ログイン控え室にあるモニター越しに、私、浅井和花(あさい わか)は夫の授賞式を最後まで見届けた。 眩いスポットライトが彼を照らし出し、司会者の華やかな声が響く。「今、この瞬間、最も感謝を伝えたい方はどなたですか?」 彼は指先で金縁の眼鏡をそっと押し上げ、カメラに向かって、非の打ちどころのない温和な微笑みを浮かべた。 「俺が最も感謝すべきなのは、元妻の森下遥香(もりした はるか)です。 彼女があの時、俺の元を去ってくれたからこそ、今の自分へと生まれ変わることができたのです」 その言葉に私の手首が震え、彼のために持っていたトロフィーが指先から滑り落ちそうになった。 五年だ。 私は彼の法律事務所で二十四時間待機する助手の「浅井さん」であり、親族の集まりでは台所仕事に追われる「手伝いに来た遠縁の親戚」であり、彼の息子の作文の中では「週末にやってくるお手伝いさん」だった。 これまでの私の献身は、とうの昔に冷たくなった愛情という名の骸を弔う、孤独な通夜に過ぎなかったのだ。 そして今、彼が公衆の前で放った「元妻」という言葉が、この婚姻の最も残酷な真実を、容赦なく全員の前にさらけ出した。
もっと見る「承知いたしました」警備員は短く応じると、狂ったように暴れ、罵声を浴びせる遥香の両脇を抱え、外へと引きずり出していった。遥香はまだヒステリックに叫び続けていた。「和花!地獄に落ちろ!私の夫を奪った泥棒猫、この卑しい女!」「和花……俺たちのこと、本当にこれで終わりにするつもりなのか?」その悲劇の主人公を気取った姿を目にした瞬間、私は胃の底から込み上げる凄まじい不快感に襲われた。私は口角を上げ、蔑むような笑みを浮かべた。「松本さん、本当に最後までキャラ設定を崩さないのね。すべての元妻を平等に慈しんで、自分に酔いしれるその病気、一生治らないわよ。出ていって!」智也の顔から、一気に血の気が引いた。すべてが静寂に包まれた時、私はふと笑みが溢れた。それは、決して勝ち誇ったような優越感ではない。ただ、結婚という名の泥沼からようやく這い出し、これからは誰のためでもなく自分の人生を歩めるのだという、震えるような安堵だった。一年後。私の会社は上場を果たした。フランチャイズ加盟店向けの謝恩会会場に選んだのは、あの日と同じ「翠嶺クラブ」。しかし今回は、最上階に位置するVVIPバンケットだ。「浅井さん?」聞き覚えのある声に振り返ると、そこには見知った顔があった。「竹内さん、奇遇ね」竹内弁護士は信じられないものを見るような眼差しで私をまじまじと観察しながら歩み寄ってくると、感嘆の入り混じった笑みを浮かべた。「いや、面影がなければ、どなたか分からないところでしたよ。あまりに雰囲気が変わられたもので」秘書を先に会場へ行かせると、彼は苦笑しながら続けた。「失礼しました。つい昔の癖で『浅井さん』なんて呼んでしまって。今は『浅井社長』と呼ばなければいけませんね」私は淡々と笑みを浮かべた。「構わないわ。お久しぶりね。あなたも今では、シニアパートナーの座に就いているのでしょう?」彼は謙遜するように小さく頷いた。「ええ、まだなって日は浅いですよ。浅井社長の目覚ましいご活躍に比べれば、私なんて足元にも及びません」ひと通りの社交辞令を交わし、そろそろ切り上げようとしたその時、彼がふっと思い出したように声を潜めた。「そういえば……松本先生の今の状況、何か耳に入っていますか?」興味を惹かれないまま、私は首を振った。「彼は先月、脳卒中で倒れまし
「それでは、あとはお二人で。私はこれで失礼します。また改めて連絡しましょう」佐藤社長は私に微笑みかけると、隣にいる智也の存在など初めからなかったかのように、一瞥もくれず立ち去った。智也は怯えたように、「ここで、会議をしていたのか?」と蚊の鳴くような声で絞り出した。その後はもう、一言も発することができない。「ええ」私は淡々と微笑んだ。成功とは、声高に叫ぶ必要などない。静寂の中にありながら、誰の耳にも届く雷鳴のように、世界に響き渡るものなのだと、この時初めて知った。「お先に失礼するわ」私は彼の反応を待たずに、踵を返した。……「社長、受付に太り気味の中年女性が男の子を連れて、お会いしたいと……」秘書が困惑した様子で報告にきた。「私に?」首を傾げる私に、秘書は付け加えた。「森下遥香と名乗っています」私は一瞬、言葉を失った。「……通して」私は迷うことなくスマホを手に取ると、長らく連絡を絶っていたあの番号を呼び出した。「和花!」電話の向こうから聞こえてきたのは、歓喜に満ちた、そして耳を疑うほど穏やかで優しい声だった。「遥香と健太がうちの会社に来ているわ。知っているの?」「えっ?」智也の声が瞬時に上ずった。「待ってくれ、今すぐ連れ戻しに行く!」「早くして」私は短く言い捨てて、通話を切った。口元に自嘲気味な笑みが浮かぶ。かつての私の卑屈な献身は、今のこの「地位」がもたらす価値には、逆立ちしたって及ばなかったのだと思い知らされた。「和花さん!」健太が遥香の手を振りほどいて、私の方へ駆け寄ろうとする。「あなたの母親は私よ!」遥香は強引にその腕を引き戻した。健太は目に涙を溜め、助けを求めるような視線を私に送ってくる。私はデスクの椅子に深く腰掛け、冷ややかな視線でその光景を眺めた。「何か御用かしら?」「この泥棒猫!どんな手を使って私の夫と息子をたぶらかしたのよ!あの二人があなたに執着して離れないなんて、何か汚い真似でもしたに決まってるわ!離婚したくせに、いつまで私の夫に付きまとうつもり?」遥香が般若のような顔で私を睨みつける。「あなた、以前は弁護士をされていたのでしょう?元弁護士なら、何よりも証拠を重んじるべきじゃないかしら?私がいつ、どこであなたの夫に縋り付いたっていうの。適当な言いがかりはやめて」遥香は
「学費だけで年間四百万以上もかかるのよ。勉強しながらバイトもして、私がどれだけ苦労したか分かってるの?」この数日間の忍耐が、智也の心の中でついに限界を迎えた。「俺たちのために帰ってきたなんて、よくそんな嘘が言えるな。本当はA国で行き場がなくなっただけだろ。今の鏡に映る自分を見てみろ。そんな姿の女を、どこの誰が相手にするっていうんだ!」遥香は数秒間呆然とした後、狂ったように叫び出した。「健太を産んだのは誰だと思ってるのよ!それにA国で安いジャンクフードしか買えなかったんだから、こんな姿になったのは私のせいじゃないわよ!白々しいわね、夜遅くにどこに行ってたかバレてないとでも?またあの女のところに行ってたんでしょ!離婚したくせに未練たらたらなんて、恥を知りなさいよ!」「話にならない!お前はただのヒステリックな女だ!」智也は逃げるように物置部屋に駆け込み、乱暴に扉を閉めた。ドアにもたれかかり、遥香の罵声と健太の泣き声を必死に遮断する。この部屋のしつらえを目にした時の、私のあの絶望に満ちた表情。それを思い出した瞬間、言いようのない後悔がどろりと智也の胸の奥に広がっていった。壁に飾られた結婚写真の中で、幸せそうに微笑む二人の姿が今の惨状をあざ笑うかのように鋭く目に刺さる。彼は大股で歩み寄ると、それを一気に引き剥がした。……「では、このプランで進めましょう」ラーメン屋の評判は日増しに高まり、今や加盟を希望する者が後を絶たない。ちょうど五十店舗目となる加盟店オーナーとの、内装プランを固めたところだ。この二年間、私は至高の一杯を追求するために、スープの配合から麺の食感まで「黄金比」を研究し尽くした。そして、セントラルキッチンのスタッフたちにその技術を徹底的に叩き込んだ。飲食経営のセミナーにも通い詰め、マネジメントの知識を吸収し、開店準備から閉店作業に至るまで、すべてのオペレーションを完全に体系化した。加盟店の売上も右肩上がりで、一店舗あたりの月利は安定して六十万円を超えている。洗練されたビジネススーツに身を包み、私は翠嶺クラブで行われたフランチャイズ加盟店契約の謝恩会に出席していた。かつての私にとって、これほど洗練された装いは無縁のものだった。一介の法律事務所助手に過ぎなかった私には、そんな格好をする資格も余裕もなかったのだ
智也は絶句し、まるで初めて見る人間を値踏みするかのように、私の顔をまじまじと見つめた。私の言葉が、鋭い棘となって彼のプライドに突き刺さったようだ。「そんな……そんなひどい言い方をするな。これでも一時は、連れ添った夫婦だったじゃないか!」彼の声は上ずり、隠しきれない狼狽が滲んでいた。「あら、そう?」私は鼻で笑った。声は決して大きくなかったが、野次馬と化した客たちの耳にははっきりと届いたはずだ。「夫婦?自分の妻を事務所の助手に仕立て上げて、結婚の事実を全社員に隠し続ける、そんなのが夫婦だっていうの?継子の看病で病院中を必死に走り回る妻に向かって、『やっぱり実の母親には敵わない』なんて残酷な言葉を吐き捨てるのが夫婦なの?妻が家事でボロボロになるまで尽くしている傍らで、元妻が残していった私物を後生大事に眺めて『純愛』に浸っている、そんな男が夫だっていうの?もうその元妻が帰ってきたんでしょ。私の前で今さら、一途なヒーローを演じるのはやめて。反吐が出るわ」一言一言が鋭い平手打ちとなって、智也の頬を容赦なく打ち据えた。胸のすくような解放感は、ラーメンが百杯売れるよりもずっと心地よかった。智也は逃げるように車に飛び乗り、自宅へと急いだ。駐車した車内で煙草を取り出すが、指先が震えて三回目でようやく火がついた。脳裏に焼き付いているのは、私のあの清らかで、そして氷のように冷たい瞳だ。かつてあったはずの媚びも、盲目的な愛も、そこにはもう欠片も残っていない。ただ、人を寄せ付けない絶対的な拒絶と、絶望的なまでの隔たりがあるだけだった。彼は不意に悟り、戦慄した。かつては自分を世界のすべてのように見つめていた私が、もう二度と手の届かないほど遠くへ行ってしまったのだということを。その静かなパニックを切り裂くように、スマホが無機質に震えた。画面に躍る【遥香】の二文字が、今の彼には鋭い刺のように目に痛かった。「どこほっつき歩いてるのよ!」スマホから漏れ聞こえる尖った金切声が、鼓膜を突き刺した。「デリバリーなんて飽きたわ。早く帰ってきて、何か作ってよ!健太もまたあの女の名前を呼んで泣き叫んでるし……どういう教育をしたわけ?母親の私を差し置いて、他人のことばっかり!」智也は指関節が白くなるほどスマホを握りしめ、喉の奥が引き攣るのを感じた。私