントラルキッチンのスタッフたちにその技術を徹底的に叩き込んだ。飲食経営のセミナーにも通い詰め、マネジメントの知識を吸収し、開店準備から閉店作業に至るまで、すべてのオペレーションを完全に体系化した。加盟店の売上も右肩上がりで、一店舗あたりの月利は安定して六十万円を超えている。洗練されたビジネススーツに身を包み、私は翠嶺クラブで行われたフランチャイズ加盟店契約の謝恩会に出席していた。かつての私にとって、これほど洗練された装いは無縁のものだった。一介の法律事務所助手に過ぎなかった私には、そんな格好をする資格も余裕もなかったのだ
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第8話

「それでは、あとはお二人で。私はこれで失礼します。また改めて連絡しましょう」佐藤社長は私に微笑みかけると、隣にいる智也の存在など初めからなかったかのように、一瞥もくれず立ち去った。智也は怯えたように、「ここで、会議をしていたのか?」と蚊の鳴くような声で絞り出した。その後はもう、一言も発することができない。「ええ」私は淡々と微笑んだ。成功とは、声高に叫ぶ必要などない。静寂の中にありながら、誰の耳にも届く雷鳴のように、世界に響き渡るものなのだと、この時初めて知った。「お先に失礼するわ」私は彼の反応を待たずに、踵を返した。……「社長、受付に太り気味の中年女性が男の子を連れて、お会いしたいと……」秘書が困惑した様子で報告にきた。「私に?」首を傾げる私に、秘書は付け加えた。「森下遥香と名乗っています」私は一瞬、言葉を失った。「……通して」私は迷うことなくスマホを手に取ると、長らく連絡を絶っていたあの番号を呼び出した。「和花!」電話の向こうから聞こえてきたのは、歓喜に満ちた、そして耳を疑うほど穏やかで優しい声だった。「遥香と健太がうちの会社に来ているわ。知っているの?」「えっ?」智也の声が瞬時に上ずった。「待ってくれ、今すぐ連れ戻しに行く!」「早くして」私は短く言い捨てて、通話を切った。口元に自嘲気味な笑みが浮かぶ。かつての私の卑屈な献身は、今のこの「地位」がもたらす価値には、逆立ちしたって及ばなかったのだと思い知らされた。「和花さん!」健太が遥香の手を振りほどいて、私の方へ駆け寄ろうとする。「あなたの母親は私よ!」遥香は強引にその腕を引き戻した。健太は目に涙を溜め、助けを求めるような視線を私に送ってくる。私はデスクの椅子に深く腰掛け、冷ややかな視線でその光景を眺めた。「何か御用かしら?」「この泥棒猫!どんな手を使って私の夫と息子をたぶらかしたのよ!あの二人があなたに執着して離れないなんて、何か汚い真似でもしたに決まってるわ!離婚したくせに、いつまで私の夫に付きまとうつもり?」遥香が般若のような顔で私を睨みつける。「あなた、以前は弁護士をされていたのでしょう?元弁護士なら、何よりも証拠を重んじるべきじゃないかしら?私がいつ、どこであなたの夫に縋り付いたっていうの。適当な言いがかりはやめて」遥香は
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第9話

「承知いたしました」警備員は短く応じると、狂ったように暴れ、罵声を浴びせる遥香の両脇を抱え、外へと引きずり出していった。遥香はまだヒステリックに叫び続けていた。「和花!地獄に落ちろ!私の夫を奪った泥棒猫、この卑しい女!」「和花……俺たちのこと、本当にこれで終わりにするつもりなのか?」その悲劇の主人公を気取った姿を目にした瞬間、私は胃の底から込み上げる凄まじい不快感に襲われた。私は口角を上げ、蔑むような笑みを浮かべた。「松本さん、本当に最後までキャラ設定を崩さないのね。すべての元妻を平等に慈しんで、自分に酔いしれるその病気、一生治らないわよ。出ていって!」智也の顔から、一気に血の気が引いた。すべてが静寂に包まれた時、私はふと笑みが溢れた。それは、決して勝ち誇ったような優越感ではない。ただ、結婚という名の泥沼からようやく這い出し、これからは誰のためでもなく自分の人生を歩めるのだという、震えるような安堵だった。一年後。私の会社は上場を果たした。フランチャイズ加盟店向けの謝恩会会場に選んだのは、あの日と同じ「翠嶺クラブ」。しかし今回は、最上階に位置するVVIPバンケットだ。「浅井さん?」聞き覚えのある声に振り返ると、そこには見知った顔があった。「竹内さん、奇遇ね」竹内弁護士は信じられないものを見るような眼差しで私をまじまじと観察しながら歩み寄ってくると、感嘆の入り混じった笑みを浮かべた。「いや、面影がなければ、どなたか分からないところでしたよ。あまりに雰囲気が変わられたもので」秘書を先に会場へ行かせると、彼は苦笑しながら続けた。「失礼しました。つい昔の癖で『浅井さん』なんて呼んでしまって。今は『浅井社長』と呼ばなければいけませんね」私は淡々と笑みを浮かべた。「構わないわ。お久しぶりね。あなたも今では、シニアパートナーの座に就いているのでしょう?」彼は謙遜するように小さく頷いた。「ええ、まだなって日は浅いですよ。浅井社長の目覚ましいご活躍に比べれば、私なんて足元にも及びません」ひと通りの社交辞令を交わし、そろそろ切り上げようとしたその時、彼がふっと思い出したように声を潜めた。「そういえば……松本先生の今の状況、何か耳に入っていますか?」興味を惹かれないまま、私は首を振った。「彼は先月、脳卒中で倒れまし
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