婚約を破棄する、だなんて。よりによってこの曲の最中に宣言なさいますの? 白薔薇の香りが、息をするたび肺の奥まで刺さる。王城の大広間は、天井から垂れた花飾りと硝子の燭台の光で昼のように明るい。その祝祭の中心で、わたくしは王太子アルノルト殿下の手を取ったまま、足を止めた。 音楽はまだ流れている。けれど、会場の空気だけが先に凍った。「レティシア・エルネスト。貴様との婚約をここに破棄し、王家の名のもとに断罪する」 そう、それ。聞き慣れた台詞。前世で何度も見た、断罪イベントの口火だ。 わたくしの脳内には、存在しないはずの選択肢が並ぶ。逃げる。泣く。縋る。悪あがきする。どれを選んでも、最後は追放と死。そんな筋書きだった。 だから、わたくしは笑う準備をしていた。泣き叫ぶより、笑って舞台を壊した方が、ずっと現実的だと知っている。 殿下の腕の向こう、花束のように守られた位置に、マリア様が立っていた。淡い薔薇色のドレス。庶民出身の少女が、今夜は物語の主人公の顔をしている。「レティシア様は……私を、ずっと苦しめてきました。学園でも、皆さまの前でも」 震える声。潤んだ瞳。会場のため息が、同情の波になって押し寄せる。「やっぱり、あの侯爵令嬢は」「殿下が可哀想だわ」 囁きが連鎖し、わたくしの背中に刺さる。舞踏のステップはまだ頭の中で規則正しく刻まれているのに、現実の床だけが頼りない。 殿下の背後に数名の貴族が並んでいる。胸元の飾り、指輪の彫り。薔薇を模した意匠が、妙に棘立って見えた。 ここで取り乱したら、相手の思うつぼ。そう分かっていても、胸の奥で熱いものが跳ねる。前世の画面越しではなかった。今夜は、わたくしの名を呼ぶ声が、肌に触れる。「レティシア。言い訳はあるか」 殿下の声は甘くない。勝ちを確信した者の声だ。 わたくしはカーテシーの形を崩さず、唇だけで微笑んだ。「言い訳、ですの?」「貴族らしく取り繕うな。お前はマリアをいじめ、学園の評判を汚し、私を惑わせた」 惑わせた、とは便利な言葉だ。殿下の怠慢も遊びも、全部その箱に放り込める。 わたくしは小さく首を傾げる。悪役令嬢の仮面を、丁寧に被り直す。「まあ。わたくし、そこまで器用に悪役が務まるほど暇ではありませんの」「なにを……」「殿下が“惑わされた”とおっしゃるなら、現実の帳簿をご覧になってはい
Huling Na-update : 2026-01-21 Magbasa pa