All Chapters of 昨日を脱ぎ捨て、自由の海へ: Chapter 1 - Chapter 10

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第1話

「千隼、本当に唯織と結婚する気なの?なら、星奈はどうなるのよ」その言葉を聞いた浅井唯織(あさい いおり)の手がドアノブの上で止まった。「もう八年だ。千隼、君は唯織に対して、もう尽くすだけ尽くしただろう」佐藤奏翔(さとう かなと)が口を挟む。「でも、星奈は別だ。君が毎年二ヶ月もわざわざ遠出するのは、彼女に会って息を抜くためじゃないのか?受験が終わるなり、君を追ってはるばるやってきたんだ。その想いを無下にできるのかよ」「唯織を一生守ると約束したんだ。食言はできない」瀬戸千隼(せと ちはや)の冷ややかな声が響く。「これは俺が唯織に背負っている負い目だ。だが、星奈はまだ若くて世間を知らない。何も分かっていない星奈を、傷つけるわけにはいかないんだ」唯織は全身の血が凍りつくのを感じた。羽田星奈(はねだ せな)。一ヶ月前、大きなスーツケースを引いてふらりとゲストハウスに現れたあの女の子。あの時、千隼は彼女のことを「友人の娘が受験を終えて、A県に遊びに来ただけだ」と説明していた。唯織は爪を手のひらに深く食い込ませた。まるで一瞬にして魂が抜け落ちた抜け殻のように、その場に釘付けになり、身動き一つ取れなくなった。ここ数年、毎年春と秋になると、千隼は二ヶ月間A県を離れていた。仕事の打ち合わせだとばかり思い込んでいたが、本当は星奈に会いに行っていたのだ。工藤大町(くとう おおまち)の声が一段と低くなった。「唯織は気の毒だが、これほど長い年月が経ったんだ。たとえ罪滅ぼしだとしても、もう十分だろう?」罪滅ぼし。その言葉は刃となって、唯織の心臓を真っ向から貫いた。八年前のあの火災を思い出す。彼女は千隼を突き飛ばし、自らの背中全体に重度の火傷を負った。知らせを受けて夜通し車を走らせた両親が、大型トラックに追突され、形見一つ残らないほど無惨な姿でこの世を去ったことも。一夜にして、彼女は健康も両親も、すべてを奪われた。残されたのは千隼と、「一生守る」というあの日の約束だけだった。今やあの約束は、単なる「罪滅ぼし」に成り下がってしまったのか。唯織は無意識に胸を押さえた。階下での会話はまだ続いている。「じゃあ、君は唯織を愛しているのか?」奏翔が問いかける。バルコニーは長い沈黙に包まれた。千隼は答えな
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第2話

電話の向こうで小林先生は一瞬だけ沈黙し、やがて温かくも確信に満ちた声で答えた。「もちろんですとも、唯織さん。ようやく決心がついたのですね。ポストはずっと空けてあります。いつでも、遠慮なくいらっしゃい」決心がついたのだろうか。唯織には分からなかった。ただ、先ほど下の庭で繰り広げられた光景を目の当たりにした瞬間、心の中で何かがパキリと音を立てて壊れたことだけは、はっきりと分かった。それはもう、二度と元には戻らない。電話を切ると、唯織は冷たい床の上に力なく滑り落ちた。小林先生は彼女の主治医だった。八年前、生死の境をさまよう状態で病院に運び込まれた彼女の背中は、焼傷面積の二割に及ぶ重度の熱傷に覆われていた。傷口を洗浄し、壊死した組織を取り除く処置のたびに、生きたまま身を削がれるような地獄の苦しみが全身を突き抜けた。小林先生はそんな彼女を支え、ことあるごとに外の世界へ踏み出すよう励まし続けてくれた。傷跡はいずれ薄くなる。人生を過去という名の檻に縛り付けてはいけないのだ、と。「もう少しだけ待って。千隼が落ち着くまで。私が、もう少しマシになったら……」彼女はそう自分に言い聞かせ続けてきた。彼女はそっと、背中にある傷跡の縁をなぞった。かつては、この傷こそが二人の愛の証であり、死に物狂いで愛する人を守り抜いた勲章なのだと自負していた。だが今指先に触れるのは、氷のように冷たく硬い皮膚の感触だけ。その下には、とうの昔に膿み、腐り果てた想いが無残に横たわっている。観光シーズンと天候の影響で、航空券は一週間後になった。それでいい、と唯織は思った。この七日間で、丁寧にお別れをしよう。千隼にではなく、一人の男に人生のすべてを預け、惨めに愛を乞うていた自分自身に対して。スマホが再び光った。千隼からのメッセージだ。【薬は星奈に渡した。余計なことは考えず、早く寝ろ】なんと簡潔で、上司が部下に出す指示のような事務的な文面だろう。唯織は返信しなかった。すでに深夜だが、眠気は来ない。彼女は物干しロープにかけてある服を取り込もうと、階下へ降りた。庭に足を踏み入れた瞬間、隅の空き地から闇を切り裂くゴォッという不気味な音とともに、鮮烈な火柱が夜空へと燃え上がった。キャンプファイヤーだ。唯織の呼吸が一瞬止まり、巨大な
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第3話

翌朝早く、階下から星奈の弾んだ笑い声と、荷物を整える騒がしい音が聞こえてきた。階段を下りたところで、唯織は出発の準備を終えた彼らと鉢合わせる。星奈は唯織を見るなり、パッと顔を輝かせた。「唯織さん!一緒に行きましょうよ。ずっと部屋にこもってたら息が詰まっちゃう!」唯織は反射的に断ろうとした。背中の傷が痛み、昨日ドア枠にぶつけた膝にも違和感があった。けれど、彼女が口を開くより早く、千隼が言葉を被せた。「一緒に行こう。星奈が来てほしいって言ってるんだ。気晴らしだと思ってな」それは、星奈の興を削がないための命令だった。彼にとって、唯織の意志など最初からどうでもよかったのだ。重要なのは、星奈が楽しめるかどうか。ただそれだけ。唯織は数秒の沈黙の後、小さく頷いた。「……分かった」車内には、何とも言えない不協和音が漂っていた。助手席に座った星奈は、道中ずっと興奮気味に質問を浴びせ、千隼は珍しく根気強く、その一つ一つに応じている。窓際の後部座席で、唯織は流れる景色をただ黙って見つめていた。かつて、助手席は彼女だけの特等席だった。空の雲を指さして「何に見える?」と尋ねれば、彼は笑って彼女の髪を撫で、「お前に似て、ちょっと抜けてるな」と答えてくれた。だが今になって、千隼が道中、唯織にかけた言葉は、車を降りる際の一言だけだった。「遅れずについてこい。具合が悪くなったら言え」トレッキングが始まって間もなく、唯織は息が上がった。長年の鬱屈とした生活と運動不足で、体力は底を突いている。険しい山道を進むにつれ、背中の古傷と膝の痛みが、容赦なく彼女を蝕んでいく。気づけば、彼女は列の最後尾に取り残されていた。誰も、振り返って彼女を待とうとはしなかった。見知らぬ友人の一人が彼女を追い抜く際、社交辞令のように声をかけただけだ。「唯織さん、頑張って」千隼は当然のように先頭を歩き、星奈のために道を切り拓いている。急斜面や足場の悪い場所では、ごく自然に星奈の手を取った。「星奈、勝手に走るなよ」大町が茶化すように笑う。「じゃないと、千隼の目が釘付けになって、離れなくなっちゃうからな」周囲から笑いが漏れる。星奈は唯織をちらりと一瞥すると、大町に向かって「変なこと言わないで!」と拗ねたふりを見せた。
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第4話

「星奈!大丈夫か? 怪我はないか!」頭上から千隼の焦燥に満ちた声が降ってくる。彼は未だ恐怖に震える星奈をきつく抱きしめ、食い入るように彼女の状況を確認していた。友人たちもすぐさま駆け寄り、口々に星奈を案じる。一方、唯織は剥き出しの荒い斜面を数メートル滑落し、せり出した岩の角に辛うじて引っかかった。鋭い石に切り裂かれた腕や足には、いくつも生々しい裂傷が走り、ヒリヒリとした熱い痛みが全身を駆け抜ける。だが、何よりも耐え難いのは、岩に強打した膝だ。突き刺すような激痛が走り、さらには激しい摩擦によって背中の古傷が、再び火を噴くような灼熱に包まれていた。視界がチカチカと暗転する。唯織は耐えきれず、小さな呻き声を漏らした。数秒が経ち、ようやく誰かが悲鳴を上げた。「唯織!唯織が下に落ちたぞ!」千隼が弾かれたように顔を上げた。斜面の下、無残にうずくまり、ボロボロになった唯織の姿が、ようやく彼の目に映る。彼の表情を掠めたのは、驚愕、そしてありありとした後悔だった。今の今まで、唯織がそこにいたことさえ、彼は完全に忘れていたのだ。だが、その後悔はすぐに、重苦しく、どこか疲れ切った「責任感」に取って代わられた。彼は星奈をそっと地面に下ろし、周囲に手短に告げる。「星奈を頼む」千隼が助けに降りてきた時、唯織は痛みで意識が飛びかけていた。彼はプロフェッショナルな手つきで彼女の膝や足首を確認した。「動けるか?」彼の声には、焦りも慈しみもなかった。ただ目の前の問題を片付けようとする、淡々とした響き。「骨は大丈夫そうだ。靭帯の捻挫と擦り傷だろう。背負うから、捕まれ」唯織は、至近距離にある彼の顔を見つめた。八年間愛し続け、一生を添い遂げると信じて疑わなかったあの顔。千隼の額には汗が浮いている。星奈を救った時の緊張のせいか、あるいは急いで斜面を降りてきたせいか。彼が近づいた瞬間、唯織の鼻腔を星奈の残り香と思われる、甘く爽やかな香水の香りが突いた。それが自分自身の傷口から漂う生臭い血の匂いと混ざり合い、眩暈を覚えるほどの吐き気を催させる。唯織は何も言わず、彼に抱え上げられるまま、その背中に身を預けた。広く、逞しい彼の背中。かつては、世界で一番安らげる場所だと思っていた。だが今はただ冷たく、強張った塊にしか感じられ
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第5話

唯織は目が覚めたとき、喉が焼けるように乾いていた。ベッド脇の椅子では、千隼が座ったまま眠りに落ちていた。顎には青々とした無精髭が浮き、目の下にはうっすらと隈ができている。一晩中、ここで自分を見守っていたのだろう。頑なだった心の片隅が、わずかに揺らいだ。だがその時、千隼が目を覚ました。彼は眉間を揉みながら、彼女へと視線を向けた。「目が覚めたか?気分はどうだ?」「……だいぶ、マシになったわ」唯織の声は掠れていた。「そうか、よかった」千隼は立ち上がり、強張った肩を動かした。「星奈がお前のことを心配してな。この数日、彼女もずっと一緒に付き添っていたんだ」その瞬間、唯織の胸に灯りかけた微かな温もりは、一瞬で凍りついた。「千隼」自分の口からこぼれたのは、驚くほど温度のない、うつろな声だった。「私たち、別れよう」千隼の動きが止まった。眉間に深い皺が刻まれ、顔には見慣れた、苛立ちの混じった疲労感が浮かぶ。「……唯織、いい加減にしろ。まだ熱があるんだ、今は大人しく休んでいろ」「わがままを言っているわけじゃない」唯織は必死に声を平坦に保とうとした。「本気なの。もう、終わりにしましょう」千隼は彼女を見つめた。その瞳には、今の唯織には読み解けない複雑な感情が渦巻いている。「またその言葉か。八年間、何かあるたびに別れると言い出す。唯織、いい加減大人になれないのか?星奈はまだ十八歳だ。分別のつかない子供なんだよ。その子に譲って、少しは俺の立場も考えてくれないか。俺だって、もう限界なんだ」唯織は、思わず笑い出しそうになった。八年間愛し続け、残りの人生を託せると信じていた男を見つめる。自分はこの男のことを何も分かっていなかったのではないか。そんな気がした。「私は二十八歳よ、千隼」自分の声が、驚くほど凪いでいることに唯織は気づいた。「八年という歳月をかけて、ようやく思い知らされたわ。あなたの目には、私はずっと物分かりの悪いお荷物として映っていたのね。『分別のつかない子供相手』に意地を張って、あなたを困らせるだけの存在に」彼は、彼女がなぜ別れを切り出したのか、その理由すら問おうとはしない。ただ星奈への嫉妬や理不尽な八つ当たりだと、最初から決めつけている。付き合い始めたばかりの頃、彼女が少
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第6話

「唯織!」千隼の声には怒りが混じっていた。「いい加減にしろ!ここまで騒ぎ立てなきゃ気が済まないのか!」彼は星奈に向き直ると、低く抑えた声で告げた。「星奈、先に出てろ。ドアの外で待っててくれ」星奈は心配そうに唯織を一瞥したが、素直に頷いて外へ出た。閉まるドアの音が、静かに響いた。病室に死んだような静寂が訪れる。千隼は窓辺に歩み寄り、ポケットから煙草を取り出して火をつけた。唯織の前で彼が煙草を吸うことは、これまでほとんどなかった。ゆらりと立ち上る紫煙が、彼の横顔をぼやけさせる。彼は一口深く吸い込んでから、ようやく口を開いた。低く掠れたその声には、澱みのような疲労がまとわりついていた。「……唯織、話をしよう」ベッドの背もたれに体を預けた唯織は、指先から芯まで凍りついていくような感覚に囚われていた。「この八年、俺はお前を世話し、責任を果たしてきた。せめて平穏に暮らしていけると思っていた」彼は彼女を見ようともせず、指先で灰を落とした。「だが今のお前は、俺を疲れさせるだけだ。身体的にも、精神的にもな」彼は一度言葉を切り、何かを決意するように続けた。「お前が俺のために怪我をしたことも、お前の両親のことも……片時も忘れたことはない。八年間、ずっと背負い続けてきた。だが、それを盾にしていつまで俺を縛り付けるつもりだ?星奈のこともそうだ。なぜ、もう少し寛大になれない?彼女はまだ子供だし、十分に悔やんでいる。これ以上、彼女を追い詰めて何になるんだ」唯織の指先が手のひらに深く食い込んだが、痛みは感じなかった。彼女は目の前の男を見つめる。この命を削るようにして愛し、守り抜いてきたはずの男。その彼がいま、最も無慈悲な言葉を刃にして、彼女の八年間の愛も、犠牲も、耐え難い痛みも、そのすべてを、自分を縛り付ける「呪縛」へと貶めていく。「星奈といると、心が軽くなるんだ。俺を笑わせてくれるし、彼女の両親も……俺に『家族の温もり』というものを思い出させてくれた」千隼の声は次第に低くなり、そこには隠しきれない渇望と苦い後悔が滲んでいた。「それなのに、お前と俺の間には、重苦しい責任と過去の暗影以外、一体何が残っているっていうんだ?八年だぞ、唯織。俺なりに……精一杯やってきた。でも、俺だって一人の人間に過ぎな
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第7話

千隼が去った後、唯織は病室のベッドに座り、最後の残光が夕闇に飲み込まれていくのをただ眺めていた。涙は出なかった。ただ、骨の髄から染み出すような、ひどい疲労感だけがあった。それから三日間、病室は異様なほど静まり返っていた。星奈は二度と姿を見せなかった。千隼は毎日欠かさず見舞いに訪れた。その様子は、以前よりもずっと「献身的」でさえあった。彼は消化に良い栄養食を運び、傷の痛みはないか、夜は付き添いが必要かと細かく尋ねた。その振る舞いには、どこか犯した過ちを埋め合わせようとするような、危うい慎重さが漂っていた。まるで、最後の大役を全うしようとする義務感のように。唯織は運ばれてくる食事や問いかけには淡々と応じたが、彼が差し出す手や、深夜の付き添いだけは断固として拒んだ。そのあまりに凪いだ態度は、千隼を困惑させた。それどころか、彼は「唯織はようやく吹っ切れて、もう騒ぎ立てることもないだろう」という都合のいい錯覚にすり替えた。三日目の午後、医師から退院の許可が下りた。あとは定期的に薬を塗り替え、静養すればいい。千隼が車で迎えに来たが、道中の車内は重苦しい沈黙が支配していた。ゲストハウスに戻ると、唯織は目も合わせず真っ直ぐに階段を上がり、千隼は何かを言いよどみながら、その背中を追った。ドアのところで彼は立ち止まり、唯織が散らばった日用品を一つ一つ片付ける背中をじっと見つめていた。不意に、彼は乾いた声で切り出した。「唯織、具合がよくなったら……日を改めて、籍を入れに行こう」それは、大きな決意のようでもあり、長く放置していた宿題をようやく片付ける事務的な宣言のようでもあった。「一生面倒を見ると約束した。それは守る。これからは二人で、穏やかに暮らしていこう」彼は、これが精一杯の譲歩であり、責任を取るための誓いなのだと思っていた。彼女をなだめ、自分の心の中の後ろめたさに終止符を打つための、これ以上ない「正解」だと信じて疑わなかった。服を畳んでいた唯織の手が、一瞬止まった。だが、振り返ることはない。「好きにすれば」感情の欠片もないその声は、まるで明日の天気でも話しているかのようだった。その一言を聞いて、千隼の胸に淀んでいた微かな不安が霧散した。やっぱり唯織は、この約束を求めていたんだ。たとえそれが「責任」
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第8話

唯織が身分証明書を握る指先に、わずかに力が入った。ひんやりとしたその感触に、混濁していた思考が一瞬明瞭さを取り戻す。キャンセル?三十分前には確かに正常な運行状況であることを確認していた。天候不良や管制による大規模な遅延が起きているわけでもないのに、なぜ自分の予約だけが取り消されているのか。不吉な予感に、指先が凍りつくように冷えていく。唯織は焦って予約アプリを開き直したが、画面には「別の端末でログインされたため、強制ログアウトされました」という非情な通知が表示された。再度ログインを試みても、パスワードが間違っているとはねつけられる。千隼の仕業だ。唯織の常用パスワードを知り尽くしているのは、この世で彼しかいない。これまでは利便性のために、多くのアカウントを連携させ、共有さえしていた。それを親密さの証だと思い込んでいたが、今やそれは、彼が唯織の行方を支配するための道具に成り下がっていた。怒りと共に、深い無力感が胸に込み上げる。彼は一体、何をしたいのだろう。こんな強引な手段で連れ戻し、あの窒息しそうな「責任」という名の不毛な引き裂き合いを、まだ続けさせるつもりなのだろうか。スマホを握りしめ、指先が白くなるほど力を込めていたその時、人混みをかき分けて二つの人影が真っ直ぐに唯織の前で立ち止まった。千隼、そして彼の後ろに従う星奈だった。千隼は呼吸を乱しており、急いで駆けつけたことが見て取れた。しかしその表情は氷のように冷たく、逃げ場を塞ぐような強い眼差しで唯織を射抜いている。隣に立つ星奈は、複雑な表情を浮かべて唯織を見つめ、唇を小さく結んでいた。不思議なことに、予想していた怒りや悲しみは湧いてこなかった。ただ、骨の髄まで染み渡るような疲労感だけがあった。「どこへ行くつもりだ?」唯織の前に立ちはだかった千隼の声は低く抑えられていたが、そこには有無を言わせぬ響きが宿っていた。彼は唯織の傍らにあるスーツケースに視線を落とすと、さらに眉間の皺を深く刻んだ。「……これはどういうつもりだ。黙って消える気だったのか!」唯織はその問いには答えず、ただ星奈をじっと見つめた。星奈は唯織と目を合わせると、はっきりとした、それでいて押し付けがましくない声で言った。「ごめんなさい、唯織さん。お部屋へ伺ったのにあ
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第9話

千隼は、私に残された最後の退路さえも断とうというのか?「……何様のつもりよ」ついに平静を保てなくなり、唯織の声が小刻みに震え出した。「千隼、何の権利があって私の人生を勝手に決めるの?面接を延期させるなんて、一体どういうつもり?あなたは私の何なの?私を重荷だと思って、結婚という形で『責任』を取ろうとしているだけの債権者じゃないの?」唯織の瞳に湛えられた、突き刺すような苦痛と鋭さに千隼は息を呑んだ。しかし、彼女を拘束する手の力は微塵も緩まない。「八年もの間、ずっとお前の面倒を見てきたのは俺だろうが!お前がこんな風に自暴自棄になるのを、黙って見ていられるわけがない。唯織、お前は外の世界がどれだけ厳しいか分かっていないんだ。俺から離れて、どこへ行く? 一人で自分を守れると思っているのか?」「だから何なの?」唯織は彼を睨みつけ、瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。それは悲しみではなく、煮え繰り返るような憤りだった。「だから私は、一生あなたの罪悪感に付き合わされて、あなたの『保護』という名の檻の中で生きろっていうの?あなたが他の誰かを心から愛するのを特等席で眺めながら、憐れみで与えられた『妻』という名の施しを有り難がって、泣いて感謝しながら一生を終えろとでもいうの?千隼、私を何だと思っているの?一生かけて世話しなきゃいけない、哀れな欠陥品か何かだと思ってるの?」「そんな意味じゃない……」千隼は言葉に詰まり、顔を酷く歪めた。「じゃあ、どういう意味よ!」唯織は力任せにその手を振り払った。衝撃でスーツケースが床に転がり、無慈悲な音が響く。「教えてよ、私を連れ戻して、その先に何があるっていうの?またあの泥沼の中で、三人で傷つけ合いながら腐っていけっていうの?あなたは私への罪悪感に苛まれ、星奈への愛しさを募らせる……そんな地獄を、死ぬまで続けろっていうの?」剥き出しの言葉は鋭い刃となって、それまで必死に守ってきた偽りの平穏を容赦なく引き裂いた。千隼は返す言葉もなく、ただ食い入るように唯織を見つめ、激しく肩を上下させていた。傍らにいた星奈が、ついに堪えかねたように口を開いた。「……唯織さん、一旦戻ってちゃんと話し合いましょう。こんな人目の多い場所で騒ぎ立てるなんて、みっともないわ。千隼だって、あなたのことを心
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第10話

ゲストハウスに戻ると、そこには息が詰まるような重苦しい沈黙が満ちていた。唯織はかつて過ごした部屋へと連れ戻された。千隼はドアの前にスーツケースを置くと、唯織を深く見つめた。「少し休め。何か食べ物を用意してくる」千隼は一呼吸置いて付け加えた。「話は、後でしよう」千隼は部屋を後にし、静かにドアを閉めた。唯織は動くこともせず、ただベッドの端に座って、窓の外に見慣れた中庭を眺めていた。わずか数時間の不在。それなのに、戻ってきたこの場所は、まるで前世で繋がれていた牢獄のように余所余所しく感じられた。やがて、部屋のドアが軽くノックされた。千隼だと思い、唯織は返事をしなかった。しかしドアは開かれ、星奈がお湯を持って静かに入ってきた。星奈はそれをサイドテーブルに置いた。「唯織さん、少し水を飲んで」その声は穏やかで、空港での激しさは消えていた。唯織のよく知る、ある明確な意図を孕んだ静けさを取り戻していた。唯織は星奈を見ようともせず、水にも触れなかった。星奈は気にする様子もなく、ベッド脇の椅子に腰を下ろすと、しばらくの沈黙の後に口を開いた。「千隼に、あなたが行こうとしているって教えたのは私。小林先生に電話するように勧めたのも、私よ」唯織はようやく顔を上げ、氷のように冷ややかな、そして困惑の混じった視線を星奈に向けた。「……どうして?私がいなくなるのが、あなたにとって一番の理想でしょう?千隼との間に、もう邪魔者は誰もいなくなる。後ろめたさもなく堂々と彼と一緒にいられるのに、なぜわざわざ私を連れ戻したりしたのよ。星奈、一体何が望みなの?私が土下座でもして、泣いて許しを請えば満足だっていうの?」星奈はその視線を正面から受け止めた。その若さに不釣り合いなほどの冷静さと、残酷なまでの率直さが、彼女の顔立ちを塗り替えていく。「唯織さん。あなたが消えれば、それで全てが幕を下ろすとでも思っているの?」星奈はゆっくりと言葉を紡いだ。その一言一言が、唯織の急所を穿つために研ぎ澄まされた刃のように鋭い。「自分が犠牲になって静かに身を引けば、私と千隼が何のわだかまりもなく幸せになれるとでも?あなたが新生活を始められると、本気で思っているのかしら」星奈は小さく首を振ると、その口元に冷ややかな、笑みとは呼べない歪みが浮
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