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第2話

Author: 美然
手の甲の水ぶくれが腫れ上がり、濡れたティッシュが机の隅に積み重なっている。

私のこの五年間は何だったのだろう。

二十四時間待機する助手。

智也の家の雑事をすべて引き受ける遠縁の親戚。

週末になると健太のために肉じゃがを作ってあげるお手伝いさん。

どんなに尽くしたところで、華々しく羽ばたいていった遥香には到底及ばない。

遥香が贈ったあの腕時計を、彼はまるで壊れ物を扱うように慈しみながら拭いているが、私の火傷した手には気づきもしない。

心の靄がこの瞬間、綺麗に晴れ渡った。

もう、どうにでもなればいい。

助手なんて、やりたい奴がやればいいわ。

こんな生活、もうまっぴらごめんよ。

私はバッグを掴み、事務所を後にした。

行くあてなんて、どこにもなかった。

帰る?五年間住み続けて、一度も自分を馴染ませることができなかったあの「家」に?

あそこは遥香がいた頃のまま時が止まっている。唯一の違いといえば、主寝室にあるバスルームの入り口脇に、私のシングルベッドがぽつんと置かれていることくらい。

主寝室の隣にある鍵のかかった貯蔵室には、遥香が残していった品々が眠っている。

智也は、私を一度も中に入れなかった。

そこは彼と健太が想い出に浸るための聖域であり、私のような女が踏み入る資格などない場所なのだ。

私は近くのビジネスホテルにチェックインした。

ベッドに横たわると、過去の記憶が走馬灯のように脳裏を駆け巡る。

初めて智也に会ったのは、苦学生だった私がアルバイトの面接で事務所を訪れた時だった。

昼休み、持参したお弁当を食べようと人目を避けて非常階段へ向かうと、そこには既に彼が座り、煙草をくゆらせていた。

気まずくて場所を変えようとした私を、彼は呼び止めた。

「その弁当を俺にくれ。代金は出すから、君はもう一つ買ってきなさい。これから急ぎで客と会わなきゃいけないんだ」

彼は私の手に千円札を握らせると、私の弁当箱を持って去っていった。

後に知ったことだが、彼は事務所で期待される新人であり、離婚して二年経っても元妻を想い続ける一途な男として有名だった。

それからというもの、彼は毎月の昼食代を私に預けるようになった。私の手料理が、いつの間にか彼のデスクから味気ないコンビニ弁当やデリバリーを追い出していった。

アルバイトだった私は実習生になり、仕事内容は書類整理から、健太の送り迎え、智也の両親の通院の付き添いへと広がっていった。

こうして私は、事務所の誰もが便利に使い倒す、助手の浅井さんになった。

司法試験の勉強のために辞めたいと言った時、彼は「金の無駄だ、俺が教えてやる」と引き止めた。

けれど、いざ質問をしても、彼は「忙しい」と突き放すか、「こんな簡単なこともわからないのか、自分で調べろ」と取り合わなかった。

再度、辞意を伝えた時、彼は恩着せがましくこう言った。

「結婚してやってもいい。そうすれば、仕事で苦労することもなくなるだろう。だが、同僚に余計な勘ぐりをされるのは面倒だ。社内では俺たちの関係は伏せておこう」

不意に、スマホの着信音が鳴り響いた。

画面に映し出されたのは、【松本智也】という四文字。私は迷わず着信を拒否した。

その後もスマホは執拗に震え続け、四度目の呼び出し音が鳴り響いたところで、ようやく私は電話を繋いだ。

「和花、何をトチ狂っているんだ?俺は今夜、ステッラ商事の工藤社長と会食がある。健太の迎えを忘れるな、早く行け――」

「智也」私は彼の言葉を遮った。「離婚しましょう」

反応を待たずに、私は電話を切った。

窓から差し込む夕映えが、部屋を茜色に染めていた。その輝きの中に、私はふと幻を見たような気がした。

結婚という名の墓場の外に、微かな、けれど確かな希望の光が差しているのを。

再びスマホが震え出した。画面を覗き込むと、そこには健太の担任の先生の名前。私は考えるより先に画面をスワイプして応答していた。

「もしもし、健太くんのお宅のお手伝いさんでしょうか?健太くんが熱を出しまして、お腹も痛いと訴えています。

健太くんのお父様と連絡が取れなくて……お迎えに来ていただけますか?」

「わかりました。すぐに向かいます」

私は反射的に部屋を飛び出し、タクシーで学校へ急いだ。

健太は目を閉じ、先生の肩にぐったりと寄りかかっていた。その顔は熱で真っ赤に火照っている。

胸が締め付けられる思いで、私は彼を背負い上げた。

背中から伝わってくる体温は驚くほど高く、小さな体が小刻みに震えている。

先生に手短に礼を告げると、私はタクシーを拾い、運転手を急かして最寄りの病院へと向かった。

タクシーを降りた途端、健太は「うっ」と短い声を漏らし、私の肩越しに胃の中のものを全てぶちまけた。

汚れを気にする余裕もなく、私は彼を背負って受付へ走った。

すれ違う人々は露骨に顔をしかめ、鼻を覆って私を避けていく。

健太を背負ったまま、長蛇の列に並んで受付を済ませ、救急外来へと続く長い廊下を何度も往復した。採血、エコー、検査結果の受け取り……

左肩には健太のぐったりとした頭の重み、右肩にはずっしりと重いランドセル。

ようやくロビーの椅子に腰を下ろした時には、膝がガクガクと震えて止まらなかった。

智也という男の正体はもう嫌というほど思い知らされた。けれど、そんなことは関係ない。この子は、私が手塩にかけて育ててきた子なのだから。
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