Mag-log in前世持ち侯爵令嬢レティシアは、ここが乙女ゲームで自分が悪役令嬢、卒業舞踏会で公開断罪→婚約破棄→国外追放の末に死ぬ運命だと幼少期に思い出す。未来を変えるため王太子の女遊びと庶民ヒロインへの送金、不正な寄付金流用を洗い出し証拠を完備。舞踏会で逆断罪を決めた瞬間、腹黒宰相クロードが求婚し、政略婚兼国政チートの溺愛ルートへ。だが世間は『悪女が国を操る』と騒ぎ、貴婦人茶会の毒殺フラグや庭を剪定する脅しまで迫る。彼女は宰相の隣で、台本ごと敵を折る。
view more大神殿の扉をくぐった瞬間、胸の奥に石を押し込まれたみたいに息が詰まった。 香の甘さが、急に土の匂いに変わる。耳の奥で、鐘が鳴っていないのに鳴る。 視界の端に、黒い文字が走った。 黒薔薇の宝珠。 浄化儀礼。 開戦。 わたくしは歩幅を崩し、床の幾何学模様を踏み外しかけた。「レティシア」 背中に手が添えられる。クロード様の掌は冷たいのに、落ちる未来だけは止めてくれる。 その手に縋りたい衝動を、歯で噛み切った。「扉は人を選ぶんだってさ」 隣でユリウス殿下が、さらりと言った。 冗談の口調なのに、目が笑っていない。「選ばれたい趣味はございませんわ」「でも君は、選ばれる側の顔をしてる」 返す言葉が見つからない。喉の奥が、乾いた紙みたいに貼り付く。 神官が案内役として先に立つ。若い神官だ。頬の赤みだけが健康的で、制服みたいな法衣がまだ馴染んでいない。 テオと名乗った彼は、緊張で声が裏返りそうになりながらも、礼拝の作法を説明した。「こちらでは、左膝を……その、先に……」 わたくしは反射で右膝を折りかけ、途中で止めた。 王国と逆。指先の震えが、ひどく目立つ。 リディア殿下が、小さく笑う。「迷った?」「迷いません。確認しただけですわ」「確認は大事。数学でも政治でもね」 救われたのは、笑われたからじゃない。リディア殿下が、わたくしを試験の答案みたいに見ないからだ。 回廊の壁には、白い薔薇の浮彫が延々と続く。光を浴びて綺麗なのに、棘の部分だけ妙に鋭い。 その棘が、わたくしの視界の中で黒く染まりかけるたび、さっきの文字列が蘇る。 祭壇の間へ入った。 中央の台座に、宝珠があった。 黒薔薇を模した宝珠。薔薇の花弁の形に削られた黒曜石が、何重にも重なり、中心に暗い光が沈んでいる。 見た瞬間、胃が裏返った。 前
日付も、場所も、順番も――前世で見た画面と同じだった。 帝国から届いた封書は、薄いのに重い。封蝋の黒薔薇が、指先に刺さるみたいに冷たい。 表題は「黒薔薇聖核浄化儀礼 式次第」。 わたくしの喉が、勝手に鳴った。 序、参列, 祝詞、献納、聖核奉安、誓約文朗読、閉式。 欄外に、王国特使の名で空欄が用意されている。 次の頁。添えられた挿絵のせいで、視界が揺れた。 硝子の棺に眠る黒い核。薔薇の棘みたいな曲線。見ただけで、こめかみが脈を打つ。 ……嫌だ。 あれに触れた瞬間から、戦争が始まる。 背後で扉が開く音がした。 わたくしは反射で紙を伏せる。遅かった。「レティシア」 クロード様の声は低い。怒っていないのに、逃げ道が消える声だ。 机の上から封書を拾い上げられた。紙が擦れる音が、やけに大きい。 わたくしは笑おうとして、失敗した。「顔色が悪い」「……帝国の朝は、空気が硬いだけですわ」「言い訳の精度が落ちている」 指先が、わたくしの額に触れた。冷えている。 その接触だけで、張り詰めていた何かがほどけかけるのが悔しい。「これは何だ」 クロード様が式次第を開き、視線を走らせる。 挿絵の頁で、眉が僅かに寄った。「……気分が悪いのか」「気分だけなら、可愛いのですが」「可愛いで済まないから聞いている」 逃げても、椅子は奪われる。 わたくしは息を吸って、口の中の乾きを噛みしめた。「この順番が……覚えのある筋書きと重なりますの」「筋書き」「前世の記憶ですわ。戦争に繋がる方の」 クロード様の目が細くなる。理性の光。 それでも、式次第の最後の欄外で止まった。「誓約文朗読。王国特使が読むのか」「空欄が、わたくしの
「遠き隣人が、我が子の隣を訪ねてくれたか」 玉座の間に響いた声は柔らかいのに、逃げ道がなかった。 わたくしは膝を折り、視線を上げないまま呼吸の深さだけを整える。王都の大広間に似た構図。なのに壁の紋章は棘のある薔薇で、軍旗の色が濃い。鏡の国。そう言ったのは、父だったか。 背後でクロードが同じように礼を取った。わたくしの肩に落ちる彼の気配が、いつもより静かで硬い。「レティシア・エルネストでございます。ルーベンス王国の特使として、謹んでご挨拶申し上げます」「特使、か。よい名だ」 皇帝陛下は微笑んだ。文化人の顔。けれど瞳の底にだけ、長い夜の疲れが沈んでいる。「だが、席は言葉より正直だ」「我が子よ。客人は椅子で迎えよ。言葉ではなく、席で」 椅子。 その単語だけで胸の奥が冷えた。宰相執務室の、空席が脳裏を掠める。あの場所に座れるのは、誰か。わたくしは、どこに座るのか。「父上、もちろん」 皇太子ユリウス殿下が軽く笑って、まっすぐこちらを見た。恋愛に素直で、政治には冷たい――船の上で聞いた評判が、視線の温度だけで裏返りそうになる。「王国の黒薔薇令嬢。君が来てくれて嬉しい」 その言い方が、もう社交の罠だ。嬉しい、の裏に条件が潜む。 玉座の脇から滑るように進み出たのは、細身の男。黒に近い官服、銀の鎖。目が笑っていない。「帝国宰相、ハインリヒ・クロイツでございます」 次に、同じ場所へ歩を進めた白衣の聖職者が、静かに十字を切った。白の中に、刺繍の黒薔薇が混じる。目元だけが冷たい。「大司教セルジオ・メルカド。主の祝福が、あなたの旅路にありますように」 最後に、皇太子の少し後ろで腕を組んでいた女性が、わたくしへ小さく顎を上げた。背筋がまっすぐで、瞳が理屈の光をしている。「皇女リディア。……あなた、噂より面白そうね」 政治、軍、宗教、皇族。 たった今、帝国の骨格が並べられた。わたくしの足元に、見えない盤面が敷かれていく。
「ようこそ、帝都へ。王国の黒薔薇令嬢」 城門の影から出てきた青年が、そう言って微笑んだ。 港の湿った風が、金属と香辛料の匂いを運んでくる。石造りの城壁は王都より高く、旗は多い。軍の鷲と、光薔薇教の紋章と――黒薔薇を模した意匠まで、目につく場所へ誇らしげに掲げられていた。 私の胸の奥が、ひやりとした。 黒薔薇。帝国でその語は、ただの花ではない。「お迎えが早すぎますわね、殿下。まるで逃がさないと告げているみたい」 「逃がしたら、僕が怒られる。皇帝にね」 彼は言い切って、私へ手を差し出した。指先に迷いがない。 帝国式の挨拶だ。握手……そのまま、手袋越しに口づける。 脳裏のどこかで、前世のゲームのフレーバーテキストがぱちりと点いた気がした。私は余計な間を作らず、手袋の甲を差し出す。 唇が触れる直前、彼は視線だけで私の顔色を確かめた。「怯えてない。やっぱり噂どおりだ」 「噂は当てになりませんわ。殿下も、わりと」 「痛い。君、初対面で刺すのが上手いね」 笑いながらも、彼の瞳は冷たいほど澄んでいた。「フェルディナンド帝国皇太子、ユリウス・フォン・フェルディナンド。歓迎するよ、レティシア・エルネスト公爵令嬢」 名乗りが終わる前に、帝国の将校が儀礼の声を張る。「王国よりお越しの、皇太子妃候――」 「違う」 ユリウス殿下が、柔らかい声で遮った。 「彼女は王国の特使だ。僕の客人。言葉を選んで」 将校の背筋が、音を立てそうに硬直する。 その瞬間、私の認識が裏返った。 帝国は私を飾りにする気だと思っていた。けれど、少なくとも皇太子は、私の札を「妃候補」から「特使」へ戻した。 ありがたい。けれど同時に、怖い。これは貸しでも保護でもなく、取引だ。「恐れ入ります、殿下」 隣でクロード様が、やけに丁寧な敬語を置いた。口調が整いすぎていて、逆に刺々しい。 「王国宰相、クロード・フォン・ラグランジュ。特使代表として、礼を」 「礼はいい。君は相変わらず固いね、
陛下の声は、紙より冷たかった。「帝国から、皇太子妃候補として――そなたを寄越せと書いてある」 わたくしの喉が、ひゅ、と鳴る。 豪奢な謁見の間で、空気だけが先に凍った。扇子を閉じる音さえ、刃物みたいに響く。 差し出された招請状には帝国の双頭の鷲、その下に薔薇の意匠が押されている。 妃候補。 その単語は、剣よりも遠慮なく人を刺す。 横を見る。 クロード様は眼鏡の奥の目だけで紙面を読み切っている。表情は動かない。けれど指先が、ほんの少しだけ固い。 わたくしは口角を上
宰相執務室の机に、乾きかけた血の跡つきの紙片が置かれていた。粗雑な薔薇の印と、短い文だけが残っている。「白い棘を剪定せよ。黒い葉は後回し――」 読み上げた瞬間、クロードの指が紙片を押さえ潰した。「そなたはこの国の未来を担う者だ。餌にするなど論外だ」 怒りが冷えた金属みたいに室内へ落ち、誰も息を継げなくなる。 地図台には山道の線が引かれ、駒がいくつも置かれていた。襲撃地点には黒針、次に狙われる地点には赤針。赤針の位置は、前世で見た誘拐イベントのマップと気味悪いほど重なる。 私は椅子に座らず、地図の端に指を置いた。
「帝国は、王国ほど王様の顔色を気にしませんので」 湯気の立つ皿の向こうで、帝国側の文官が涼しい顔で言った。船の食堂は昼でも薄暗く、波のうねりが床板をゆっくり押し上げる。 私はスプーンを止めた。王の言葉に怯え、宰相の判断に救われてきたこの国で育った身には、軽く投げられたその差が刺さる。 隣にいるクロードは黙っている。黙り方が、いつもより硬い。彼は私の皿の手前に置かれた白い布を、必要以上に丁寧に折り直した。「顔色を気にしない、というのは羨ましい響きですわね」 微笑んで返す。口角だけで。 文官は、こちらの反
「皇太子妃候補レティシア・エルネスト様、乗船を確認」 港の書記が淡々と読み上げた肩書きが、潮の匂いより先に喉を刺した。 宰相の婚約者になったはずの私が、いつの間にか帝国の妃候補として数えられている。 王国の岸が、鏡の向こう側に沈んでいく。 桟橋は霧と人の熱でざわついていた。 荷を運ぶ男たちの掛け声、帆の軋む音、軍靴の乾いた足音。 全部が現実なのに、私の足元だけが薄氷みたいだった。 レオンハルト陛下が護衛の輪を割って歩み出る。 王冠はなくとも、海風が勝手に膝を折るみたいな圧がある。