LOGIN前世持ち侯爵令嬢レティシアは、ここが乙女ゲームで自分が悪役令嬢、卒業舞踏会で公開断罪→婚約破棄→国外追放の末に死ぬ運命だと幼少期に思い出す。未来を変えるため王太子の女遊びと庶民ヒロインへの送金、不正な寄付金流用を洗い出し証拠を完備。舞踏会で逆断罪を決めた瞬間、腹黒宰相クロードが求婚し、政略婚兼国政チートの溺愛ルートへ。だが世間は『悪女が国を操る』と騒ぎ、貴婦人茶会の毒殺フラグや庭を剪定する脅しまで迫る。彼女は宰相の隣で、台本ごと敵を折る。
View More婚約を破棄する、だなんて。よりによってこの曲の最中に宣言なさいますの?
白薔薇の香りが、息をするたび肺の奥まで刺さる。王城の大広間は、天井から垂れた花飾りと硝子の燭台の光で昼のように明るい。その祝祭の中心で、わたくしは王太子アルノルト殿下の手を取ったまま、足を止めた。
音楽はまだ流れている。けれど、会場の空気だけが先に凍った。
「レティシア・エルネスト。貴様との婚約をここに破棄し、王家の名のもとに断罪する」
そう、それ。聞き慣れた台詞。前世で何度も見た、断罪イベントの口火だ。
わたくしの脳内には、存在しないはずの選択肢が並ぶ。逃げる。泣く。縋る。悪あがきする。どれを選んでも、最後は追放と死。そんな筋書きだった。
だから、わたくしは笑う準備をしていた。泣き叫ぶより、笑って舞台を壊した方が、ずっと現実的だと知っている。
殿下の腕の向こう、花束のように守られた位置に、マリア様が立っていた。淡い薔薇色のドレス。庶民出身の少女が、今夜は物語の主人公の顔をしている。
「レティシア様は……私を、ずっと苦しめてきました。学園でも、皆さまの前でも」
震える声。潤んだ瞳。会場のため息が、同情の波になって押し寄せる。
「やっぱり、あの侯爵令嬢は」
「殿下が可哀想だわ」囁きが連鎖し、わたくしの背中に刺さる。舞踏のステップはまだ頭の中で規則正しく刻まれているのに、現実の床だけが頼りない。
殿下の背後に数名の貴族が並んでいる。胸元の飾り、指輪の彫り。薔薇を模した意匠が、妙に棘立って見えた。
ここで取り乱したら、相手の思うつぼ。そう分かっていても、胸の奥で熱いものが跳ねる。前世の画面越しではなかった。今夜は、わたくしの名を呼ぶ声が、肌に触れる。
「レティシア。言い訳はあるか」
殿下の声は甘くない。勝ちを確信した者の声だ。
わたくしはカーテシーの形を崩さず、唇だけで微笑んだ。
「言い訳、ですの?」
「貴族らしく取り繕うな。お前はマリアをいじめ、学園の評判を汚し、私を惑わせた」
惑わせた、とは便利な言葉だ。殿下の怠慢も遊びも、全部その箱に放り込める。
わたくしは小さく首を傾げる。悪役令嬢の仮面を、丁寧に被り直す。
「まあ。わたくし、そこまで器用に悪役が務まるほど暇ではありませんの」
「なにを……」
「殿下が“惑わされた”とおっしゃるなら、現実の帳簿をご覧になってはいかがでしょう」
会場がざわめく。帳簿。舞踏会に似つかわしくない単語が、白薔薇の香りに混ざった。
わたくしは胸元の飾りに見せかけて、細い封筒を指先でつまみ取る。指が震えないように、踊りの所作のまま。
「こちら、王城法務局に提出済みの婚約解消願いの控えでございます。殿下にも先月、副署して頂きましたわね」
殿下の眉が、滑稽なほど動いた。破棄する側だと思っていた顔が、破棄される側の顔に反転する。
「……は?」
ああ、いい音。会場の空気が、ほんの少しだけ軽くなる。わたくしの中の恐怖が、別の形に変わる。怒りでも悲しみでもない。手応えだ。
「わたくしは、筋書き通りに転ぶほど、退屈な女ではありませんので」
口に出した瞬間、遠い場所で誰かが息を呑むのが聞こえた気がした。
殿下は封筒を奪うように受け取った。紙の擦れる音が、楽団の旋律を切り裂く。
「偽造だ」
「そうお考えなら、法務局に照会なさって」
わたくしは次の札を、間を置かずに切る。踊りの最中に、相手の足元へ視線を誘導するのと同じだ。
「そして、こちらは学園の寄付金と、殿下の私的支出の照合表です」
「寄付金?」
誰かの声が上ずった。社交界は甘い噂で回っているようで、金の匂いには正直だ。
わたくしの背後に控えていた侍女が、用意していた薄い書類束を差し出す。これは偶然ではない。学園の会計監査に口を出せる立場を、わたくしは時間をかけて作った。
「この印は、殿下の名義で支払われた記録。こちらは、同日に学園の口座から抜けた記録」
「……黙れ」
殿下の足が乱れる。ステップの基礎もない人間が、舞踏会の中央で踊り切れるはずがない。
マリア様が、殿下の袖を掴んだ。
「殿下、そんな……レティシア様が、私たちを陥れるために……」
陥れる。そう、いつもそうだ。悪役は主人公の都合に合わせて悪意を供給する存在でなければならない。
わたくしはマリア様の目を見た。憎しみではなく、悲しみでもなく、ただ確認する視線で。
「マリア様。わたくしがあなたを陥れるなら、なぜあなた宛ての送金記録が、あなたの手元の領収書と一致するのでしょう」
マリア様の唇が開いたまま止まる。そこにあるのは善悪ではない。数字だ。
会場の隅で、さきほど薔薇の意匠を身に付けていた貴族たちが、互いに目配せをした。ほんの僅かな動き。けれど、舞踏の合図のように揃っていた。
楽団の指揮棒が宙で止まった。旋律が、ぷつりと途切れる。
その静寂の中、玉座前の段上から、国王陛下の低い声が落ちた。
「宰相。報告は聞いている。まずは、当事者を押さえよ」
「御意」
黒と白の礼装が、音もなく前へ出た。銀縁眼鏡の奥の瞳は、感情より先に盤面を読む。
宰相クロード・フォン・ラグランジュ様。
殿下派にとっては冷酷な壁。わたくしにとっては、味方かどうかも測り切れない巨大な刃だ。
「宰相として申し上げるなら、反対です」
淡々とした声が、殿下の勝利宣言を塗り替える。
「殿下の断罪は、法的根拠が薄い。対して、侯爵令嬢レティシアが提示した書類は、提出先と日付が揃っている」
書類という単語で、会場の貴族たちが少しだけ現実へ戻る。夢の舞踏会は、いつだって紙で終わる。
護衛が踏み出し、殿下の両腕を押さえた。
「放せ! 父上! これは陰謀だ!」
「陰謀なら、なおさら取り調べが必要だろう」
国王陛下の声は、父ではなく王のそれだった。
「王太子アルノルトを拘束せよ。マリア・ベルも同様だ」
マリア様が青ざめる。涙がこぼれた。けれど、涙は免罪符ではない。
わたくしの背中に刺さっていた視線が、別の形に変わっていく。恐れ。驚き。警戒。羨望。人の評価は、踊りよりずっと忙しい。
殿下が連れて行かれる途中で、クロード様が視線をわずかに横へ流した。殿下の背後に並んでいた貴族たちの方へ。
「王太子殿下の背後にいる者たちも、いずれ整理せねばなりますまい」
たったそれだけ。名指しもせず、理由も述べない。なのに、薔薇の意匠が急に重く見えた。
そしてクロード様は、陛下の前で膝をつき、次の言葉を落とした。
「陛下。侯爵令嬢レティシア・エルネストとの婚約を求めます」
会場の息が止まった。今夜の音楽は、もう戻らない。
わたくしの中で、破滅の恐怖が別の恐怖に塗り替えられていく。自由を掴んだはずの手に、別の鎖が掛かろうとしている。
けれど、その鎖は金色でも銀色でもなく――黒い。理屈と政治で編まれた、宰相の鎖だ。
目の前の男は、わたくしの悪役の仮面を見破っている。いや、見破った上で利用しようとしている。そう思った瞬間、胸の奥が熱く震えた。怖いのに、目が逸らせない。
クロード様が立ち上がり、こちらへ向き直る。差し出された手袋の白が、白薔薇の光を反射した。
「返答は明日正午までで構いません。今夜は、ここで倒れないことだけを優先しなさい」
その声は命令に近いのに、不思議と息がしやすくなった。
わたくしは、差し出された手を見つめた。あの攻略画面には、こんな選択肢はなかった。
ここから先は、攻略サイトにも載っていなかった“宰相ルート”だと、わたくしは理解してしまった。
大神殿の扉をくぐった瞬間、胸の奥に石を押し込まれたみたいに息が詰まった。 香の甘さが、急に土の匂いに変わる。耳の奥で、鐘が鳴っていないのに鳴る。 視界の端に、黒い文字が走った。 黒薔薇の宝珠。 浄化儀礼。 開戦。 わたくしは歩幅を崩し、床の幾何学模様を踏み外しかけた。「レティシア」 背中に手が添えられる。クロード様の掌は冷たいのに、落ちる未来だけは止めてくれる。 その手に縋りたい衝動を、歯で噛み切った。「扉は人を選ぶんだってさ」 隣でユリウス殿下が、さらりと言った。 冗談の口調なのに、目が笑っていない。「選ばれたい趣味はございませんわ」「でも君は、選ばれる側の顔をしてる」 返す言葉が見つからない。喉の奥が、乾いた紙みたいに貼り付く。 神官が案内役として先に立つ。若い神官だ。頬の赤みだけが健康的で、制服みたいな法衣がまだ馴染んでいない。 テオと名乗った彼は、緊張で声が裏返りそうになりながらも、礼拝の作法を説明した。「こちらでは、左膝を……その、先に……」 わたくしは反射で右膝を折りかけ、途中で止めた。 王国と逆。指先の震えが、ひどく目立つ。 リディア殿下が、小さく笑う。「迷った?」「迷いません。確認しただけですわ」「確認は大事。数学でも政治でもね」 救われたのは、笑われたからじゃない。リディア殿下が、わたくしを試験の答案みたいに見ないからだ。 回廊の壁には、白い薔薇の浮彫が延々と続く。光を浴びて綺麗なのに、棘の部分だけ妙に鋭い。 その棘が、わたくしの視界の中で黒く染まりかけるたび、さっきの文字列が蘇る。 祭壇の間へ入った。 中央の台座に、宝珠があった。 黒薔薇を模した宝珠。薔薇の花弁の形に削られた黒曜石が、何重にも重なり、中心に暗い光が沈んでいる。 見た瞬間、胃が裏返った。 前
日付も、場所も、順番も――前世で見た画面と同じだった。 帝国から届いた封書は、薄いのに重い。封蝋の黒薔薇が、指先に刺さるみたいに冷たい。 表題は「黒薔薇聖核浄化儀礼 式次第」。 わたくしの喉が、勝手に鳴った。 序、参列, 祝詞、献納、聖核奉安、誓約文朗読、閉式。 欄外に、王国特使の名で空欄が用意されている。 次の頁。添えられた挿絵のせいで、視界が揺れた。 硝子の棺に眠る黒い核。薔薇の棘みたいな曲線。見ただけで、こめかみが脈を打つ。 ……嫌だ。 あれに触れた瞬間から、戦争が始まる。 背後で扉が開く音がした。 わたくしは反射で紙を伏せる。遅かった。「レティシア」 クロード様の声は低い。怒っていないのに、逃げ道が消える声だ。 机の上から封書を拾い上げられた。紙が擦れる音が、やけに大きい。 わたくしは笑おうとして、失敗した。「顔色が悪い」「……帝国の朝は、空気が硬いだけですわ」「言い訳の精度が落ちている」 指先が、わたくしの額に触れた。冷えている。 その接触だけで、張り詰めていた何かがほどけかけるのが悔しい。「これは何だ」 クロード様が式次第を開き、視線を走らせる。 挿絵の頁で、眉が僅かに寄った。「……気分が悪いのか」「気分だけなら、可愛いのですが」「可愛いで済まないから聞いている」 逃げても、椅子は奪われる。 わたくしは息を吸って、口の中の乾きを噛みしめた。「この順番が……覚えのある筋書きと重なりますの」「筋書き」「前世の記憶ですわ。戦争に繋がる方の」 クロード様の目が細くなる。理性の光。 それでも、式次第の最後の欄外で止まった。「誓約文朗読。王国特使が読むのか」「空欄が、わたくしの
「遠き隣人が、我が子の隣を訪ねてくれたか」 玉座の間に響いた声は柔らかいのに、逃げ道がなかった。 わたくしは膝を折り、視線を上げないまま呼吸の深さだけを整える。王都の大広間に似た構図。なのに壁の紋章は棘のある薔薇で、軍旗の色が濃い。鏡の国。そう言ったのは、父だったか。 背後でクロードが同じように礼を取った。わたくしの肩に落ちる彼の気配が、いつもより静かで硬い。「レティシア・エルネストでございます。ルーベンス王国の特使として、謹んでご挨拶申し上げます」「特使、か。よい名だ」 皇帝陛下は微笑んだ。文化人の顔。けれど瞳の底にだけ、長い夜の疲れが沈んでいる。「だが、席は言葉より正直だ」「我が子よ。客人は椅子で迎えよ。言葉ではなく、席で」 椅子。 その単語だけで胸の奥が冷えた。宰相執務室の、空席が脳裏を掠める。あの場所に座れるのは、誰か。わたくしは、どこに座るのか。「父上、もちろん」 皇太子ユリウス殿下が軽く笑って、まっすぐこちらを見た。恋愛に素直で、政治には冷たい――船の上で聞いた評判が、視線の温度だけで裏返りそうになる。「王国の黒薔薇令嬢。君が来てくれて嬉しい」 その言い方が、もう社交の罠だ。嬉しい、の裏に条件が潜む。 玉座の脇から滑るように進み出たのは、細身の男。黒に近い官服、銀の鎖。目が笑っていない。「帝国宰相、ハインリヒ・クロイツでございます」 次に、同じ場所へ歩を進めた白衣の聖職者が、静かに十字を切った。白の中に、刺繍の黒薔薇が混じる。目元だけが冷たい。「大司教セルジオ・メルカド。主の祝福が、あなたの旅路にありますように」 最後に、皇太子の少し後ろで腕を組んでいた女性が、わたくしへ小さく顎を上げた。背筋がまっすぐで、瞳が理屈の光をしている。「皇女リディア。……あなた、噂より面白そうね」 政治、軍、宗教、皇族。 たった今、帝国の骨格が並べられた。わたくしの足元に、見えない盤面が敷かれていく。
「ようこそ、帝都へ。王国の黒薔薇令嬢」 城門の影から出てきた青年が、そう言って微笑んだ。 港の湿った風が、金属と香辛料の匂いを運んでくる。石造りの城壁は王都より高く、旗は多い。軍の鷲と、光薔薇教の紋章と――黒薔薇を模した意匠まで、目につく場所へ誇らしげに掲げられていた。 私の胸の奥が、ひやりとした。 黒薔薇。帝国でその語は、ただの花ではない。「お迎えが早すぎますわね、殿下。まるで逃がさないと告げているみたい」 「逃がしたら、僕が怒られる。皇帝にね」 彼は言い切って、私へ手を差し出した。指先に迷いがない。 帝国式の挨拶だ。握手……そのまま、手袋越しに口づける。 脳裏のどこかで、前世のゲームのフレーバーテキストがぱちりと点いた気がした。私は余計な間を作らず、手袋の甲を差し出す。 唇が触れる直前、彼は視線だけで私の顔色を確かめた。「怯えてない。やっぱり噂どおりだ」 「噂は当てになりませんわ。殿下も、わりと」 「痛い。君、初対面で刺すのが上手いね」 笑いながらも、彼の瞳は冷たいほど澄んでいた。「フェルディナンド帝国皇太子、ユリウス・フォン・フェルディナンド。歓迎するよ、レティシア・エルネスト公爵令嬢」 名乗りが終わる前に、帝国の将校が儀礼の声を張る。「王国よりお越しの、皇太子妃候――」 「違う」 ユリウス殿下が、柔らかい声で遮った。 「彼女は王国の特使だ。僕の客人。言葉を選んで」 将校の背筋が、音を立てそうに硬直する。 その瞬間、私の認識が裏返った。 帝国は私を飾りにする気だと思っていた。けれど、少なくとも皇太子は、私の札を「妃候補」から「特使」へ戻した。 ありがたい。けれど同時に、怖い。これは貸しでも保護でもなく、取引だ。「恐れ入ります、殿下」 隣でクロード様が、やけに丁寧な敬語を置いた。口調が整いすぎていて、逆に刺々しい。 「王国宰相、クロード・フォン・ラグランジュ。特使代表として、礼を」 「礼はいい。君は相変わらず固いね、